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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2020-02-16 06:00:00 (1 ヒット)

 パウロはコリントの信徒への手紙一15章でこのように自分のことを記しています。
「 そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」(一コリント15章8〜10節)
 ここでパウロが言っていることは、復活されたイエス様がご自分の弟子たちに現われてくださったことです。ここにはパウロが自分のことを「そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」と記しています。イエス様の弟子たちに、復活されたイエス様は現われてくださった。この私にも現われてくださった。「月足らずで生まれたようなわたし」というのは、未熟児として生まれた、ということで比喩的な表現です。「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」。
 パウロは復活のイエス様に出会う前は、キリストの教会を熱心に迫害していた熱心なユダヤ教徒でした。しかも、それが神様の前に正しいことと考えて、迫害していました。そういうパウロに復活の主が現われてくださり、パウロの目は開かれたのです。パウロの信仰の目が、霊的な目が開かれ、本当のことが分かったのです。私は今まで、キリストの教会を迫害することが神様の前に正しいと考えていた。しかし、それは間違いだった。イエス様に出会って、パウロの生き方は180度変わったのです。
 「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロ」(エフェソ1章1節)。パウロが自分のことをこのように言ったのは、キリストの使徒としてふさわしくない者をふさわしい者としてくださったこと、そのことを神様のみ心によって、ただ神様の恵みによって、そうさせていただいた、という感謝と喜びを言い表しているのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2020-02-09 06:00:00 (7 ヒット)

 この手紙の宛先は「コロサイにいる聖なる者たち、キリストに結ばれている忠実な兄弟たちへ」(コロサイ1章2節)とありますように、コロサイにいる教会の人たち、キリストを信じる人たちです。パウロはコロサイにいる人たちをコロサイにいる「聖なる者たち」と言っています。教会に連なる私たちもおそらくそのように呼ばれるでしょう。聖なる者と言われると、面はゆい気持ちがするかもしれません。しかし、聖書が言っている聖なる者というのは、その人自身が清く正しい人だから聖なる者というのではありません。聖なる者とされた、ということです。
 パウロはコロサイにいる人たちのことをこのようにも呼んでいました。「キリストに結ばれている忠実な兄弟たち」。キリストに忠実な兄弟たち。コロサイの教会にも、私たちの教会と同じく、男性も女性もいたでしょうから、忠実な兄弟姉妹たちと言った方が正確でしょう。おそらくパウロは私たちのことも忠実な兄弟姉妹たちと呼んだと思います。
 聖なる者たち、忠実な兄弟姉妹たち。私たち自身は自分を見つめてみると、そんな者ではない!と思うでしょう。この言葉を理解する鍵になる言葉があります。同じ2節にあります「キリストに結ばれている」という言葉です。キリストに結ばれている、キリストにつながっていると言ってもよいでしょう。私たちはキリストに結ばれているから、つながっているから、聖なる者とされた、忠実な兄弟姉妹とされたのです。
 イエス様は、イエス様と私たちの関係をぶどうの木で言い表されました。イエス様はまことのぶどうの木、私たちはその枝です(ヨハネ15章4、5節参照)。私たちは自分では実を結ぶことはできませんが、イエス様につながっていれば、実を結ぶことができる、豊かに実を結ぶことができるのです。イエス様につながっていましょう。キリストの体なる教会につながっていましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2020-02-02 06:00:00 (10 ヒット)

 「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」(マルコ4章21、22節)。
 ともし火というのは、ランプのようなものです。升の下や寝台の下に置くだろうか、というのは、置くはずはありませんね、ということです。なぜなら、ランプは夜、部屋を照らすためのものだからです、明るくするためのものだからです。升の下に、寝台の下に置いたら意味がありません。燭台の上に置くなら、部屋全体を照らし、明るくします。
 ところで、ここにはともし火について、「ともし火を持って来る」とありました。これは直訳すると、「ともし火がやって来る」ということです。ともし火、光がやって来る。これはイエス様のことです。イエス様は世の光です。イエス様という世を照らす光がやって来たのです。ヨハネによる福音書1章9節にはこういう言葉があります。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」。
 ところが、せっかくイエス様がおいでになったのに、私たちはその方を升の下や寝台の下に置くようなことをしていないでしょうか?私たちがイエス様に救われたのは、ただ天の国に入るというだけではなく、この世にあって、イエス様という光を表すためなのです。私たちは、イエス様という真の光が表されるように、祈りつつ、伝えていきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2020-01-26 06:00:00 (21 ヒット)

