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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-02-12 06:00:00 (71 ヒット)

「キリストを見たことがないのに愛し・・・」(8節)。ペトロの手紙について、伝統的な理解では、この書はイエス様の弟子の一人、イエス様に直接会った弟子ペトロの書いたものと言われています。そのペトロがこのようなことを記しています。ペトロはキリストを見た人でした。そのペトロが、「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」と記しているのです。
 イエス様はこう言われました。「見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20章29節)。見ないで信じる信仰。私の想像ですが、ペトロは見ないのに、イエス様を愛している。見ないのに、イエス様を信じている。そういう人たちのことをうらやましがっていたのではないかと思うのです。見ないのに、イエス様を愛し、信じることができるあなたがた!それは本当に素晴らしいこと、恵みなのだよ。あなたがたに神様が信仰を与えてくださった。見ないで信じる信仰を与えてくださった。何とうらやましいことか、素晴らしいことか!私はイエス様を見たのに、イエス様と一緒に歩んだのに、イエス様を裏切ってしまったし、イエス様が信じられなくなった時もあった・・・。信仰は自分の力でどうこうというものではないね。神様が与えてくださるものだね。何かそういう会話でもしていそうな気がします。そして、この「あなたがた」、キリストを見ないで愛するあなたがた、キリストを見ないで信じるあなたがた、というのは、今を生きる私たちにも向けられた言葉のように思えます。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-02-05 06:00:00 (74 ヒット)

私たちの教会では毎年2月をスチュワードシップ強調月間として、毎週、朝礼拝の中で奉仕、教会学校、伝道、献金の証しを聞き、教会学校でも、スチュワードシップについて学ぶ時を持ちます。ところでスチュワードシップとは何でしょうか。それは、「神様の恵みに対して応答する信仰」ということです。そういうことで言うならば、2月に限らず、毎月がスチュワードシップ月間です。私たちの教会ではこの月、自分たちがスチュワードシップの信仰を歩んでいるか、自分自身の信仰をかえりみて、新たな決心をするのです。私たちは神様からすべてのものを与えられています。そのことをおぼえて、神様への感謝の応答をしていくのです。
「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」(ローマ12章1節)。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」(一コリント6章20節)。「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」(一ペトロ4章10節)。これらのみ言葉から、私たちを罪から救い出してくださった主の十字架の愛、神様から与えられた様々な恵みを共におぼえ、分かち合い、自分にはどのような賜物を授かっているのか、使命があるのか、など互いに話し合ってみるのもよいでしょう。スチュワードシップの信仰、神様の恵みに応答する歩みをこれからも歩んでまいりましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-01-29 06:00:00 (74 ヒット)

アブラム(後のアブラハム)は神様からの語りかけを受け、生まれ故郷、父の家を離れて旅立ちます(1、4節)。神様の言葉を頼りに決断した姿はまさに「信仰の父」と言われる人物だと思えます。ところが、旅立って間もなく、滞在地が飢饉に遭い、エジプトへ下ります。そこでアブラムは自分たちの生活の潤うことのため、また自分の保身のため、妻サライを自分の妹であると偽る過ちを犯します。サライはファラオの妻として召し入れられようとするその時、ファラオと宮廷の人々の間に恐ろしい病が起こり、そのことを通して、ファラオは真実を知り、アブラムと妻サライ、そして、すべての持ち物をエジプトから追い出します。アブラムとサライ、彼らは後に多くの国民の父、また多くの国民の母となる人たちでした。神様はご自分のために、ご自分の救いのご計画のために彼らが罪に陥って、信仰の旅路を中断してしまうようなことがないように、彼らの罪を示し、立ち直らせて、再び歩みを始めさせたのでした。そして、今、私たちも救いのご計画の中にある一人一人です。神様は私たちのこともアブラムやサライのように、救いのご計画を担わされた大切な一人一人として扱っておられます。そういう私たちですが、神様から離れ、自分勝手に歩もうとしてしまう時、神様の厳しい語りかけや戒めがあるかもしれません。しかし、それは神様が私たちを信仰の旅路に歩ませるための訓練であることをおぼえたいと思います。私たちの歩みの一つ一つを神様の言葉に尋ねながら、祈りつつ、聴きながら、共にこの信仰の旅路を歩んでまいりましょう。アブラムは「信仰の父」と言われる人物ですが、決して完全無欠な人でなかったことを知ります。ただ神様の恵み、赦しを受けて生きた人、そのことゆえに「信仰の父」と言えると思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-01-22 06:00:00 (80 ヒット)

