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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-10-15 06:00:00 (2 ヒット)

「ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった」(創世記19章26節)。ロトの妻が後ろを振り向いた、とあります。信仰生活、神様に従って生きるということは、後ろを振り向かない、ということです。後ろを振り向いたら、塩の柱になるのです、前に進めなくなるのです。後ろというのは、自分の過去の罪の生活であったり、むしろ、過去の華々しい栄光であったり、人それぞれ違いますが、今、自分が神様に従うことを妨げるものです。それは捨てていくのです、離れていくのです。そして、前に向かって進むのです。ヘブライ書の著者はこう記します。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(ヘブライ12章1、2節)。
創世記19章29節には「こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された」とありました。この「神はアブラハムを御心に留め」ということ、これはアブラハムの執り成し(創世記18章)のことです。神様はアブラハムの執り成しの祈りを聴いていてくださったのです。それで甥のロトは救い出されたのです。アブラハムは自分の甥である、家族であるロトのために祈りました。私たちも、私たちの愛する家族が神様の救いにあずかりますように。神様は祈りを聴いてくださる。そのことを信じて、祈り、伝えていきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-10-08 06:00:00 (8 ヒット)

「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった」(ヨハネ10章41節)。
聖書を読んでいきますと、二つの信仰を知らされます。一つはしるしを見て信じる信仰です。イエス様がこんな奇跡を行なった。病気の人を癒した。悪霊を追い出した。だから信じる。そういう信仰です。もう一つは、この方について話したことは、すべて本当だった、真実だった。神様という方は真実な方だから、信じるという信仰です。もっとこの二つの違いをお話しますと、しるしを見て信じる信仰というのは、自分が祈って、願ったことがかなえられたから信じる。かなえられなかったら信じることをやめる。自分の考えや思いと違うから信仰生活をやめる。言ってみれば、自分を主体とする信仰です。
一方、神様は真実であると信じる信仰というのは、自分が祈って、願っていたことがかなえられていない。そこで信じることはやめた、ではなくて、その時、そのことについても神様に尋ねるのです。神様、あなたは私の祈りに応えてくださらないのですか?あなたはこのことについてどのようにお考えなのですか?あなたは何を私に語っておられるのですか?神様にどこまでも尋ねていく、聴いていく、神様と対話していく信仰です。これは自分ではなく、神様を主体とする信仰です。すぐには、答えはないかもしれない。自分の思い通りの答えではないかもしれない。でも、神様は愛である、真実な方である。そのことを信じて、すべてを受け止めていく信仰です。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-10-01 06:00:00 (30 ヒット)

ローマの信徒への手紙15章7節には、「神の栄光のために」ということが言われていました。私たちが互いに相手を受け入れるというのは、神様の栄光のためなのだ、というのです。別の訳では、このように訳されています。「キリストがあなたたちを受けとめてくださったように、あなたたちは互いを受けとめ、神を輝かし出してください」(本田哲郎訳)。この訳では、神様の栄光のために、ということが、神様を輝かし出してください、となっています。イエス様の山上の説教の中にはこのようなことが記されています。
「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(マタイ5章14〜16節)。
 「あなたがたは世の光である」とあります。ここで注意しなければならないことは、あなたがたは世の光になりなさい、とは言われてはいない、ということです。もう既にあなたがたは世の光なのだ、ということです。イエス様を救い主と信じたら、神様と信じたから、その人は世の光なのです。世の中を照らす光となった、というのです。それで「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」とあります。しかし、私たちそのものが光なのではありません。ヨハネによる福音書1章4、9節には光について、このように書かれています。
「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」(ヨハネ1章4節)。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(ヨハネ1章9節)。
 ここで言われていることはイエス様のことです。イエス様こそは命の言葉、命そのものであって、人間を照らす光、私たち人間に希望を与え、生きる力を与える方であることが言われています。ですから、私たちはそのイエス様という光を人々の前に輝かすように努めるのです。それは具体的には、イエス様を人々にお伝えすることです。私たちの言葉や生き方でお伝えしていくのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-09-24 06:00:00 (16 ヒット)

「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」(ヨハネ10章28〜30節)
イエス様はこう約束してくださっています。「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」(28節)。私たちには永遠の命が与えられる。そして、私たちは滅びない。私たちをイエス様から奪い取るものは何もない!この約束を信じましょう。次の29節の言葉はとても感動的です。「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない」。ここに書いてあること、「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大」とあります。神様が私にくださったもの、それはすべてのものよりも偉大というのです。
神様がイエス様にくださったもの、イエス様は何について言っているでしょうか?偉大とありますから、何かすごいもの、素晴らしいものでしょうか?このイエス様にくださったものについて、これは何と、私たちのことだというのです。私たちのことをイエス様は、父なる神様が私にくださったもの、それはすべてのものより偉大なもの、というのです。これはイザヤ43章4節の言葉と共通します。「わたしの目にあなたは価高く、貴く わたしはあなたを愛し」。神様のまなざしを見つめて歩んでいきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-09-17 06:00:00 (17 ヒット)

