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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-01-16 07:00:00 (742 ヒット)

舟の上で群衆に語ったイエス様はその後、シモン・ペトロに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(4節)と言われます。これに対して、ペトロはこう言いました。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」(5節)。ペトロは自分は漁師であり、漁についてはプロである。そう言って、イエス様の言われたことに耳を貸さなかったら、ここで何も起こらずに終わったかもしれません。けれども、ペトロは続いてこのように言います。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。「しかし、お言葉ですから」。これはペトロの信仰の決断、信仰の決心の言葉です。漁師としてのプライドを捨てて、イエス様の言われたとおり、網を降ろした時、何が起こったでしょうか。「そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった」。イエス様に従う、ということ。それは私の考え、私の思い、私の悟り・・・。そういったものを捨てて、主の言葉に従うということです。私たちも「しかし、お言葉ですから」。私の考え、思い、悟りを越えて、主の言葉に従う信仰に歩みたいと思います。その時、主はみわざをなさるのではないでしょうか。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-01-09 07:00:00 (909 ヒット)

バプテスマのヨハネは荒れ野で宣教をしました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」(2節)と語り、続いて、「悔い改めにふさわしい実を結べ」(8節)とも語りました。悔い改めとは観念的なものではない。単なる意識改革ではない。その人の生き方そのもの、神様の方を向いて、神様に従って生きるということです。しかし、どうでしょうか。自分では神様の方を向いて生きる。神様に従う、と決心しつつ、実際にそのようにできないでいるという現実にぶつかるのではないでしょうか。ヨハネがこの後に語ったのはこういうことでした。「その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる」(11節)。悔い改めにふさわしい実を結ばせること、それはヨハネの後に来る方、イエス様によってなされることなのです。ヨハネのメッセージ、それは悔い改めて、聖霊と火でバプテスマをお授けになる方、イエス様のもとに行きなさい、ということなのです。この方によって、私たちは悔い改めにふさわしい実を結ぶことができる。新しい生き方、新しい人生を出発することができる。それがヨハネのメッセージであり、今、その恵みを受けている私たちが人々に語るメッセージなのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-01-02 07:00:00 (931 ヒット)

私たちは不条理な出来事に遭った時、どうして、なぜ、と問います。実はイエス様御自身がなぜ、どうして、という問いかけをされています。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27章46節)と。イエス様は十字架の上で叫ばれました。このイエス様の言葉、十字架の死を前にして叫ばれた言葉から知らされること、それは私たちの救い主、イエス様御自身、不条理を、人々の苦しみ、悲しみをその身に受けられた、ということです。マタイによる福音書1章23節ではイエス様について、インマヌエルということが言われています。インマヌエル、それは神様は我々と共におられる、ということです。私たちの苦しみ、悲しみ、不条理と思えること、そこにも共におられる。私たちと共に苦しまれ、私たちと共に悲しまれる神様ということです。私たちの人生の歩み、理解できないこと、納得できないこと、なぜなのか、どうしてなのか、そういったことが数限りなく、起こってきます。そのような私たちがおぼえておきたいこと、それはイエス・キリストは私たちの苦しみも、悲しみも、共に担ってくださっている。だから、私たちは立っていける、生きていけるのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-12-26 07:00:00 (540 ヒット)

救い主に出会った羊飼いたちの姿がこの聖書の個所に記されていました。「天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた」(15〜17節)、「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」(20節)。羊飼いたちは救い主がお生まれになった、この出来事を人々に知らせました。神様をあがめ、賛美しながら、それぞれの生活の場に帰って行きました。救い主に出会った者のすること、それは救い主を伝えることです。その生活の場、私たちの生きるそれぞれのところにおいて、神様をあがめ、賛美するのです。羊飼いたちのこの様子は一時的なものであったとは思いません。この聖書の個所は救い主に出会ったそれ以後の生活を示していると思います。私たちもイエス様を伝えましょう。主をあがめ、賛美する毎日を歩みましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-12-19 07:00:00 (514 ヒット)

