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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-11-20 06:00:00 (507 ヒット)

主の言葉、これこそは無くてはならぬ唯一の大切なものです。いろいろな大切なものがある中で、御言葉を聴くことを最も大切なものとしていきましょう。御言葉、それは私たちを思い煩いから解放し、生きる力となります。主の言葉を聴いていきましょう。そして、この御言葉こそは主から私たちへの最高のもてなしです。このもてなしを私たちは喜んで受けていくのです。マルタのように、私たちも、イエス様のために、教会のために、と思って、いろいろなことをしても、喜びがなかったり、人を裁いたりするようなことがある時、自分が御言葉から離れてしまっている、御言葉を忘れてしまっていることに気づかされるのではないでしょうか。御言葉から神様に生かされ、愛されている喜びを味わい、救いの喜びを味わい、その喜びから、主のために、教会のために、あれをしよう、これをしようとするのです。主は今日も御言葉をもって、私たちをもてなしてくださいます。私たちが人々にできる最高のもてなしも御言葉をお伝えすること、分かち合うことです。御言葉によって私たちは生きる力、生きる希望を与えられるのです。これからも、私たちは主のもてなしを受け、人々にも御言葉のもてなしをしていこうではありませんか。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-11-13 06:00:00 (450 ヒット)

「神の業」(29節)、それは十字架の救いの業です。この救いを信じること、それが「神がお遣わしになった者を信じる」(同節)ことです。そして、このことを信じ受け入れた人はどうなるか。その喜びと感謝から、神様の働きに加わり励んでいこうとするようになるのです。愛は人を育てます、成長させます。神様の愛、十字架の愛によって私たちは育っていく、成長していく。愛されている喜びと感謝から、神様のために、人のために、そのような生き方へと変えられていきます。イエス様は人々との対話の中で、ご自身が「命のパン」であると言われました(34、35節)。「永遠の命に至る食べ物」、「命のパン」、それは主ご自身のことです。この方を信じ受け入れていくならば、その人は、飢えることがない、渇くことがない。そのように主は語られます。私たちの心は飢え渇きます。どんなに食べ物やモノで満たされても、それが本当に人の心の飢え渇きをいやすものではないことを知っているはずです。それは一時的な満たしにしか過ぎません。本当に私たちを満たすもの、それはイエス・キリストの愛です。この愛に触れた時、この愛を受け入れた時、私たちは互いに愛し合う者、神様のために生きる者と変えられます。この愛に生きる私たちであるように主の言葉に聴き従いましょう。この愛に生きる人たちが起こされるように主を伝えていきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-11-06 06:00:00 (480 ヒット)

三十八年病に苦しんできた人。どんなにつらかったでしょうか。だれも私のことを分かってくれない。助けてくれない。主はこの人のその心をしっかり受け止められたのではないでしょうか。受け止めて、そして、この人に言われたこと、それは「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」(8節)ということでした。私は以前はこの言葉を読むと、ああ、イエス様は人のことをああだ、こうだ、と言うのを止めて、自立して生きていきなさい。そうおっしゃっているのだ、と思っていました。でも、今考えてみますと、そういうメッセージなのだろうか、と思うようになりました。この人は三十八年、身を横たえて、自分の人生を嘆いていたのではないでしょうか。人生を投げ出してしまいたいと思っていたのではないでしょうか。あきらめの人生になっていたのではないでしょうか。しかし、主は言われました。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」。それはあなたは起き上がることができる。床を担いで歩くこともできる。なぜなら、私が共にいる。私があなたを起き上がらせ、あなたの床、それはあなたの人生、あなたの人生の重荷を一緒に担っていくから。そのようなメッセージとして今、私は聴くのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-10-30 06:00:00 (598 ヒット)

神様が私たちを選ばれた理由、それは神様が私たちを愛されているゆえということです。7節に「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは」とありました。新改訳聖書を見てみますと、「主があなたがたを恋い慕って」と訳されています。神様は私たちを恋い慕っているというほどに、深く愛しておられるのです。私たちが愛するという場合はどうでしょうか。互いを品定めしたり、評価したりして、自分が認める人、自分にとって愛するにふさわしい人、そういう人は愛する、受け入れるけれど、そうでない人は・・・、ということになってはいないでしょうか。そして、その品定め、評価は自分自身にも向けられて、何か失敗したり、できなかったりすると、自分はダメだ、生きていてもしょうがない、と考えてしまう・・・。しかし、神様は私たち人間とは異なり、何かを持っているから、何かができるから、そういった理由でお選びになったのではないのです。「ただ、あなたに対する主の愛のゆえに」とありましたように、ただ愛のゆえに、私たちの命を、存在を喜び、愛されるゆえに選ばれたのです。その神様の愛を拠り所として私たちは生きるように。それが聖書のメッセージです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-10-23 06:00:00 (688 ヒット)