「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように」(ローマ15章5、6節)。「同じ思いを抱かせ」、「主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせて」とありました。抱かせてくださる、たたえさせてくださる、というのです。つまり、これは自分の力によってではない、ということです。この章の1節に「強くない者の弱さを担うべき」とありました。他者の弱さを担うということです。でも、私たちにそれができるでしょうか?自分の力では、他者の弱さを担うことはできないのです。愛にも乏しい自分。自分のことばかり考えて生きてしまう。そういう私たちです。しかし、同じ思いを抱かせてくださる。神様をたたえさせてくださる。それをさせてくださる方がおられるのです。
神様について、「忍耐と慰めの源」とありました。神様が私たちに忍耐する力を与え、他者を慰める心を与えてくださるのです。神様がさせてくださる。そのことを知る私たちはこのような祈りに導かれるのではないでしょうか。「私があの人の弱さを担うことができますように、私があの人を慰めることができますように。私にはできませんがあなたがそれをさせてください。いいえ、あなたこそが本当に人の弱さを担われ、人に慰めを与えられる方です。あなたご自身がお一人お一人の心に臨んでください」。神様のみわざを信じていきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-09-10 06:00:00 (32 ヒット)

「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(ヨハネ10章16節)。
 イエス様は「この囲いに入っていないほかの羊・・・その羊をも導かなければならない」と言われました。羊飼いと羊というのは、神様と私たち人間のことです。私たち人間は神様によって造られたものであり、神様に愛されているものです。私たちは日々、神様に養われて生きている者なのです。ところが、罪のために、私たちは神様から離れてしまいました。聖書が教える罪とは、自分は神様とは関係ない、神様に愛されていない者として、生きることです。けれども、神様は私たちと共に歩みたい!神様はあなたを愛している!そのことを聖書の言葉を通して、何度も何度も語っておられます。そして、神様の御子であるイエス・キリストを私たちのところにお送りくださったのです。
 イエス・キリストは、ご自分のことを「羊の門」(7節)、「良い羊飼い」(11節)と言われました。羊の門、良い羊飼いとは、本当にあなたを救うもの、あなたを生かすものということです。今まで、皆さんにとって、それは何だったでしょうか?人それぞれ違うと思いますが、聖書は、本当にあなたを救う方、生かす方、それはイエス・キリストであると示しています。どうか、この方を皆さんの心に、人生にお受けいただきたいと心から願っています。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-09-03 06:00:00 (32 ヒット)

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(二コリント4章7〜18節)
ここに「たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても」とあります。体や心の弱り、衰え、私たちはそのことを、身を持っておぼえる、感じるのです。しかし、「わたしたちは落胆しません」とあります。落胆せざるを得ない状況、現実なのに、なぜ、落胆しません、と言うことができるのでしょうか?何か自分に発破をかけて、あるいは気合を入れて、言っていることなのでしょうか?強がりでも言っているのでしょうか?いいえ、そうではありません。この落胆しません、という言葉はこの章の1節にも出ていました。そこではこのようなことが記されています。
「こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。」(二コリント4章1節)
なぜ、落胆しないのでしょうか?「憐れみを受けた者」と記されているように、憐れみを受けたから、というのです。この憐れみというのは、神様の憐れみということです。神様は私たちの弱さをご存じです。その私たちを神様は憐れみ、私たちという「土の器」に「宝」(同7節)を送ってくださったのです。だから、神様が私たちに願っておられることは、その宝を受け取るということです。神様の憐れみによって、イエス・キリストという宝を受け取ってほしい、ということです。この宝を、イエス・キリストという宝を受け入れるならば、私たちは落胆しないのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-08-27 06:00:00 (40 ヒット)

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(33節)。
私たちの悩んでいること、心配していることというのは、この聖書の言葉で言うなら、「これらのもの」ということです。これは私たちが生きるために必要だと思っているものを指しています。この33節の聖書の言葉には、まず、これらのものを求めなさい、とはなっていません。まず求めるのは、神様の国と神様の義であると言われています。それでは私たちにとって必要なことは求めなくてよい、求めるな、ということなのでしょうか?いいえ、神様の国と神様の義を求めよ。この後にこういう言葉が続いています。「そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。ここで注意したいのは、「与えられる」ということです。つまり、私たちに必要なものは与えられる、というのです。だれが与えてくれるのでしょうか?32節には「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」とあります。神様は私たちにとって必要なものはみんなご存じであるというのです。その私たちの必要なものをご存じである神様が私たちにそれを与えてくださるというのです。だから、すべてを神様にお任せしなさい、神様を信頼しなさい、ということです。すべてを主にお任せして、信頼して、主に従っていきなさい、ということです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-08-20 06:00:00 (38 ヒット)