イエス様は「わたしはだれをも裁かない」(15節)と言われました。しかし、もし裁くとすれば、裁くのは私一人でなく、父なる神様が共におられ、神様が裁く、と言われたのです。神様の裁きと人間の裁きの違いは何でしょうか?人間の裁き、それは相手の罪、悪、あるいは弱さや欠点を裁きます。そして、相手を自分の中から葬り去ってしまおうとする。それが人間の裁きです。これが自分自身にも向けられることがあります。何かで失敗した時、挫折した時、ああ、何と自分はダメなのだろうか、と嘆きます。そして、自棄(やけ)を起こす、自分を棄てる、自分で自分自身を葬り去ってしまおうとする。肉に従って裁くとはそういうことです。
 肉に従って裁いてしまう私たちですが、イエス様は「わたしはだれをも裁かない」と言われました。これは、私はあなたがたのようには裁かない、ということです。そして、あなたがたには、別の方法、神様の裁きによって裁く、というのです。それはどんな裁きでしょうか?イエス様はご自分のことを「世の光」(12節)と言われました。この世を、私たちを照らすのです。すると、闇の中のことが、隠されていたことが、心の中のことが明らかにされます。私たちの罪が示される。そして、イエス様は私たちに罪があることを教え、罪を告白するように導き、罪から私たちを救い出してくださったのです。イエス様が私たちの罪のすべてを受け止めて、身代わりとなって救い出してくださったのです。これが、イエス様が十字架におかかりになった意味です。神様の裁き、それは私たちを罪から救うためです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-01-15 06:00:00 (80 ヒット)

「神は御自分の民を退けられたのであろうか」(1節)。これについて、「決してそうではない。わたしもイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です」と続きます。「決してそうではない」というのは、神様はご自分の民であるイスラエルを退けてはおられない、ということです。さらに「わたしもイスラエル人で・・・」と書いていますように、パウロ自身がイスラエル人であり、同じイスラエルの民が神様に退けられるようなことはあってはならない、と強く願っていました。しかし、「決してそうではない」というのは、パウロ自身がそうあって欲しくない、という願望をただ言っているだけではありません。神様はイスラエルの民を退けてはいない!その確かな証拠を神様からいただいている。だから、確信をもってこのように言うことができたのです。
 それでは、その確かな証拠とは何でしょうか?2節に「神は、前もって知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした。それとも、エリヤについて聖書に何と書いてあるか、あなたがたは知らないのですか」とあります。聖書に書いている。それが、イスラエルが神様に退けられていない証拠だというのです。
 聖書に書いてあるから。私はこの言葉を聞く時、一つの賛美歌を思い起こします。新生讃美歌523番です。この賛美歌の歌詞ですが、元々の歌詞では歌詞の内容が少し違っています。「主われを愛す 主は強ければ」、これが「イエス様が私を愛していることを知っている なぜなら聖書がそのように教えているから」となっているのです。
聖書が教えている。私たちは聖書から、神様が私たちを愛していることを知るのです。この聖書はイエス様が私を愛していることを教えている書物なのです。新しい年の初めです。皆さんはどのような一年の計をお持ちでしょうか?聖書を一日一章ずつでも読んでみよう。1ページずつでも読んでみよう。そういう計画、目標を立ててみたらいかがでしょうか?聖書から、私たちに向けられた神様の愛を日々、聴いていただきたいと願っています。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-01-08 06:00:00 (83 ヒット)

ルカ2章には、シメオンの記事と共に、ここにはアンナという人のことも書かれています。若い時に夫を亡くした女性でした。この人の生涯について、こう書かれていました。「彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した」(37、38節)。神殿を離れない。それは教会を離れない、神様から離れない。そういう意味で理解して良いと思います。彼女の生涯は神殿を離れない。神様に礼拝する生涯であり、神様に祈る生涯であり、神様に仕える生涯であったことが分かります。そして、この女性がイエス様に会った時、彼女は「近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した」。シメオンは救い主を抱きました。アンナは救い主に近づき、神様を賛美し、そして、人々に救い主のことを話した。救いは今、ここに来た!と話したのです。救いを待ち望んでいた人たちのところに今から二千年前に神様が救いを、救い主を送ってくださいました。私たちは救い主がおいでになったことを先週、喜び、お祝いしました。そして、これからもアンナのように救い主イエス・キリストのことを話し続けていきましょう。神様を礼拝し、神様に祈り、神様に仕え、神様のお送りくださった救い主を伝える。これこそが救いを待ち望む生き方です。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-01-01 06:00:00 (69 ヒット)

「ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」(マタイ2章12節)。
 ユダヤ人の王として生まれた方、救い主イエス・キリストに会いに東の方から占星術の学者たちがエルサレムにやって来ました。彼らはユダヤの人たちからすると、異邦人、異教徒でした。そういう人たちが星に導かれて、救い主に会いに来たのでした。神様は様々な方法を用いて、人を救いへと導かれるのです。学者たちは救い主に会うことができました。その時、彼らはその方を礼拝したのです(同11節)。この方こそ、真の神様と信じたのです。そして、帰り道、ヘロデのところへは行きませんでした。彼らは「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」のでした。別の道を通った。それは今まで通った道、自分を王、自分を主としてきた道から、イエスを王、イエスを主として生きる道を歩み出したということです。道ということで言えば、イエス様のこのような言葉があります。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14章6節)。イエス様はご自分が道であると言われます。私は道である。それはイエス様が私たちと一緒に歩いてくださるということです。そして、このイエス様という道こそは父のもとに、神様のもとに行くことができる道だというのです。新しい年が始まりました。この年もイエス様という道を共に歩んでまいりましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-12-25 06:00:00 (85 ヒット)

「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた」(マタイ1章24、25節)。
 ここに「ヨセフは眠りから覚めると」とあります。この「覚める」という言葉は「起き上がる」という意味です。眠りから起き上がった。それは、眠っていたのが目が覚めて起きた、という肉体的な意味に留まりません。起き上がった。それは、ヨセフは決心した、ということです。その決心がこの後に記されていることです。「主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ」。主に天使が命じたこと、それを神様の言葉であると信じ受け入れたのです。それが妻マリアを迎え入れた、ということです。神様が私に与えてくださった妻、神様が私に与えてくださった子供、ヨセフはマリアを、そして、聖霊によって宿した子供を引き受けた、ということです。
 ヨセフは主の天使の告げ知らせた神様の言葉を受け入れ、妻を迎え入れました。妻マリアの人生を引き受けた、一緒に担った、ということです。そして、聖霊によって身ごもった、ということ。つまり、聖霊、神様の力、神様のみわざとしての出来事であることを信じた、ということです。名付けた名前はイエス、それは「自分の民を罪から救う」(21節)という意味です。さらに預言の言葉にはインマヌエル、それは「神は我々と共におられる」(23節)という意味です。ヨセフの深い悩みは、恐れは取り去られました。神様の言葉に自分の人生のいっさいをお任せしたからです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-12-18 06:00:00 (70 ヒット)

創世記12章2節に「祝福の源」とありました。3節には「地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」とありました。この両方の言葉を合わせて読んで分かることはアブラムに与えられた使命ということです。それは何かというと、人々に祝福をもたらすという使命です。アブラムの旅は大きな決断を強いられるものでしたが、そればかりか、アブラムに神様は大切な使命を与えられたのです。あなたが祝福の源、基(口語訳)となる。なぜなら、地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入るのだから、というのです。
 岩波訳では3節の言葉が「大地のあらゆる種族はあなた[の名]によって祝福し合うであろう」となっていました。祝福し合う、というのです。神様の祝福を互いに分かち合う。そういう意味で理解できます。そして、このアブラムの使命というのは、私たちの使命でもあると思うのです。私たちも神様の然りを受けた、良しとされた一人一人です。そのことを人々にお伝えする。神様からの然り、神様からの良し、それを私たちはこのような言葉で言い表します。あなたは神様から愛されている。そして、神様が私たちにご自身の愛を表された究極的な愛、それはイエス・キリストを私たちのところに送ってくださった。イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかり死んでくださった、ということです。このことを伝えるのが私たちの使命です。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-12-11 06:00:00 (93 ヒット)

