ホーム メッセージ 月間予定表 ニュースレター お問い合わせ
はじめての方へ
メインメニュー
ログイン
ユーザー名:

パスワード:


パスワード紛失

オンライン状況
8 人のユーザが現在オンラインです。 (1 人のユーザが メッセージ を参照しています。)

登録ユーザ: 0
ゲスト: 8

もっと...
アクセスカウンタ
今日 : 7
昨日 : 1414
総計 : 7391473914739147391473914
平均 : 3030
投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-05-15 06:00:00 (649 ヒット)

マルコによる福音書3章13節から、十二使徒の選びの記事があります。選ばれた人たちというのは、群衆とは違う、何か優れたものを持った、できる人たちだったのでしょうか。それについては「これと思う人々」とあります。残念ながら、私たちは聖書から、十二使徒の選ばれた理由、条件といったことをこれ以上、知ることはできません。主に選ばれた十二人。それは祈りの中で選ばれた(ルカ6章12節参照)。そのようにしか言えません。その十二人について、「そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」(14、15節)とあります。自分のそばに置く。そして、派遣させるため。これらのことから、主が選ばれた十二使徒とはどういう者たちか分かること、それは第一に主が共におられるということ。第二に主が派遣された者ということ。そして、第三に宣教し、悪霊を追い出す権能を持たされた者ということです。ここから分かること、それは彼らの能力などについては何も言われていないということです。このことは私たちにも言えるのではないでしょうか。私たちがどのような者であれ、主が共におられることを信じ、主が派遣してくださったことを信じ、宣教と悪霊を追い出す権能を与えてくださったことを信じて励む。後は私たちの側がその信仰に立つかどうか、従うかどうか。それが弟子の条件ではないでしょうか。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-05-08 06:00:00 (441 ヒット)

パウロはトロアスでテトスに会うことができませんでした。そのことについて、自分は「不安の心を抱いたまま・・・マケドニア州を出発した」(13節)とあります。パウロはトロアスでテトスに会い、コリントの教会の状況を聞くはずでした。ところが、そのテトスに会うことができなかった。それでパウロは不安の心を抱いた、とあります。不安の心を抱いてしまったパウロはこの後、宣教旅行を続けられたのでしょうか。マケドニア州を出発した、というのは、それでも、宣教旅行を続けた、ということです。なぜ、続けられたのでしょうか。パウロは状況に支配されなかったのです。目の前の出来事に左右されなかったのです。パウロは主を見上げたのです。主が自分に与えてくださった福音宣教の使命、そこを見つめ、宣教の旅を止めることをしなかったのです。私たちが主のみわざに励む、福音宣教に励む時も、パウロと同じく、心に不安を抱くようなことが度々起こってきます。福音を伝えても無理なのではないか。自分はその器ではないのではないか・・・。しかし、私たちはそこであきらめたり、止めてはならないのです。主を見上げていくのです。主は私たちに福音を伝えるという使命を与えておられる。その主御自身がいつも私たちと共におられる。主の言葉、主のまなざしに押し出されて歩んでいきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-05-01 06:00:00 (515 ヒット)

あの墓の前に立ち尽くしていた婦人たちとは、私たちのことかもしれません。復活の主が見えなくなる、分からなくなる。何かあると、すぐに信仰を見失う。ぐらついてしまう。そういう私たちです。しかし、あの婦人たちのそばに現れた二人の人が私たちのところにも現れてくれる。それは主にある兄弟姉妹であるかもしれません。この私のために祈ってくれるあの人、この人かもしれません。私たちが弱り果て、信仰を見失いそうになる時、愛を持って関わり、祈ってくれる、そして、御言葉を示してくれる人たち。私たちも、その愛に押し出され、祈りに促され、御言葉に聴いていきましょう。そして、復活の主をいつも思い起こすのです。婦人たちの前に現れた二人の人。私たちもまた、あの二人の人のように、人々に御言葉を指し示す者、復活の主を伝える者となっていくのです。8、9節にこのように記されています。「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた」。主の言葉を思い出した婦人たちは、そのことを人々に一部始終知らせた、とあります。私たちもこのことをお知らせしましょう。主は復活された。主は生きておられる。復活の主を礼拝し、復活の主と共に歩みを続けましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-04-24 06:00:00 (705 ヒット)

