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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-01-14 06:00:00 (129 ヒット)

「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」(マタイ2章3節)。
ヘロデ王というのは、ユダヤ人ではありませんでした。ローマの支配にあったユダヤに送り出された人でエドム人であったと言われます。傀儡政権で、いつ自分の地位がどうなるか、という心配があったのでしょう。ヘロデ王が不安を抱くのは分かる気がします。しかし、ここには「エルサレムの人々も皆、同様であった」とあります。エルサレムの人々、彼らはユダヤ人の王、本当のユダヤ人の王、メシア、救い主を待ち望んでいたはずです。ところが、彼らもヘロデと同様に不安を抱いた、というのです。ヘロデは不安を抱いたが、エルサレムの人たちは喜んだ、とは書いていないのです。これはどういうことでしょうか?実はこのことも分かる気がするのです。というのは、私たちは王を迎えるというのは決して嬉しいことではないのです。王を迎えるというのは、自分を支配する人を受け入れるということです。私たちはだれからも支配されたくはないのです。自分が王でいたい。自分を支配するのは自分だ。そう願っているのが正直なところではないでしょうか?
一方、救い主に出会った占星術の学者たちは救い主のイエス様をひれ伏して拝みました。イエス様に頭を下げたのです。そして、この方を私の人生の王、主としました。そして、宝の箱、自分がこれだけは譲れない、しがみついていたいと思っていたものを主に献げたのです。そして、この占星術の学者たちの行為というのは一言で言うならば、自分の人生をすべてイエス・キリストにお委ねした、お任せした、ということです。
イエス・キリストはあなたのためにおいでになりました。あなたの王として、あなたの人生の主として、あなたと共に歩みたいと願っておられます。この方に自分を委ねて生きる、任せて生きる人生。今までとは違う別の道、新しい道を、不安から平安へ至る道を歩み出そうではありませんか。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-01-07 06:00:00 (114 ヒット)

マタイ福音書のヨセフの苦悩。妻マリアの聖霊による妊娠は理解できない出来事でした。ヨセフは一人で思い悩みます。そこに主の天使の言葉が語りかけます。私はこのヨセフと主の天使の記事から、こんなメッセージを聴きます。一人で悩まないで!神様に尋ねてみなさい!ヨセフはこの言葉に賭けることにしました。神様に自分の人生を賭ける。神様、あなたの言葉を信じます!あなたに自分をお任せします!神様、あなたに私の人生を、いえ、私の妻のこともすべてお任せします!これが信仰です。信仰に生きるというのは、神様に自分をお任せして生きるということです。
さらに、その子の名をイエスと名付けるように、と主の天使は告げます。イエスというのは「自分の民を罪から救う」という意味です。さらにイエス・キリストはインマヌエルと言われます。それは「神は我々と共におられる」という意味です。二千年ほど前に神様が私たちに送ってくださった救い主はこのような方です。私たちを罪から救ってくださる。私たちと共におられる。
ところで罪とは何でしょう?罪とは、神様を知らない、認めないことです。もっと言いますと、自分を神とすることです。自分を正しい者とすることです。そして、自分が罪人であることを知らないこと、認めないことです。イエスを主と信じる人のことはある方はこう言い表しています。赦された罪人、神様に赦されたことを知る罪人。私たちはどこまでも正しい者には成り得ませんが、罪から救われた、罪を赦された、その感謝を持って、喜びを持って生きるのです。自分が丈夫な者であるかのように思ってしまう、正しい者であるかのように思ってしまう。神様の前に出る時、神様の光に照らされた時、自分がどんなに小さく、貧しく、愚かな者であるか、このことを私たちは知らなければなりません。自分の本当の姿は見なければならない、向き合わなければならないのです。そうでなければ、罪も救いも分からないのです。しかし、そういう私を神様は赦しておられる。そういう私に神様は手を差し伸べ、共に歩んでくださっておられる。インマヌエル、主は共におられます。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-12-24 06:00:00 (145 ヒット)

