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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-09-23 06:00:00 (1 ヒット)

「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。」(ヘブライ1章3節)
御子、つまり、イエス・キリストは神様の栄光の反映とあります。口語訳聖書では、神様の栄光の輝きとなっています。イエス様という方は神様の栄光を反射させて、輝かせて行かれたお方です。聖書を読んでいきますと、イエス様が神様の言葉を語り、また神様の素晴らしいみわざを行なったことが書かれていますが、それはすべて神様の栄光を、光を表わすためでした。イエス様を信じる人をクリスチャンと言います。日本語ではキリスト者、キリストのものと言いますが、イエス様を信じる人も同じです。イエス様が神様の栄光、光を表わされたように、私たちも神様の栄光、光を表わすために生きるのです。実は私たち人間は神様の栄光、光を表わすために造られたのです。ところで、神様という方は一言で言うと、どういうお方でしょうか?
「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」(一ヨハネ4章16節)
「神は愛です」とありました。神様は愛です、愛のお方です。先ほど、神様の栄光とか光と言いましたが、それをもっと具体的に言うと、愛ということです。神様の栄光が表わされるというのは、神様の愛が表わされるということです。その神様の愛を表わすために造られたのが私たちなのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-09-16 06:00:00 (6 ヒット)

「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった」(ヨハネ12章3節)。ラザロとマルタのきょうだいマリアは純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエス様の足に塗り、自分の髪の毛でその足を拭った、ということです。すると、家中が香油の香りでいっぱいになりました。ナルドというのは、ヒマラヤ原産の植物の名前だそうで、その根から香油が採れるのだそうです。マリアが持って来た香油は一リトラであったということですが、一リトラというのは、326グラムだそうです。ではどれだけの価値があったかというと、この後の5節から考えられるのは、三百デナリオン、約一年分の労働賃金分の価値があった、ということです。その高価な香油をイエス様のためにいっぺんに使ってしまった。ベタニアのマリア、この人が行なったこと、それは損得勘定や計算を越えたイエス様に対する感謝を表わす献げ物でした。しかし、この聖書の話はイエス様に対して、たくさんの、多くの献げ物をしましょう!という話ではないと思います。マリアがイエス様からどれだけたくさんの、多くの恵みを受けたか、愛を受けたか、という話だと思います。その受けた恵み、愛に対して、喜びあふれて、感謝があふれて、このような出来事が起こったのです。
ルカによる福音書7章47節に「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」という言葉があります。ここでイエス様が言われているのは、神様の愛と赦しをあなたはどれだけ気づいていますか?どれだけ知っていますか?ということです。マリアはイエス様がこの私のために十字架にかかってくださる、命を献げてくださる。イエス様の愛と赦しを知り、その感謝を表わしていったのです。私たちもイエス様の十字架の愛と赦しを心から受け止めていきたいと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-09-09 06:00:00 (4 ヒット)

イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」(ヨハネ11章40〜42節)
主はラザロを生き返らせたこの出来事を通して、復活とは何か、新しい命とは何かを示されました。復活とは、新しい命とは、石を取りのけることです。私たちを縛るものをほどくということです。その石とは何でしょうか。その縛るものとは何でしょうか。それは罪であり、死です。罪は、死は私たちを支配します。しかし、主は心に憤りを覚えられました。私たち人間を罪と死の支配のままにすることを憤られるのです。石を取りのけよ、ほどいてやって、行かせよ。主は私たちを罪と死から解放してくださるのです。それが復活であり、新しい命です。私たちがイエス・キリストを信じるならば、私たちは罪と死に支配されない。たとえ、この地上における生涯が終わろうとも、罪と死に支配されない。それが復活です、それが新しい命です。イエス・キリストを信じるならば、罪と死に支配されず、地上での死に終わらず、イエス・キリストにあって永遠に生きる者とされるのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-09-02 06:00:00 (9 ヒット)

イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」(ヨハネ11章23〜27節)
ここに復活の話が出てきます。人は死んで終わりではない。復活の時がある。マルタはそう信じていました。そういうマルタに対して、イエス様はこう言われます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。イエス様はご自分のことを復活であり、命であると言われます。ご自分を信じる者は、死んでも生きる。生きていてイエス様を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。
イエス様を信じる人は死んでも生きる、決して死なない。なぜなら、その一人一人は復活であり、命である方とつながっているから、一緒にいるからです。イエス様とつながっているなら、イエス様と一緒にいるなら、たとえ、この地上での生涯は終わっても、それですべてが終わりではないのです。復活であり、命であるイエス様と一緒に生き続けているのです。それが聖書が教える永遠の命です。
3世紀からバプテスマ式の時に用いられていた信仰告白文をもとにして作られたのが「使徒信条」です。この信条の最後の言葉は「我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。アーメン」です。結びの「永遠の生命を信ず」。私たちも声高らかに唱えたい、祈りの言葉としたいと思います。主は私たちに永遠の命を与えてくださいました。主は私たちにも言われます。あなたはこのことを信じるか。はい、信じます!と答えていきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-08-26 06:00:00 (18 ヒット)

「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。」(マタイ6章7節)
 これを読むと、長いお祈りをしてはいけない。そのように考える方があるかもしれません。続く8節にはこのように記されています。
「彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」(同8節)
 だらだらと長いお祈りをしてしまう。もっと短く、まとまった祈りをしなければ。そのように受け止める方がおられるかもしれません。けれども、ここでイエス様が言われていることは、祈りの長さ、短さではありません。ここで異邦人の祈りと言いましたが、それは真の神様を知らない人の祈り、あるいは真の神様ではない神に祈る祈りということで考えるとよいかと思います。一生懸命、呪文のような言葉を繰り返し唱えることによって、祈りが聴かれると考えていた人がいたようです。しかし、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じ」とあります。神様はあなたの願っていること、あなたが必要としていることをご存じだというのです。ある人はそれならば、祈る必要はないのか?と考えます。神様は祈る前から、私たちの心の願いを知っているというのだから、それならば、祈らなくてもよいだろう。長い祈りどころか、祈ることさえしなくてもよいと考えてしまう。しかし、ここで言われていることは、神様への信頼ということです。神様がこの私のことを知らないかのように心配して祈るのではない。私のすべてを知っておられる神様、そのことを信じて、信頼して、心を込めて祈っていくのです。神様が私たちに求めておられるのは、信じるということ、信頼してほしい、ということです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-08-19 06:00:00 (16 ヒット)

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5章13〜16節)
この聖書の言葉をお話される方がよく言われることがあります。それは、あなたがたは地の塩です、世の光です、と言っている。あなたがたは地の塩になりなさい!世の光になりなさい!とは言われていないということです。もしかすると、私たちは聖書の言葉を読むと、ああ、立派な生き方をしなければならない!しっかりしなければならない!そう思って読むかもしれません。そして、そう思って気合を入れて頑張ってみる。でも挫折する。敗北感を持って次の週に教会に来る。そういう繰り返しかもしれません。なかなか私は地の塩になれないなあ。世の光になれない。いつになったらそうなれるのか、そうできるのか・・・。
けれども、地の塩、世の光というのは、あなたがたはそうなりなさい!と言われているのではありません。あなたがたは地の塩です!世の光です!そういうイエス様の宣言がここに語られているのです。そうすると、この聖書の言葉の受け止め方は変わってくると思います。イエス様がこの私に、あの人にも、あなたがたは地の塩ですよ、あなたがたは世の光ですよ、と言っておられる。神様がこの私を地の塩としてくださったんだ。世の光としてくださったんだ。そういう受け止めです。そのような者にしてくださったイエス様に信頼して、地の塩、世の光として生きていくことに努めていけばよいのです。「イエス様、あなたが私たちを地の塩、世の光としてくださいましたから、そのように生きていくように努めます。でも私たちは弱いし、欠けだらけですが、あなたの言葉を信頼します。どうか私たちを助けてください、用いてください」。そのように祈りつつ歩むのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-08-12 06:00:00 (18 ヒット)