「自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に」(22節)とあります。これは神様のみ前に出て、神様に自分をすっかり任せていく、ということです。人の言葉や考えを聞くこと、知ることはもちろん大事なことです。そうでないと、独善的な信仰に陥ることもあるからです。けれども、まず聴くべきは神様のみ言葉、まず知るべきは神様のみ心です。人の目や人の言葉が気になる。でもいいのです。神様が良しとされることに歩むならば。神様のために腹をくくると言ったらよいでしょうか。「確信に基づいていないことは、すべて罪なのです」(23節)ともありました。ここで言われている罪というのは信頼の欠如ということです。神様への信頼、そこが欠けていないか。人間の言葉や態度に支配されていないか?神様にために腹をくくる、神様に自分をお任せしていくのです。
17節に「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」とありました。神様の国、これは神様の支配という意味です。神様の御子イエス・キリストがおいでになった。だから今はもう私たちは人に支配されるのではありません。神様の支配、「聖霊によって与えられる義と平和と喜び」に生きる者とされたのです。弱さ、脆さを抱えた私たちですが、その私たちを神様が支配してくださいますように、と祈りつつ歩んでまいりましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-08-13 06:00:00 (42 ヒット)

主イエスは神様と私たち人間の関係について、羊飼いと羊のたとえでお話されました。羊飼いと羊、それは愛の関係です。ところが、互いに愛し合う、大切にし合う関係から離れてしまうことがあるのです。私は妻に対して、どうだっただろうか?私は家族に対して、どうだっただろうか?私は友に対して、どうだっただろうか?利害関係、利用するだけ、そんなことになってしまうことがあるのです。感謝の心、感謝の気持ちがないという時というのは、やってもらって当然、当たり前という状態の時です。神様の恵みも当たり前、他人に助けてもらったり、お世話してもらっても当たり前・・・。しかし、その一つ一つを恵みとして受け止めていくことが大事なことです。新生讃美歌の103番には「数えてみよ主の恵み」という賛美歌がありますが、主の恵みよりも、自分が行なった善いことは数えている、しっかりおぼえているのです。でも神様の恵みは忘れる、他人からしてもらったことは忘れる。本当に忘れてはならないことは忘れる。けれども、忘れてもよいことは忘れない。こういうことでも人間の罪深さ、自己中心性ということを知らされます。数えてみよ主の恵みです。神様の恵みをしっかり心に刻み付けましょう。私のために十字架におかかりになった、命をささげてくださった。このことを忘れないでいましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-08-06 06:00:00 (47 ヒット)

「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」(8、9節)。ここに「主のために」とありました。このことを考えていくうえで大事なことが「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」ということです。キリストが、イエス・キリストが死なれた、生きられた。それはだれのためだったか、ということです。
それは私たちすべての者のためだった、ということです。私たちが罪と死の滅びから救われるために、主は十字架にかかられた、ご自分の命をささげられた、ということです。そのこと抜きに「主のために」ということを理解することはできないのです。まず、イエス様がこの私のために死んでくださった。その主の愛に応えて生きる。それが「主のために」生きるということなのです。食べものや特定の日のこと、それだけのことではありません。私たちの生活のすべてにおいて、私のために十字架にかかり、私を罪と死の滅びから救ってくださった主のために生きるのです。主の愛に応えて生きる、主の恵みに応えて生きるのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-07-30 06:00:00 (42 ヒット)

目が見えなかった人。彼はイエス様によって目が見えるようになりました。けれども、まわりは自分のことをああだ、こうだ、と言う。何としんどいことか。しかし、そういう自分の一挙手一投足をすべて聞いておられる、見ておられる方がいる。そして、その方が私に出会ってくださっている。私を見つけ出してくださっている。
その方、すなわち、イエス様は彼にこう言われました。「あなたは人の子を信じるか」(35節)。イエス様からの信仰の招きです。あなたは人の子、救い主を信じますか?という信仰の招きがここに与えられました。そして、この招き、呼びかけと言うのは、この人だけではありません。皆さん一人一人にも与えられていることです。イエス様ご自身が、あなたは人の子を信じますか?救い主を信じますか?皆さんの心に語りかけておられます。あるいは皆さんの家族にも、友人にも語りかけておられるのです。イエス様はすべての人がご自分のことを信じてほしい、信頼してほしい。そう願っておられるのです。皆さんは自分の家族にイエス様を伝えたい、友人にイエス様を伝えたい、と願い、祈っておられることと思いますが、イエス様ご自身が、あなたは人の子を信じますか?そういう招き、呼びかけを一人一人に与えておられることをおぼえて、それに応える日が来ることを待ち望んで祈り、伝え続けましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-07-23 06:00:00 (50 ヒット)

