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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-03-06 07:00:00 (621 ヒット)

献金について、週報に「礼拝での献金は強制ではありません。神への感謝の表現」とあります。献金は人間の強制によるものではないのです。しかし、献金は神様の恵みの強制によるものなのです。私たちが神様の恵みを本当に知る時、恵みに強いられて献げずにはおれなくなるのです。この一人の貧しいやもめ、この人は「乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部」(44節)献げました。それは人に見せるためでなく、神様の救い、神様の愛を知っていたから、喜んでいたから、そして、神様への愛の応答から献げたのです。このやもめのように、私たちも神様の救いの恵み、その応答として、感謝と喜びから、献げるのです。神様の恵みに強いられて、神様の恵みに押し出されて、献げるのです。主はこの貧しいやもめの献げもの、貧しいやもめの心、信仰を見られて、「アーメン」と言われました。この人は真実に神様に出会って、神様の救いの喜びに生きている人だ。主は彼女の信仰を真実の信仰と認められ、感動されたのです。私たちも神様の恵みの応答として、神様の恵みに強いられて献げる者でありたいと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-02-27 07:00:00 (643 ヒット)

「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき」(12節)とあります。ここで「聖なる者たち」と言われているのは、私たちのことです。イエスを主と信じる者たちは「聖なる者」です。それは私たちが聖、まったく罪のないきよい者であるということではなく、神様が一方的に愛をもって私たちを招いてくださった、選び出してくださったということです。私たちは神様のものとされた。その私たちに神様が託されたこと、期待されていること、それは私たちが奉仕の業に励み、キリストの体である教会を造り上げていく、ということです。教会を造り上げていく。それはつまり、私たちは今、途上にいる者ということです。完成を目指して、途上にいる者ということです。教会の兄弟姉妹、それも、途上にいる者です。私たちはまだ完成されていない、まだ完全ではないのです。それを私たちは自分がそうでないのにも関わらず、人にそのことを求めたりすることはないでしょうか。そうやって、人を裁いてしまう。そうではなくて、共に手を携えて、完成を目指して、成長していくのです。「愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます」(15節)。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-02-20 07:00:00 (1062 ヒット)

ローマの信徒への手紙12章5節に「キリストに結ばれて一つの体」とあります。教会はキリストの体と言われます。それは「一つの体は多くの部分から成り立ってい」(12章4節)るとありますように、教会にたくさんの体の部分がある。大きいものも小さいものも、強いものも弱いものも、違いがある、様々なものがある。そして、それらが互いに組み合わされて、一つの体とされるというのです。不完全な私たちですが、それがみんなと組み合わされていく時に完全なキリストの体となっていくのです。不完全な私たちが完全になるためにはどうするか。それはイエス・キリストにつながり、兄弟姉妹とつながることによって、完全となっていくのです。互いに愛し合い、頭である主を中心として、主のために働く。その時、組み合わさった私たちはこの世にあって、イエス・キリストを表すことができるのです。私たちは、私たちの内に生きておられるイエス様を表していきましょう。ガラテヤの信徒への手紙2章21節に「わたしは、神の恵みを無にしません」とありました。神様の恵み、私たちを救うために十字架にかかり、命を献げてくださった恵み、この恵みを無にするようなことがありませんように。主の恵みに応えて、共に歩んでまいりましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-02-13 07:00:00 (507 ヒット)

「ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります」(5節)。これは裁きの日、終わりの日を思わせる言葉です。「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます」とあるように、その日にはすべてのことが明らかにされます。私たちは戦々恐々と終わりの日、裁きの日を迎えなければならないのでしょうか。そういう私たちにこの個所はこのように語られています。「そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります」。裁かれるべき、裁かれるはずの私たちです。ところがここには「おのおのは神からおほめにあずか」るというのです。何という慰め、励ましでしょうか。しかしこれは単なる慰め、励ましの言葉ではなく、私たちにこれから起こってくる事実です。イエス・キリストを救い主と信じ、この方に忠実に従って、生涯を全うしていくならば、その人は神様からおほめにあずかる。神様の称賛を受ける。そういう約束が言われているのです。私たちはこの約束を信じて、主のために励んでいきたいと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-02-06 07:00:00 (612 ヒット)