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです」(29〜32節)。
「この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」。これは救い主に出会ったから、もう私はいつ死んでもいい!という意味だと言われます。私はこのシメオンがこれほどまでに喜びを表している様子を読んで、私たちはどうだろうか?私たちも救い主に出会ったはずなのに、こんな喜びがあるのだろうか?こんなに喜びを表しているだろうか?と考えさせられたのです。もしかすると、私たちは救いを別のことと考えてしまってはいないか?目に見えるあのこと、このことの方が自分にとっては救いのようなものと考えてしまってはいないか・・・。そうすることで救いを救いではないように考えてしまってはいないだろうか?そういうことを問いかけられました。そして、私たちは初心に帰るべきではないか。救いはイエス・キリストにある。救い主イエス・キリストを信じる信仰、私たちはいつもこの信仰に立ち返る必要があるのではないかと思います。
シメオン、アンナ、救いを待ち望む人に確かに神様は救いをお与えくださいました。イエス・キリストがあなたの目の前においでになった!そのことが分かるようにしてくださり、彼らは主に出会うことができたのでした。私たちもイエス・キリストが救い主であることを知っており、また信じている一人一人です。私たちもシメオンとアンナが救い主に出会う恵みを受けたように、私たちも同じ恵みを受けた一人一人です。そうであるならば、私たちもシメオンやアンナと同じように、主を賛美しようではありませんか!主を伝えていこうではありませんか!


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-12-17 06:00:00 (123 ヒット)

「イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」(17節)。復活の主に出会った弟子たちでしたが、主を礼拝しつつも疑う者もいた、ということです。私はこの記事を読む度に、ああ、これは私のことだなあ。私たちのことではないだろうか、と思うのです。イエスを主と信じて、主が共におられることを知っているのに、信じているのに、心が揺れ動いてしまうそういう私たちです。しかし、そういう私たちを主はどうされるでしょうか?
「イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(18〜20節)。
ひれ伏しながら疑う弟子たちのところに主は近寄って来られたのです。そうであるならば、ひれ伏しながら疑う私たちのところにも主は近寄って来られるのではないでしょうか?そして、そういう弟子たちに、そういう私たちに宣教命令を語られるのです。つまり、私たちの状況、状態がどうであれ、そういう私たちに主は語られ、主は私たちを宣教の働きのために用いてくださるというのです。主が私たちのところに近寄って来られた。主が私たちのところにおいでになった。イエス様がお生まれになって私たちのためにおいでになった!このクリスマスの出来事を私たちは全世界の人々に宣べ伝えていきましょう。神様の平和が来ますように!


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-12-10 06:00:00 (119 ヒット)

26 節には「信仰による従順」とありました。この言葉は同じローマの信徒への手紙の最初の箇所、1章5節にもあります。「わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました」。
パウロは自分のことを使徒と言っています。私は神様の恵みによって使徒とされた。使徒とは何でしょうか?使徒とは、ここに記されているように、主のみ名を広めて、すべての異邦人、すなわち、すべての人を信仰による従順、キリストに仕える人になるように導く人です。キリストに仕える。このことをさらに言いますと、他者に仕えるということです。お互いが仕え合う。他者に仕え合うということです。
私たちは今までは自分の腹に仕えてきました。自分自身に仕えてきました。あるいは他者を自分に仕えさせようとしてきました。しかし、今はキリストを主と信じた。それはもうそういう生き方を止めて、キリストに仕える者とされたということです。悔い改め、回心という言葉が聖書に出てきます。新約聖書の元の言葉では、メタノイア、向きを変えるという意味です。どこからどこへ向きを変えるのでしょうか?今日の聖書の言葉に自分の腹に仕える、ということとキリストに仕えるということが言われていました。メタノイア、悔い改めとは自分に向いていたところから、キリストに向いて生きるということです。どうか、そのことを忘れないように、そこから離れないように。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-12-03 06:00:00 (123 ヒット)