マリアの賛歌。マリアはまず、このように歌います。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(47節)。「あがめる」。あがめるとは日本語では尊敬するとか、敬うという意味です。原語でも、尊敬する、賛美するという意味です。しかし、このあがめるという言葉は「大きくする」という意味があります。大きくする。私の魂は主を大きくします。私の内で主が大きくされ、私は小さくされる。これが聖書の教える信仰ではないでしょうか。そして、私の霊は救い主を喜びたたえる。私の内で主が大きくされること、主を喜ぶこと。これこそは私たちが求めるべきことではないでしょうか。私たちは何を求めて信仰生活を歩んでいるでしょうか。自分が大きくされること、自分が人々から称賛されること、自分の満足、あるいは自分の肉の欲を満たすこと、そのようなことを求めてはいないでしょうか。私たちはこのマリアの賛歌、この信仰に倣っていきたいと思います。私の内で主が大きくされ、主が私を支配されますように。主を喜び、主が喜ばれることを求めますように。このことを私たちの祈りとしていきたいと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-12-12 07:00:00 (714 ヒット)

マリアは天使から告げられたことを聞き、自分のことを「主のはしため」と言いました。「主のはしため」、主に仕える者と言ったのです。使徒パウロは自分のことを何と言っていたでしょうか。主の僕、主の奴隷と言いました。私たちはどうでしょうか。主の言葉、主の恵みを受けた者、知った者は自らこのように名乗るのです。私は主のはしため、主の僕。そして、マリアは続いてこう言いました。「お言葉どおり、この身に成りますように」。主の言葉がこの身に成りますように。主のはしため、主の僕とはどのような者か。それは神様の言葉、神様のみわざがその人のうちに起こる、実現する人のことです。そして、そのような人生こそは天使がマリアに「恵まれた方」と言ったように、恵まれた人生なのです。イエス様が山上の説教で語られたように幸いな人生なのです。神様の言葉に生きる。神様のみわざを行う。その人生こそが恵みの人生、幸いの人生なのです。そして、マリアがこのような人生を受け入れたのは神様の愛と信頼を信じたからです。救い主のご降誕、それは神様の愛と信頼への応答から始まった出来事であることをおぼえたいと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-12-05 07:00:00 (766 ヒット)

主を礼拝しつつも、疑った弟子たち。主を裏切ってしまい、これから自分たちはどうすればいいのか分からず、ただ主の言葉を頼りに集まって来た弟子たち。そういう弟子たちに対して、主はどうされたのでしょうか。「イエスは、近寄って来て言われた」(18節)。主はそのような弟子たちに自ら近寄って来られたのです。そして、語られたことは何か。あなたたちが福音を宣べ伝えなさい、ということでした。それは主の赦しの宣言であり、主の宣教の委託でした。ひれ伏したり、疑ったりの弟子たち。しかし、彼らは確かに主に出会いました。主に出会った人は福音を宣べ伝えるのです。出会った方、イエス・キリストを宣べ伝えるのです。私たちを赦し、私たちを用いてくださるイエス様、愛と赦しの主を伝える。それが伝道なのです。アンデレとフィリポの伝道を見てみますと、アンデレは兄弟シモンをどのように伝道したでしょうか。「シモンをイエスのところに連れて行った」(ヨハネ1章42節)。フィリポは友人ナタナエルをどのようにして伝道したでしょうか。「来て、見なさい」(ヨハネ1章46節)。人々をイエス様のもとへお連れしましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-11-28 09:00:00 (894 ヒット)

