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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-09-22 06:00:00 (0 ヒット)

「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。」(2章19、20節)
 ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は断食をするのに、イエス様の弟子たちはしない。どうしてか?その質問に対する答えがこれでした。ユニークなのは、花婿とか、婚礼という話をなさっていることです。このイエス様の言葉から分かることは、花婿というのはだれか、ということです。ここで花婿とはイエス様自身のことです。すると、花嫁がいるわけですが、花嫁はだれでしょうか?それは私たちのことです。
 教会は「キリストの花嫁」と言われます。エフェソの信徒への手紙5章21節以下には「妻と夫」というテーマの箇所があります(エフェソ5章21〜33節参照)。ここには妻と夫に対する勧めが記されていますが、それだけでなく、教会とキリストが妻と夫の関係になぞらえて語られています。私たちはキリストの花嫁です。花婿であるキリストを喜んでお迎えする。それが今、この時なのだ、とイエス様は言われたのです。
 イエス様はこう言われました。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない」。断食というのは、神様に心を向ける大切な信仰のあり方です。でも、今、その神様のみ子であるイエス・キリストが私たちのところに来てくださったのです。イエス様が私たちと一緒にいるのです。神様の前に罪を悔い改めることは大事なことです。自分の日々の歩みを振り返り、神様の愛に生きることができただろうか?神様の正しさに生きることができただろうか?そのことを自問自答する。そして、明日からの歩みはどうか、神様のみ心に適った歩みができますように、と祈る。
 しかし、そのイエス様が私たちのところに来てくださった、一緒に歩んでくださるというのです。自分で一生懸命に頑張ろうとしても、頑張れない、頑張っても罪を犯してしまう、そういう私たちと一緒に歩んでくださるのです。だから、私たちは明日からは一生懸命、罪を犯さないように頑張ります!と誓ったりしなくても良いのです。私のところにおいでくださった、一緒に歩んでくださったイエス様が私をご自由に用いてください、私を使って神様の愛と正しさを表してください、と祈れば良いのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-09-08 06:00:00 (10 ヒット)

頭であるキリスト。「この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ」(コロサイ2章19節)とありますが、これは教会のことです。教会を人間の体に例えて言われています。イエス・キリストが頭。そして、私たちは体の各部分です。
私は今でこそ、手足も自由に動きますが、数年前に手足が動かなくなる神経の病気になったことがあります。手を動かすリハビリをしていた時のことです。リハビリの先生が手は動かなくても、その手をじっと見つめて動くように頭で思いなさい、と指導されました。実際には手がさっぱり動かないのに、そんなことを言われるので困ってしまいましたが、先生の指導の通りにしました。これは頭(脳)から手が動くように指令する訓練なのでしょう。最初のうちはまったく動きませんでしたが、時間が経つうちに少しずつ手が動くようになりました。イエス様が頭。イエス様のお考え、思い、それを知り、そのために励むのが教会なのです。
キリストを信じる成人、キリストを信じる大人。それはキリストを頭として、キリストにしっかり付いていく。そうするならば、育てられ、成長してゆくというのです。最初のうちはイエス様の言われること、お考え、それがなかなか分からないかもしれませんが、ずっと続けてゆくうちに少しずつ、分かってくるのです。そして、イエス様の言われること、お考えを私たちの生き方の中に反映させることができるようになるのです。それがキリストにある大人、成人です。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-09-01 06:00:00 (17 ヒット)

 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5章13〜16節)
 塩と光、地の塩、世の光の話がここに語られています。暑い夏を過ごしています。熱中症にならないように、こまめに水分を補給するように、と言われます。しかし、水分だけでなく、塩分も必要だと言われます。お読みしました聖書では、塩ということでは、塩味と言われていました。食塩のことです。食塩として使われる塩は料理ではもっぱら隠し味として使われます。塩そのものが目立ってはならないのです。塩というのは、まわりを引き立たせるための役割があるということ、他者を支え、助ける生き方が示されています。
 そして、光。光の話をしているのに、山の上の町のことが例えとして挙げられています。これは当時のユダヤの都エルサレムを指しています。隠れることができない町。私たちも人々の前に隠れることなく、表わしていく存在なのです。それは続くともし火の例えでさらに示されます。ともし火を升の下に置くことはしません。ともし火はまわりを照らす、部屋を照らす役割があるからです。蛍光灯を部屋の下に取り付ける人はいません。それでは意味がありません。天井の方に取り付けます。
 「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」。ともし火の火、光は人々の前に表わされるものです。光とは、ここに書いているように、立派な行いということです。私たちが立派な行いをしたら、人々は私たちを素晴らしい人だと言って、あがめるように思いますが、ここにはあなたがたの天の父、神様があがめられるようになる、と書いてあります。ここで言われていることは、光とか、立派な行いというのは、私たちから出たことではない、ということです。神様が私たちに光を与えてくださった。この光というのは何かというと、私は三つのことで表したいと思います。それは信仰、希望、愛です(一コリント13章13節)。神様があなたがたに与えてくださった信仰を、神様があなたがたに与えてくださった希望を、神様があなたがたに与えてくださった愛を人々に表わしなさい。そのようにして、私たち人間は神様を表わす存在とされているのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-08-25 06:00:00 (21 ヒット)

