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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2020-01-19 06:00:00 (2 ヒット)

 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、/『彼らが見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず、/こうして、立ち帰って赦されることがない』/ようになるためである。」(マルコ4章11、12節)
 このイエス様の言葉を読むと、たとえというのは、分かりやすく、理解しやすくするためのもの、ということではないことが分かります。11節には「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される」とあります。「あなたがた」というのは、イエス様の十二弟子とその弟子たちと一緒にいた人たちのことです。その人たちには神様の国の秘密が打ち明けられている。しかし、外の人々には、すべてがたとえで示される、というのです。これを読むと、たとえというのは何かベールに隠されたもの、包まれたもののように思えます。そして、イザヤ書6章9、10節の言葉が引用されます。
 「聞くには聞くが、理解できず」とあります。イエス様は「よく聞きなさい」(同3節)、「聞く耳のある者は聞きなさい」(同9節)と言われました。ところが、ここでは聞いても理解できない、ということが言われています。先ほど、良い関係を結びたかったら、相手の言葉に耳を傾けること、と言いました。でも、ただ耳を傾ければ良いとか、聞けば良いというものでもありません。聞くことに心が伴わなければ、なかなか理解できません。
 私たちが神様の言葉を理解するのもそうです。神様に対して、心から聞いていく、自分の心を開いて聞いていく。すなわち、神様に対する信頼ということが大事なことです。「聞くには聞くが、理解できず」、神様への信頼がなければ、理解できないのです。「よく聞きなさい」、「聞く耳のある者は聞きなさい」、それはイエス様への、主への信頼を持って聞きなさい、ということです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2020-01-12 06:00:00 (5 ヒット)

 羊飼いたちはイエス様がお生まれになったことを聞きました。でも聞いただけで終わりませんでした。彼らはお互いにこのようなことを話し合っています。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」(ルカ2章15節)。聞いただけでなく、実際にイエス様に会いに行ったのです。
 聞いただけでなく、会いに行った。聖書の言葉というのはそういうものです。聞いただけでは本当には分からない。聖書を読んで、これを信じてみる。これに従ってみる。そうすると、神様のこと、分かってくるのです。
イエス様に会いにベツレヘムに行った羊飼いたちはどうなったでしょうか?「そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた」(同16、17節)。
 イエス様に出会った羊飼いたち。羊飼いたちは、私たちはイエス様に会いました!とその喜びを人々に知らせたのです。イエス様に出会ったら、人々に知らせるのです。私たちのために救い主が来てくださった。本当に嬉しい。ありがたい。イエス様に出会った喜び、嬉しさが溢れ出て、羊飼いたちはイエス様がお生まれになったことを人々にお知らせしたのです。
 羊飼いたちはイエス様に出会い、そして、自分の居場所へと帰って行きました。「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」(同20節)。
 神様をあがめ、賛美しながら帰って行った、とあります。神様をあがめるというのは、神様を礼拝するということです。神様を礼拝する、賛美する。私たちは神様に造られ、愛されている一人一人です。そういう私たちがすることは、羊飼いたちのように、与えられた命を、人生を神様に感謝して、神様を礼拝する、賛美することです。すべての人々のためにおいでになったイエス様をその心に、その人生にお迎えして、イエス様と一緒に人生を歩まれる方がありますように心からお祈りいたします。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2020-01-05 06:00:00 (11 ヒット)