聖書の教えの中心は、神様を愛すること、そして、隣人、他人を愛することです。それは言葉では簡単なように思えますが、実際には、難しいものです。しかし、愛そう、愛していこう、その動機づけというものがあります。それは自分が愛されている、ということを知ることです。自分が愛されていることを知ったら、それは嬉しいことですから、愛されている私も愛そう、愛していこう。そういう思いに導かれていくのです。皆さん、神様を愛しましょう!隣人を愛しましょう!そう言われても、それができないことを知らされるばかりです。何て、自分は愛がないのだ。そういうことばかりに気づかされます。でもあなたは愛されている!このことを知ったら、生き方が変わるのです。
 神様に愛されている私、神様に大切な者とされている私。毎週、教会へ通う。日々の聖書の言葉に聴き、祈る。そのことについて、ある方は、身づくろいをし直しに来ているのだ、と言われます。世のただ中に生きている私たち。疲れをおぼえます。いろいろな問題、課題を抱えます。不安、心配があります。愛とは真逆のことを見たり聞いたりします。そういう私たちが神様の前に出る。そして、神様は私たちを変わることなく、愛しておられることを知る。まさに心の身づくろいです。
 12節にはこういう言葉がありました。「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」。14節にはこういう言葉がありました。「主イエス・キリストを身にまといなさい」。身に着ける、身にまとう。愛の負債だらけの私たちです。でも、そういう私たちに光の武具を身に着けよ!イエス・キリストを身にまとえ!と言われる。私たちがまずすること、それは受けるということです。何を受けるのでしょうか?イエス様の愛を受け入れることです。そして、実はそこからしか、信仰は始まらないのです。愛するとか、赦すとか、それはイエス様の愛を受けて始まることなのです。自分が愛されていることを知る。自分が赦されていること知る。そこからすべてが始まるのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-07-16 06:00:00 (58 ヒット)

「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです」(一ペトロ2章1、2節)。
幼子は乳を飲み、栄養を摂って、成長していきます。それと同じように、私たちも霊の乳を飲むのです。この霊の乳とは何かと言いますと、神様の言葉です。神様の言葉を日々いただいて成長していくのです。
私たちはイエス様を救い主と信じてバプテスマを受けました。クリスチャンとしての生き方が始まりました。でも、最初のうちは、霊的には、信仰の上ではまだ幼子、子供です。ペトロの手紙には「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って」とありましたが、これはイエス様を信じる前の古い価値観、考え方、また罪の支配(罪というのは自己中心ということです)に生きていた状態を示しています。私たちはイエス様を信じて、従って生きるからには、それらは捨てなければならない。そして、新しい価値観、新しい考え方に変えられることを求めていくのです。
新しい価値観、考え方というのは、神様の価値観、お考えということです。罪に支配されていた生き方から、神様に支配された生き方に変えられていく。神様の価値観、お考え、それは神様の言葉を読まなければ、聴かなければ分かりません。だから、霊の乳である神様の言葉を日々、心に受け入れていく。フィリピの信徒への手紙2章5節(文語訳)には「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」とあります。イエス・キリストの心を心とする。これが霊的な大人、信仰の上での大人ということです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-07-09 06:00:00 (70 ヒット)

「ここもかみの みくになれば」という賛美歌があります。私たちが以前使用していました教団讃美歌と言われるものの90番です。歌詞を一節だけ紹介してみます。
ここもかみの みくになれば あめつち御歌を うたいかわし 
岩に樹々に 空に海に たえなる御業ぞ あらわれたる
 この歌詞にあります「ここも」とはどこのことでしょうか?それは私たちの国のことです。そして、私たちの職場のことであり、私たちの家庭のことであり、私たちの教会のことです。ここも神様の御国なのです。神様がおられるところ、ここにも神様が生きて働いておられるのです。
正直なところ、私の生活している場、そこでは神様のみ心が行なわれていないのではないか?と思わずにおれません。その現実に、私たちは悲しみ、心が痛みます。山上の説教の中に、「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」(マタイ5章4節)とあり、「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」(マタイ5章6節)とあります。神様のみ心、神様の喜ばれることから程遠い現実と思える・・・。私たちはそのことを悲しみます。そして、愛と義が行なわれますように。祈らされます。すべての権威は神様からのもの。神様の愛と義がどこにおいても行われるように、と祈っていきましょう。


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