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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-01-13 06:00:00 (3 ヒット)

「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ2章14節)
私はこの天使の賛美を読むと、自分は御心、神様の心に適う人になっているのかな?と心配します。それで神様の御心に適う人になるように、一生懸命、新しい一年頑張るぞ!そういう決心をします。でも、本当に御心に適う人になれるのかなあ、と決心はしたもののまた心配になります。昨年、新しい日本語訳の聖書が出版されました。聖書協会共同訳という聖書です。その訳でこの「御心に適う人にあれ」というところを見てみましたら、新共同訳聖書と本文は同じでしたが、注が付いていて、そこには直訳では「神に喜ばれる人にあれ」とありました。御心に適う、それは直訳では神様に喜ばれる人だというのです。
私たちは幼いとき、子供時代、親に喜ばれるように、とあるいは学校なら、先生に喜ばれるように、また教会なら、牧師に喜ばれるように、と頑張って歩んで来られた方がおられるかもしれません。これを別な言い方をするなら、親や先生や牧師に気に入られるように、ということかもしれません。喜ばれよう、気に入られよう・・・。
では神様に喜ばれるというのはどういうことでしょうか?聖書をよく読んで、よくお祈りして、正しい行ないに努めて・・・。それが神様に喜ばれることでしょうか?「神に喜ばれる人にあれ」とは、神様に喜ばれる人になりなさい!ということではなく、神様はあなたを喜んでいるということです。神様はあなたという存在を喜んでいるということです。どんなあなたであっても、あなたの存在、あなた自身を喜ばれる神様ということです。
神様に喜ばれている私は、私を喜んでおられる、愛しておられる。そういう方の言葉を聴きたい、語り合いたい。だから、聖書を読むのです、祈るのです。愛される喜びから、愛してくださっている方の愛に応えていきたいと、神様に従っていくのです。それが信仰ということです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-01-06 06:00:00 (9 ヒット)

「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(ルカ2章6、7節)。
皇帝アウグストゥスの時代、当時、アウグストゥスが救い主と呼ばれていました。しかし、本当の救い主はアウグストゥスではなく、名も知られない夫婦の間に与えられた小さな命、小さな赤ちゃん、その子が本当の救い主なのでした。当時のユダヤの人たちは神の子、救い主がいつかやって来る。その方は私たちのためにどんなことをしてくださるか。大きな、力強い救い主を待ち望んでいたのではないでしょうか?ところが、本当の救い主はそれとはまったく違った、小さな、無力な方としておいでになりました。
飼い葉桶の中にいる救い主。そのことから、おそらくイエス様はどこも行く場所がなくて、家畜小屋におられたのだろう。家畜小屋の飼い葉桶におられたのだろう、と言われています。そして、汚く粗末な家畜小屋の飼葉桶というのは、私たちのことを象徴しているとも言われます。だれにも見せたくない、知られたくない私たちの心の中、罪に支配されている私たち、そこに救い主はおいでくださった。そういう私たちを愛し、受け入れ、神様がお示しになる新しい生き方、罪に支配された生き方ではなく、神様の愛に支配された生き方へと導いてくださる。この救い主と共に歩んでまいりましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-12-30 06:00:00 (9 ヒット)

マリアはこのように神様を賛美しています。「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(ルカ1章47節)。あがめる、というのは大きくなる、という意味です。ですから、神様、あなたのみ名をあがめます、というと、神様が大きくなりますように、ということ、私の内におられる神様が大きくなりますように、ということです。神様を信じても、日々の生活の中で、神様を小さくしてしまっている。神様をどこか隅っこに追いやってしまっている。そういうことはないでしょうか?しかし、私たちは神様をあがめます、と祈っていきたいと思います。神様が大きくなりますように。神様が私の人生の中心におられ、私を支配されますように、と祈っていきたいと思います。
「身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう」(同48節)。自分のことを「主のはしため」とマリアは言っています。マリアは自分が本当に小さな、貧しく、弱い者であると言っているのです。しかし、そういう者に神様は目を留めてくださった。マリアはただ「はしため」と言っているのではありません。「主のはしため」と言っています。自分が主のもの、神様のものであるということを自覚しています。エフェソの信徒への手紙2章10節には「わたしたちは神に造られたもの」とあります。私は神様に造られた者、神様に愛されている者、神様のもの。そのことを知るとき、ここにありますように、自分が「幸いな者」であることを知るのです。マリアは自分から救い主が生まれるという幸いにあずかりました。そして、私たちもその救い主を私たちの心にお迎えし、救い主と一緒に人生を歩む者とされました。それは幸いなことです。私たちは主にあって幸いな者です。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-12-23 06:00:00 (13 ヒット)

