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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-10-02 06:00:00 (444 ヒット)

ニコデモは主が「新たに生まれねばならない」(7節)と言われたことに対して、「どうして、そんなことがありえましょうか」(9節)と言いました。新しく生まれるなんて、私にはできません、ということです。このニコデモの言葉は真実です。私たちは自分の力で新しくなろうと思っても、それは無理なのです、できないのです。そういう私たちのために、主はおいでくださったのです。自分では新しくなることも、自分で自分を救うこともできない私たちのために、主はおいでくださった。私たちが救われるため、新しく生まれるため、そのために必要なことは何か。それは神様が私たちのためにお送りくださった独り子であるイエス・キリストを信じることです。そうするならば、この方が私たちを日々、新たにさせてくださる、変えてくださるのです。私たちの心の闇、それを主は御自身の光で照らし、罪を示し、私たちを悔い改めさせ、新しく生きることを導いてくださいます。私たちは自分の中にある闇をそのままにしてはなりません。ニコデモは光を求めて、真の解決を求めて、主のもとに行きました。私たちも、主のもとに行き、すべてをきよめていただき、新しく歩んでいこうではありませんか。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-09-25 06:00:00 (551 ヒット)

「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(6節)。ここに「アブラムは主を信じた」とありました。アブラムは前から、神様を信じていたではないか。そのように言われる方があるかもしれません。しかし、ここで言われていることはそういうことではありません。信仰とは、今が大事です。今、信じるかどうか、です。昔、過去に熱心だった、求めていた、というのではなくて、今、主を信じているかどうか、そこが大事なことです。ある方は目覚めてすぐ、自問自答するそうです。それは自分に向かって、「あなたは今日、イエス・キリストを信じるか」と問うのだそうです。そして、「はい、信じます」と告白するのだそうです。私たちも、日々、この信仰の問いかけをしていく。私は今日、今日も、イエス様を信じます。そのような決心を持って歩んでいく者でありたいと思うのです。「主はそれを彼の義と認められた」。信仰によって義とされる。それは、私たちは自分の行いによって救われるのではない。神様を信じることによって救われる、ということです。そして、救われた喜びから、その感謝の応答として行いが起こってくるのです。伝道する、奉仕する、献金する・・・。それは自分が救われるためではなく、救われた感謝、喜びから行うのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-09-18 06:00:00 (492 ヒット)

ヘブライ人への手紙2章1節に「わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません」。また、3節に「これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて」とあります。私たちが聞いた福音について、そして、救いについて、それをしっかりと受け止めていくこと、受け入れていくことが示されています。私たちがイエス・キリストの救いを与えられたのは、決して、当たり前のこと、当然のことではありません。救われるべくして、救われたのではありません。聖書に奇跡の記事が幾つか、記されていますが、考えてみますと、私たちが救われたのはまさに奇跡です。救われるはずのない者を主が御自身、十字架におかかりになり、身代わりになってくださった。この驚くべき救いを心から感謝して、喜び、それに応えて生きることに努めていきたいと思います。そして、私たちに与えられた神様からの使命、それは「すべてのものを、その足の下に従わせられました」(8節)とありますように、このことの実現のために励むことです。すべてのものが主を信じ、主に従うことです。祈りつつ、福音宣教に励みましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-09-11 06:00:00 (451 ヒット)

「このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかった」。水がぶどう酒に変わったという奇跡、主のみわざが起こりました。しかし、それがどこから来たのか、世話役は知りませんでした。知っていたのは水をくんだ召し使いたちでした。水をくんだ召し使い。実際にイエス様の言われるとおりを行った人たちはイエス様のみわざを垣間見たのです。主の言葉に聴き従う者に与えられる恵みはこのようなものです。主に聴き従った者は主のみわざを拝することができるのです。ぶどう酒とは喜びの象徴であると言いました。それで言うならば、この喜びがどこから来たのか、主に聴き従う者は知っているのです。救いの喜び、変わることのない、なくなることのない永遠の喜びを主に聴き従う者は知っているのです。そして、この喜びを知っている私たちは人々にお知らせするのです。それが福音宣教、伝道です。「このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていた」。主の言葉に聴き従う者、主の言われるとおりに生きようとする者はこの喜びを知るのです。主のみわざを見るのです。救いの喜びから、そして、主のみわざを見るために主に従っていきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-09-04 06:00:00 (406 ヒット)