ある金持ちの青年と主イエスのやり取り(17〜22節)を聞いていた主の弟子たちはこう言いました。「それでは、だれが救われるのだろうか」(26節)。私たちは自分で自分を救うことはできないのです。どんなに立派な生き方をしようと努力しても、修行をしても、自分の力で自分を救うことはできません。一人ペトロはイエス様にこう言っています。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」(28節)。確かにペトロは自分の仕事も、家族も捨てて、イエス様に従って行きました。でも、このペトロも捨てていないものがありました。それは何でしょうか。自分です。自分を捨てることができない。私はあれも捨てて、これも捨てて、主に従ってきました。そうやって、誇る自分自身、それを捨てることができない。私たちもこのペトロと同じく、どこまでも、捨てることができない、捨て切らない者です。主はそういう私たちをどのように見ておられるのでしょうか。21節に「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」とあります。また、23節には「イエスは弟子たちを見回して言われた」とあります。そして、27節に「イエスは彼らを見つめて言われた」ともあります。この主が見つめられたということ、ここには主の愛、慈しみが表わされています。捨て切らない、従い得ない私たちを見つめ、言われたことは「人間にはできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」(27節)。だからこそ、神様にゆだねなさい。神様をよりどころとしなさい。神様は私たちを救ってくださる!と主は言われたのではないでしょうか。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-11-21 10:00:00 (633 ヒット)

「そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された」(16節)。主は御自分を慕い求める子供たちを抱き上げ、そして、手を置いて祝福されました。「小さな者」とされている子供たちを主は受け入れられている、愛されていることがここに示されました。「小さな者」。当時のユダヤ社会においては、子供たち、病にある人たち、あるいは異邦人であったと思います。しかし、「小さな者」、それはその人たちだけではありません。私たちが神様の御前に出る時、私たちも「小さな者」です。神様の前に本当の自分を知る時、神様に依り頼まなければ何もできない自分であることを知らされます。そういう私たちは「小さな者」から脱皮しようと、いろいろな鎧を付けたがります。それが生きるための知恵であるかのように思います。しかし、私たちに必要なことはそういうことでありません。私たちに必要なことは何か。それはイエス様のもとに行くことです。「小さな者」のまま、イエス様のもとに行き、抱き上げられ、祝福されることです。この聖書の中に出て来た子供たちとはまさに私たちのことです。私たちも共に主のもとに行きましょう。


投稿者 : admin 投稿日時: 2010-11-15 09:40:47 (602 ヒット)

真理のため、神様のために共に働く者、同労者となるためにはどうしたらよいのでしょうか。それは第一に私たち自身が主のために働く者となることです。自分が主の働きに、教会の働きに参与していくことです。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」(マタイ9章37、38節)と主は言われました。主の弟子たちはこの言葉を聞き、主に祈り、そして、自分自身を主の働きのために用いてください、と主に自分を差し出したのではないでしょうか。そして、第二に、この個所には巡回伝道者への援助のことが言われていました。「わたしたちはこのような人たちを助けるべきです」。私たちが主の働き人を助け、支えていくということです。そのことによって、私たちも真理のために共に働く者となるのです。連盟の諸教会により送り出されている宣教師などの働き人、諸教会の牧師、執事、お互いの主にある働きのため、祈り、ささげる。そのようにして、教会に連なるすべての人たちが共に働く者、同労者とされていくのです。「真理のために共に働く者」として歩んでまいりましょう。


投稿者 : admin 投稿日時: 2010-11-07 21:17:18 (566 ヒット)

ヨハネの手紙二は長老ヨハネが教会に書き送った手紙である。「長老のわたしから、選ばれた婦人とその子たちへ」(1節)とある。教会に連なる兄弟姉妹を「その子たち」と記し、神の子供たちであることを示しているようである。4節には「あなたの子供たちの中に、わたしたちが御父から受けた掟どおりに、真理に歩んでいる人がいるのを知って、大変うれしく思いました」とある。これがヨハネの喜びである。
教会に連なる兄弟姉妹が真理に歩むことをヨハネは大変喜んでいたのである。また、これは教会の喜び、私たちの喜びでもある。互いが世のただ中にあって、真理に歩むように祈り合い、支え合っていく者でありたい。ところで、ここに「歩む」という言葉が使われている。この「歩む」という意味は「在り続ける、生活する」という意味である。真理に歩む。それは日々の生活のことを指すのである。私たちは日々の生活においてイエス・キリストに従う、御言葉に従うのである。「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(一コリント10章31節)。