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」。このイエス様の言葉は印象的です。この「もう罪を犯してはならない」について、ある牧師先生は「もう罪を犯すことはできなくなった」、そういう意味が込められた言葉なのだ、と語っておられます。もちろん、私たちはイエス様の赦しをいただいた後も罪を犯してしまう者です。しかし、もう罪を犯すことはできなくなった。この言葉は私たちのこれからの歩みにおいて現実のものとなっていくのです。なぜなら、「行きなさい」というのは自分一人で行くということではないからです。これからはイエス様が一緒なのです。イエス様と一緒にこれからの人生の旅路を歩むことができるのです。この方は私たちを罪から守ってくださいます。そして、忘れてはならないこと、それは「わたしもあなたを罪に定めない」、この罪の赦しの宣言の背後にあるものをいつも、いえ、いつまでもおぼえていくのです。この罪の赦し、私はあなたを赦します!それは言葉だけのことではありません。イエス様は身をもって私たちを罪から救い、赦してくださったのです。御自分の命をささげることによって、十字架の出来事をもって私たちを罪から救い、赦してくださったのです。主イエス・キリストの救い、私たちのためにイエス様がなさった救いのみわざを心に刻み込んでいきたいと思います。このことによって、今、私たちは日々新たに生きることができるようになったことをおぼえたいと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-12-04 06:00:00 (83 ヒット)

「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」(15節)。良い知らせを伝える者の足、それは何と美しいことか、とあります。新改訳聖書を見ますと、「なんとりっぱでしょう」とありました。「美しい」と「立派」では随分違うように思います。原語を見てみますと、ギリシャ語では、「良い」という言葉で訳される言葉が使われていました。他の箇所などでどんなふうに訳されているか調べてみましたら、ナルドの香油の話が記されている箇所では「わたしに良いことをしてくれたのだ」(マルコ14章6節)とあり、マルコによる福音書10章17節では「善い先生」。新改訳聖書では「尊い先生」と訳されていました。このような箇所を合わせて考えていきますと、この「美しい」ということは外見的なもの、姿、形の美しさというよりも内面的な意味で考えたら良いかと思います。何と善いことか、何と尊いことか・・・。そして、これはある有名な伝道者のことだとか、宣教師のこと、牧師のことだけに限らないのです。ここで言われていることは、すべてのイエス・キリストを伝える人のことなのです。ですから、これは私たち一人一人のことです。私たちのことを聖書はこう言っているのです。良い知らせを伝える人の足は何と美しいことか!何と善いことか!何と尊いことか!私たちのことを聖書がこのように言っていることを喜びたいと思います。そして、感謝して励んでいきたいと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-11-27 06:00:00 (117 ヒット)

本日からの一週間は世界バプテスト祈祷週間です。当教会では祈祷週間の初日、今朝の礼拝を世界バプテスト祈祷週間特別礼拝として、世界宣教をおぼえて女性会を中心にして行います。
私たち日本バプテスト連盟では、返還前の沖縄に始まり、ブラジル、インドネシア、タイ、シンガポールに次々と宣教師を送り出しました。最近は国際ミッションボランティア(IMV)として、短期間、タイ、カンボジアなどアジア諸国に滞在し、教会や地域の人々に仕える働きに携わる人も起こされるようになり、世界宣教の裾野が広がった感があります。IMVでも、長期にわたる働きとして、ルワンダに「和解の福音」を携えて派遣されている佐々木和之氏がおられます。また、シンガポール国際日本語教会(IJCS)の伊藤世里江牧師、インドネシアの野口日宇満・佳奈宣教師ご夫妻、カンボジアの嶋田和幸・薫宣教師ご夫妻、その他、インド「プリ子供の家」、ネパールの女性と子ども支援のために、BWAid(世界バプテスト連盟救援委員会)の働きのために、これからも福音が全世界に伝えられていくように祈りつつ、献げていきましょう。
国内伝道については、全国支援地域協働プロジェクトが実施されている北九州宣教センターの働きのために、さらに次のプロジェクトが起こされますようにお祈りください。今年度の連盟全体の献金目標額は4900万円、赤塚教会の献金目標額は80万円です。目標達成のプロセスに共に加わりましょう。
世界宣教とは、全世界、全国に出て行っての働きであり、それは私たちの家族、友人など、身近なところでも福音を伝えることです。主の宣教命令を受けて、神様の愛に押し出されて、全世界に目を向けながら、この働きに共に励みましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-11-13 06:00:00 (112 ヒット)