「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」(マルコ2章7節)
イエス様が中風の人に対して、「子よ、あなたの罪は赦される」(同5節)と言ったことに対して、律法学者たちは批判しました。しかし、ここには律法学者たちがこのようなことを発言した、とは書いてありません。「心の中であれこれと考えた」(6節)とあります。心の中であれこれと考える。私たちもこういうことはあるのではないでしょうか。自分の言った言葉、行なった行動。それは神様に喜ばれることなのだろうか?それとも・・・。心の中で考えるということは、その人の人間としての本質を表わすことです。本当の自分の姿がそこで分かる。この後の聖書の記事を読んでいきますと、イエス様は律法学者たちの心の中と対話しておられるのです。口に出していないことなのに、イエス様は彼らの心をご存じで、対話しておられるのです。
イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。」(8節)
 イエス様は彼らの心の中の考えをご自分の霊の力ですぐに知って言われた、とあります。イエス様という方は人の心を知る方なのです。私たちの心の中をご存じの方なのです。そこでイエス様は律法学者たちの心の中と対話されたのです。そして、今、私たちとも対話されるのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-08-18 06:00:00 (38 ヒット)

 イエス様は重い皮膚病の人に触れました。イエス様は律法違反を犯してまで、この人を癒やされたのでした。ところで、律法とは何でしょうか?神様は人々がご自分に従って生きるために律法を与えてくださいました。しかし、律法主義に陥る者が出てきました。律法主義者というのは、律法を守ることそのものを目的にし、そのことで自分は忠実に律法を守っているけれども、そうでない人は神様に対して罪を犯していると言って裁いた人たちのことです。最終的には律法そのものを守るというよりも、自分の忠実さ、正しさを表すことが目的になってしまった人たちのことです。
 イエス様はそういう間違いに対して、神様が律法を与えた本当の意味を教えられたのです。律法のためでなく、人のために律法があるということです(マルコ2章27節参照)。神様が律法を人に与えたのは人が神様に従って、互いに愛し合い生きていくためです。今日の箇所では、イエス様がこの重い皮膚病の人に触れられた。病ゆえに人々から疎外され、差別されていたこの人に触れることによって、主はこの人を愛しておられる、この人と共におられることを示されたのです。
 イエス様の日常、イエス様の習慣、イエス様が大切にされたこと、それは神様の言葉に聴くということでした。神様との生きた交わりから、宣教を、福音を宣べ伝えたのです。そして、重い皮膚病によって苦しむ一人の人と出会われました。この人は汚れた人ではない。この人は人々の中で生きていくことができる!そのことを主はこの人に触れ、癒やすことを通して示されたのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-08-11 06:00:00 (33 ヒット)

コロサイの信徒への手紙2章2節の言葉からパウロがコロサイの教会、ラオディキアの教会のために何を祈っていたかが分かります。それは「神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるため」ということでした。神様の救いのご計画、それはイエス・キリストによる救いのご計画です。「キリストを悟るようになるため」。この言葉を幾つかの日本語訳で読み比べてみました。口語訳は「キリストを知るに至るため」、新改訳は「キリストを真に知るようになるため」、聖書協会共同訳は「キリストを深く知るようになるため」となっていました。
信仰の成長ということについて、ある人はこう言いました。私の内のイエス様が大きくなること。そして、私の内の私が小さくなること。イエス様が私を支配するということを言い表しています。それがこの箇所の言葉で言えば、イエス様を悟る。イエス様を深く知るということです。私たちがイエス様という方を深く知るようになると、そのことによって、同じく2節に記されていたことが恵みとして私たちの間に与えられるのです。「心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ」。
イエス様を深く知れば知るほど、私たちの心は励まされる。イエス様を深く知れば知るほど、私たちはイエス様の愛によって結び合わされる。イエス様を深く知れば知るほど、理解力を豊かに与えられる。この理解力という言葉は聖書協会共同訳では「溢れるほど豊かな洞察を得」るとありました。イエス様を知ると、この世のただ中に生きていても、何が正しいことかそうでないか、良いことかそうでないことか、そういう理解力、洞察が与えられるということです。
 カルヴァンという人はご存じだと思います。ルターと並ぶ宗教改革者の一人です。この人が眼鏡について書いています。神様の言葉である聖書とは私たちにとって眼鏡のようなものだ、というのです。この聖書という眼鏡を通して、私たちは神様の知識、知恵が与えられ、本当に見るべきものを見ることができる、知るべきものを知ることができるのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-08-04 06:00:00 (43 ヒット)