申命記6章6節に「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め」とあります。ここで言われていること、それは神様の言葉を心に留めるということです。心に留める。この言葉は聖書の箇所によって、いろいろな言葉で訳されているようです。箴言3章1節では「わが子よ、わたしの教えを忘れるな。わたしの戒めを心に納めよ」。箴言4章4節では「わたしの言葉をお前の心に保ち/わたしの戒めを守って、命を得よ」。これらの聖書の箇所では「心に納めよ」、「心に保ち」とありました。新約聖書・ヨハネの手紙一5章3節にはこのように記されています。「神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません」。神様を愛するということ、それは神様の掟、神様の言葉を守ることと言われています。私たちはどうでしょうか。みなさんが自分の愛する人の言葉を無視するようなことはあるでしょうか。そんなことはないと思います。愛する人の言葉にはよく耳を傾けるのではないでしょうか。神様を愛する。それは私たちを愛しておられる神様が私たちのために語られる言葉、私たちを愛するがゆえに語られる言葉に耳を傾け、それに生きようとする。それが神様を愛するということです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-08-28 06:00:00 (554 ヒット)

万物の相続者、世界の創造者、神様の栄光の反映、神様の本質の完全な現れ、万物を御言葉によって支えておられる方、人々の罪を清められた方、神様の右の座に着かれた方。この聖書の箇所から、御子イエス・キリストがどのような方であるかを知らされます。イエス・キリストは神の子、救い主です。そして、私たちは主のものです。私たちはただの人にすぎませんが、主によって罪赦された者です。イエス・キリストの御前に立つ時、そこで私たちは自分が何者であるかを知ります。罪人である私たち、しかし、罪赦された者、神様に愛され、生かされている者。イエス・キリストを知るということは、本当の自分を知るということでもあります。ありのままの自分でいいのだ、という言葉をよく聞きます。ありのままの自分として生きる。それはただ気楽に、何事にもとらわれない生き方ということでしょうか。ありのままの自分として生きる。それは聖書の視点からいうと、イエス・キリストに愛され、生かされている自分を知って生きるということではないでしょうか。主に愛され、生かされていることを日々、おぼえながら生きる。神様のありのまま(神様の愛と恵みをそのままに受ける)に生きる人生、それこそは幸いな人生ではないでしょうか。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-08-21 06:00:00 (462 ヒット)

種蒔きのたとえ(マルコ4章1〜9節)はよく知られているたとえ話の一つです。私たちはこのたとえ話のそれぞれの地に蒔かれた種の様子を知って、ああ、私は石だらけの所のような者だ、私は茨の中のような者だ、と嘆くかもしれません。しかし、このたとえから、種を蒔いた人のことに目を注ぐ必要があると思います。種を蒔いた人とはだれでしょうか。それは福音を伝える私たちのことと考えることもできますが、イエス様こそは真の種蒔きではないでしょうか。聖書の舞台であるイスラエルは乾燥した地域で、耕作に適した土地はほとんどないということを聞きます。それでも、農夫は一生懸命、土地を耕して、良い地にして、種を蒔くのだそうです。私たちも、私たちの心も、乾燥した、ゴツゴツした、耕作には適さないような土地のような者だったのではないでしょうか。そういう私たちを主は耕しておられる。そして、私たちが良い地になって、実を結ぶように願っておられるのではないでしょうか。今まで、良い土地ではなかったかもしれません。しかし、御言葉を聞いて生きようとするならば、主は私たちの心を耕してくださり、私たちが実り豊かな人生を生きることができるように導いてくださるのではないでしょうか。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-08-14 06:00:00 (491 ヒット)