ある方は言いました。私たちは悔い改めということを言うけれども、それは自分が気づいている罪を悔い改めているだけだ。自分が気づいていない罪があることも知らなければならない。自分は、自分のすべての罪を悔い改めている気になっている。しかし、そうではない。本当に気づかなければならないことも気づいていない、と言うのです。
コリントの信徒への手紙一8章2、3節に「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです」とあります。「知らねばならぬことをまだ知らない」。これは無知の知ということです。一般的な知識、知恵というだけではありません。自分が何者であるのか、自分の罪を知らない、そういう自分であることを知る。そして、そこから、私たちの信仰は始まるのです。3節には「しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られている」とあります。神様のことも私たちはまだよく知らない、分かっていない。だからこそ、聖書を読み続けるのです。そういう私たちですが、「その人は神に知られている」。私たちも、神様に知られている者だということです。私という存在が知られている、覚えられている。そればかりか、罪深い、弱さを抱えたこの私が神様に愛されているということです。神様に愛されている、神様の憐れみに生かされている。このことを感謝して歩みたいと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-11-06 06:00:00 (119 ヒット)

「初めに、神は天地を創造された」(創世記1章1節)。この言葉から聖書は、そして、創世記は始まります。神様がすべてのものを造られた。神様はすべてのものの創造者であることがここに示されています。そして、2節には「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」とあります。何もない、秩序も何もない、そういう状態が表わされています。これに続いて、「闇が深淵の面にあり」とあります。そして、「神の霊が水の面を動いていた」とあります。混沌、闇、そのような地にあって、神の霊が水の面を動いていたことが記されています。何もなかった時、しかし、そこにすでに神の霊が動いていた、とあるように、神様は生きて働いておられたことが示されています。そして、いよいよ神様の創造のわざが始まります。
「神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である」(3〜5節)。聖書が示す神様の第一声、神様が語られた最初の言葉、それは「光あれ」ということでした。混沌とした、闇の中に神様は光を創造されました。その光を神様は見られ、それを良しとされた、ということです。良しとされた、というのは神様のみ心にかなった、ということです。4節の後半には神様が光と闇を分けられたことも記されています。混沌としていた、つまり、無秩序な状態であったところから、神様は光と闇を分けられた、区別されたことによって、秩序を与えられたということです。そして、5節にありますように、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれました。これは口語訳では「光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた」となっています。名付けるということ、それは神様に名付けられたものは神様が支配する権威を持っておられるということです。支配され、それぞれに役割を与えられるのです。光と闇、それぞれに昼としての役割、夜としての役割を与えられたのです。光と闇を区別されたことによって、それが交互に来るようにされました。それで5節の後半には「夕べがあり、朝があった」とあります。ゼカリヤ書14章7節に「夕べになっても光がある」という言葉があります。それは私たちの人生には夕べのような時が来る。しかし、神様の光は変わることなく、私たちに注がれているのです。「光あれ」と語られた神様は私たちをご自身の光で包んでいてくださる。私たちはそのことを喜びたいと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-10-30 06:00:00 (112 ヒット)

ある朝、一つの黙想書を読んだ時、このようなことが書かれていました。私たちの信仰生活というのは、自分の愛する人を神様とそのみ言葉に委ねることの日々練習なのだというのです。そればかりか、自分自身を神様とそのみ言葉に委ねることの練習だともいうのです。そして、神様とそのみ言葉に委ねる時、上からの平安、神様からの平安をいただくのだ、というのです。
 練習という言葉を読んで、最初は違和感を持ちましたが、その言葉を繰り返し読んでいく中で確かに練習だと思いました。あるいは訓練と言っても良いかもしれません。なぜなら、私たちは生まれてこれまで、神様とそのみ言葉に委ねるということをしないで生きてきたからです。神様とそのみ言葉に委ねることをしないというのはどういうことかと言いますと、自分自身の力だけを頼りに生きるということです。でも本当のことを言えば、私たちは、自分は自分の力だけを頼りに生きていくのだ、生きているのだ、と思っていても、実は様々な人たちの助け、支えによって生きている、これまでも生きてきたのです。そして、何よりも忘れてはならないことは神様の助け、支えによって生きてきた、いや、生かされてきた。そのことを自覚する、そのことに気づいていく。それはとても大切なことです。
「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです」(使徒言行録20章32節)。
 これはパウロがエフェソの教会の長老たちと別れる時に語った言葉です。そして、今、私たちにも語られている言葉として聴きたいと思います。神様とその恵みの言葉に自分を委ねていく、神様とその恵みの言葉に自分の愛する人たちを委ねていくのです。


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