 聖書は私たち人間のことを「土の器」と語ります。それはもろく崩れやすい存在ということです。しかし、土の器というだけではないことも聖書は語ります。コリントの信徒への手紙二4章7〜12節にはこのようなことが記されています。
 「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。 こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。」
 私たちは土の器です。けれどもその器の中に宝が納められている。その宝とはイエス・キリストです。イエス・キリストの命が納められている。私たちがイエス・キリストを宣べ伝えるというのは、私の内に、私の中におられるこの方を宣べ伝えるということです。私たちは教会の兄弟姉妹の間で、自分が聖書の言葉に教えられたこと、罪を示されたり、愛を示されたり、生活の中で励まされたり、ということを分かち合っておられると思います。そういう一つ一つのことも私の内におられるイエス様(コロサイ1章27節)を宣べ伝えるということなのです。そして、そのことを教会の中だけでなくて、外に出て、皆さんの家族、友人、職場の方にも分かち合ってみましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-07-28 06:00:00 (62 ヒット)

 イエス様一行は会堂を出ました。どこに行ったかというと、シモンのしゅうとめが熱を出した、ということでその家へ向かったのでした。イエス様はシモンのしゅうとめを癒されます。「イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。」(31節) ここには主によって癒されたシモンのしゅうとめの様子も記されています。シモンのしゅうとめはイエス様によって癒され、そして一同をもてなした、ということです。「もてなした」とあるところは、最新の協会共同訳では「仕えた」となっています。岩波訳も「仕え始めた」となっています。
 「もてなした」、日本語で訳す場合はこの言葉でも十分だと思います。それをあえて、直訳的に、仕えた、とか、仕え始めたと訳すことで、さらにここで語られていることの意味が分かってきます。シモンのしゅうとめがイエス様に癒され、行なったこと、それはイエス様とその弟子たちをもてなした、ということです。しかし、それはただお客さんがおいでになったので、そのおもてなしをしたということに留まらなかった、ということです。仕えた、イエス様に仕える者となった、ということです。
 「仕える」ということで、エフェソの信徒への手紙6章6、7節にはこのような勧めの言葉があります。 「人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。」 シモンのしゅうとめのもてなしは主に仕えるように人に仕えた、ということです。目の前の人は神様に愛された人、その人を大切にするというのは神様を大切にするということ。そういう心で仕えるのです。また、この「もてなした」、「仕えた」という言葉は継続を意味します。ですから、ここはもてなし続けた、仕え続けた、ということです。仕えるというのは、一時的なものではないのです。継続的なものなのです。私たちはイエス様を信じた。それは一時的なものではありません。これからも信じる。イエス様を信じ続けるのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-07-21 06:00:00 (42 ヒット)

自分はイエス様の弟子としてふさわしい。そう思われる方は一人もおられないと思います。それはまともな受け止め方だと思います。自分のことが分かっていたらふさわしいなんて思うはずがありません。コリントの信徒への手紙一1章26〜31節には、神様が私たちを選ばれた理由として、私たちが自分を誇ることがないため(同29節)、自分ではなく、神様を誇るため(同31節)とありました。私は欠けだらけの人間です。何も誇るものはありません。けれども、そういう私を神様は愛し、ご自分の弟子として招いてくださった。その神様を私は誇ります。その神様にありがとうございます、と感謝を表わします。それがイエス様の弟子です。マルコによる福音書1章20節にこういうことが記されていました。「イエスの後について行った」。
イエス様の弟子というのは、イエス様の前に行く者ではありません。イエス様の後について行く者です。それが反対になる時、その人はどんなに能力があっても、どんなに知識があっても、イエス様の弟子として歩むことはできないのです。けれども、何が無くても、何ができなくても、イエス様の後について行く人はイエス様の弟子として歩んでいるのです。ただイエス様を誇りとして、イエス様を喜びとして、この方の後について行きましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-07-14 06:00:00 (52 ヒット)