イエス様は「柔和」(ゼカリヤ9章9節の口語訳。新共同訳は「高ぶることなく」)な方であった。柔和というと、怒らないとか、優しい、といった意味を考えるかもしれませんが、この言葉の意味は新共同訳が訳していますように、高ぶらない、謙遜という意味があると同時に、他者との関係において、その相手を生かす力と言われた方があります。柔和、それは他者を生かす力。まさに私たちの主、イエス・キリストはそのような方なのではないでしょうか。子ろばに乗って、エルサレムを入城されたイエス様。それは柔和なお方、他者を生かすお方として、私たちのもとにおいでになったことを示しているのではないでしょうか。戦争のための馬ではない。作物を耕すためのろば。壊したり、殺したりではなく、作り出し、生み出し、育てることに用いられるろば。そのろばに乗って主は来られた。イエス様こそは、自分を捨て、他者のために生きられ、死なれた方。この方によって、今、私たちは生きる者とされた。生かされている私たちは、先立つ主に倣って、主の私たちへの愛に押し出されて、主と共に、他者のために生きる者へと導かれているのではないでしょうか。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-04-17 06:30:00 (655 ヒット)

主は片手の萎えた人に向かって、「真ん中に立ちなさい」と言われました。それまで、この手の萎えた人は真ん中ではないところ、片隅に置かれていた人だったのではないでしょうか。片隅に置かれる。この人は片手が萎えていた、ということです。病の人でした。人々の間では罪の結果であると言われていたかもしれません。片隅に置かれていた、疎外されていたこの人を主は真ん中に引き出しました。この人も一人の礼拝者だったかもしれません。けれども、真ん中にいることを許されない。あの人はあんな病気になっている。何か、罪を犯したからだろう。人々の冷ややかな視線を浴びながら、片隅で、人に見られないようにして、礼拝していたのではないでしょうか。しかし主は彼を引き出して、あなたこそは神様に愛されている者、真ん中で礼拝しなさい!あなたはこの世のただ中で、この社会で生きていきなさい!と言われるのです。そして、主は今も片隅に追いやられている人たちを人々の真ん中に、神様の御前に立たせて、生きよ、と語られます。あなたは私の愛する、かけがえのない存在。その声に押し出されて、私たちは今日も生きていくことができるのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-04-10 06:30:00 (501 ヒット)

「あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです」(2章10節)。この言葉からおぼえたいことは、「キリストの前で」ということです。私たちはいつも、キリストの前に、神様の御前に立つ者でなければならないのです。神様の前に立つことをしないでいる時、神様を忘れる時、私たちはあの十戒の戒め(出エジプト20章3〜7節)を破るのです。神様でないものを神とする。自分を神とする。その自分という神が人を裁き、自分を裁くのです。私たちは真の神様以外のものを神としてはならないのです。唯一の神様こそは絶対的な方であり、イエス・キリストの十字架の赦しこそは絶対的なものなのです。愛さない、赦さない。そこにサタンはつけ込みます。そして、お互いの関係を破壊、破綻させます。私たちのお互いの関係、それはイエス・キリストの十字架、イエス・キリストによる愛と赦しを介しての関係です。お互いがイエス・キリストの愛と赦しを受けた者、主に愛されている者、主に赦されている者、そのことを思いつつ、お互いにそのことを喜び、感謝しながら、共に主のわざに励みます。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-04-03 06:30:00 (530 ヒット)

私たちは新年度の計画を立てようとします。家庭の計画、教会としての計画もあります。しかし、それが計画通りにいかないことも度々起こってきます。神様の御前に立つとき、私たちの計画というのも、完全なものではない、絶対的なものではないこと、私たちの計画を超えた神様のご計画があることをあることをおぼえたいと思います。私たちには、主の御心、御旨とは今は分からないことも多くありますが、主にゆだねつつ、主の御心を求めて、祈り、励むのです。神様のご計画を求めて、神様の然り、神様の良しとするところを求めていくのです。パウロは「神は真実な方です」(二コリント1章18節)と言いました。新しい一年、私たちの歩みはどのようなことがあるかは分かりません。今は特に不安や心配をもたらすような出来事が次々と起こっています。これからどんなことが起こるのだろうか、どんな時代になるのだろうか、と思わざるを得ない。しかし、忘れてはならないのは、神様は真実な方ということです。神様の私たちに対する愛は変わらない。神様がどんな時にも共におられることには変わりはない。神様は真実な方。そのことを信じて、信頼して、主を見上げて歩んでまいりましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-03-27 06:30:00 (495 ヒット)

