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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-08-06 06:00:00 (59 ヒット)

「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」(8、9節)。ここに「主のために」とありました。このことを考えていくうえで大事なことが「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」ということです。キリストが、イエス・キリストが死なれた、生きられた。それはだれのためだったか、ということです。
それは私たちすべての者のためだった、ということです。私たちが罪と死の滅びから救われるために、主は十字架にかかられた、ご自分の命をささげられた、ということです。そのこと抜きに「主のために」ということを理解することはできないのです。まず、イエス様がこの私のために死んでくださった。その主の愛に応えて生きる。それが「主のために」生きるということなのです。食べものや特定の日のこと、それだけのことではありません。私たちの生活のすべてにおいて、私のために十字架にかかり、私を罪と死の滅びから救ってくださった主のために生きるのです。主の愛に応えて生きる、主の恵みに応えて生きるのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-07-30 06:00:00 (47 ヒット)

目が見えなかった人。彼はイエス様によって目が見えるようになりました。けれども、まわりは自分のことをああだ、こうだ、と言う。何としんどいことか。しかし、そういう自分の一挙手一投足をすべて聞いておられる、見ておられる方がいる。そして、その方が私に出会ってくださっている。私を見つけ出してくださっている。
その方、すなわち、イエス様は彼にこう言われました。「あなたは人の子を信じるか」(35節)。イエス様からの信仰の招きです。あなたは人の子、救い主を信じますか?という信仰の招きがここに与えられました。そして、この招き、呼びかけと言うのは、この人だけではありません。皆さん一人一人にも与えられていることです。イエス様ご自身が、あなたは人の子を信じますか?救い主を信じますか?皆さんの心に語りかけておられます。あるいは皆さんの家族にも、友人にも語りかけておられるのです。イエス様はすべての人がご自分のことを信じてほしい、信頼してほしい。そう願っておられるのです。皆さんは自分の家族にイエス様を伝えたい、友人にイエス様を伝えたい、と願い、祈っておられることと思いますが、イエス様ご自身が、あなたは人の子を信じますか?そういう招き、呼びかけを一人一人に与えておられることをおぼえて、それに応える日が来ることを待ち望んで祈り、伝え続けましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-07-23 06:00:00 (65 ヒット)

聖書の教えの中心は、神様を愛すること、そして、隣人、他人を愛することです。それは言葉では簡単なように思えますが、実際には、難しいものです。しかし、愛そう、愛していこう、その動機づけというものがあります。それは自分が愛されている、ということを知ることです。自分が愛されていることを知ったら、それは嬉しいことですから、愛されている私も愛そう、愛していこう。そういう思いに導かれていくのです。皆さん、神様を愛しましょう!隣人を愛しましょう!そう言われても、それができないことを知らされるばかりです。何て、自分は愛がないのだ。そういうことばかりに気づかされます。でもあなたは愛されている!このことを知ったら、生き方が変わるのです。
 神様に愛されている私、神様に大切な者とされている私。毎週、教会へ通う。日々の聖書の言葉に聴き、祈る。そのことについて、ある方は、身づくろいをし直しに来ているのだ、と言われます。世のただ中に生きている私たち。疲れをおぼえます。いろいろな問題、課題を抱えます。不安、心配があります。愛とは真逆のことを見たり聞いたりします。そういう私たちが神様の前に出る。そして、神様は私たちを変わることなく、愛しておられることを知る。まさに心の身づくろいです。
 12節にはこういう言葉がありました。「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」。14節にはこういう言葉がありました。「主イエス・キリストを身にまといなさい」。身に着ける、身にまとう。愛の負債だらけの私たちです。でも、そういう私たちに光の武具を身に着けよ!イエス・キリストを身にまとえ!と言われる。私たちがまずすること、それは受けるということです。何を受けるのでしょうか?イエス様の愛を受け入れることです。そして、実はそこからしか、信仰は始まらないのです。愛するとか、赦すとか、それはイエス様の愛を受けて始まることなのです。自分が愛されていることを知る。自分が赦されていること知る。そこからすべてが始まるのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-07-16 06:00:00 (67 ヒット)