「マリアの信仰」というと、クリスマスの時期ですので主イエスの母マリアのことを思い起こすかもしれません。ここではマルタとラザロのきょうだいであるマリアのことです。ヨハネによる福音書11章では、ラザロを亡くして、悲しむマルタとマリアの姿が記されています。主はマルタと対話され、それに続いて、マリアをお呼びになりました。マリアはすぐに主のおられる所に行きました。その時のことが32節に記されています。
「マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った」。
マリアが言った言葉は先にマルタがイエス様と出会った時に言った言葉と同じでした。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。マリアも同じ言葉を主に言いました。その時のマリアの様子について、「イエスを見るなり足もとにひれ伏し」とあります。イエス様にひれ伏す、というのは、信仰的なように思えますが、これはイエス様の前に自分の悲しみを体の全身を持って表しているように思えます。泣きすがると言ったら良いでしょうか。ですから、これは主の前に信仰的に立派に振る舞った、というよりは、主の前に自分の心の内をすっかり注ぎ出した、ということのように思えてなりません。このようなことを知る時、信仰とは何か?ということを考えさせられます。神様の前に立派に振る舞うのも信仰なのでしょう。しかし、神様の前に自分の本当の姿をさらけだす。そして、主にすがりついていく。マリアの信仰はそういう信仰なのではないかと思うのです。自分の弱さや貧しさに気づかされる時、そこでこそ、主が共におられることの恵みを知るのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-11-26 06:00:00 (114 ヒット)

本日からの一週間は世界バプテスト祈祷週間です。当教会では祈祷週間の初日、今朝の礼拝を世界バプテスト祈祷週間特別礼拝として、世界宣教をおぼえて女性会を中心にして行います。
私たち日本バプテスト連盟では、返還前の沖縄に始まり、ブラジル、インドネシア、タイ、シンガポールに次々と宣教師を送り出しました。最近は国際ミッションボランティア(IMV)として、短期間、タイ、カンボジアなどアジア諸国に滞在し、教会や地域の人々に仕える働きに携わる人も起こされるようになり、世界宣教の裾野が広がった感があります。IMVでも、長期にわたる働きとして、ルワンダに「和解の福音」を携えて派遣されている佐々木和之氏がおられます。また、シンガポール国際日本語教会(IJCS)の伊藤世里江牧師、インドネシアの野口日宇満・佳奈宣教師ご夫妻、カンボジアの嶋田和幸・薫宣教師ご夫妻、その他、アジアフィールド伝道、福島移住女性支援、ネパールの女性と子ども支援のために、BWAid(世界バプテスト連盟救援委員会)、国際緊急支援(災害などの緊急支援)の働きのために、これからも福音が全世界に伝えられていくように祈りつつ、献げていきましょう。また国内伝道についても併せてお祈りください。今年度の連盟全体の献金目標額は4500万円、赤塚教会の献金目標額は80万円です。目標達成のプロセスに共に加わりましょう。
世界宣教とは、全世界、全国に出て行っての働きであり、それは私たちの家族、友人など、身近なところでも福音を伝えることです。主の宣教命令を受けて、神様の愛に押し出されて、全世界に目を向けながら、この働きに共に励みましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-11-19 06:00:00 (109 ヒット)