 お読みしましたマルコによる福音書では、「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たち」(マルコ4章20節)とありました。同じたとえ話がマタイによる福音書とルカによる福音書にもあります。それぞれ言葉は少し違いますが、この箇所を理解するために参考になると思います。マタイによる福音書では「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人」(マタイ13章23節)となっていました。「聞いて悟る」。「悟る」というのは理解するということになるでしょうか。聞くだけでなく、理解するということが大切であることを教えられます。そして、ルカによる福音書です。「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たち」(ルカ8章15節)となっています。ルカでは「忍耐して」ということが言われています。み言葉を聞く歩み、信仰生活というのは、忍耐が求められることを教えられます。この忍耐というのは、ただ我慢しなさい、ということではないと思います。聖書が教える忍耐というのは、主に留まるということです。イエス様はぶどうの木のお話でこのように語られています。「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません」(ヨハネ15章4節・新改訳2017)。私たちの人生の歩みにはいろいろなことが起こってきますが、み言葉を聴き続け、主に留まり続けましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2020-01-19 06:00:00 (29 ヒット)

 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、/『彼らが見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず、/こうして、立ち帰って赦されることがない』/ようになるためである。」(マルコ4章11、12節)
 このイエス様の言葉を読むと、たとえというのは、分かりやすく、理解しやすくするためのもの、ということではないことが分かります。11節には「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される」とあります。「あなたがた」というのは、イエス様の十二弟子とその弟子たちと一緒にいた人たちのことです。その人たちには神様の国の秘密が打ち明けられている。しかし、外の人々には、すべてがたとえで示される、というのです。これを読むと、たとえというのは何かベールに隠されたもの、包まれたもののように思えます。そして、イザヤ書6章9、10節の言葉が引用されます。
 「聞くには聞くが、理解できず」とあります。イエス様は「よく聞きなさい」(同3節)、「聞く耳のある者は聞きなさい」(同9節)と言われました。ところが、ここでは聞いても理解できない、ということが言われています。先ほど、良い関係を結びたかったら、相手の言葉に耳を傾けること、と言いました。でも、ただ耳を傾ければ良いとか、聞けば良いというものでもありません。聞くことに心が伴わなければ、なかなか理解できません。
 私たちが神様の言葉を理解するのもそうです。神様に対して、心から聞いていく、自分の心を開いて聞いていく。すなわち、神様に対する信頼ということが大事なことです。「聞くには聞くが、理解できず」、神様への信頼がなければ、理解できないのです。「よく聞きなさい」、「聞く耳のある者は聞きなさい」、それはイエス様への、主への信頼を持って聞きなさい、ということです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2020-01-12 06:00:00 (24 ヒット)