マタイによる福音書5章から「山上の説教」と言われる箇所です。5章3節の言葉を見てみますと、「心の貧しい人々は、幸いである」とあります。カトリックのフランシスコ会訳聖書では「自分の貧しさを知る人は幸いである」とあります。この訳ですと、自分という人間の貧しさ、欠けとか弱さを知るということがよく言い表されているように思います。そういう人は幸いだ、というのです。なぜなら、そういう人は自分に留まらないはずです。自分ではないだれかに助けを求める、支えを求めるのです。
 もしかすると、私たちは自立して生きる。人に頼らない。自分の力でしっかり生きていく。それが人間として常識的なことであり、美徳であると考えるかもしれません。弱音を吐く。弱さを見せる。それは格好のよくないことと考えるかもしれません。けれども、この心の貧しい、自分の貧しさを知るというのは、自分の力の無さ、弱さ、そういったものに気づき、だれかに頼らなければやっていけない、生きていけない。そういう自分であることに気づいた人のことです。
 私はこのような仕事していますと、それこそ、人の弱さに関わることが多くあります。相談に来られる方がありますと、私は自分の力でその人に何ができるだろうか?できないことだらけであることを思います。人の弱さに関われば関わるほど、自分の弱さ、無力さに気づかされるのです。そういう私ですが、この幸いのメッセージを読みますと、幸いであると語られた後に「天の国はその人たちのものである。・・・その人たちは慰められる。・・・その人たちは地を受け継ぐ。・・・その人たちは満たされる。・・・その人たちは憐れみを受ける。・・・その人たちは神を見る。・・・その人たちは神の子と呼ばれる。・・・天の国はその人たちのものである。・・・」、こういう言葉が続けられています。だれが私を慰めてくれるのでしょうか?だれが私を満たしてくださるのでしょうか?だれが私に憐れみを与えてくださるのでしょうか?それは神様です。神様が私たちに本当の慰めを、憐れみを、満たしを与えてくださるというのです。だから、あなたがたは幸いだ、と主は言われるのです。
このことを知る時に、私は今、苦しみにあるこの方のうえに、悩みや痛みをおぼえているこの方のうえに、神様からの本当の慰めがありますように、憐れみが、満たしがありますように、と祈らされますし、私自身もそのことを求めて祈るのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-08-05 06:00:00 (33 ヒット)

ガラテヤの信徒への手紙6章14節の後半には「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」とありました。イエス・キリストが十字架におかかりになった。このことによって、私たちの生き方、価値観、それらはガラッと変えられた、というのです。今までは人の目や人の評価を求めて生きてきた。しかし、もうそういうことを求める生き方はやめる、しない。
私たちがなぜ、人の目、人の評価が気になるのかというと、自分という人間がどのような人間、どの程度の人間であるかを決める基準を人の目、人の評価に置いているからです。ですから、人からほめられたり、良く言われたりすると、自分という人間はなるほど、それほどの人間だ、と喜ぶ。その反対に、人からけなされたり、悪く言われたりすると、自分という人間はどんなにダメな人間であるか、と悲しむ。そのようにして、人の目、評価で一喜一憂しながら生きているのが私たちではないでしょうか?
しかし、「この十字架によって」、イエス・キリストの十字架を私に与えられた救いと信じた今はそれとは違う。私の生きる基準は人の目や評価ではない。私の生きる基準はイエス・キリストの十字架です。神様のみ心は何か?それを求めて生きる。神様の前に自分は今日をどう生きてきたか?人ではない、神様に問われながら生きるのです。問われながら、というと、窮屈に感じたり、脅迫的な思いがするかもしれませんが、神様に問われながら、というのは、もっと言いますと、問われながら、しかも、赦されながら、と言ったらよいでしょうか。
神様に問われるというのは、神様には私たちのすべてを知られているわけですから、何も言い訳も、ごまかすこともできないわけです。神様の前に私たちは自分のありのままを知られています。しかし、神様は、それでもあなたは赦されている。それでもあなたはやっていける、生きていくことができる。なぜなら、私はあなたを愛しているし、あなたと共にいるから、と私たちに語られるのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-07-29 06:00:00 (29 ヒット)

重荷という言葉はガラテヤの信徒への手紙6章2節と5節に出てきます。
「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」(2節)
「めいめいが、自分の重荷を担うべきです。」(5節)
 2節では「互いの重荷を担いなさい」とあり、5節では「自分の重荷を担うべきです」とありました。つまり、私たちは、自分の重荷を担うと共に、互いの重荷を担い合うということが言われています。私たちそれぞれに負うべき重荷がある。それはしっかり担っていかなければなりません。自分の重荷を担うことをしないで、他者の重荷を担うということは、お門違いです。だからといって、自分の重荷を担うことで精一杯だから、他者には無関心ということであってもならないのです。そして、自分の重荷を担う、互いの重荷を担い合う。その時、忘れてはならないのはイエス様が私たちの重荷を担っておられるということです。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11章28〜30節)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-07-22 06:00:00 (30 ヒット)