「生きる望みさえ失ってしまいました」(8節)。このようなことをパウロは言っています。苦難は私たちに生きる望みさえ失わせるものです。しかし、そこで終わりではありません。「それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」(9節)。苦難にある時、私たちは自分の弱さ、無力さをいやというほど、突き付けられます。しかし、それによって、私たちは真に頼りとするのは何であるか、だれであるか、そのことを知らされるのです。「わたしたちは神に希望をかけています」(10節)。パウロはこのように言いました。そして、さらにこのようにも言います。「あなたがたも祈りで援助してください」(11節)。祈りの援助です。私たちは苦難にある人々のために祈るのです。主の守り、助けを祈るのです。そして、そこから、感謝のわざが起こる。祈りから感謝のわざが起こる。主の慰めを受けた私たちはまた、苦難にある人々を慰める働きへと導かれていくのです。打ちひしがれ、苦しみの中にある人々に主の慰めがあるように、祈りつつ、主の慰めのわざに参与してまいりましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-03-20 06:30:00 (733 ヒット)

教えを受けた人たち、福音を聞いた人たち、そして、いやされた人たち、その人たちが救われた喜びから、イエス様のことを言い広め、そこにまた、人々が様々な病を抱えた人たちを連れて来ました(24節)。そして、主はその人たちをいやされました。私たちは出て行って、福音を宣べ伝えるのです。そして、人々をイエス様のもとに、教会に連れて来るのです。私たちの愛する家族、友人、知り合いの方をイエス様のもとへと、教会へとお誘いするのです。25節にはこのようなことが記されていました。「こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った」。福音宣教について、この個所(23節)では教え、宣べ伝え、いやし、ということが言われていましたが、それはすべての人がイエス様に従うためであり、これこそは福音宣教の目的です。私たちに、私たち教会に福音宣教の働きが託されています。それはすべての人がイエス様に従うために行われるものです。すべての人がイエス様に出会い、救いを体験し、従う者となりますように。このことを祈りつつ、主のわざに励んでまいりましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-03-13 07:00:00 (707 ヒット)

主の招きを受けた漁師たち。彼らは「すぐに」従いました。「網を捨てて」「舟と父親とを残して」従いました。すぐに従う。彼らはおそらく、いろいろと計算したりしないで、従ったのだろうと思います。イエス様に従うとなると、自分たちのこれからの生活はどうなるのか。いろいろと人間的な思いで考える。損得勘定で考える。そうしているうちに決断ができなくなる。すぐに従う。それは自分の考えや思いであれこれと考えるのではなく、すべてを主にお任せしていく、委ねて従っていく、ということではないでしょうか。網を捨てて従った、舟と父親を残して従った漁師たち。彼らにとってかけがえのない、大事なもの、仕事道具であり、家族、それらを捨てて、残して従った。これは本当にすごい決心だと思います。私たちには真似ができないようなことだと思います。しかし、この主への応答がなぜ、できたのでしょうか。福音に触れたからです。神様の言葉、主の救いのメッセージ、それが彼らを導いたのです。福音は自分の最も大事にしているもの、それ以上のもの。彼らはそのことに気づいて、主に従っていったのではないでしょうか。私たちも福音の素晴らしさをもっともっと味わいたいと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-03-06 07:00:00 (627 ヒット)

献金について、週報に「礼拝での献金は強制ではありません。神への感謝の表現」とあります。献金は人間の強制によるものではないのです。しかし、献金は神様の恵みの強制によるものなのです。私たちが神様の恵みを本当に知る時、恵みに強いられて献げずにはおれなくなるのです。この一人の貧しいやもめ、この人は「乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部」(44節)献げました。それは人に見せるためでなく、神様の救い、神様の愛を知っていたから、喜んでいたから、そして、神様への愛の応答から献げたのです。このやもめのように、私たちも神様の救いの恵み、その応答として、感謝と喜びから、献げるのです。神様の恵みに強いられて、神様の恵みに押し出されて、献げるのです。主はこの貧しいやもめの献げもの、貧しいやもめの心、信仰を見られて、「アーメン」と言われました。この人は真実に神様に出会って、神様の救いの喜びに生きている人だ。主は彼女の信仰を真実の信仰と認められ、感動されたのです。私たちも神様の恵みの応答として、神様の恵みに強いられて献げる者でありたいと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-02-27 07:00:00 (650 ヒット)