「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」(ルカ2章6、7節)。「飼い葉桶」に生まれた子供、救い主は寝かされていた、ということです。この「飼い葉桶」というところから、イエス様がお生まれになったのは、馬小屋、あるいは家畜小屋であっただろうと言われます。家畜小屋というのは、きれいなところではありません。救い主が、ユダヤ人の王が生まれるのにふさわしいとは思えないところです。しかし、そこで救い主はお生まれになりました。
この「家畜小屋」、「飼い葉桶」とは、私たちのこと、私たちの心、私たちの人生のように思います。そして、私たちの世界、世の中です。そこは罪や悪がはびこっている、支配しているところです。でも私たちはそれとは違って、正しく生きている、罪のない生き方をしている・・・。いいえ、そのように言うことはできないと思います。私たちは良いことや正しいことは知っているかもしれない。でも、そのように生きられないでいる。それが私たちの罪の性質であり、罪の現実です。しかし、そういう世のただ中に、そういう私たちのただ中に、まるでこの家畜小屋のような、飼い葉桶のようなそこに救い主は来てくださったのです。私たちがこの方を受け入れ、この方と共に歩むとき、罪や悪から守られ、神様の願っておられる愛と義に生きる者とされるのです。
飼い葉桶の中にお生まれになった方。小さなものとしてお生まれになった方。そして、小さなものとして生き、歩まれた方。神様の愛を求めて生きよう、神様の義を求めて生きようとしても、私たちは世の中では小さな存在でしかなく、何の力も影響力もない。そう思うかもしれません。しかし、考えてみますと、イエス様がこの世にお生まれになって、おいでになって二千年、イエス様の福音は絶えることなく、ずっと全世界の人々に伝えられ続けています。イエス様に出会って、生きる力をいただいた人たちはどれだけいるでしょうか?私たちの存在や私たちの行なっていることは小さなことかもしれませんが、神様の目には尊い存在であり、神様の目には尊い働きなのです。そのことをおぼえて、私たちは救い主がおいでになったこと、この方を信じて、この方と共に生きることこそが本当の幸いな人生であることを宣べ伝えてまいりましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-12-29 06:00:00 (25 ヒット)

 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。3:35 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」(マタイ3章34、35節)
 イエス様はご自分の周りに座っている人々を見回して、こう言われました。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」。イエス様がここで言われたことは何かというと、神様の家族ということです。イエス様が周りに座っている人たちを見回して、その人たちのことをこの人たちこそ、神様の家族なのだ、と言われたのです。さらにこうも言われました。「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」。神様のみ心を行う人。私はこの言葉を聴くと、襟を正される思いがします。自分は果たして、神様のみ心を行ってきただろうか?神様が示す愛と義に生きてきただろうか?私は神様の家族とは言われないかもしれない・・・。自己診断、自己判断するならば、そう考えてしまうのですが、イエス様の周りにいた人たちすべてにこのように語られたのだと思います。「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」。
 イエス様が語っているのに、居眠りしている人がいたかもしれません。イエス様が語っているのに、ペチャクチャと隣の人とお話ししている人もいたかもしれません。イエス様が語っていることを理解できないでいる人もいたかもしれません。しかし、イエス様はその一人一人のことを私の母、私の兄弟、すなわち、私の家族、神様の家族と言われたのです。
 私たちは自分が神様の家族としてふさわしいか、というと、決してそういうことは言えないと思います。しかし、イエス様がそういう私たちをお招きになり、イエス様が私たちを神様の家族としてくださるのです。私たちは自分の力や頑張りで神様の家族になることはできません。イエス様が私たちを神様の家族としてくださるのです。私たちはそのイエス様の愛と恵みに感謝して、喜んで応えていきたいと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-12-22 06:00:00 (16 ヒット)

「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」(マタイ18章10節)
「小さな者」とはだれのことでしょうか。「小さな者」とは、主が呼び寄せられた子供たちのことです(同3〜5節)。しかし、実は私たちもその一人なのです。主の弟子たちは、主の言葉を聞き、子供が小さな、愚かな者と考えたいたけれども、自分たちもその一人なのだ、ということに気づかされていました。お互いを軽んじないように。この言葉は強く心に突き刺さったと思います。ところで、ここに「彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいる」とありました。これはどういう意味でしょうか?神様は私たちを愛しておられ、私たちに神様の守りを与えてくださっているということが言われているのです。自分の小ささ、愚かさ、弱さを知る者は自分の力で生きていく、生き抜いていくことはできないことを知っています。そして、神様の守り、助けがなければ生きていくことはできないことを知っています、信じています。私たちも神様の御顔を仰いで、神様の守り、助けを求めて、信じて生きるのです。
 12節以下には、迷い出た羊のたとえが記されていました。迷い出た。それは羊飼いである神様のもとから離れてしまった一人ということです。その迷い出た、離れてしまった一人に対する神様の思い、心がここに示されています。「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(同12〜14節)。
 離れてしまった一人をどこまでも探し求める神様のことが示されています。そして、私たちも、自分が九十九匹の羊ではなく、あの迷い出た一匹の羊のような者であることを忘れてはならないのです。神様はそういう私たち一人一人を愛し、喜ばれるお方です。神様が探し求めてくださり、招いてくださり、今の自分があることをおぼえたいと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-12-15 06:00:00 (29 ヒット)