 「すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み」(コロサイ1章10節)とありました。神様に喜ばれるように、とあります。口語訳聖書では「主のみこころにかなった生活をして真に主を喜ばせ」とありました。新改訳2017と聖書協会共同訳ではほとんど同じ言葉で訳されていました。「主にふさわしく歩んで、あらゆる点で主に喜ばれ」。すっきりした言葉で訳されています。主にふさわしく歩む。これは神様に造られた者にふさわしく、とか、神様に救われた者にふさわしく、という意味で考えることができます。
 旧約聖書・創世記の最初のところに神様が人間を造られた箇所が記されています。そこには「神は御自分にかたどって人を創造された」(創世記1章27節)とあり、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」(同31節)とありました。私たち人間は神様にかたどって、これは神様のご性質、ご意志を表わす存在として創造された、という意味です。そして、極めて良かった、ともあります。ところが、私たち人間は創世記3章にありますように、原罪、根本的な罪を犯したというのです。それは私たちをお造りになった神様を無視して、自分が神のようになってしまった、ということです。私の人生の主人はだれでしょうか?皆さんは何と答えるでしょうか?私は私だ!私の人生の主人、中心は自分。それが神様を無視した生き方です。しかし、今日の聖書は語っています。主にふさわしく歩むように。神様に造られた者、神様に救われた者にふさわしく歩むように。私たちの人生の主人は、中心は神様です。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-07-07 06:00:00 (61 ヒット)

 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ14章1〜3節)
 これはイエス様の言葉です。「用意してくださっている」と語られていました。イエス様はご自分を信じる者たちに、あなたがたのために場所を用意してくださっている。これは天の国の希望、私たちに神様が与えてくださる永遠の住まい、場所ということで考えることができるでしょう。そして、今、この世に生きている間でも、イエス様は私たちに住まいを、場所を、もっと言うと、居場所と言ったら良いでしょう。それを与えてくださっています。そのことについて、ここには「わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」と言われています。イエス様のいるところに、私たちもいる。すなわち、イエス様が共にいる、イエス様と共にある。これが私たちの居場所です。
 先日の特別集会の丸山先生の説教の中で、マルタとマリアの姉妹の話が語られました。その中で「必要なことはただ一つだけ」(ルカ10章42節)、その必要なただ一つというのは、マリアがイエス様のみ言葉に耳を傾けたこと、イエス様と共に過ごしたこと、と言われました。私たちも一人一人がイエス様のみ言葉に耳を傾け、イエス様と共に過ごす。このことを大事にするのです。このことを私たちの生活の中心にするのです。すると、そこから、生きる力をいただくのです。イエス様と共に過ごす。イエス様と共にある。このことが生きている間も、そして、天に召された後も、永遠に続くのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-06-30 06:00:00 (89 ヒット)

 「しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、監守長は監獄にいる囚人を皆、ヨセフの手にゆだね、獄中の人のすることはすべてヨセフが取りしきるようになった。監守長は、ヨセフの手にゆだねたことには、一切目を配らなくてもよかった。主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである。」(創世記39章21〜23節)
 私たちは自分にとって不幸、不運とも思えることがあると、神は私と共におられないのだろうか?神は私を愛しておられないのだろうか?と思うかもしれません。創世記のヨセフの記事を見てみますと、ヨセフは主人の妻の偽りの証言によって不当にも監獄に入れられることになりました。しかし、神様はヨセフを見離したわけでも、愛していないわけでもありませんでした。神様はヨセフを試練の中に置かれましたが、「主がヨセフと共におられ、恵みを施し・・・」と記されています。監守長からもヨセフは信頼されたことが記されています。神様はヨセフの試練の時も、その状況に応じた助けを与えてくださっているのです。一方、ヨセフも、試練の中で、神様の守りを信じ、腐ることなく、その置かれた場所で誠実に生きていきました。ヨセフ自身、主が共におられることを信じて、それを希望として生きたのではないでしょうか。
 キリスト教の信仰というのは、一見、何の魅力もないもののように思えるかもしれません。信じれば、良いことが起こりますよ、試練などありませんよ、そういうことは言いません。でも、信じてみて分かることは、不幸とか、不運と思える状況にあっても、そこでも神様は見捨てず、共におられる。そして、何の希望もないと思える、人生を投げ出してしまいたくなる、そういう中にあっても、どう生きていったらよいか。そのことを主が私たちに教え、導いてくださることを知るのです。人生山あり谷ありですが、山にある時も、谷にある時も、主が共にいてくださる。そこでも、どこでもやっていけるように教え、導いてくださる。イエス様を信じて本当に良かった。私は心からそのように思っています。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-06-23 06:00:00 (81 ヒット)