受胎告知で知られるルカによる福音書1章26〜38節ですが、この箇所はマリアと主の天使の対話の場面でもあります。マリアはこう言います。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(38節)。マリアは主の天使の告げた救い主がマリアによって誕生することを理解したのでしょうか?いいえ、そうではないと思います。主の天使は一生懸命、困惑するマリアに語りますが、語れば語るほど、ますますマリアにとっては理解できない、ありえないと思えたのではないでしょうか?しかし、マリアは天使の語る最後の一言が心に強く響いたのではないでしょうか。「神にできないことは何一つない」(37節)。私には理解し得ない、何か驚くべきことが告げ知らされている。けれども、この神様の言葉を信じて、神様に自分を委ねていこう。それがこの「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」ということではないかと思います。
マリアは神様から選ばれた人でした。救い主はマリアから産まれることになったからです。しかし、マリアは神様に選ばれるだけの素晴らしい信仰の持ち主だったのでしょうか?いいえ、マリアは自分のことを私は主のはしためと言っていますが、自分は何も特別な存在ではない。優れた者ではない。小さな者に過ぎない。マリアはそう思っていたでしょう。しかし、そういうマリアを神様は選ばれました。
マリアは天使から告げ知らせた神様の言葉をすぐに信じられたかというとそうではありませんでした。幾度もそのやり取りがあり、その中でマリアは「神にできないことは何一つない」、この言葉に自分を賭けた、自分を委ねたのだと思います。このように見ていきますと、マリアが信仰深い人だった、というよりも天使との対話の中で神様はマリアに信仰を与えてくださった。つまり、信仰というのは神様が与えてくださるもの、神様がその人に信じる心を与えてくださるということを知らされます。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-12-16 06:00:00 (17 ヒット)

使徒言行録7章には、ステファノの説教が記されています。そもそもステファノが律法と神殿をけなした、ということから、最高法院でその訴えに対する弁明として語る場面でしたが、弁明というよりは聖書の言葉そのもの、説教が語られていました。しかし、その後半の内容から分かってきたことは、やはり、ステファノの語ったことは、説教でありましたが、弁明でもあった、ということです。それも、単なる自己弁護ということではなく、聖書が、あなたがたが訴えている、あなたがたが問題にしていることに対してどう語っているか。聖書からそのことを答えていったのでした。
これを聞いた人々の様子がこのように記されています。「人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした」(使徒7章54節)。彼らはステファノが語ったことに対して、激しく怒った、ということです。それと対照的なのがステファノでした。「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った」(使徒7章55、56節)。ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめていた、というのです。そこには神様の栄光と神様の右に立っておられる主イエスがおられた。その主を見た。だから、ステファノはこう言っています。「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」。人の子、つまり、イエス様が見える、というのです。このステファノの姿から教えられるのは、ステファノは何を見て生きていたか、ということです。目の前には、ステファノの説教を聞いて、怒りに満ちた人たちがいました。しかし、ステファノはその人たちではなく、天を見つめ、主を見上げていた、というのです。私たち教会は何を見つめて歩んでいるのか?そのことが問われる思いがします。主の言葉を聞き、怒りに満ちている人たちの顔色を見ながら、教会は歩むでしょうか?それとも、天を見つめ、主を見上げて教会は歩むでしょうか?