「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」(二テモテ4章2節)
メメント・モリという言葉があります。これはラテン語で、中世の修道士たちの挨拶の言葉であったということです。メメント・モリ、それは「死を覚えよ」、「死を忘れるな」という意味です。私たちにいつ死が訪れるかは分かりません。だから私たちは生かされている今、この一日一日を大切に生きるように、ということです。大切なことを後回しにしないことです。この手紙を書いたときというのは、パウロの晩年であったということですが、パウロはいつもメメント・モリ、死を覚えていた、死を忘れないでいたと思います。だからこそ、日々、最善を尽くして生きていました。そのパウロが語ったこと、それが「御言葉を宣べ伝えなさい」ということでした。み言葉、それは神様の言葉のことです。そして、それはイエス・キリストのことであり、福音のことです。パウロがみ言葉を宣べ伝えるように、と言ったのは、パウロ自身がこのみ言葉、福音に生かされていたからです。福音、それは信じても信じなくても良いようなもの、伝えても伝えなくても良いようなものではありません。本当にこの私は福音に生かされ、支えられている。その確信、喜びからこう言っているのです。パウロはガラテヤの信徒への手紙2章20節でこう言っています。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」
 キリストが私の内に生きておられる。イエス・キリストを信じるということはこういうことです。私がイエス・キリストが救い主だ、神だと理解した、認識した。そこに留まらないのです。キリストが私の内に生きておられる。イエス様がこの私の人生を共に生きておられる、ということです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-12-08 06:00:00 (34 ヒット)

「時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい。いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。」(コロサイ4章5、6節)
 「外部の人」とあるのは、まだ教会に加わっておられない人たち、イエス様に出会っておられない人たちのことです。その人たちに対して、「時をよく用い」というのは、機会を見つけては、イエス様との出会いに導くように努めることが言われています。また「塩で味付けされた快い言葉で語」るように、とありました。塩で味付けされた、と言いますと、料理で言うならば、美味しいということになるでしょう。塩で味付けられた快い言葉。別の箇所ではこのようなことが書かれています。
「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。」(エフェソ4章29節)
 この聖書の言葉と併せて読んでみますと、塩で味付けられた快い言葉というのは、私たち自身が神様の言葉にいつも触れ、生かされ、そこから、出てくる言葉であると思います。私は神様に愛され、生かされている。その喜びを日々、味わっている人は語る言葉が違ってくると思うのです。私も自分が普段、どんな言葉を話しているだろうか、と振り返りますと、批判的な言葉や否定的な言葉を話していることがいかに多いことでしょうか。そして、そのような時、自分自身の心が神様の言葉から、神様の心から離れていないだろうか、と反省させられます。私たちがまず聞くべき言葉、第一にすべき言葉、それは神様の恵みの言葉です。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-12-01 06:00:00 (48 ヒット)