「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです」(一ペトロ2章1、2節)。
幼子は乳を飲み、栄養を摂って、成長していきます。それと同じように、私たちも霊の乳を飲むのです。この霊の乳とは何かと言いますと、神様の言葉です。神様の言葉を日々いただいて成長していくのです。
私たちはイエス様を救い主と信じてバプテスマを受けました。クリスチャンとしての生き方が始まりました。でも、最初のうちは、霊的には、信仰の上ではまだ幼子、子供です。ペトロの手紙には「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って」とありましたが、これはイエス様を信じる前の古い価値観、考え方、また罪の支配(罪というのは自己中心ということです)に生きていた状態を示しています。私たちはイエス様を信じて、従って生きるからには、それらは捨てなければならない。そして、新しい価値観、新しい考え方に変えられることを求めていくのです。
新しい価値観、考え方というのは、神様の価値観、お考えということです。罪に支配されていた生き方から、神様に支配された生き方に変えられていく。神様の価値観、お考え、それは神様の言葉を読まなければ、聴かなければ分かりません。だから、霊の乳である神様の言葉を日々、心に受け入れていく。フィリピの信徒への手紙2章5節(文語訳)には「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」とあります。イエス・キリストの心を心とする。これが霊的な大人、信仰の上での大人ということです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-07-09 06:00:00 (83 ヒット)

「ここもかみの みくになれば」という賛美歌があります。私たちが以前使用していました教団讃美歌と言われるものの90番です。歌詞を一節だけ紹介してみます。
ここもかみの みくになれば あめつち御歌を うたいかわし 
岩に樹々に 空に海に たえなる御業ぞ あらわれたる
 この歌詞にあります「ここも」とはどこのことでしょうか?それは私たちの国のことです。そして、私たちの職場のことであり、私たちの家庭のことであり、私たちの教会のことです。ここも神様の御国なのです。神様がおられるところ、ここにも神様が生きて働いておられるのです。
正直なところ、私の生活している場、そこでは神様のみ心が行なわれていないのではないか?と思わずにおれません。その現実に、私たちは悲しみ、心が痛みます。山上の説教の中に、「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」(マタイ5章4節)とあり、「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」(マタイ5章6節)とあります。神様のみ心、神様の喜ばれることから程遠い現実と思える・・・。私たちはそのことを悲しみます。そして、愛と義が行なわれますように。祈らされます。すべての権威は神様からのもの。神様の愛と義がどこにおいても行われるように、と祈っていきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-07-02 06:00:00 (66 ヒット)

主イエスは「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である」(9章4、5節)と言われました。「まだ日のあるうちに」、「だれも働くことのできない夜が来る」ということについて、イエス様が地上にいる間のことを意味していると理解されます。つまり、神様の業をする時間、期間は限られているということです。これを私たちのこととして読むならば、私たちの地上における人生として考えてよいのではないかと思います。私たちがこの地上に、この世に生きている間、その限られた時の中で、私たちは神様の働きに励むのです。
先日、児玉先生のお誕生のお祝いをしました。そのご挨拶で、児玉先生は、忠実な僕よ、よくやった!と神様からおほめの言葉にあずかりたいから、生涯、神様にお仕えしていきたい、とお話なさいました。先生が生涯最期の時まで主のためにお仕えしたい、と言われたことはとても印象的でした。信仰生活は過去のものではなく、現在のこと、今のことであるということを教えられました。そして、このイエス様の言葉はまさにそのことを語っていると思います。まだ日のあるうちに、この世にいる間、精一杯、神様にお仕えしていきましょう、神様のお働きに励んでいきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-06-25 06:00:00 (84 ヒット)

アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」(創世記17章1節)。
神様はアブラムに語りかけます。何と酷な話でしょうか?九十九歳の人に向かって、全き者、すなわち、完全な者になりなさい!と言われているのですから。けれども、この神様の言葉から、一つのことが分かります。それはいきなり、あなたは全き者になりなさい!とは言われていないことです。その前にこういう言葉があります。「わたしは全能の神である」。神様はご自分がどういう方であるのかを示されました。神様は全能の神様。この全能の神様というのは、エル・シャダイと言います。
神様は全能の神様です。ある牧師先生の説教テープを聴いていましたら、この先生が繰り返し、このようなことを言われていました。「神様は全能、私は無能。でも、全能の神様に自分の人生を委ねたら素晴らしい人生となります」。神様に自分を委ねて生きる。そのことをその先生から教えられました。
神様はアブラムにも言われるのです。私は全能の神様。すべてを成し得る神様。その私に委ねて生きよ!それが私は全能の神様である、と言われた意味です。その神様に委ねて生きるとき、あなたは全き者となる。あなたの人生は完全な人生となる。それがここで神様がアブラムに言われたメッセージなのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-06-18 06:00:00 (77 ヒット)

「朝の十五分があなたを変える」。こういうことを聞いたことがあります。ちいろば牧師として知られていた故榎本保郎牧師の言葉です。榎本先生は朝の十五分について、このように言われました。五分は聖書を読み、次の五分は祈り、そして、最後の五分は神様からの語りかけをノートに書き留める(あるいは聖書を黙想する、思い巡らす)。わずか十五分ですが、その日々の積み重ねがあなたを変えるというのです。聖書自身が聖書についてこう記しています。「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(二テモテ3章15、16節)。「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです」(一ペトロ2章1、2節)。聖書は私たちを養い、成長させます。しかし、そのためには、肉体の健康、成長に日々の食事を欠かすことができないように、「命のパン」(ヨハネ6章35節)である聖書の言葉を日々、私たちの心にいただくのです。食事をする時、食材を調理し、味付けしていただきます。それと同じように、聖書もそのままでは食べにくい(読みにくい)かもしれません。その場合はいろいろな聖書日課、黙想書などがありますので、それらを使って読むのもよいでしょう。朝の十五分、あまりにも多忙なため、朝に時間が取れない方はお昼でも、夜でもよいですから、そのわずかな時間を神様との交わりの時としてみましょう。み言葉(聖書)があなたを変えます。あなたに霊的な成長をもたらします。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-06-11 06:00:00 (82 ヒット)

使徒言行録2章には、教会の誕生日の出来事が記されています。このことのために神様に用いられた人たちというのはどんな人たちだったでしょうか?イエス様の弟子たちでした。それはあのガリラヤの人たち!と言われるような人たち、無学な田舎の人たちでした。この人たちには、能力があったとか、優秀であったとか、そういうことは一言もここには書かれていません。彼らは主の約束を信じて、心を合わせて祈っていた。祈っていただけなのです。そこに聖霊が、神様の力が臨みました。聖霊降臨の時に起こった出来事について、音と舌ということが記されています。聴くこと、語ることです。今、私たちにも聖霊が臨み、私たちに神様の言葉を語られます。私たちがすることはそれが必ず実現すると信じて聴くことです。そして、神様はそういう私たちの舌を、口を用いられます。私たちのこの口から神様のみわざが語られるのです。私たちはガリラヤの人たちのように、小さな者、弱さを抱えた者であるかもしれませんが、そういう私たちが神様に用いられて、神様のみわざを語る時、それを聴く人に救いが訪れる、一人の人が救いにあずかるのです。このような素晴らしい働き、使命を私たちは神様からいただいたことを感謝したいと思います。この聖霊降臨の出来事、キリスト教会、それは心を合わせて祈ることから起こったことでした。私たちもまず、祈りから始めていきましょう。聖霊が、神様の力が生きて働かれますように。聖霊が私たちをご自由にお用いくださって、救いのみ業が行われますように。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-06-04 06:00:00 (100 ヒット)