この箇所(マルコ4章26〜34節)には種のたとえが記されています。32節には「蒔くと、成長して」ということが記されています。種を蒔くと成長というのは当たり前のことです。種は地に蒔かれてこそ、成長します。種は地に蒔かれて、土の中に入ってこそ、成長します。でも、種は蒔かれなければ成長しないのです。それと同じように、福音も蒔かれなければ、つまり、伝えなければならないのです。福音は伝えるものであり、自分の中にだけ留めておくものではありません。伝えることによって、人々に福音は知れ渡り、福音を受け入れる人が起こされていくのです。「蒔くと、成長して」。私はこの言葉から、ヨハネによる福音書12章24節の一粒の麦の箇所を思い起こしました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12章24節)。イエス様こそは一粒の麦として死んでくださった方です。そして、そのことによって、多くの実が結ばれ、私たちは死から命へと導かれたのです。主の死にあずかり、新しい命に生きる者とされた私たちは主の言葉に聴き、主の歩みに倣って、福音の種を蒔き続けましょう。私たち自身が福音の種となりましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-10-09 06:00:00 (449 ヒット)

水を求められたイエス様。しかし、最終的なイエス様の目的はこの女性に水を、本当に必要な水、渇くことのない水、永遠の命に至る水を与えることでした。そして、その水とはイエス様御自身です。毎日、人目を避けて、何とか日々、生きるために必要な水をくみ、隠れるようにして生きていたこの女性。けれども、主は彼女のすべてをご存じであり、彼女が本当に生きるために必要なものは渇くことのない、永遠の命に至る水、イエス様御自身であることを示されました。人目を避けなければならない、彼女にそうさせていたのは、彼女の罪だったのではないでしょうか。その罪から離れて、主と共に新しく生きるように。人の愛を求めて生きていた。愛されたい、愛されたい、と愛されることばかりを求めて生きていた。その生き方から、神様の愛を知り、愛されている私が神様の愛に生きることへ。神様を愛し、人を愛する者へ。イエス様はこの一人の人に出会ってくださり、新しい人生を導かれたのではないでしょうか。主イエスは今も、今日も、私たちと出会ってくださいます。そして、私たちにも新しい人生、主と共にある人生を導いてくださいます。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-10-02 06:00:00 (463 ヒット)

ニコデモは主が「新たに生まれねばならない」(7節)と言われたことに対して、「どうして、そんなことがありえましょうか」(9節)と言いました。新しく生まれるなんて、私にはできません、ということです。このニコデモの言葉は真実です。私たちは自分の力で新しくなろうと思っても、それは無理なのです、できないのです。そういう私たちのために、主はおいでくださったのです。自分では新しくなることも、自分で自分を救うこともできない私たちのために、主はおいでくださった。私たちが救われるため、新しく生まれるため、そのために必要なことは何か。それは神様が私たちのためにお送りくださった独り子であるイエス・キリストを信じることです。そうするならば、この方が私たちを日々、新たにさせてくださる、変えてくださるのです。私たちの心の闇、それを主は御自身の光で照らし、罪を示し、私たちを悔い改めさせ、新しく生きることを導いてくださいます。私たちは自分の中にある闇をそのままにしてはなりません。ニコデモは光を求めて、真の解決を求めて、主のもとに行きました。私たちも、主のもとに行き、すべてをきよめていただき、新しく歩んでいこうではありませんか。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-09-25 06:00:00 (581 ヒット)