バプテスマのヨハネの二人の弟子はヨハネの導きにより、イエス様に従っていきました。その様子をイエス様は知られ、彼らにこのように言われました。「何を求めているのか」(38節)。イエス様は二人に対して、このように問いかけられました。この問いかけに答えることができなかった二人の弟子をイエス様はどのように扱われたのでしょうか。あなたがたは分かっていない。だからだめだ。弟子としてふさわしくない。一刀両断に切り捨てられたのでしょうか。いいえ違います。イエス様は二人にこう言われました。「来なさい。そうすれば分かる」(39節)。御自分のもとに来るように、と言われ、二人の弟子はイエス様のところに一日、泊まった、ということです。そして、彼らはイエス様と語り合い、イエス様の言葉を聴き、イエス様がだれであるかを知ったのではないでしょうか。私たちはイエス様を信じている、イエス様に従っていると言いながら、右にも左にも曲がってしまうそういう者です。神様の喜ばれること、求めておられることからすぐに離れてしまう者です。そういう私たちにイエス様は「あなたは何を求めていますか」と問われる。そこで私たちはハッとさせられる。自分の歩みについて振り返らされる。悔い改めさせられる。そして、「来なさい。そうすれば分かる」。イエス様の愛の呼びかけを受けて、イエス様のもとに行き、イエス様の言葉を聴くのです。信仰生活はこのことの繰り返しです。大切なことはいつも、イエス様のもとに行くということです。イエス様のところに留まるということです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-08-07 06:00:00 (722 ヒット)

詩編40編8節に「御覧ください、わたしは来ております」とあります。これは主の御前に集い、主に礼拝をささげる私たちのことです。そして、私たちは何をささげるのでしょうか。私は来ております。この言葉から分かることはこの私をささげるということです。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマ12章1節)。礼拝、それは何をささげるか。自分をささげるのです。そして、自分をささげる私たちの日々の生き方は「心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(ローマ12章2節)、このようなものです。これと同じようなことが詩編40編8、9節にも記されています。「わたしのことは/巻物に記されております。わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み/あなたの教えを胸に刻み」。御旨を行う。神様の御心に従うことを行う。そして、神様の教えを胸に刻む。心に蓄える、決して忘れない。主の救いの恵みに応え、自分をささげていきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-07-31 06:00:00 (472 ヒット)

「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(18節)。神様を見た者はだれもいません。しかし、神様は御自身の独り子であるイエス様によって神様を示されました。私たちは人々に神様をお伝えする時、どうするかというと、イエス・キリストをお伝えするのです。私たちの日々の生活は悩み苦しみの毎日です。しかし、14節には「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とあります。イエス様は人となって来られ、私たちの間に宿られた。この「宿られた」というのは、幕屋を張るということ、テント暮らしをされた、ということです。私たちのためにこの世に旅人として、寄留者としてお出でになったということです。そして、私たちの様々な人生の重荷、悩みをすべて知られ、共に担っておられるのです。そのような神様が私たちの神様です。そのような神様だから、私たちは苦しみ、悩みの中にあっても、慰めを受け、立つことができるのです。どうか、これからも私たちの間に宿られたイエス様と共に歩んでまいりましょう。このイエス様をお伝えしましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-07-24 06:00:00 (654 ヒット)

レビ記19章18節に「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」とあります。愛するということ、それは甘やかすというのとは違います。よく言われることですが、神様の愛と義は表裏一体です。間違っていても、過ちを犯しても、いいよ、いいよ、というものではありません。罪は厳しく問われ、戒められなければなりません。愛するとは、罪を放置することではありません。愛するとは、人を罪から救い出すことです。そのために私たちは時に戒め合わなければならないこともあります。そのようなことを知る時、イエス様がその私たちの罪をすべて負ってくださり、身代わりとなって裁きを受けられ、死なれたこと、そのようにして、私たちを罪から救い出してくださったこと。この出来事がどんなに大きなことであるかを知るのではないでしょうか。聖書は神様があなたに語られている言葉です。そして、イエス・キリストの十字架はあなたのためになさった神様の救いのみわざです。あなたに語られている御言葉、あなたのための十字架、そのことをいつも心に留めて、私たちの日々の生活が神様の救いの恵みに対する感謝の応答でありますように。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-07-17 06:00:00 (612 ヒット)