「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」(ガラテヤ5章16節)。
ここに「霊の導きに従って歩みなさい」とあります。この「霊」というのは、神様の霊、聖霊のことです。口語訳や新改訳では御霊となっていました。神様の力と言ってもよいでしょう。私たちはどんなに善いことを行なっていこう、正しく生きていこうとしても、限りある者です。立派な行ないをしても、心の中は違うことを思っていたりもします。そういう私たち、弱い私たち、強くなろうとしてもなれないのです。頑張ろうとしても頑張れないのです。そういう私たちを神様は裁いたり、責めたりはなさらないと私は信じています。でも、神様はこのことを求めておられると思います。「霊の導きに従って歩みなさい」、「御霊によって歩きなさい」(口語訳)。これは立派に、清く生きていきなさい、ということではありません。なぜなら、そんなこと、私たちにはできないのですから。言われていることは、神様に自分のすべてをお任せして生きていきなさい、ということです。
16節以下には、肉と霊の違いが明確に記されています。肉については、19節に「肉の業」とあります。霊については、22節に「霊の結ぶ実」とあります。「肉の業」という言葉は口語訳では「肉の働き」となっていました。業とか、働き、これは私たち人間のすることです。私たちはイエス様を信じて、霊の業、霊の働きに努めていきたいと思います。でも、自分の力ではそれができないことに信仰生活の歩みの中で嫌というほど、気づかされていきます。しかし、霊の導きに従って歩むならば、私たちは弱くとも、神様が実を結ばせてくださるのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-07-15 06:00:00 (38 ヒット)

日本の聖書翻訳はだいたい30年ごとに行なわれてきました(日本聖書協会)。1954、55年の口語訳、1987年の新共同訳、そして、今年、聖書協会共同訳が出版予定です。聖書の翻訳のことで言いますと、例えば、ローマ書3章22節と同10章4節は翻訳に違いがみられるところです。昨年出版された新改訳2017(いのちのことば社)では3章22節は「イエス・キリストを信じることによって」となっていて、従来の訳文と変わりませんが、脚注に「イエス・キリストの真実によって」とあります。10章4節については「律法が目指すものはキリスト」となっています。ちなみに口語訳では3章22節は「イエス・キリストを信じる信仰」、10章4節は「キリストは・・・律法の終り」となっています。新共同訳は3章22節が「イエス・キリストを信じることにより」、10章4節は「キリストは律法の目標」です。3章22節の議論としては、従来の訳「キリストへの信仰」では人間の側の信仰に強調点が置かれていたのではないか、ということ。それに対して、原文通りに「キリストの真実」と訳して、キリストの救いのみわざをもっと強調すべきではないか、ということ。10章4節では、「終わり」と「目標」の違いがありますが、キリストが律法の成就者であることをもっと示すべきではないか、ということ。このようにして、翻訳作業は留まることなく続きます。聖書は翻訳においては完成ということはないのです。聖書の翻訳の歴史、過程などを知る時に、翻訳聖書は絶えず改善されていくこと、それと共に私たちの信仰も絶えず改革されていくことが必要であることを思わされます。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-07-08 06:00:00 (40 ヒット)

「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」(ガラテヤ5章5、6節)
「“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいる」とあります。何を待ち望んでいるかというと、「義とされた者の希望が実現すること」です。これは私なりに噛み砕いて言いますと、「イエス様を信じて救いにあずかること、終わりの日の完全な救い、これを聖霊の助けによって確信し、待ち望む」ということです。なかなか救われたことが確信できない、実感できない・・・。そういう私たちです。特に目の前に起こってくる様々な苦しみ、困難なことがあると、自分が本当に救われているのだろうか?と心が迷ってしまいます。私たちは弱い者なのです。しかし、そういう私たち、私たち自身が確信できなかったり、実感できなかったりしても、神様の救いは変わらないのです、救いは与えられているのです。「“霊”により、信仰に基づいて」とありました。聖霊の助けです。私たちはイエス様を信じても、すぐに何かあると、心が揺れ、信仰もなくなりそうになる。でもそういう私たちを聖霊が助けてくださる、聖霊なる神様が助けていてくださる。信仰があるのかないのか分からなくなってしまうような私たちを支えていてくださる。「“霊”により、信仰に基づいて」、短い言葉ですが、とても大事な言葉です。口語訳聖書では「御霊の助けにより、信仰によって」となっています。イエス様を信じた、と言いながら、告白しながら、信仰があるかないか分からないような私を聖霊なる神様が助け、支えてくださる。このことを信じていきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-07-01 06:00:00 (41 ヒット)