 今年は先週11月24日から本日までの一週間、世界バプテスト祈祷週間として、祈祷週間の初日の朝礼拝を世界バプテスト祈祷週間特別礼拝として、世界宣教をおぼえて女性会を中心にして行い、本日最終日の朝礼拝ではルワンダでお働きをされています佐々木和之IMVをお招きして、宣教していただきます。
 私たち日本バプテスト連盟では、返還前の沖縄に始まり、ブラジル、インドネシア、タイ、シンガポールに次々と宣教師を送り出しました。最近は国際ミッションボランティア(IMV)として、短期間、タイ、カンボジアなどアジア諸国に滞在し、教会や地域の人々に仕える働きに携わる人も起こされるようになり、世界宣教の裾野が広がった感があります。IMVでも、長期にわたる働きとして、ルワンダに「和解の福音」を携えて派遣されている佐々木和之氏がおられます。また、シンガポール国際日本語教会(IJCS)の伊藤世里江牧師、インドネシアの野口日宇満・佳奈宣教師ご夫妻、カンボジアの嶋田和幸・薫宣教師ご夫妻、その他、アジアフィールド伝道、福島移住女性支援、ネパールの女性と子ども支援のために、BWAid(世界バプテスト連盟救援委員会)、国際緊急支援(災害などの緊急支援)の働きのために、これからも福音が全世界に伝えられていくように祈りつつ、献げていきましょう。また国内伝道についても併せてお祈りください。今年度の連盟全体の献金目標額は4500万円、赤塚教会の献金目標額は80万円です。目標達成のプロセスに共に加わりましょう。
 世界宣教とは、全世界、全国に出て行っての働きであり、それは私たちの家族、友人など、身近なところでも福音を伝えることです。主の宣教命令を受けて、神様の愛に押し出されて、全世界に目を向けながら、この働きに共に励みましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-11-24 06:00:00 (45 ヒット)

 主は十二人の弟子たちを使徒として任命されました。「任命された」(14節)は元の言葉では「造られた」という意味の言葉です。主はご自分の弟子たちを使徒として造りかえてくださるのです。「彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるため」(マルコ13章14、15節)とありました。イエス様はご自分がお選びになった使徒たちをご自分のそばに置かれました。いつも一緒に歩まれました。イエス様が語られる言葉、イエス様が行われること、それらを彼らはすぐそばで聴き、見て、学びました。そして今、イエス様を信じて救いに入れられた私たちもキリストの使徒として、キリストの使いとして、この世のただ中でイエス様に従うことをイエス様から求められています。私たちも日々、イエス様の言葉を聴き、その歩みを知り、学ぶのです。イエス様の生き方に倣うのです。
 主は私たちを世に遣わされます。使徒たちに宣教させ、悪霊を追い出す権威を持たせた、とありました。宣教、悪霊を追い出す、それはイエス様の福音を宣べ伝えることです。人々が様々な世の罪、悪から解放されるように努めることです。人々がイエス様と出会い、新しい人生を始めることができるように祈りつつ、励みましょう。何か大きなことをするように、というのではありません。小さなことから、身近なところから、始めていくのです。私たち自身は小さな者、弱さをおぼえる者ですが、そういう私たちと主が一緒に歩んでおられること、聖霊の助けがあることを信じて励んでまいりましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-11-17 06:00:00 (53 ヒット)

 信仰生活とは信仰と生活という言葉の通り、観念的なものではありません。それは私たちの実際の生活の中で表されるものです。牧師(私)は礼拝が終わると、何とか聖書の言葉を語りきった。けれども福音を十分にお伝えできただろうか?いろいろな思いを持って、礼拝を終え、今日からの新しい週を歩みます。大事なのはその日々の生活です。聖書の言葉は知っているけれど、聖書の言葉に果たして生きているだろうか?神様の愛を信じていると言いながら、その神様の愛に生きているだろうか?そういう自分にいやというほど、気づかされていきます。本当はそういうことは考えたくないし、見ないようにしたい。その方が楽に生きていけると思う。でも、忘れてしまおうとしても、隠してしまおうとしても、心に痛みをおぼえる。それがイエス様が私たちに与えてくださった信仰です。信仰は私たちの心の目を開かせ、大切なことを見ること、知ることができるようになるのです。
 そして、私たちは悔い改めへと導かれます。悔い改めとは、自分の罪(神様のみ心でないこと、神様の喜ばれないこと)に気づき、生き方を改めることです。そうは言っても、自分自身の力で自分を改めることはできません。自分を新しくすることはできません。そういう私たちのために、私たちを罪から救うために十字架にかかってくださり、私たちが新しく生きるために復活され、今、一緒に歩んでくださっているイエス様。「あなたは何を持ってイエスを主と信じていると言えるのか!」もしそのように問われたなら、「私には何もありません。でも私を愛してくださるイエス様によって生かされているのです。その恵みに少しでも感謝して応えていきたいと願いながら歩んでいます」(ガラテヤ2章20節参照)。私たちが言えることはこのことだけです。私たちの主、私たちの神様、この方に自分を委ねて、歩んでいきたいと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-11-10 06:00:00 (53 ヒット)

そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。(マルコ3章9、10節)
 イエス様が弟子たちにお願いしたこと、それは小舟を用意するように、ということでした。なぜかというと、群衆に押しつぶされないためだった、というのです。10節にもイエス様のもとに集まってきた病にある人たちを癒やされたことで、次から次へと、病に悩む人たちがイエス様に触れようとして、そばに押し寄せた、ということが記されています。
 イエス様は人々の求めに応えられ、癒やされましたが、それがあまりにも多く、イエス様ご自身が押しつぶされそうになった、というのです。私たちはもしかすると、イエス様という方をスーパーマンのような方と考えているかもしれません。どんなにたくさんの人たちが押し寄せてきても、次々と癒やしたり、助けたりするような方と考えているかもしれません。しかし、ここにはイエス様が群衆に押しつぶされないように、弟子たちに小舟を用意させた、ということが書いてあります。神の子、救い主、そういう方でも、押しつぶされそうになる、ということが書いてあるのです。このようなイエス様の様子を知って、私たちはどう思うでしょうか?がっかりするでしょうか?イエス様は神の子、救い主ですから、罪は犯さなかったでしょう。しかし、私たちと同じように、人間としての弱さは体験されたのではないでしょうか(ヘブライ4章15節参照)。イエス様もお一人ではできない。イエス様は弟子たちに小舟を用意してほしい、とお願いしています。つまり、弟子たちに助けを求めたのです。
 イエス様は弟子たちの協力を求めました。教会はイエス様が私たちに一緒に神様の働きを行いたい。一緒にこのために協力してほしい。その呼びかけに応えて励むところではないでしょうか?使徒パウロはこう言っています。「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」(二コリント6章1節)。神様の協力者と言っています。私たちは神様の協力者なのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-11-03 06:00:00 (78 ヒット)

 信仰とは何でしょうか。それは自分の信じる力、信じる行いということではありません。聖書が教える信仰は信頼、神様に対する信頼です。律法学者とファリサイ派の人々がイエス様にしるしを見せてくれるように願いました(マタイ12章38節)。それに対して、イエス様はヨナのしるしの他にはしるしは与えられないと言われました(同39節)。ヨナのしるしとはイエス様の救いのみわざのことです。私たちがしるしを求めるとき、神様はいるかいないか、そのしるし、証拠を求めています。例えば、だれかが自分に親切にしてくれた。ああ、自分にとって良いことがあったから、神様がいると認めよう。これこそは神様がいることのしるしだ。でも、自分にとって悪いことがあったら、それは神様なんていないことのしるしだ。しるしを求める信仰とはそういうものです。けれども、イエス様は言われました。あなたたちに与えられた神様からの唯一のしるし、それは主の十字架の愛なのだ、イエス様ご自身なのだと。
 イエス様が示された信仰とは、神様を信頼することです。私たちを愛し、十字架の救いのみわざをなさった神様の愛を信じることです。人生にはいろいろなことが起こってくる。けれども、あなたの心に、あなたの人生にあなたを愛しておられるイエス様がおられる。だから、あなたは守られる、大丈夫。そのことを信じる、信頼することです。
 43節からのイエス様の言葉、それは心を空き家にしてはいけない、空っぽにしてはいけない。あなたの心に、あなたの人生にイエス様をお迎えしましょう、というメッセージです。汚れた霊とは私たちに生きる希望を失わせるもの、生きる喜びを失わせるものです。自分がどんなに正しく、立派に生きようとしても、私たちを変わることなく、愛し、支えておられる方を見失っているならば、すぐに汚れた霊に心を奪われてしまいます。イエス様をお迎えし、イエス様を信頼して日々歩んでまいりましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-10-27 06:00:00 (47 ヒット)