パウロはこう記しました。「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」。自分の弱さを誇る。それは自分の弱さの中で生きて働く神様の力を誇るということです。神様御自身を誇る。コリントの教会の中には、何か特別な聖霊体験をした人たちがそれを誇るようなことがあったようです。それも、神様を誇るのではなく、そのような体験をした自分を誇ったようです。しかし、パウロがこの箇所で示したかったこと、誇りとしたこと、それは病の中で、弱さの中で生きて働く神様の力でした。私たちは人間的な基準で、幸か不幸か、ということを考え、神様の恵みさえも、そういったことから考えることがあるかもしれません。しかし、人間の目には不幸と思える、つらい苦しみの中にあって、弱さの中にあっても、神様の恵み、祝福は変わることがないことをパウロは身を持って示され、そのことを人々に分かち合ったのです。私たちも弱さをおぼえる時、そこにも神様は共におられ、御自身を示される。私たちは互いにこのことを信じて、励まし合い、弱さの中で生きて働かれる主を誇りとしていこうではありませんか。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-07-10 06:00:00 (669 ヒット)

6節以下は献金について、種蒔きになぞらえて記しています。「惜しまず豊かに」(6節)というのは、「好意に満ちて」「喜んで」という意味です。そういうことから言いますと、ささげる態度、姿勢ということが言われていることが分かります。このようなことを言いますと、少しでも、喜んでささげればいいんだ、ということを言う人がいるかもしれません。それは確かにその通りですが、本当に信仰の喜びに満たされたら、少しでもいい、と思えなくなってきます。もっともっとささげたい、という思いが与えられます。家族のこととか、愛している人、気にかけていること、関心のあることなどに対しては、私たちはそれこそ、惜しみなく、何でもしたくなりますが、それと同じようにささげる心が与えられていきます。私たちは神様が私たちに対して、どのような目で見ておられるか、どんなに愛しておられるか、そのことをもっともっと知っていきたいと思います。そして、私たちもまた、神様を愛し、教会を愛する者となっていきたいと思います。その時、私たちのささげもの、ささげる心は変わっていくのです。神様に愛された喜びがあふれてのささげものとなっていくのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-07-03 06:00:00 (513 ヒット)

マケドニアの諸教会はパウロたちの期待以上の献げものを行った、ということです。この5節の「わたしたちの期待以上に」と記されている言葉ですが、ある訳ではこのように記されていました。「私たちが期待したようにではなく、むしろ神の意志(おもい)に従って」(岩波訳)。私たちの期待。私たちは相手に対して、何らかの期待をすることがあります。クリスチャン同士でもそのようなことがあります。特に私たちは若いクリスチャンに対して、こうあってほしい、こういうふうに成長してほしい。そんな期待を寄せることがあります。でも、それは私たちの枠の中に相手を押し込めるようなものです。むしろ、私たちを超えて、私たちが期待したようにではなく、神様がその人をどう取り扱われ、導かれるか。そこに期待していくべきではないでしょうか。これは教会でも言えますし、人を育てる、子供を育てる場合でも、考えられることではないでしょうか。「私たちが期待したようにではなく、むしろ神の意志(おもい)に従って」。神様の思い、ご計画、導きに従って、期待していく者でありたいと思うのです。マケドニア州の諸教会はパウロの考え、思いをはるかに超えて、主のために用いられていきました。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-06-26 06:00:00 (520 ヒット)

パウロはコリントの教会の人たちに対して心を開きました。ところで、この「心を開く」という言葉ですが、ここで言われている意味は「自分の心の中に相手の居場所を設ける」ということです。ですから、心を開くというのは、自分が相手を受け入れるということになります。自分が相手を受け入れる。私たちはより多くの人たちと良い人間関係を結びたいと願う。それは自分がその相手に心を開く。まず、自分がその相手を受け入れるということです。その時、相手も、自分が受け入れられていることを知り、心を開く、互いに受け入れ合うことになっていくのです。パウロはコリントの教会と良い関係ではありませんでした。しかし、そういうコリントの教会に対して、ひたすら、責め続け、裁き続けたのではなくて、私はあなたがたに心を開いた。私はあなたがたを受け入れた。そのように語っているのです。私たちが教会の兄弟姉妹との関係、また、家族との関係、あらゆる人間関係においても、このパウロの人々に対する態度、あり方に倣っていきたいと思います。まず、自分が相手に対して心を開く。まず、自分が相手を受け入れる。これはパウロの生き方であり、また、パウロの信じる主イエスの示された生き方ではないでしょうか。


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