 羊飼いたちはイエス様がお生まれになったことを聞きました。でも聞いただけで終わりませんでした。彼らはお互いにこのようなことを話し合っています。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」(ルカ2章15節)。聞いただけでなく、実際にイエス様に会いに行ったのです。
 聞いただけでなく、会いに行った。聖書の言葉というのはそういうものです。聞いただけでは本当には分からない。聖書を読んで、これを信じてみる。これに従ってみる。そうすると、神様のこと、分かってくるのです。
イエス様に会いにベツレヘムに行った羊飼いたちはどうなったでしょうか?「そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた」(同16、17節)。
 イエス様に出会った羊飼いたち。羊飼いたちは、私たちはイエス様に会いました!とその喜びを人々に知らせたのです。イエス様に出会ったら、人々に知らせるのです。私たちのために救い主が来てくださった。本当に嬉しい。ありがたい。イエス様に出会った喜び、嬉しさが溢れ出て、羊飼いたちはイエス様がお生まれになったことを人々にお知らせしたのです。
 羊飼いたちはイエス様に出会い、そして、自分の居場所へと帰って行きました。「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」(同20節)。
 神様をあがめ、賛美しながら帰って行った、とあります。神様をあがめるというのは、神様を礼拝するということです。神様を礼拝する、賛美する。私たちは神様に造られ、愛されている一人一人です。そういう私たちがすることは、羊飼いたちのように、与えられた命を、人生を神様に感謝して、神様を礼拝する、賛美することです。すべての人々のためにおいでになったイエス様をその心に、その人生にお迎えして、イエス様と一緒に人生を歩まれる方がありますように心からお祈りいたします。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2020-01-05 06:00:00 (28 ヒット)

「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」(ルカ2章6、7節)。「飼い葉桶」に生まれた子供、救い主は寝かされていた、ということです。この「飼い葉桶」というところから、イエス様がお生まれになったのは、馬小屋、あるいは家畜小屋であっただろうと言われます。家畜小屋というのは、きれいなところではありません。救い主が、ユダヤ人の王が生まれるのにふさわしいとは思えないところです。しかし、そこで救い主はお生まれになりました。
この「家畜小屋」、「飼い葉桶」とは、私たちのこと、私たちの心、私たちの人生のように思います。そして、私たちの世界、世の中です。そこは罪や悪がはびこっている、支配しているところです。でも私たちはそれとは違って、正しく生きている、罪のない生き方をしている・・・。いいえ、そのように言うことはできないと思います。私たちは良いことや正しいことは知っているかもしれない。でも、そのように生きられないでいる。それが私たちの罪の性質であり、罪の現実です。しかし、そういう世のただ中に、そういう私たちのただ中に、まるでこの家畜小屋のような、飼い葉桶のようなそこに救い主は来てくださったのです。私たちがこの方を受け入れ、この方と共に歩むとき、罪や悪から守られ、神様の願っておられる愛と義に生きる者とされるのです。
飼い葉桶の中にお生まれになった方。小さなものとしてお生まれになった方。そして、小さなものとして生き、歩まれた方。神様の愛を求めて生きよう、神様の義を求めて生きようとしても、私たちは世の中では小さな存在でしかなく、何の力も影響力もない。そう思うかもしれません。しかし、考えてみますと、イエス様がこの世にお生まれになって、おいでになって二千年、イエス様の福音は絶えることなく、ずっと全世界の人々に伝えられ続けています。イエス様に出会って、生きる力をいただいた人たちはどれだけいるでしょうか?私たちの存在や私たちの行なっていることは小さなことかもしれませんが、神様の目には尊い存在であり、神様の目には尊い働きなのです。そのことをおぼえて、私たちは救い主がおいでになったこと、この方を信じて、この方と共に生きることこそが本当の幸いな人生であることを宣べ伝えてまいりましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-12-29 06:00:00 (46 ヒット)

 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。3:35 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」(マタイ3章34、35節)
 イエス様はご自分の周りに座っている人々を見回して、こう言われました。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」。イエス様がここで言われたことは何かというと、神様の家族ということです。イエス様が周りに座っている人たちを見回して、その人たちのことをこの人たちこそ、神様の家族なのだ、と言われたのです。さらにこうも言われました。「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」。神様のみ心を行う人。私はこの言葉を聴くと、襟を正される思いがします。自分は果たして、神様のみ心を行ってきただろうか?神様が示す愛と義に生きてきただろうか?私は神様の家族とは言われないかもしれない・・・。自己診断、自己判断するならば、そう考えてしまうのですが、イエス様の周りにいた人たちすべてにこのように語られたのだと思います。「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」。
 イエス様が語っているのに、居眠りしている人がいたかもしれません。イエス様が語っているのに、ペチャクチャと隣の人とお話ししている人もいたかもしれません。イエス様が語っていることを理解できないでいる人もいたかもしれません。しかし、イエス様はその一人一人のことを私の母、私の兄弟、すなわち、私の家族、神様の家族と言われたのです。
 私たちは自分が神様の家族としてふさわしいか、というと、決してそういうことは言えないと思います。しかし、イエス様がそういう私たちをお招きになり、イエス様が私たちを神様の家族としてくださるのです。私たちは自分の力や頑張りで神様の家族になることはできません。イエス様が私たちを神様の家族としてくださるのです。私たちはそのイエス様の愛と恵みに感謝して、喜んで応えていきたいと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-12-22 06:00:00 (32 ヒット)