教会に行くと、よく耳にする言葉の一つに「愛」という言葉があります。よく知られている「愛」についての聖書の箇所はコリントの信徒への手紙一13章です。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(一コリント13章4〜7節)。
 ここに記されている「愛」という言葉をある方は二つの言葉で読み換えてみるように提案します。一つは「私」という言葉です。「私」、つまり、私たち一人一人のこととして読んでみるということです。するとどんなことが分かるでしょうか?私は忍耐強いでしょうか?いいえ。私は情け深く、ねたまないでしょうか?これもいいえとしか答えようがありません。そうしてみると、いかに私たちはここに記されている「愛」ということからかけ離れているかということが分かります。
 次の提案です。それは、この「愛」という言葉を「イエス・キリスト」という言葉に置き換えて読んでみるということです。するとそこから分かることは、ここに記されていることは、イエス・キリストという方がこのようなお方であるということです。そして、ここに示されている「愛」というのは、イエス・キリストという方の愛、神様の愛ということなのです。
 私たちは、この「愛」には遠く及ばない者です。けれども、この「愛」によって、愛されている私たちなのです。イエス・キリストを信じるということは、私たちがこの「愛」によって愛されている、この「愛」が私たちに与えられているということを信じるということなのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-05-28 06:00:00 (83 ヒット)

決して死ぬことがない。これは永遠の命に生き続けるということです。神様の命に生き続けるということです。神様の言葉を守る。神様の言葉を信じるなら、その人はこの世の人生ですべてが終わりではないのです。たとえ、この世の人生が終わっても、神様と共に生き続ける。イエス様はそう言われたのです。とても残念ですけれども、イエス様に反対したユダヤ人たちはそのことが信じられなかったのです。そして、イエス様に石を投げつけて殺そうとしました。それに対して、イエス様はどうされましたか?「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」(51節)。ご自分を殺そうとしている人たちに向かって、こう言われたんです。私の言葉を信じてほしい。信じるなら、死ぬことがない、永遠の命が与えられる。ご自分を殺そうとする者たちに向かって、命を、生きることを語っておられるのです。私たちもイエス様に倣っていきたいと思うのです。イエス様の言葉、神様の言葉、それは命の言葉、人を生かす言葉です。この言葉を伝えていきましょう、語っていきましょう。イエス様に出会って、本当に生きる人がありますように、生きる喜びを知る人がありますように!


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-05-21 06:00:00 (87 ヒット)

ハガルは、神様はこの私を顧みてくださった、と言いました。エル・ロイというのは、私を顧みてくださる神様という意味だということです。「神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか」(創世記16章13節)。神様は私を顧みてくださった。そして、私も神様を見続けた。この神様を見続けるということが大事なことです。信仰というのは、神様を信じた、見た、というだけではなく、神様を信じ続ける、見続ける、継続していくことが大事なことなのです。ここで神様を見た、とありましたが、これはこの目で見るという意味ではありません。心で見ると言ったらよいと思います。神様を心の目で見続ける。神様を見上げ続けると言ったらよいかもしれません。
神様の約束を待ち望む私たちですが、待ち望み続ける、見続けるということは難しいことです。教会につながるということは、とても意味のあることです。同じ神様を信じる兄弟姉妹が互いに励まし合い、支え合って、共に主を見続けるように努めていくことができるからです。15節に、生まれた子供の名前について、イシュマエルと名付けたことが記されていましたが、このイシュマエルという名前の意味は「主がお聞きになる」ということだそうです。ハガルの心の叫び、苦しみを神様はお聞きになったのです。そして、私たちの心の叫び、苦しみも神様はお聞きになる方です。共に主を見上げていきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-05-14 06:00:00 (85 ヒット)