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-12-09 06:00:00 (25 ヒット)

「しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています。」(ヘブライ6章9節)
あなたがたについてもっと良いこと、救いに関わることがあると確信している、とあります。ヘブライ5章11節には「あなたがたの耳が鈍くなっているので」と言われていましたが、ここではまったく正反対のことが言われています。あなたがたの信仰はちっとも成長していない。何年経っても、固い食物が食べられない乳を必要とする幼子のようだ。そう言っていたのが、ここではもっと良いこと、救いに関わることがあると確信している、というのです。どうして、こんなことが言えたのでしょう?このヘブライ人への手紙を記した人はイエス様に期待していたのです。人間的な弱さを抱えた一人一人だけれども、主がこの人たちを良きように導いてくださる。そういう確信があったからです。
使徒パウロという人は、新約聖書の半分以上を記した人です。その中で多くの教会宛の手紙を書いていますが、教会の現状、教会の中に様々な問題があることをよく知っていながら、パウロは各教会に宛てた手紙で教会の人たちのことを聖徒たち、聖なる人たちと呼んでいます。これも神様がそのような者としてくださる。その確信から聖徒たち、聖なる人たちと呼んでいたのです。
神様と出会うと、人は変えられる、新しい人生を生きることができる。この確信の言葉が語られているのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-12-02 06:00:00 (33 ヒット)

「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」(ヘブライ5章7節)。
イエス様が祈りと願いをささげられる様子がここに書かれていました。この箇所について、これはイエス様が十字架におかかりになる前にゲツセマネで祈ったことが表わされているといわれます。またイエス様が十字架におかかりになった時のことが表わされているともいわれます。ゲツセマネの祈りの箇所を見てみましょう。
 「「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕」(ルカ22章42〜44節)。
イエス様は父なる神様から、ご自分が十字架にかかることによって人々を罪から救うことになる。そのことを知っていました。しかし、主はそのことを大変恐れました。人間として死に向き合わされるという、死に対する恐怖を体験され、こう言われました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」。これは、できることなら、十字架にかかることから逃れさせてください、ということです。けれども、この後、イエス様は決断され、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られました。ある方は、十字架にかかることから逃れさせてください、と主が祈られた後、しかし、あなたのみ心をなさってください、と祈られた。この祈りと祈りの間にはどれだけの時間があっただろうか?と言っています。この方の言っている意味はどういうことかというと、十字架におかかりになることについて、イエス様はどれだけ悩み苦しまれたことだろうか、ということです。悩み苦しまれたイエス様、しかし、十字架におかかりになることを決断されたのは神様の言われたことだから、という神様に対する愛から、人々が救われることになる、という人々に対する愛から決断されたのでした。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-11-25 06:00:00 (32 ヒット)

「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブライ4章15節)
ここに記されていることはイエス・キリストは私たちの弱さに同情できない方ではない、ということです。なぜ、そのようなことが言えるのでしょうか。「罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」とあります。イエス様は神の子、神様ですから、罪を犯すことはありませんでした。しかし、あらゆる点において、私たちと同じように試練に遭われた、というのです。
 ところで、この「同情できない方ではなく」ということ、別の日本語訳を見てみますと、「共に苦しむことのできない方ではなく」(岩波版・小林稔訳)となっています。イエス様は私たちと共に苦しんでくださるというのです。だから、私たちが苦しみにある時、それはイエス様も一緒に苦しんでおられるというのです。ヘブライ人への手紙2章17、18節にはこのようなことが記されています。
「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」
私たちの苦しみは自分だけの苦しみなのではありません。私たちは、自分の苦しみなど、だれも分かってくれない、と思うことがあるかもしれません。でも、イエス様は知っておられる、分かっておられるのです。そのイエス様に慰めをいただいて、励ましをいただいて、歩んでいきましょう、生きていきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-11-18 06:00:00 (37 ヒット)

ヘブライ人への手紙4章12節には神様の言葉とはどういうものであるかが示されていました。「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができる」。神様の言葉は生きているというのです。その生きている言葉、命の言葉を私たちは日々、いただいていきましょう。また「心の思いや考えを見分けることができる」とありました。聖書の言葉、神様の言葉によって私たちは神様を知らされます。そして、自分自身を知らされる、人間を知らされるのです。
このヘブライ人への手紙4章7節には「心をかたくなにしてはならない」(7節)とありました。心がかたくな、ということ、これは漢字で書きますと、頑なと書きます。頑固ということです。神様に対してかたくな、頑固になってはいけない、ということです。ある牧師先生は「かたくな」というのは、自分を知らない状態、自分は変わらなくても良いと思っている状態であると言われました。それに対して、聖書の言葉は私たちの本当の姿を映し出します。本当の自分を知らされる。私たちが毎朝、出かける時、鏡の前に立ち、自分の容姿を見て整えるように、聖書の言葉から自分の本当の姿を知って整えていくのです。日々、主によって自分を変えていただきましょう(ローマ12章2節)。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-11-11 06:00:00 (35 ヒット)