「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」(マタイ18章10節)
「小さな者」とはだれのことでしょうか。「小さな者」とは、主が呼び寄せられた子供たちのことです(同3〜5節)。しかし、実は私たちもその一人なのです。主の弟子たちは、主の言葉を聞き、子供が小さな、愚かな者と考えたいたけれども、自分たちもその一人なのだ、ということに気づかされていました。お互いを軽んじないように。この言葉は強く心に突き刺さったと思います。ところで、ここに「彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいる」とありました。これはどういう意味でしょうか?神様は私たちを愛しておられ、私たちに神様の守りを与えてくださっているということが言われているのです。自分の小ささ、愚かさ、弱さを知る者は自分の力で生きていく、生き抜いていくことはできないことを知っています。そして、神様の守り、助けがなければ生きていくことはできないことを知っています、信じています。私たちも神様の御顔を仰いで、神様の守り、助けを求めて、信じて生きるのです。
 12節以下には、迷い出た羊のたとえが記されていました。迷い出た。それは羊飼いである神様のもとから離れてしまった一人ということです。その迷い出た、離れてしまった一人に対する神様の思い、心がここに示されています。「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(同12〜14節)。
 離れてしまった一人をどこまでも探し求める神様のことが示されています。そして、私たちも、自分が九十九匹の羊ではなく、あの迷い出た一匹の羊のような者であることを忘れてはならないのです。神様はそういう私たち一人一人を愛し、喜ばれるお方です。神様が探し求めてくださり、招いてくださり、今の自分があることをおぼえたいと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-12-15 06:00:00 (50 ヒット)

「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」(二テモテ4章2節)
メメント・モリという言葉があります。これはラテン語で、中世の修道士たちの挨拶の言葉であったということです。メメント・モリ、それは「死を覚えよ」、「死を忘れるな」という意味です。私たちにいつ死が訪れるかは分かりません。だから私たちは生かされている今、この一日一日を大切に生きるように、ということです。大切なことを後回しにしないことです。この手紙を書いたときというのは、パウロの晩年であったということですが、パウロはいつもメメント・モリ、死を覚えていた、死を忘れないでいたと思います。だからこそ、日々、最善を尽くして生きていました。そのパウロが語ったこと、それが「御言葉を宣べ伝えなさい」ということでした。み言葉、それは神様の言葉のことです。そして、それはイエス・キリストのことであり、福音のことです。パウロがみ言葉を宣べ伝えるように、と言ったのは、パウロ自身がこのみ言葉、福音に生かされていたからです。福音、それは信じても信じなくても良いようなもの、伝えても伝えなくても良いようなものではありません。本当にこの私は福音に生かされ、支えられている。その確信、喜びからこう言っているのです。パウロはガラテヤの信徒への手紙2章20節でこう言っています。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」
 キリストが私の内に生きておられる。イエス・キリストを信じるということはこういうことです。私がイエス・キリストが救い主だ、神だと理解した、認識した。そこに留まらないのです。キリストが私の内に生きておられる。イエス様がこの私の人生を共に生きておられる、ということです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-12-08 06:00:00 (43 ヒット)