「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき」(12節)とあります。ここで「聖なる者たち」と言われているのは、私たちのことです。イエスを主と信じる者たちは「聖なる者」です。それは私たちが聖、まったく罪のないきよい者であるということではなく、神様が一方的に愛をもって私たちを招いてくださった、選び出してくださったということです。私たちは神様のものとされた。その私たちに神様が託されたこと、期待されていること、それは私たちが奉仕の業に励み、キリストの体である教会を造り上げていく、ということです。教会を造り上げていく。それはつまり、私たちは今、途上にいる者ということです。完成を目指して、途上にいる者ということです。教会の兄弟姉妹、それも、途上にいる者です。私たちはまだ完成されていない、まだ完全ではないのです。それを私たちは自分がそうでないのにも関わらず、人にそのことを求めたりすることはないでしょうか。そうやって、人を裁いてしまう。そうではなくて、共に手を携えて、完成を目指して、成長していくのです。「愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます」(15節)。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-02-20 07:00:00 (1071 ヒット)

ローマの信徒への手紙12章5節に「キリストに結ばれて一つの体」とあります。教会はキリストの体と言われます。それは「一つの体は多くの部分から成り立ってい」(12章4節)るとありますように、教会にたくさんの体の部分がある。大きいものも小さいものも、強いものも弱いものも、違いがある、様々なものがある。そして、それらが互いに組み合わされて、一つの体とされるというのです。不完全な私たちですが、それがみんなと組み合わされていく時に完全なキリストの体となっていくのです。不完全な私たちが完全になるためにはどうするか。それはイエス・キリストにつながり、兄弟姉妹とつながることによって、完全となっていくのです。互いに愛し合い、頭である主を中心として、主のために働く。その時、組み合わさった私たちはこの世にあって、イエス・キリストを表すことができるのです。私たちは、私たちの内に生きておられるイエス様を表していきましょう。ガラテヤの信徒への手紙2章21節に「わたしは、神の恵みを無にしません」とありました。神様の恵み、私たちを救うために十字架にかかり、命を献げてくださった恵み、この恵みを無にするようなことがありませんように。主の恵みに応えて、共に歩んでまいりましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-02-13 07:00:00 (512 ヒット)

「ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります」(5節)。これは裁きの日、終わりの日を思わせる言葉です。「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます」とあるように、その日にはすべてのことが明らかにされます。私たちは戦々恐々と終わりの日、裁きの日を迎えなければならないのでしょうか。そういう私たちにこの個所はこのように語られています。「そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります」。裁かれるべき、裁かれるはずの私たちです。ところがここには「おのおのは神からおほめにあずか」るというのです。何という慰め、励ましでしょうか。しかしこれは単なる慰め、励ましの言葉ではなく、私たちにこれから起こってくる事実です。イエス・キリストを救い主と信じ、この方に忠実に従って、生涯を全うしていくならば、その人は神様からおほめにあずかる。神様の称賛を受ける。そういう約束が言われているのです。私たちはこの約束を信じて、主のために励んでいきたいと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-02-06 07:00:00 (619 ヒット)

福音宣教の開始、それはイエス様がナザレからガリラヤへ退かれて始まったことでした。バプテスマのヨハネが捕らえられるという状況にあって、福音宣教は始まったのでした。この退くということですが、イエス様は幼い時期、父ヨセフによって、二度、退いたことが聖書に記されています(マタイ2章13〜15節、19〜23節)。しかし、その退きというのは、神様の言葉に従うゆえのことだったのです。実は私たちの信仰生活というのも退いて生きるというものなのではないでしょうか。退く。自分の思い、自分の考え、それらのいっさいを退けて、神様に従っていくのです。一方、前進する、進んでいく。良いことのように思えますが、何のための前進か、そこを注意しなければなりません。自分の願い、自分の目的の前進。私たちはそのような前進ではなく、自分を退けて、主に従う。主が導き、主が進めるところへと従っていく。それが信仰の前進です。使徒パウロはフィリピ1章12節で「福音の前進」ということを言っています。しかし、その時のパウロは獄に入れられており、決して、前進と言える状況ではありませんでした。けれども、パウロの同労者たちは失望落胆することなく、立ち上がり、福音を伝えていったのでした。御言葉の力に励まされ、福音は前進していったのです。


« 1 ... 18 19 20 (21) 22 23 »
PageTop「ャ