福音宣教の開始、それはイエス様がナザレからガリラヤへ退かれて始まったことでした。バプテスマのヨハネが捕らえられるという状況にあって、福音宣教は始まったのでした。この退くということですが、イエス様は幼い時期、父ヨセフによって、二度、退いたことが聖書に記されています(マタイ2章13〜15節、19〜23節)。しかし、その退きというのは、神様の言葉に従うゆえのことだったのです。実は私たちの信仰生活というのも退いて生きるというものなのではないでしょうか。退く。自分の思い、自分の考え、それらのいっさいを退けて、神様に従っていくのです。一方、前進する、進んでいく。良いことのように思えますが、何のための前進か、そこを注意しなければなりません。自分の願い、自分の目的の前進。私たちはそのような前進ではなく、自分を退けて、主に従う。主が導き、主が進めるところへと従っていく。それが信仰の前進です。使徒パウロはフィリピ1章12節で「福音の前進」ということを言っています。しかし、その時のパウロは獄に入れられており、決して、前進と言える状況ではありませんでした。けれども、パウロの同労者たちは失望落胆することなく、立ち上がり、福音を伝えていったのでした。御言葉の力に励まされ、福音は前進していったのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-01-30 07:00:00 (736 ヒット)

イエス様が荒れ野で悪魔の誘惑に遭われた記事、その最初の1節にはこのように記されています。「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」。悪魔の誘惑、それは「“霊”に導かれて」のことであったことが分かります。悪魔の誘惑を受けるために、荒れ野へと「“霊”」によって導かれた。これは何とも不思議な思いがします。私たちが聖霊に導かれたと言う時はどういう時でしょうか。自分にとって良い出来事が起こった時など、神様は私を愛し、顧みて、このように導いてくださった。聖霊の導きだ。このように言うかもしれません。しかし、誘惑にある時、それを聖霊の導きとは言わないのではないでしょうか。イエス様が“霊”に導かれて、荒れ野で悪魔の誘惑をお受けになられたことを知る時、私たちはそれがもし、自分にとっては良いこととは思えない、つらい、試練の中にあったとしても、そこにも、聖霊の導きがある。その背後にも神様の御計画がある。そのことを受け止めていかなければならないと思うのです。神様は「万事が益となるように共に働」いてくださる(ローマ8章28節)。そのことを望みとしていきたいと思うのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-01-23 07:00:00 (743 ヒット)

イエス様がバプテスマのヨハネによってバプテスマをお受けになった時、神の霊がイエス様の上に降った。そして、天からの声が聞こえました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3章17節)。イエス様が神の子であること、救い主であることがここに示されました。「わたしの心に適う者」、新共同訳と口語訳はこのように訳しています。新改訳では「わたしはこれを喜ぶ」と訳されています。神様にとって、御子イエス様は喜びであることがここに示されています。イエス様は神様の喜びです。そうであるならば、私たちがそのイエス様と共に歩むことも神様の喜びではないでしょうか。私はイエスを主と信じる者には二つの喜びの人生があると思います。一つは主イエスと共に生きる。そのようにして、神様に喜ばれる人生を生きるのです。そして、もう一つは主イエスと共に生きることによって、私たち自身が本当の喜び、変わることのない、動くことのない喜びを知る、味わう。すなわち、神様を喜ぶ人生を生きるのです。神様に喜ばれる人生、神様を喜ぶ人生。主イエスと共に生きる時、そのような人生とされるのです。この人生に新たに生きる方々がありますように。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-01-16 07:00:00 (753 ヒット)

舟の上で群衆に語ったイエス様はその後、シモン・ペトロに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(4節)と言われます。これに対して、ペトロはこう言いました。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」(5節)。ペトロは自分は漁師であり、漁についてはプロである。そう言って、イエス様の言われたことに耳を貸さなかったら、ここで何も起こらずに終わったかもしれません。けれども、ペトロは続いてこのように言います。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。「しかし、お言葉ですから」。これはペトロの信仰の決断、信仰の決心の言葉です。漁師としてのプライドを捨てて、イエス様の言われたとおり、網を降ろした時、何が起こったでしょうか。「そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった」。イエス様に従う、ということ。それは私の考え、私の思い、私の悟り・・・。そういったものを捨てて、主の言葉に従うということです。私たちも「しかし、お言葉ですから」。私の考え、思い、悟りを越えて、主の言葉に従う信仰に歩みたいと思います。その時、主はみわざをなさるのではないでしょうか。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-01-09 07:00:00 (920 ヒット)