マタイ18章21〜35節には、赦された家来の譬えが記されています。私はこの箇所から、主の祈りの一節を思い起こしました。
わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。(マタイ6章12節)
「負い目」というのは罪のことです。ですから、私たちの罪をお赦しください、という祈りが祈られているのです。神様の前に立つ時、そこで私たちの罪が明らかになります。罪に気づかされた時、私たちはこの私の罪をお赦しください、と祈らされます。またここには、私たちとあります。自分の罪の問題だけでなく、教会の兄弟姉妹のこと、愛する家族のこと、そのことも一緒に祈りたいと思います。
 そして、自分に対して罪を犯した者を赦すことができますように、という祈りが続けられています。このように見ていきますと、罪というのは、まず、神様との関係において、そして、お互いの関係において、ということが分かります。神様から赦された私たちはその赦された感謝、喜びを持って、互いの間において赦し合っていくのです。
マタイ18章35節には、「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら」とありました。この「心から」ということは大事なことです。心から。それはうわべだけではなく、心の奥底から、ということで考えられるでしょう。そして、もう一つのこととして、私たちの心に赦しの心が与えられているのです。なぜなら、私たちは神様に赦されていることを知っているからです。赦しを知っている、信じている。それは私たちにも赦しの心が与えられているということです。なかなか赦せない、そういうことが多いと思います。しかし、もうすでに私たちには神様ご自身が私を赦してくださったことによって、赦しの心が与えられている。赦し、赦され、生きる者とされている。この希望を持って歩みたいと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-11-04 06:00:00 (44 ヒット)

「あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。―― わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。――」(ヘブライ3章13、14節)
私たちも荒れ野の旅をしたイスラエルの民と同じく、かたくなになってしまわないように、こういうアドバイスが語られています。「「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい」。信仰というのは「今日」のことなのだ、ということです。過去のことをどんなに誇っても、過去にああいうことをした、こういうことをした、と言っても、今、信じていなければどうでしょうか?また明日、将来、信じます!と言っても、今、信じなければ、いつまでたっても信仰をスタートさせることはできません。聖書は、あなたは今、信じなさい!と言っています。
 さて、どんなアドバイスがされているかというと、「日々励まし合いなさい」ということです。励まし合うことが大事です。礼拝に集う私たちはそこでお互いに励まし合うことができるでしょう。祈祷会でも祈り合い、励まし合うことができます。この「日々励まし合いなさい」と訳されている言葉、「日々互いに声をかけあいなさい」(田川建三訳)と訳されているものがありました。声を掛けあう。挨拶の一言でもいいでしょう。イスラエルの挨拶は、シャローム、それは平和という意味です。シャローム、神様の平和がありますように、ということです。私たちも、あなたに神様の平和がありますように、と互いに声を掛けあってみましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-10-28 06:00:00 (38 ヒット)

モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました。家を建てる人が家そのものよりも尊ばれるように、イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい者とされました。どんな家でもだれかが造るわけです。万物を造られたのは神なのです。(ヘブライ3章2〜4節)
「モーセが神の家全体の中で忠実であった」とありました。「神の家」、それは何でしょうか?神様の家族、神様の家庭ということです。そして、モーセにとっては神様の家族というのはイスラエルの民のことでした。モーセはイスラエルの民の一人でしたが、その指導者とされました。イスラエルの民のために仕え、励みました。一方、イエス様については、「イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました」とあり、さらに「家を建てる人が家そのものよりも尊ばれるように」、「万物を造られたのは神」ともあります。神様の家、家族を造られたのは神様であるということが言われています。モーセは神様の家族に忠実であったが、イエス様はその神様の家族を建てられた、造られた方、神様に忠実であった、と言われています。
家族を形成する、建てるのはだれでしょうか。おそらく多くの人は家族というのは、その家族の一員で形成されると考えると思います。しかし、それに対して、聖書はそれとは違うことを教えています。
主御自身が建ててくださるのでなければ/家を建てる人の労苦はむなしい。(詩編127編1節)
「主御自身が建ててくださるのでなければ」とあります。目に見えるところで考えますと、家庭というのは家族の人たちで構成され、形成されていくわけです。しかし、聖書は私たちの家庭を建ててくださるのは神様なのだ、というのです。教会というのは、先ほどのイスラエルの民と同じく、神様の家族です。教会も神様が建ててくださる。ですから、私たちは教会を建ててくださる方である神様の言葉に聴き、従い、歩むのです。神様の言葉が教会を建てる、私たちを建てるのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-10-21 06:00:00 (43 ヒット)