「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(6節)。ここに「アブラムは主を信じた」とありました。アブラムは前から、神様を信じていたではないか。そのように言われる方があるかもしれません。しかし、ここで言われていることはそういうことではありません。信仰とは、今が大事です。今、信じるかどうか、です。昔、過去に熱心だった、求めていた、というのではなくて、今、主を信じているかどうか、そこが大事なことです。ある方は目覚めてすぐ、自問自答するそうです。それは自分に向かって、「あなたは今日、イエス・キリストを信じるか」と問うのだそうです。そして、「はい、信じます」と告白するのだそうです。私たちも、日々、この信仰の問いかけをしていく。私は今日、今日も、イエス様を信じます。そのような決心を持って歩んでいく者でありたいと思うのです。「主はそれを彼の義と認められた」。信仰によって義とされる。それは、私たちは自分の行いによって救われるのではない。神様を信じることによって救われる、ということです。そして、救われた喜びから、その感謝の応答として行いが起こってくるのです。伝道する、奉仕する、献金する・・・。それは自分が救われるためではなく、救われた感謝、喜びから行うのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-09-18 06:00:00 (517 ヒット)

ヘブライ人への手紙2章1節に「わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません」。また、3節に「これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて」とあります。私たちが聞いた福音について、そして、救いについて、それをしっかりと受け止めていくこと、受け入れていくことが示されています。私たちがイエス・キリストの救いを与えられたのは、決して、当たり前のこと、当然のことではありません。救われるべくして、救われたのではありません。聖書に奇跡の記事が幾つか、記されていますが、考えてみますと、私たちが救われたのはまさに奇跡です。救われるはずのない者を主が御自身、十字架におかかりになり、身代わりになってくださった。この驚くべき救いを心から感謝して、喜び、それに応えて生きることに努めていきたいと思います。そして、私たちに与えられた神様からの使命、それは「すべてのものを、その足の下に従わせられました」(8節)とありますように、このことの実現のために励むことです。すべてのものが主を信じ、主に従うことです。祈りつつ、福音宣教に励みましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-09-11 06:00:00 (470 ヒット)

「このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかった」。水がぶどう酒に変わったという奇跡、主のみわざが起こりました。しかし、それがどこから来たのか、世話役は知りませんでした。知っていたのは水をくんだ召し使いたちでした。水をくんだ召し使い。実際にイエス様の言われるとおりを行った人たちはイエス様のみわざを垣間見たのです。主の言葉に聴き従う者に与えられる恵みはこのようなものです。主に聴き従った者は主のみわざを拝することができるのです。ぶどう酒とは喜びの象徴であると言いました。それで言うならば、この喜びがどこから来たのか、主に聴き従う者は知っているのです。救いの喜び、変わることのない、なくなることのない永遠の喜びを主に聴き従う者は知っているのです。そして、この喜びを知っている私たちは人々にお知らせするのです。それが福音宣教、伝道です。「このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていた」。主の言葉に聴き従う者、主の言われるとおりに生きようとする者はこの喜びを知るのです。主のみわざを見るのです。救いの喜びから、そして、主のみわざを見るために主に従っていきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-09-04 06:00:00 (425 ヒット)

申命記6章6節に「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め」とあります。ここで言われていること、それは神様の言葉を心に留めるということです。心に留める。この言葉は聖書の箇所によって、いろいろな言葉で訳されているようです。箴言3章1節では「わが子よ、わたしの教えを忘れるな。わたしの戒めを心に納めよ」。箴言4章4節では「わたしの言葉をお前の心に保ち/わたしの戒めを守って、命を得よ」。これらの聖書の箇所では「心に納めよ」、「心に保ち」とありました。新約聖書・ヨハネの手紙一5章3節にはこのように記されています。「神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません」。神様を愛するということ、それは神様の掟、神様の言葉を守ることと言われています。私たちはどうでしょうか。みなさんが自分の愛する人の言葉を無視するようなことはあるでしょうか。そんなことはないと思います。愛する人の言葉にはよく耳を傾けるのではないでしょうか。神様を愛する。それは私たちを愛しておられる神様が私たちのために語られる言葉、私たちを愛するがゆえに語られる言葉に耳を傾け、それに生きようとする。それが神様を愛するということです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-08-28 06:00:00 (577 ヒット)