バプテスマのヨハネは荒れ野で宣教をしました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」(2節)と語り、続いて、「悔い改めにふさわしい実を結べ」(8節)とも語りました。悔い改めとは観念的なものではない。単なる意識改革ではない。その人の生き方そのもの、神様の方を向いて、神様に従って生きるということです。しかし、どうでしょうか。自分では神様の方を向いて生きる。神様に従う、と決心しつつ、実際にそのようにできないでいるという現実にぶつかるのではないでしょうか。ヨハネがこの後に語ったのはこういうことでした。「その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる」(11節)。悔い改めにふさわしい実を結ばせること、それはヨハネの後に来る方、イエス様によってなされることなのです。ヨハネのメッセージ、それは悔い改めて、聖霊と火でバプテスマをお授けになる方、イエス様のもとに行きなさい、ということなのです。この方によって、私たちは悔い改めにふさわしい実を結ぶことができる。新しい生き方、新しい人生を出発することができる。それがヨハネのメッセージであり、今、その恵みを受けている私たちが人々に語るメッセージなのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-01-02 07:00:00 (958 ヒット)

私たちは不条理な出来事に遭った時、どうして、なぜ、と問います。実はイエス様御自身がなぜ、どうして、という問いかけをされています。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27章46節)と。イエス様は十字架の上で叫ばれました。このイエス様の言葉、十字架の死を前にして叫ばれた言葉から知らされること、それは私たちの救い主、イエス様御自身、不条理を、人々の苦しみ、悲しみをその身に受けられた、ということです。マタイによる福音書1章23節ではイエス様について、インマヌエルということが言われています。インマヌエル、それは神様は我々と共におられる、ということです。私たちの苦しみ、悲しみ、不条理と思えること、そこにも共におられる。私たちと共に苦しまれ、私たちと共に悲しまれる神様ということです。私たちの人生の歩み、理解できないこと、納得できないこと、なぜなのか、どうしてなのか、そういったことが数限りなく、起こってきます。そのような私たちがおぼえておきたいこと、それはイエス・キリストは私たちの苦しみも、悲しみも、共に担ってくださっている。だから、私たちは立っていける、生きていけるのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-12-26 07:00:00 (550 ヒット)

救い主に出会った羊飼いたちの姿がこの聖書の個所に記されていました。「天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた」(15〜17節)、「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」(20節)。羊飼いたちは救い主がお生まれになった、この出来事を人々に知らせました。神様をあがめ、賛美しながら、それぞれの生活の場に帰って行きました。救い主に出会った者のすること、それは救い主を伝えることです。その生活の場、私たちの生きるそれぞれのところにおいて、神様をあがめ、賛美するのです。羊飼いたちのこの様子は一時的なものであったとは思いません。この聖書の個所は救い主に出会ったそれ以後の生活を示していると思います。私たちもイエス様を伝えましょう。主をあがめ、賛美する毎日を歩みましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-12-19 07:00:00 (525 ヒット)

マリアの賛歌。マリアはまず、このように歌います。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(47節)。「あがめる」。あがめるとは日本語では尊敬するとか、敬うという意味です。原語でも、尊敬する、賛美するという意味です。しかし、このあがめるという言葉は「大きくする」という意味があります。大きくする。私の魂は主を大きくします。私の内で主が大きくされ、私は小さくされる。これが聖書の教える信仰ではないでしょうか。そして、私の霊は救い主を喜びたたえる。私の内で主が大きくされること、主を喜ぶこと。これこそは私たちが求めるべきことではないでしょうか。私たちは何を求めて信仰生活を歩んでいるでしょうか。自分が大きくされること、自分が人々から称賛されること、自分の満足、あるいは自分の肉の欲を満たすこと、そのようなことを求めてはいないでしょうか。私たちはこのマリアの賛歌、この信仰に倣っていきたいと思います。私の内で主が大きくされ、主が私を支配されますように。主を喜び、主が喜ばれることを求めますように。このことを私たちの祈りとしていきたいと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-12-12 07:00:00 (725 ヒット)