イエス様がバプテスマを受けられた時、霊が降って、天からこのような声が聞こえた、とあります。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マルコ1章11節)。イエス様を信じる人には霊が降ります。ここで霊というのは神様の霊、聖霊のことです。聖霊が降った、というのは、神様はご自分を信じる人と共におられるということです。
そして、天からの声が聞こえたとあります。これは神様の声が聞こえたということです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。神様がご自分の御子であるイエス様に言われた言葉ですが、私たちにも同じように語られます。神様にとって、あなたは私の愛する子供、私の心に適う者。この「わたしの心に適う者」という言葉は、新しい聖書協会共同訳でも同じですが、聖書協会共同訳の注釈を見ますと、直訳ではこのように訳されるとあります。「私はあなたを喜ぶ」。神様にとって、ご自分の御子であるイエス様は喜びです。そして、私たちも神様にとっては喜びの存在なのです。私たちはこのことをいつもおぼえていたいと思います。私たちは神様に喜ばれている。私たちは神様にとって喜びの存在です。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-06-16 06:00:00 (81 ヒット)

 「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ」(マタイ13章16節)。
 主イエスは弟子たちに幸いと言われました。種を蒔く人のたとえ話を読むと、どれも私たちに当てはまることです。ですから、ああ、私は道端に蒔かれた種のようだ!石だらけのところに蒔かれた種のようだ!茨の中に蒔かれた種のようだ!と言って、嘆く人がいるかもしれません。しかし、私たちは嘆きに留まりません。ここには御言葉を聞いて悟ることが大事であると言われています。私たちは弱い者ですが、この蒔かれた種、御言葉を聞いて悟る。御言葉を聴き続ける、御言葉に信頼して生きるのです。
 主は「耳のある者は聞きなさい」(マタイ13章9節)と言われました。聞く耳を主は与えてくださいました。私たちにはこのような約束が示されています。「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである」(同23節)。主は弟子たちに、主を信じる私たちに聞く耳を与え、見える目を与えてくださいました。宝の持ち腐れではいけません。与えられた目で主を見上げ続け、与えられた耳で主の御言葉を聴き続けていくのです。そうするならば、主は私たちを良い土地にしてくださり、実を結ばせてくださるのです。主を信じて歩みましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-06-09 06:00:00 (73 ヒット)

ヘブライ人への手紙13章18節に「わたしたちは、明らかな良心を持っていると確信しており」とあります。「明らかな良心」とは何でしょうか?別の訳では「正しい良心」(新改訳、聖書協会共同訳)となっていました。岩波訳では「私たちは[自分の]内奥の意識が良い[状態にある]」とありました。内奥という言葉は滅多に聞かないことです。しかし、私たちの信仰を考えるうえで大事な言葉だと思います。内奥、心の奥深く、という意味になるでしょうか?
私たちは自分の信仰についてどのように考えているでしょうか?内奥、心の奥深くまで、イエス様を信じているでしょうか?イエス様が自分の心の奥深くまで、人格を支配しておられるでしょうか?それとも、外側は信仰があるように思えるけれども、内側はどうもそれとは違う、そういうことはないでしょうか?信仰生活というのは、初めはだれもが外側の部分から、あるいは形からと言ってもよいでしょうか。しかし、少しずつ、私たちの内側へ、中の方へと浸透していく、イエス様が私たちの内側へ、中へ入ってくださるのです。大事なことは私たちの方も日々、イエス様に対して、心を開いていく、イエス様に対して素直に、正直になっていくことです。パウロはそのことをこのような言葉で言い表しています。
「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(二コリント3章18節)
 ここに「主と同じ姿に造りかえられていきます」とあります。リビングバイブルでは「主に似た者にされていく」となっています。イエス様は神様の愛そのものの方です。そういう方に似た者にされる。素晴らしいことです。あの人は教会に行くようになってから変わったね。前は意地悪だったのに、他人のことを考えるような人ではなかったのに。イエス様を受け入れて信じた人の中に、その変化に気づくようなことがあります。でもそれは自分の努力、頑張りではできないことです。「主の霊の働きによる」とあります。主の霊、聖霊の働きによって、すなわち、イエス様によって変えられて、私たちは主と同じ姿に、主に似た者にされていくのです。私たちは互いにこのことを祈っていきましょう。そして、共に主の愛のうちに生きる者となりますように。


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