万物の相続者、世界の創造者、神様の栄光の反映、神様の本質の完全な現れ、万物を御言葉によって支えておられる方、人々の罪を清められた方、神様の右の座に着かれた方。この聖書の箇所から、御子イエス・キリストがどのような方であるかを知らされます。イエス・キリストは神の子、救い主です。そして、私たちは主のものです。私たちはただの人にすぎませんが、主によって罪赦された者です。イエス・キリストの御前に立つ時、そこで私たちは自分が何者であるかを知ります。罪人である私たち、しかし、罪赦された者、神様に愛され、生かされている者。イエス・キリストを知るということは、本当の自分を知るということでもあります。ありのままの自分でいいのだ、という言葉をよく聞きます。ありのままの自分として生きる。それはただ気楽に、何事にもとらわれない生き方ということでしょうか。ありのままの自分として生きる。それは聖書の視点からいうと、イエス・キリストに愛され、生かされている自分を知って生きるということではないでしょうか。主に愛され、生かされていることを日々、おぼえながら生きる。神様のありのまま(神様の愛と恵みをそのままに受ける)に生きる人生、それこそは幸いな人生ではないでしょうか。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-08-21 06:00:00 (482 ヒット)

種蒔きのたとえ(マルコ4章1〜9節)はよく知られているたとえ話の一つです。私たちはこのたとえ話のそれぞれの地に蒔かれた種の様子を知って、ああ、私は石だらけの所のような者だ、私は茨の中のような者だ、と嘆くかもしれません。しかし、このたとえから、種を蒔いた人のことに目を注ぐ必要があると思います。種を蒔いた人とはだれでしょうか。それは福音を伝える私たちのことと考えることもできますが、イエス様こそは真の種蒔きではないでしょうか。聖書の舞台であるイスラエルは乾燥した地域で、耕作に適した土地はほとんどないということを聞きます。それでも、農夫は一生懸命、土地を耕して、良い地にして、種を蒔くのだそうです。私たちも、私たちの心も、乾燥した、ゴツゴツした、耕作には適さないような土地のような者だったのではないでしょうか。そういう私たちを主は耕しておられる。そして、私たちが良い地になって、実を結ぶように願っておられるのではないでしょうか。今まで、良い土地ではなかったかもしれません。しかし、御言葉を聞いて生きようとするならば、主は私たちの心を耕してくださり、私たちが実り豊かな人生を生きることができるように導いてくださるのではないでしょうか。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-08-14 06:00:00 (513 ヒット)

バプテスマのヨハネの二人の弟子はヨハネの導きにより、イエス様に従っていきました。その様子をイエス様は知られ、彼らにこのように言われました。「何を求めているのか」(38節)。イエス様は二人に対して、このように問いかけられました。この問いかけに答えることができなかった二人の弟子をイエス様はどのように扱われたのでしょうか。あなたがたは分かっていない。だからだめだ。弟子としてふさわしくない。一刀両断に切り捨てられたのでしょうか。いいえ違います。イエス様は二人にこう言われました。「来なさい。そうすれば分かる」(39節)。御自分のもとに来るように、と言われ、二人の弟子はイエス様のところに一日、泊まった、ということです。そして、彼らはイエス様と語り合い、イエス様の言葉を聴き、イエス様がだれであるかを知ったのではないでしょうか。私たちはイエス様を信じている、イエス様に従っていると言いながら、右にも左にも曲がってしまうそういう者です。神様の喜ばれること、求めておられることからすぐに離れてしまう者です。そういう私たちにイエス様は「あなたは何を求めていますか」と問われる。そこで私たちはハッとさせられる。自分の歩みについて振り返らされる。悔い改めさせられる。そして、「来なさい。そうすれば分かる」。イエス様の愛の呼びかけを受けて、イエス様のもとに行き、イエス様の言葉を聴くのです。信仰生活はこのことの繰り返しです。大切なことはいつも、イエス様のもとに行くということです。イエス様のところに留まるということです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-08-07 06:00:00 (746 ヒット)

詩編40編8節に「御覧ください、わたしは来ております」とあります。これは主の御前に集い、主に礼拝をささげる私たちのことです。そして、私たちは何をささげるのでしょうか。私は来ております。この言葉から分かることはこの私をささげるということです。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマ12章1節)。礼拝、それは何をささげるか。自分をささげるのです。そして、自分をささげる私たちの日々の生き方は「心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(ローマ12章2節)、このようなものです。これと同じようなことが詩編40編8、9節にも記されています。「わたしのことは/巻物に記されております。わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み/あなたの教えを胸に刻み」。御旨を行う。神様の御心に従うことを行う。そして、神様の教えを胸に刻む。心に蓄える、決して忘れない。主の救いの恵みに応え、自分をささげていきましょう。


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