信仰生活は生き方が大事です。実際、イエス様を信じて、信仰生活を歩んでいきますと、見えてくるものがあります。それは自分の罪、罪深さです。イエス様を信じているけれども、聖書の言葉を知っている、理解もしているけれども、そのように生きられない自分・・・。だから、使徒パウロは嘆いたのです。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(ローマ7章18、19節)。しかし、それ以上に知らされることがあるのです。それはそういう私を見捨てることなく、愛しておられる、赦しおられる神様ということです。神様の愛の大きさ、赦しの深さがどれほどのものかに気づかされるのです。
「神に属する者は神の言葉を聞く」(47節)とありました。実は私たちは、私は神様に属する者、そのように言うことのできないような者です。けれども、「神に属する者は神の言葉を聞く」と主は言われました。神様の言葉を聞くなら、その人は神様に属する者、どんなに欠けがあっても、弱さがあっても、それでも神様に属する者、それでもクリスチャン。神様に属する者とはどういう人でしょうか。それは、まったく罪がない人というのではありません。自分の罪に気づかされ、弱さに嘆きながらも、神様の言葉に聴き、神様の真理を知り、それに生きようと努める人、神様に助けを求める人、神様につながっていこうとする人。その人を主は助け、導いてくださいます。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-05-07 06:00:00 (86 ヒット)

イエス様のもとに四人の人たちが中風の人を連れてきました。その時の様子がこのように記されていました。「しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした」(4節)。何と大胆な、非常識とも思える行動でしょうか。それほどまでして、彼らは中風の人(自分たちの友人?)を主のもとに連れて行きたかったのです。それに対して、イエス様はどうされたでしょうか。5節に「イエスはその人たちの信仰を見て」とあります。イエス様は、中風の人をご自分のもとに連れて来た四人の人たちの信仰を見られ、中風の人をいやされたというのです。彼を連れて来た人たちの信仰にイエス様は応えてくださったのです。私たちも、この人たちと同じではないでしょうか?あの人をイエス様のもとにお連れしたい。その信仰をイエス様は見ておられます。そして、いつの日か、イエス様へと導きたいと願っているその人に救いが訪れることを待ち望んでいきましょう。そして、主は病の人にこのように言われます。「子よ、あなたの罪は赦される」(5節)。病は罪が原因ではありません。そして、罪を赦されるのは、神様であり、その神様から遣わされた神様の御子イエス様によるものです。私たちは「あなたの罪は赦される」、この言葉がこの私に向けられたことであり、イエス様の十字架による罪の救いがこの私のためであったと信じて、「起きて、床を担いで歩け」!イエス様によって罪を赦された者として新しい人生(イエスを主と信じ、この方の示す愛と赦しを求めて生きる人生)を生きていきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-04-30 06:00:00 (115 ヒット)

「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(ローマ12章2節)。
私たちは自分の生き方、生活そのものにおいて、神様を礼拝します。日曜日に礼拝に出席するだけでなく、日々の生活のただ中においても、その生き方をもって、神様を礼拝するのです。自分の置かれているそのところで、ここにも神様はおられる!神様が中心になってくださっている!そう信じていくのです。「この世に倣ってはなりません」とは、この世の真似をするな、ということです。ある方は、なぜなら、私たちはこの世の者ではなく、あの世の者だから、と言います。あの世、というのは、神様の御国、天の国のことです。イエス様を信じた人は、今、天の国の住人です。「心を新たにして自分を変えていただき」は岩波訳では「[自らの]思いを刷新することによって形造り直され」となっていました。私たちが神様に自分を変えてくださるように願っていく時、神様が私たちを形造り直してくださるのです。私たちは自分のことを自分で変えることもできないのに、他人のことは、あの人が変わるといいのになあ、と考えてしまいます。私たちは他人を変えることはできないし、自分自身を変えることもできないのです。でも、神様は私たちを変えてくださる、形造り直してくださるのです。その神様に自分を委ねていくのです。そして、「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるように」努めていくのです。


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