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投稿者 : admin 投稿日時: 2010-11-07 21:17:18 (587 ヒット)

ヨハネの手紙二は長老ヨハネが教会に書き送った手紙である。「長老のわたしから、選ばれた婦人とその子たちへ」(1節)とある。教会に連なる兄弟姉妹を「その子たち」と記し、神の子供たちであることを示しているようである。4節には「あなたの子供たちの中に、わたしたちが御父から受けた掟どおりに、真理に歩んでいる人がいるのを知って、大変うれしく思いました」とある。これがヨハネの喜びである。
教会に連なる兄弟姉妹が真理に歩むことをヨハネは大変喜んでいたのである。また、これは教会の喜び、私たちの喜びでもある。互いが世のただ中にあって、真理に歩むように祈り合い、支え合っていく者でありたい。ところで、ここに「歩む」という言葉が使われている。この「歩む」という意味は「在り続ける、生活する」という意味である。真理に歩む。それは日々の生活のことを指すのである。私たちは日々の生活においてイエス・キリストに従う、御言葉に従うのである。「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(一コリント10章31節)。


投稿者 : admin 投稿日時: 2010-10-31 21:15:13 (595 ヒット)

神の言葉を取り次ぐ者として立たされたモーセでしたが、ファラオを説得できず、イスラエルの民も聞く耳を持たず。すっかり、自信を失ってしまったかのように思えるモーセの姿がここにあります。私たちもこのモーセのように、人の言葉や態度によって、すぐに弱ってしまう者ではないでしょうか。けれども、私たちの信仰の歩みにおいては自信を失う、弱り果てることは大事なことと言えます。それは自分が砕かれる時であり、神様にこそ、希望を置く。神様にこそ自分を委ねる。その大切な機会だからです。モーセは私たちと同じように、人の言葉や態度によって、弱り果て、また、神様の言葉によって立ち上がらされていきました。一進一退の歩みです。そのような歩みの中で、人の言葉や態度に支配されるのではなく、神様の言葉に支配されて生きる者へと、いつも神様を見上げて生きる者へと一歩一歩、前進していけたら、と思います。弱さを抱えた私たちですが、それでも主はそのような私たちを御自身のために用いられます。そのことをおぼえながら、互いに祈り合いつつ、歩んでまいりま しょう。


投稿者 : admin 投稿日時: 2010-10-17 21:13:40 (924 ヒット)

この創世記18章16節以下の個所は神様とアブラハムの会話、対話が記されています。聖書が示す神様は人と対話される神様です。どこか遠くにいて、一方的に語り、命じられるだけの神様ではありません。私たち人間と対話される、語り合われる神様です。創世記18章22節に「アブラハムはなお、主の御前にいた」ということが記されています。この言葉から、アブラハムが神様の前に立ち、神様の語られる言葉に耳を傾けている様子がうかがえます。しかし、ある聖書学者は、この個所の主語はアブラハムではなくて、神様であると言います。ですから、その説に従って言えば、この個所は「主はなお、アブラハムの前に立っておられた」ということだそうです。神様はアブラハムに語られた後、アブラハムの語るのを待っておられたのだ、というのです。神様と私たち人間の関係、それは神様が一方的に語られるだけの関係ではありません。神様は私たちの言葉にも耳を傾けてくださるのです。ソドムの罪を嘆き、叫ぶ、その声に耳を傾けられたように、アブラハムの語るのも、そして、私たちの語るのも、主はそこに立っておられ、待っておられ、聞いてくださるのです。


投稿者 : admin 投稿日時: 2010-10-10 21:11:57 (662 ヒット)

ヤコブの手紙5章16節に「罪を告白し合い、互いのために祈りなさい」とあります。私たちの現実は、自分の苦しみ、弱さを隠し、分かち合うことをしない。罪の告白よりも、自分の正しさを主張し合うというものかもしれません。自分はこういう病があって苦しんでいる。自分はこういう罪を犯した。悔い改めて、新しい出発をしたい。お互いにいやされることを求め、罪の赦しを求め、祈り合う。それこそが教会です。19、20節には「真理へ連れ戻す」、「多くの罪を覆う」ということが記されていました。これが教会の使命です。主のもとに人々が立ち返るように、私たちは福音を伝えていきます。ここには「多くの罪を覆う」という言葉がありました。箴言10章12節には「愛はすべての罪を覆う」とあります。この「覆う」というのは、赦す、という意味ですが、私たちは互いに罪を告白し合う群れであり、罪を赦し合う群れなのです。主が私たちを愛し、赦してくださったように、私たちも互いの罪を覆う。罪を赦し合う。そのようにして、互いに悔い改め、新たに生きる、再出発する歩みをしていく私たちでありたいと思います。


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