投稿者 : admin 投稿日時: 2010-10-31 21:15:13 (575 ヒット)

神の言葉を取り次ぐ者として立たされたモーセでしたが、ファラオを説得できず、イスラエルの民も聞く耳を持たず。すっかり、自信を失ってしまったかのように思えるモーセの姿がここにあります。私たちもこのモーセのように、人の言葉や態度によって、すぐに弱ってしまう者ではないでしょうか。けれども、私たちの信仰の歩みにおいては自信を失う、弱り果てることは大事なことと言えます。それは自分が砕かれる時であり、神様にこそ、希望を置く。神様にこそ自分を委ねる。その大切な機会だからです。モーセは私たちと同じように、人の言葉や態度によって、弱り果て、また、神様の言葉によって立ち上がらされていきました。一進一退の歩みです。そのような歩みの中で、人の言葉や態度に支配されるのではなく、神様の言葉に支配されて生きる者へと、いつも神様を見上げて生きる者へと一歩一歩、前進していけたら、と思います。弱さを抱えた私たちですが、それでも主はそのような私たちを御自身のために用いられます。そのことをおぼえながら、互いに祈り合いつつ、歩んでまいりま しょう。


投稿者 : admin 投稿日時: 2010-10-17 21:13:40 (892 ヒット)

この創世記18章16節以下の個所は神様とアブラハムの会話、対話が記されています。聖書が示す神様は人と対話される神様です。どこか遠くにいて、一方的に語り、命じられるだけの神様ではありません。私たち人間と対話される、語り合われる神様です。創世記18章22節に「アブラハムはなお、主の御前にいた」ということが記されています。この言葉から、アブラハムが神様の前に立ち、神様の語られる言葉に耳を傾けている様子がうかがえます。しかし、ある聖書学者は、この個所の主語はアブラハムではなくて、神様であると言います。ですから、その説に従って言えば、この個所は「主はなお、アブラハムの前に立っておられた」ということだそうです。神様はアブラハムに語られた後、アブラハムの語るのを待っておられたのだ、というのです。神様と私たち人間の関係、それは神様が一方的に語られるだけの関係ではありません。神様は私たちの言葉にも耳を傾けてくださるのです。ソドムの罪を嘆き、叫ぶ、その声に耳を傾けられたように、アブラハムの語るのも、そして、私たちの語るのも、主はそこに立っておられ、待っておられ、聞いてくださるのです。


投稿者 : admin 投稿日時: 2010-10-10 21:11:57 (639 ヒット)

ヤコブの手紙5章16節に「罪を告白し合い、互いのために祈りなさい」とあります。私たちの現実は、自分の苦しみ、弱さを隠し、分かち合うことをしない。罪の告白よりも、自分の正しさを主張し合うというものかもしれません。自分はこういう病があって苦しんでいる。自分はこういう罪を犯した。悔い改めて、新しい出発をしたい。お互いにいやされることを求め、罪の赦しを求め、祈り合う。それこそが教会です。19、20節には「真理へ連れ戻す」、「多くの罪を覆う」ということが記されていました。これが教会の使命です。主のもとに人々が立ち返るように、私たちは福音を伝えていきます。ここには「多くの罪を覆う」という言葉がありました。箴言10章12節には「愛はすべての罪を覆う」とあります。この「覆う」というのは、赦す、という意味ですが、私たちは互いに罪を告白し合う群れであり、罪を赦し合う群れなのです。主が私たちを愛し、赦してくださったように、私たちも互いの罪を覆う。罪を赦し合う。そのようにして、互いに悔い改め、新たに生きる、再出発する歩みをしていく私たちでありたいと思います。


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