「時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい。いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。」(コロサイ4章5、6節)
 「外部の人」とあるのは、まだ教会に加わっておられない人たち、イエス様に出会っておられない人たちのことです。その人たちに対して、「時をよく用い」というのは、機会を見つけては、イエス様との出会いに導くように努めることが言われています。また「塩で味付けされた快い言葉で語」るように、とありました。塩で味付けされた、と言いますと、料理で言うならば、美味しいということになるでしょう。塩で味付けられた快い言葉。別の箇所ではこのようなことが書かれています。
「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。」(エフェソ4章29節)
 この聖書の言葉と併せて読んでみますと、塩で味付けられた快い言葉というのは、私たち自身が神様の言葉にいつも触れ、生かされ、そこから、出てくる言葉であると思います。私は神様に愛され、生かされている。その喜びを日々、味わっている人は語る言葉が違ってくると思うのです。私も自分が普段、どんな言葉を話しているだろうか、と振り返りますと、批判的な言葉や否定的な言葉を話していることがいかに多いことでしょうか。そして、そのような時、自分自身の心が神様の言葉から、神様の心から離れていないだろうか、と反省させられます。私たちがまず聞くべき言葉、第一にすべき言葉、それは神様の恵みの言葉です。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-12-01 06:00:00 (65 ヒット)

 今年は先週11月24日から本日までの一週間、世界バプテスト祈祷週間として、祈祷週間の初日の朝礼拝を世界バプテスト祈祷週間特別礼拝として、世界宣教をおぼえて女性会を中心にして行い、本日最終日の朝礼拝ではルワンダでお働きをされています佐々木和之IMVをお招きして、宣教していただきます。
 私たち日本バプテスト連盟では、返還前の沖縄に始まり、ブラジル、インドネシア、タイ、シンガポールに次々と宣教師を送り出しました。最近は国際ミッションボランティア(IMV)として、短期間、タイ、カンボジアなどアジア諸国に滞在し、教会や地域の人々に仕える働きに携わる人も起こされるようになり、世界宣教の裾野が広がった感があります。IMVでも、長期にわたる働きとして、ルワンダに「和解の福音」を携えて派遣されている佐々木和之氏がおられます。また、シンガポール国際日本語教会(IJCS)の伊藤世里江牧師、インドネシアの野口日宇満・佳奈宣教師ご夫妻、カンボジアの嶋田和幸・薫宣教師ご夫妻、その他、アジアフィールド伝道、福島移住女性支援、ネパールの女性と子ども支援のために、BWAid(世界バプテスト連盟救援委員会)、国際緊急支援(災害などの緊急支援)の働きのために、これからも福音が全世界に伝えられていくように祈りつつ、献げていきましょう。また国内伝道についても併せてお祈りください。今年度の連盟全体の献金目標額は4500万円、赤塚教会の献金目標額は80万円です。目標達成のプロセスに共に加わりましょう。
 世界宣教とは、全世界、全国に出て行っての働きであり、それは私たちの家族、友人など、身近なところでも福音を伝えることです。主の宣教命令を受けて、神様の愛に押し出されて、全世界に目を向けながら、この働きに共に励みましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-11-24 06:00:00 (59 ヒット)

 主は十二人の弟子たちを使徒として任命されました。「任命された」(14節)は元の言葉では「造られた」という意味の言葉です。主はご自分の弟子たちを使徒として造りかえてくださるのです。「彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるため」(マルコ13章14、15節)とありました。イエス様はご自分がお選びになった使徒たちをご自分のそばに置かれました。いつも一緒に歩まれました。イエス様が語られる言葉、イエス様が行われること、それらを彼らはすぐそばで聴き、見て、学びました。そして今、イエス様を信じて救いに入れられた私たちもキリストの使徒として、キリストの使いとして、この世のただ中でイエス様に従うことをイエス様から求められています。私たちも日々、イエス様の言葉を聴き、その歩みを知り、学ぶのです。イエス様の生き方に倣うのです。
 主は私たちを世に遣わされます。使徒たちに宣教させ、悪霊を追い出す権威を持たせた、とありました。宣教、悪霊を追い出す、それはイエス様の福音を宣べ伝えることです。人々が様々な世の罪、悪から解放されるように努めることです。人々がイエス様と出会い、新しい人生を始めることができるように祈りつつ、励みましょう。何か大きなことをするように、というのではありません。小さなことから、身近なところから、始めていくのです。私たち自身は小さな者、弱さをおぼえる者ですが、そういう私たちと主が一緒に歩んでおられること、聖霊の助けがあることを信じて励んでまいりましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-11-17 06:00:00 (62 ヒット)