ガラテヤの信徒への手紙4章21節からの御言葉からは、アブラハムの物語を例に挙げ、自由と奴隷について示しています。信仰生活というのも、自由な信仰生活と奴隷のような信仰生活というのがあるのです。奴隷のような信仰生活ということでお話しますと、それは人をがんじがらめに縛りつけるような信仰生活です。あなたはこうでなければならない。こうあるべきだ。そういうことを人に押し付ける。そればかりか自分自身にも押し付けてしまう。そういう信仰生活は人を裁いたり、自分を誇ったりするようなことになります。
 では自由な信仰生活というのはどういうものでしょうか?それはあれをしなければならない、これをしてはならない、という生き方ではありません。自由な信仰生活というのは、そうせずにおれない、という信仰生活です。献金のお勧めの時によく引用される聖書の言葉があります。「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです」(二コリント9章7節)。
 不承不承というのは、いやいやながら、ということです。強制される、人に無理やり強いられる、ということです。それは奴隷のような信仰生活です。しかし、聖書はそういう信仰生活であってはならない、と言っているのです。むしろ、こうしようと自分の心に決めたとおりにしなさい、というのです。それは神様に私は救われた。その救いの喜び、感謝から行ないなさい、ということです。ここに「喜んで与える人」とあるのは、神様の救いを喜び、感謝する心から与える、ささげる人ということです。喜び、感謝から、そうせずにはおれない、そこから始める信仰生活です。皆さんの信仰生活はどうでしょうか?奴隷のような信仰生活でしょうか?それとも自由な信仰生活、神様の救いを喜び、感謝しての信仰生活でしょうか?


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-06-24 06:00:00 (47 ヒット)

「知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。」(ガラテヤ4章13節)
パウロは自分の体が弱くなったことがきっかけで福音を告げ知らせた、と語っています。パウロが自分の体の弱さについて触れている箇所があります(二コリント12章7節以下)。その個所では、パウロは何か素晴らしい体験をしたのでしょう。しかし、そのために思いあがることのないように、そのことで傲慢になってしまわないようにと、自分の身に一つのとげが与えられたとあります。そのとげというのがパウロの病気のことだと思われます。その病が癒されるようにパウロは何度も祈りました。けれども、神様はパウロを癒されませんでしたが、そのことを通して、パウロに大事なメッセージを語っておられます。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(二コリント12章9節)。力は弱さの中で、とあります。これは病気のこともあるでしょうし、他にも弱さをおぼえる時のことでも考えることができます。しかし、その弱さの中で神様の恵みが働かれるということが示されています。パウロは病の苦しみのただ中で、そこにも生きて働かれる神様の恵み、力を知り、こう言ったのです。「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。・・・わたしは弱いときにこそ強い」(二コリント12章9、10節)。パウロは自分の弱さの中でこそ、本当に神様の恵みが分かったのでしょう。それゆえに福音を告げ知らせた、というのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-06-17 06:00:00 (51 ヒット)

「しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに」(ガラテヤ4章9節)。
神様を知っている私たち。でも、まだまだ知らないことだらけです。生涯かけて、神様を知っていきたいと思います。しかし、パウロはここで言い直しています。それは神様を知ることは大事なことだけれども、もっと大事なことがある。それは、この私が神様を知っている以上に、神様はこの私を知っておられる、ということです。神様から知られている私!私は神様から知られている、この言葉を読んだ時にこんなことを思いました。この私は私自身のことをどれだけ知っているか?自分が一番自分のことを知っている、分かっているかというと、そうではありません。人間関係などで問題になるのはそういう部分だと思います。自分で自分のことが分かっていないのに分かったつもりでいる。自分を客観的に見ることは大事です。自己点検、自己吟味ということでしょうか。自分の知らない自分自身。そのすべてを神様はご存じです。その神様の前に立ち、本当の自分を知る。そこから、真の悔い改めが起こってくるのです。


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