「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」(マタイ12章33〜37節)
心にあることが口から出てくるとあります。政治家の失言ということがよくニュースになります。失言した政治家は「心にもないことを言ってしまい、申し訳ありません」と謝罪をします。しかし、心にないことを口に出して言うことはありません。心にあることを人は口に出すのです。失言というのもおかしいと思います。言った言葉、それがその人の考え、人格を表すのであって、失言というよりはその人の本音と言ったほうが良いでしょう。
35節に「善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる」とありました。私たちの倉、すなわち、心は何を入れているでしょうか?心に入れているものから外に出てきます。教会で毎日、聖書を読みましょう、祈りましょう、と言われることがありますが、これは良いものを私たちの心に入れるということです。
主の言葉を心に蓄える。主の言葉、主のお考えが私たちの心を支配するように。これが主が私たちに求めておられることです。詩編119編11節にこのような言葉があります。
「わたしは仰せを心に納めています/あなたに対して過ちを犯すことのないように。」
口語訳聖書ではこのようになっています。
「わたしはあなたにむかって/罪を犯すことのないように、心のうちにみ言葉をたくわえました。」
神様の言葉を心に蓄えましょう。そして、神様のみ心が私たちを支配しますように。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-10-20 06:00:00 (73 ヒット)

 マルコによる福音書3章5節には、イエス様の問い(「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」・4節)に沈黙する人たちに向かってのイエス様の態度、様子が記されています。
「そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。」(5節)
 真ん中に立たされた片手の萎えた人のことを考えてみましょう。この人は安息日に会堂に来て、神様を礼拝していたことでしょう。この人は神様に対して、自分の萎えた手が癒やされたいと願いを持っていたのではないでしょうか。神様にそのことを祈っていたのではないでしょうか。イエス様は人の心を見られる、知られる方です。その人の心にある願いを知り、癒やされようとしたのではないでしょうか。ところが、人々はこの人は片手が萎えて不自由だけれども、命に関わるほどのことではない。それなのにあのイエスという人はこの人を癒やそうとしている。それは安息日を破ることだ。人々にとっては、この人が抱えている心の苦しみ、痛み、それよりも安息日にするかしないか。そちらに関心が向けられていました。それがかたくなな心ということです。人の苦しみ、痛みを知ろうともしない、無関心、それが、かたくなな心ということです。イエス様は人々のかたくなな心を悲しみながら、そこで片手の萎えた人に言われます。「手を伸ばしなさい」。主が言われたこの言葉を聞いて、手を伸ばしてみたところ、その手は元通りになった、回復したというのです。
 主は人々の前で片手の萎えた人を癒やされました。片手の萎えた人とは私たちの周りにいる苦しみにある人、痛みにある人のことです。安息日、主の日は神様に愛されているお互いが神様の恵みにあるように覚えるとき、祈るときです。そして、神様を礼拝するときです。安息日に善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。主は善を行われ、命を救われました。安息日、主の日に礼拝するとは善を行われた方、命を救われた方を覚えるときです。私たちは主の日に教会に集まり、主の愛のわざを覚え、この主の日から、教会から世に派遣されて、善を行うこと、命を救うことに励んでいくのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-10-13 06:00:00 (59 ヒット)

 主は「安息日は、人のために定められた」(マルコ2章27節)と言われました。このことに関連して、旧約聖書の十戒の安息日について書いてある箇所があります。出エジプト記20章8〜10節と申命記5章12〜15節です。出エジプト記では「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(出エジプト20章11節)。とあり、申命記では「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである」(申命記5章15節)とあります。出エジプト記には神様の創造のみわざを思い起こして感謝すること、申命記にはイスラエルの民がエジプトから救い出されたこと、これは私たちにとっては罪から救い出されたことを思い起こして感謝するということになるでしょう。安息日、そして、私たちにとっての主の日の礼拝、それは神様の恵みを思い起こす日、時なのです。
 私たちの教会の今年度の年度聖句は詩編103編2節です。「わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない」。新改訳聖書も分かりやすく訳されています。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」。主の日、それは神様が私たちになさった恵みを感謝する日です。神様の恵みを思い起こしましょう。神様は私たちを愛しておられる、私たちをかけがえのない存在としておられる。そのことを思い起こしていくとき、私は今日も生きていくことができる、やっていける。主が私と共におられるから、主が私を愛しておられるから大丈夫。礼拝は、教会生活は、人を生かすためにある、私たちに生きる力を与えるものなのです。


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