 信仰生活とは信仰と生活という言葉の通り、観念的なものではありません。それは私たちの実際の生活の中で表されるものです。牧師(私)は礼拝が終わると、何とか聖書の言葉を語りきった。けれども福音を十分にお伝えできただろうか?いろいろな思いを持って、礼拝を終え、今日からの新しい週を歩みます。大事なのはその日々の生活です。聖書の言葉は知っているけれど、聖書の言葉に果たして生きているだろうか?神様の愛を信じていると言いながら、その神様の愛に生きているだろうか?そういう自分にいやというほど、気づかされていきます。本当はそういうことは考えたくないし、見ないようにしたい。その方が楽に生きていけると思う。でも、忘れてしまおうとしても、隠してしまおうとしても、心に痛みをおぼえる。それがイエス様が私たちに与えてくださった信仰です。信仰は私たちの心の目を開かせ、大切なことを見ること、知ることができるようになるのです。
 そして、私たちは悔い改めへと導かれます。悔い改めとは、自分の罪(神様のみ心でないこと、神様の喜ばれないこと)に気づき、生き方を改めることです。そうは言っても、自分自身の力で自分を改めることはできません。自分を新しくすることはできません。そういう私たちのために、私たちを罪から救うために十字架にかかってくださり、私たちが新しく生きるために復活され、今、一緒に歩んでくださっているイエス様。「あなたは何を持ってイエスを主と信じていると言えるのか!」もしそのように問われたなら、「私には何もありません。でも私を愛してくださるイエス様によって生かされているのです。その恵みに少しでも感謝して応えていきたいと願いながら歩んでいます」(ガラテヤ2章20節参照)。私たちが言えることはこのことだけです。私たちの主、私たちの神様、この方に自分を委ねて、歩んでいきたいと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-11-10 06:00:00 (68 ヒット)

そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。(マルコ3章9、10節)
 イエス様が弟子たちにお願いしたこと、それは小舟を用意するように、ということでした。なぜかというと、群衆に押しつぶされないためだった、というのです。10節にもイエス様のもとに集まってきた病にある人たちを癒やされたことで、次から次へと、病に悩む人たちがイエス様に触れようとして、そばに押し寄せた、ということが記されています。
 イエス様は人々の求めに応えられ、癒やされましたが、それがあまりにも多く、イエス様ご自身が押しつぶされそうになった、というのです。私たちはもしかすると、イエス様という方をスーパーマンのような方と考えているかもしれません。どんなにたくさんの人たちが押し寄せてきても、次々と癒やしたり、助けたりするような方と考えているかもしれません。しかし、ここにはイエス様が群衆に押しつぶされないように、弟子たちに小舟を用意させた、ということが書いてあります。神の子、救い主、そういう方でも、押しつぶされそうになる、ということが書いてあるのです。このようなイエス様の様子を知って、私たちはどう思うでしょうか?がっかりするでしょうか?イエス様は神の子、救い主ですから、罪は犯さなかったでしょう。しかし、私たちと同じように、人間としての弱さは体験されたのではないでしょうか(ヘブライ4章15節参照)。イエス様もお一人ではできない。イエス様は弟子たちに小舟を用意してほしい、とお願いしています。つまり、弟子たちに助けを求めたのです。
 イエス様は弟子たちの協力を求めました。教会はイエス様が私たちに一緒に神様の働きを行いたい。一緒にこのために協力してほしい。その呼びかけに応えて励むところではないでしょうか?使徒パウロはこう言っています。「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」(二コリント6章1節)。神様の協力者と言っています。私たちは神様の協力者なのです。


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