「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25章40節)。最も小さい者とはだれのことでしょうか?世の中で小さくされている人たち、貧しい人たち、虐げられている人たち・・・。そういう人たちと考えても間違いではないと思います。けれども、もう一つのことを忘れてはならないと思います。それは私たち自身のことです。私たちは神様の前に立つ時、小さな者です。愛においてもそうです。本当に愛の乏しい者です。神様から「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」(同35、36節)。こんなこと、言われるはずはないだろうと思えるような小さな者です。でも、そういう小さな私の小さな愛を神様は見ておられる。こんなこと、人に自慢できるほどのことではない、だれでもやっているような、特別素晴らしいとも思えないような、そういう一つ一つのことも神様は見ておられる。そして、その小さなことを神様は喜んでおられる・・・。
 私のすること、行なうことは小さなことかもしれない。でも、神様はご存じ。私ができることは人に誇るようなことでも自慢できることでもないけれど、神様に愛され、救われた喜び、感謝から。ある方は私が行なう、私がする、というではなく、神様によってさせていただいている、ということを忘れないように心掛けています、と言われました。愛のわざにおいても小さな私たちですが、まず、神様の愛と恵みを受け止めて、そこからすべてを始めていきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-10-14 06:00:00 (68 ヒット)

イエス様のことをヘブライ人への手紙12章17節では「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司」(17節)と記していました。憐れみ深い。それは一緒に苦しみ、一緒に耐える、ということです。ヘンリー・ナウエンというカトリックの神父で大学の教授をしておられ、最後はラルシュ共同体という知的ハンディキャップを持つ人たちのコミュニティーで仕えられた方がおられました。この方の著書に『傷ついた癒し人』という題名の本があります。傷ついた癒し人、それはイエス様のことであり、イエス様に従って生きようとする人もそうであると思います。聖書の互いに愛し合いなさい、という言葉を聴いて、私たちは愛することに努めます。しかし、それは時に自ら傷を受けるようなこともあります。その時、私たちはイエス様が私たちを救うために、愛するために自ら傷を受けられたことを思い起こしたいと思います。以下はイザヤ書53章のイエス様の救いを示している箇所です。
「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ書53章4、5節)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-10-07 06:00:00 (72 ヒット)

「だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます」(ヘブライ2章1節)。ここに「聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません」とあります。「聞いたこと」というのは、神様の言葉のことです。新共同訳聖書の注意を払う、という言葉もよいですが、口語訳聖書では「いっそう強く心に留めねばならない」となっていました。注意を払う、心に留める。神様の言葉を大事に心に受け止めていくということです。
アメリカの若いクリスチャンの中で、腕にWWJDという文字の入った腕輪などのグッズを付けている人がいると聞いたことがあります。WWJD、これはWhat Would Jesus Do?を略したものです。日本語では「イエス様ならどうすると思う?」という意味です。このWWJDの文字の入ったグッズはキリスト教の書店のグッズ売り場にも置いてあるようですが、それを見て、いろいろな人生の選択、選び取りの時、イエス様ならどうされるだろう?そのことを考えてみるとよいと思います。そのために聖書を開いて、あるいは心に留めている聖書の言葉を思い起こしてみるということは大事なことです。
神様の言葉に注意を払わないと、心に留めておかなければ、押し流されてしまいます、と言われていました。押し流されてしまうというのは、世の中の考えに押し流されてしまうということです。イエス様を信じる者にとっては、イエス様の考えが第一、一番です。それなのに、簡単に押し流されてしまう。3節には「これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて」とあります。神様の言葉を大事にしないというのは、神様から与えられた救いに対してむとんちゃくになるということ、新改訳ではこのむとんちゃくということをないがしろにする、とありました。イエス様の救いにむとんちゃくでないように、イエス様をないがしろにしないように、私たちはいつもこのことに気をつけなければなりません。


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