イエス様はご自分が復活であり、命と言われ、ご自分を信じる者は死んでも生きる、決して死ぬことはない、と言われました。そして、あなたはこのことを信じるか?と尋ねられました。マルタはこう答えました。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」(ヨハネ11章27節)。この言葉からは、マルタが、イエス様が復活であり、命であるということを信じていたかは分かりません。マルタが言っていることから分かるのは、イエス様のことを神の子、メシア、救い主であると信じていたということです。私はおそらく、マルタは、イエス様が復活であり、命であるということは、マルタ自身にとって初めて聞いたことだったと思いますから、理解することも、信じることもできなかったと思います。しかし、マルタはイエス様が神の子、救い主ということは信じていました。私はこのマルタの言葉を読みながら、私たちがイエス様を信じた時も、これと同じだったのではないかと思いました。
マルタはイエス様を神の子、救い主と信じていました。けれども、まだ十字架の救いのこと、復活のこと、永遠の命のことははっきりとは分からないまま信じていたと思います。しかし、これはマルタの大切な信仰告白として、聖書に遺されているのです。そして、イエス様はまだはっきりとは分からない、信じられないでいるマルタに、そして、私たちにこれからも語りかけてくださり、イエス様を信じることがどんなに大きな恵みであるか、素晴らしいことであるかを教えてくださるのです。ですから、私たちはこれからも主の言葉を聴き続けていきましょう。主が私たちの心の目を開いてくださり、分からせてくださいます、教えてくださいます。「主よ、お話しください。僕は聞いております」(サムエル記上3章9節)と祈りつつ、主の言葉に聴いてまいりましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-11-12 06:00:00 (163 ヒット)

「兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また、“霊”が与えてくださる愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください」(ローマ15章30節)。
パウロは、私のために祈ってください、と言っています。そして、私と一緒に祈ってください、とも言っています。
私のために祈ってください。私たちはお互いのために祈り合うのです。あの人やこの人のために祈ろう。それだけではなく、自分のことも祈ってください。自分のことも祈ってもらう。私たちはそういう群れでありたいと思います。そして、私と一緒に祈ってください。教会は兄弟姉妹と一緒に祈るところです。毎週の祈祷会で、教会姉妹が一緒に祈り合います。日曜日に礼拝に集ったお互いも一緒に祈ってみませんか?祈りの課題を出し合い、私のために祈ってください。互いにそういって祈り合うのはいかがでしょうか?
この30節の言葉がフランシスコ会訳ではこのようになっていました。「どうか神に対してわたしのために祈り、わたしとともに戦ってください」。「わたしとともに戦ってください」。この言葉ですと、祈りは戦いであるということが示されます。祈りは戦いです。ヤコブが神様の使いと組み打ちした場面(創世記32章24節以下)ではヤコブが神様の使いと戦ったのは、祈りであったと言われます。ヤコブの祈りはこのような祈りでした。「祝福してくださるまでは離しません」(創世記32章27節)。ヤコブは神様が私を祝福してくださるまでは離しません、と言って、神様の使いから離れることをしませんでした。私たちも神様にしがみついて祈っていきたいと思うのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-11-05 06:00:00 (123 ヒット)

ヨハネによる福音書11章からは、ラザロのことが記されています。マリアとマルタの姉妹はイエス様のもとに使いを送り、そして、自分たちの兄弟ラザロが病気であることを伝えています。「姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた」(ヨハネ11章3節)。彼女たちの兄弟であるラザロについて、「あなたの愛しておられる者」と言っていることは注目すべきことです。ラザロはイエス様、あなたの愛しておられる者です。
ラザロのことを心から愛していた、大切に思っていたのは、マリアとマルタの姉妹であったでしょう。しかし、この姉妹たちは自分たちももちろん愛しているラザロであるけれども、イエス様も愛しておられる。そう信じていたのだと思います。それはこの姉妹がイエス様との出会いを、人格的な出会いを体験し、自分たちはイエス様に愛されているということを知っていた。そして、私たちを愛しておられるイエス様はラザロのことも愛しておられる。そう信じていたのだと思います。
イエスを主と信じた私たちもイエス様がこの私を愛しておられる、と信じていると思います。イエス様を信じるというのはそういうことです。イエス様がこの私を愛しておられることを信じる。子供の時、教会学校でよく歌った賛美歌が「主われを愛す」でした。子供の時におぼえた歌は口ずさむことができるほど、おぼえているものです。「主われを愛す」。救い主イエス様は私を愛しておられる。
 そのイエス様は私を愛しておられるだけでない。私が愛している家族のことも愛しているはずだ。私たちはそう信じたいと思います。マリア、マルタは、私たちを愛しているイエス様は私たちの兄弟ラザロのことも愛しているはずだ。だから、彼女たちはこのように言うことができたのです。「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」。この確信を私たちも大事にしたいと思うのです。皆さんの家族や友人、出会う人、その一人一人について、主が愛しておられる者。
もしかして、その人はまだイエス様に出会っていない。イエス様を信じていないかもしれません。でも、イエス様はその人を愛している。イエス様は、私を愛さないから、私もあなたを愛さない。そういう方ではありません。考えてみると、私たちもかつてはそうでした。イエス様を知らない、愛さない。でも、その時も主は私たちを愛しておられました。そして今、その愛を知り、その愛に応えて生きようとしています。クリスチャンとして生きるというのはそういうことです。イエス様の愛を信じて、その愛に応えて生きる。新たに主に出会い、主の愛を信じて生きる方がありますように。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-10-29 06:00:00 (114 ヒット)