マリアは天使から告げられたことを聞き、自分のことを「主のはしため」と言いました。「主のはしため」、主に仕える者と言ったのです。使徒パウロは自分のことを何と言っていたでしょうか。主の僕、主の奴隷と言いました。私たちはどうでしょうか。主の言葉、主の恵みを受けた者、知った者は自らこのように名乗るのです。私は主のはしため、主の僕。そして、マリアは続いてこう言いました。「お言葉どおり、この身に成りますように」。主の言葉がこの身に成りますように。主のはしため、主の僕とはどのような者か。それは神様の言葉、神様のみわざがその人のうちに起こる、実現する人のことです。そして、そのような人生こそは天使がマリアに「恵まれた方」と言ったように、恵まれた人生なのです。イエス様が山上の説教で語られたように幸いな人生なのです。神様の言葉に生きる。神様のみわざを行う。その人生こそが恵みの人生、幸いの人生なのです。そして、マリアがこのような人生を受け入れたのは神様の愛と信頼を信じたからです。救い主のご降誕、それは神様の愛と信頼への応答から始まった出来事であることをおぼえたいと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-12-05 07:00:00 (777 ヒット)

主を礼拝しつつも、疑った弟子たち。主を裏切ってしまい、これから自分たちはどうすればいいのか分からず、ただ主の言葉を頼りに集まって来た弟子たち。そういう弟子たちに対して、主はどうされたのでしょうか。「イエスは、近寄って来て言われた」(18節)。主はそのような弟子たちに自ら近寄って来られたのです。そして、語られたことは何か。あなたたちが福音を宣べ伝えなさい、ということでした。それは主の赦しの宣言であり、主の宣教の委託でした。ひれ伏したり、疑ったりの弟子たち。しかし、彼らは確かに主に出会いました。主に出会った人は福音を宣べ伝えるのです。出会った方、イエス・キリストを宣べ伝えるのです。私たちを赦し、私たちを用いてくださるイエス様、愛と赦しの主を伝える。それが伝道なのです。アンデレとフィリポの伝道を見てみますと、アンデレは兄弟シモンをどのように伝道したでしょうか。「シモンをイエスのところに連れて行った」(ヨハネ1章42節)。フィリポは友人ナタナエルをどのようにして伝道したでしょうか。「来て、見なさい」(ヨハネ1章46節)。人々をイエス様のもとへお連れしましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2010-11-28 09:00:00 (908 ヒット)

ある金持ちの青年と主イエスのやり取り(17〜22節)を聞いていた主の弟子たちはこう言いました。「それでは、だれが救われるのだろうか」(26節)。私たちは自分で自分を救うことはできないのです。どんなに立派な生き方をしようと努力しても、修行をしても、自分の力で自分を救うことはできません。一人ペトロはイエス様にこう言っています。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」(28節)。確かにペトロは自分の仕事も、家族も捨てて、イエス様に従って行きました。でも、このペトロも捨てていないものがありました。それは何でしょうか。自分です。自分を捨てることができない。私はあれも捨てて、これも捨てて、主に従ってきました。そうやって、誇る自分自身、それを捨てることができない。私たちもこのペトロと同じく、どこまでも、捨てることができない、捨て切らない者です。主はそういう私たちをどのように見ておられるのでしょうか。21節に「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」とあります。また、23節には「イエスは弟子たちを見回して言われた」とあります。そして、27節に「イエスは彼らを見つめて言われた」ともあります。この主が見つめられたということ、ここには主の愛、慈しみが表わされています。捨て切らない、従い得ない私たちを見つめ、言われたことは「人間にはできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」(27節)。だからこそ、神様にゆだねなさい。神様をよりどころとしなさい。神様は私たちを救ってくださる!と主は言われたのではないでしょうか。


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