マリアとマルタの姉妹の話は聖書の中でもよく知られています。ルカによる福音書10章38節から、その聖書の記事が記されています。イエス様は忙しさの中で思い悩むマルタに向かって、言葉をかけられます。それがこの言葉です。
主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。10:42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ10章41、42節)
「主はお答えになった」とありました。マルタがイエス様に尋ねているのです。主よ、なぜですか?と。すると、マルタの問いに主はお答えになりました。それは「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」ということでした。口語訳聖書では「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」となっていました。
「必要なことはただ一つだけ」、「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけ」。私たちにとって大切なことは幾つもあります。あれもこれも大切です。しなければならないものです。しかし、主は私たちにとって本当に大切なものは一つなのだ、と言われます。この後、主は「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と言われますが、この「良い方」という言葉は岩波訳では「善い分け前」となっています。この言葉からは、神様が与えてくださるものということを連想します。神様は私たちに善い分け前を与えてくださる。しかし、「選んだ」とありますから、それを選び、それを受け取るのは私たちの意思によります。
マリアはその神様が与えてくださる善い分け前を選び、受け取りました。マリアが選び、受け取ったのはイエス様が語られるみ言葉であり、救いでした。神様はそれをみんなに与えたい。善い分け前として与えたいと願っておられます。その善い分け前のことを主は「必要なことはただ一つだけ」、最も大切なものと言われたのです。私たちはそれを選び、受け取るでしょうか?


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-10-22 06:00:00 (107 ヒット)

パウロが自分に与えられた働きをどのように考えていたか、次の言葉から分かります。
「そこでわたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました」(15章17〜19節)。
 「互いに戒め合うこと」(同14節)、信仰のアドバイスを聞けなくするのは、自分のプライドが原因です。それが聞くことを妨げるのです。自分のプライド、誇りが主に従えなくしてしまうのです。しかし、パウロはこう言っています。「わたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています」。パウロの誇りは神様のために働くことでした。こうも言っています。「キリストがわたしを通して働かれたこと」。神様のための働きをさせていただいている。しかし、それはキリストが私を通して働かれた。私ではなくて、私の力や知恵ではなくて、神様が私を通して働かれた。そして、そのことがパウロの誇りだというのです。
 私の誇り、プライド。私がこれだけのことをした、あれだけのものを持っている・・・。自分の行い、自分の持ち物、自分の知恵、自分の力、そういったものが自分の誇り。しかし、パウロはそれらのものはすべて神様が与えてくださったもの、神様が私にさせてくださったこと。だから、自分自身を誇ることはできない。誇るべきは、私を通して働かれる神様なのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-10-15 06:00:00 (123 ヒット)

「ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった」(創世記19章26節)。ロトの妻が後ろを振り向いた、とあります。信仰生活、神様に従って生きるということは、後ろを振り向かない、ということです。後ろを振り向いたら、塩の柱になるのです、前に進めなくなるのです。後ろというのは、自分の過去の罪の生活であったり、むしろ、過去の華々しい栄光であったり、人それぞれ違いますが、今、自分が神様に従うことを妨げるものです。それは捨てていくのです、離れていくのです。そして、前に向かって進むのです。ヘブライ書の著者はこう記します。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(ヘブライ12章1、2節)。
創世記19章29節には「こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された」とありました。この「神はアブラハムを御心に留め」ということ、これはアブラハムの執り成し(創世記18章)のことです。神様はアブラハムの執り成しの祈りを聴いていてくださったのです。それで甥のロトは救い出されたのです。アブラハムは自分の甥である、家族であるロトのために祈りました。私たちも、私たちの愛する家族が神様の救いにあずかりますように。神様は祈りを聴いてくださる。そのことを信じて、祈り、伝えていきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-10-08 06:00:00 (120 ヒット)

「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった」(ヨハネ10章41節)。
聖書を読んでいきますと、二つの信仰を知らされます。一つはしるしを見て信じる信仰です。イエス様がこんな奇跡を行なった。病気の人を癒した。悪霊を追い出した。だから信じる。そういう信仰です。もう一つは、この方について話したことは、すべて本当だった、真実だった。神様という方は真実な方だから、信じるという信仰です。もっとこの二つの違いをお話しますと、しるしを見て信じる信仰というのは、自分が祈って、願ったことがかなえられたから信じる。かなえられなかったら信じることをやめる。自分の考えや思いと違うから信仰生活をやめる。言ってみれば、自分を主体とする信仰です。
一方、神様は真実であると信じる信仰というのは、自分が祈って、願っていたことがかなえられていない。そこで信じることはやめた、ではなくて、その時、そのことについても神様に尋ねるのです。神様、あなたは私の祈りに応えてくださらないのですか?あなたはこのことについてどのようにお考えなのですか?あなたは何を私に語っておられるのですか?神様にどこまでも尋ねていく、聴いていく、神様と対話していく信仰です。これは自分ではなく、神様を主体とする信仰です。すぐには、答えはないかもしれない。自分の思い通りの答えではないかもしれない。でも、神様は愛である、真実な方である。そのことを信じて、すべてを受け止めていく信仰です。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-10-01 06:00:00 (145 ヒット)

ローマの信徒への手紙15章7節には、「神の栄光のために」ということが言われていました。私たちが互いに相手を受け入れるというのは、神様の栄光のためなのだ、というのです。別の訳では、このように訳されています。「キリストがあなたたちを受けとめてくださったように、あなたたちは互いを受けとめ、神を輝かし出してください」(本田哲郎訳)。この訳では、神様の栄光のために、ということが、神様を輝かし出してください、となっています。イエス様の山上の説教の中にはこのようなことが記されています。
「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(マタイ5章14〜16節)。
 「あなたがたは世の光である」とあります。ここで注意しなければならないことは、あなたがたは世の光になりなさい、とは言われてはいない、ということです。もう既にあなたがたは世の光なのだ、ということです。イエス様を救い主と信じたら、神様と信じたから、その人は世の光なのです。世の中を照らす光となった、というのです。それで「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」とあります。しかし、私たちそのものが光なのではありません。ヨハネによる福音書1章4、9節には光について、このように書かれています。
「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」(ヨハネ1章4節)。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(ヨハネ1章9節)。
 ここで言われていることはイエス様のことです。イエス様こそは命の言葉、命そのものであって、人間を照らす光、私たち人間に希望を与え、生きる力を与える方であることが言われています。ですから、私たちはそのイエス様という光を人々の前に輝かすように努めるのです。それは具体的には、イエス様を人々にお伝えすることです。私たちの言葉や生き方でお伝えしていくのです。


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