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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-04-07 06:00:00 (142 ヒット)

 アブラハムは神様が示す約束の地へ行きました。しかし、幕屋に住んだ(9節)とあります。それはなぜでしょうか?天の故郷を信じていたからです。この世においてはよそ者、仮住まいの者として生きたのです。それはこの世に固執しない、この世に支配されない生き方と言うことです。そして、それは自分に固執しない、自分に支配されない、と言う生き方でもあります。自分さえ良ければよい、と言う生き方ではない、他者のために生きる、他者の喜びや悲しみを一緒に喜び、悲しむ生き方です。これこそは聖書が教える生き方です。けれども、なかなかそういうふうには生きられない私たちですが、どこを見つめて生きるか、何を目当てに生きるかが大事です。自分の罪深さ、自分の弱さだけを見つめて生きるのではなく、私たちを愛しておられるイエス様を見つめて生きるのです。そこから、生きる力、愛する力が与えられるのです。
 私たちは神様から造られ、愛されて生きている者です。そして、この地上、この世では神様の教えに従って生きるように召されています。イエス様は弟子たちにこう言われました。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(ヨハネ15章12節)。イエス様ははっきりと、これがご自分の掟であると言われました。この短い言葉から、二つの大切なことが言われています。一つは「わたしがあなたがたを愛したように」とありますように、神様は私たちを愛していると言うことです。そして、二つ目は「互いに愛し合いなさい」と言うことです。神様が私たちを愛されたように、あなたがたも互いに愛し合いなさい、と言われているのです。私たちは、天の故郷を目指しながら、この地上でどのように生きていったらよいでしょうか?お読みしました聖書には、生き方の原則、土台が言われています。自分が神様に愛されていることを知り、神様が愛されたように、互いに愛し合うと言うことです。神様の愛がこの地上でも、この世でも大いに表わされ、一人一人が神様によって本当に生きた者となるように、私たちは祈りつつ励んでいきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-03-31 06:00:00 (168 ヒット)

 ヘブライ人への手紙11章1〜7節の中には、旧約聖書に出てくる信仰者として、アベル、エノク、ノアの三人のことが記されていました。この中のエノクについて、このように記されています。
「信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。」(ヘブライ11章5節)
 エノクは死を見ないで天に移された人とあります。どういうことでしょうか?エノクのことが記されている箇所、創世記5章21〜23節にはこのようなことが記されています。
 「エノクは六十五歳になったとき、メトシェラをもうけた。エノクは、メトシェラが生まれた後、三百年神と共に歩み、息子や娘をもうけた。エノクは三百六十五年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」(創世記5章21〜24節)。
 ここにエノクの信仰が記されています。それは短い言葉で表わされています。「エノクは神と共に歩み」。NHKのアナウンサーで名前が「あゆみ」という方がおられます。その方のお父様が牧師で、この聖書の言葉から「あゆみ」と名付けられたそうです。この子が神様と共に歩むように、と言う願いから名付けたのでしょう。エノクは神様と共に歩んだ。神様と共に歩む。これが信仰です。
 「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。」(ヘブライ11章6節)
 信仰とは、神様に対する全面的な信頼です。神様を信頼して、共に歩むのです。私たちも神様を信頼して、共に歩んでいきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-03-24 06:00:00 (151 ヒット)

ヘブライ人への手紙10章37、38節は旧約聖書・ハバクク書2章3、4節の引用です。
「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。遅れられることはない。
わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、/その者はわたしの心に適わない。」
 ここに「もう少しすると、来るべき方がおいでになる」とあります。ヘブライ人への手紙10章25節の「かの日が近づいている」と同じことです。イエス・キリストが再びおいでになる、ということです。私たちはその日を待ち望みながら、今を生きるのです。その日、その時はだれにも知りませんが(マタイ24章36節など参照)、私たちはその日が来ることを待ち望んで生きるのです。イエス様が再びおいでになる。これを再臨と言います。この再臨の時、イエス様が裁きと救いの完成をなさいます。私たちの教会では毎月第一主日に主の晩餐式が行われます。その中で「教会の約束」が読まれますが、この中の最後のところに「主と会う日まで、この約束を固く守ります」とあります。この「主の会う日」、これが再臨の時のことです。それまで、私たちはどのようにして待ち望むかというと、イエス様の言葉に聴き従って生きるのです。それが再臨に備えるということです。そして、この再臨の時、私たちに与えられた救いが本当であったことを知るのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-03-17 06:00:00 (104 ヒット)

「ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。」(ヘブライ10章25節)
ここにある「集会」というのは、何かというと、礼拝や祈祷会のことと考えてもよいそうです。「ある人たちの習慣に倣って」とありますように、当時、礼拝や祈祷会をやめてしまう人たちがいたようです。ここに書いてあることを注意深く読むと、集会を怠ったりしないで、あるいはやめたりしないで、集会に出席しましょう!集会を続けましょう!とは書いていないことに注目したいと思うのです。集会に出席しましょう、続けましょう、ではなく、「励まし合いましょう」となっているのです。
「励まし合いましょう」。これはどういうことでしょうか?それは、集会とは励まし合う場だからです。ある方が礼拝について書いたものを読みました。そこに書いてあったことは、私たち人間は神様に造られた者であり、神様を礼拝する者として造られた、というのです。そして、私たちは神様を礼拝することによって、生きる力をいただくのだ、というのです。
神様は私たちをお造りになったお方、本当の親です。そして、私たちはその神様の子供です。礼拝というのは、神様のもとに神様の子供である私たちが集って、一緒に憩うことではないでしょうか。22節には「真心から神に近づこうではありませんか」とありました。礼拝こそは神様に近づく時です。神様は私たちに近づいてくださった。イエス様をお送りくださって、私たちのところにおいでくださった。私たちも主のもとに行き、主と共にあることを喜び、生きる力をいただく。そして、そこからこの世の旅路に出て行く。「励まし合いましょう」とありましたが、私たちがお互いに励まし合い、また神様から励まされて、そこから世の旅路に出て行くのです。礼拝、祈祷会、そういった一つ一つの集まりは神様との親しい交わりの時ではないでしょうか。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-03-10 06:00:00 (133 ヒット)

 私は学生時代に、罪の問題に悩みました。イエス様を信じていても、自分はまったく変わっていないのではないか?イエス様を信じたら、罪を犯さず、新しく生きていくことができる、神様の喜ばれる生き方ができる。そう信じて来たけれども、なかなかそうできない自分。同じ信仰の仲間が一つの聖書の言葉を示してくれました。その聖書の言葉はイザヤ書43章25節です。
「わたし、このわたしは、わたし自身のために/あなたの背きの罪をぬぐい/あなたの罪を思い出さないことにする。」
この言葉を示されて、印象的だったのが、神様が自分自身のためにあなたの罪を思い出さない、と言われたことです。普通だったら、あなたのためにあなたの罪を思い出さないことにする、と言うのではないかと思います。私はあなたのために罪を忘れてやるよ!私たちなら、お互いの関係では、そのように言うのではないでしょうか?けれども神様はそうではないのです。神様は私自身のために、あなたの罪を思い出さない。なぜなのかと言いますと、私たちは神様のもの、私たちは神様に愛されている子供だからです。私のかけがえのない、愛する子供だから、私はあなたを赦している、と言われるのです。この言葉を示されて、ああ、本当に私の罪は赦されたのだなあ、神様は私を赦してくださったんだなあ、と何かホッとしたことを思い出します。赦された喜び、感謝からの信仰生活でありたいと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-03-03 06:00:00 (159 ヒット)

私たちの教会では、毎年二月をスチュワードシップ強調月間として、スチュワードシップについて学ぶ時を持っています。スチュワードシップ、それは神様の恵みの管理者として生きるということです。良い管理者となるためには、その与えられている神様の恵みを知る、おぼえるということです。私は神様の恵みを与えられている。罪から救われ、永遠の命に生きる者とされた。生きるために必要なものの一つ一つを与えられた。すべては神様から与えられたもの。そのことをしっかりと心におぼえることです。そして、与えてくださった神様に応えていこうと努めていくのです。
「こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。4:2 この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。」(一コリント4章1、2節)
 神様の恵みに対する応答は具体的にはどのようにして行なうでしょうか?「神の秘められた計画」とありましたが、これは私たちがまだ知らない神様の大きな救いのご計画という意味だと私は考えます。その神様の救いのご計画のために励むということです。教会にはいろいろな働きがあります。しかし、目的は一つです。神様の救いのご計画という目的のためです。神様が私たちを神様の恵みの良い管理者として用いてくださり、神様の救いが進展していきますように。私の愛するあの人に、この人に救いが伝えられ、救いを受け入れますように。祈りつつ、励んでまいりましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-02-24 06:00:00 (137 ヒット)

今月はスチュワードシップ強調月間ということで毎週の朝の礼拝で教会の方々にスチュワードシップについての証しをしていただきました。ところでスチュワードシップとは何でしょうか?新約聖書・コリントの信徒への手紙一4章1、2節にはこのような言葉が記されています。
「こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです」。
ここに「人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです」とあります。イエス・キリストを救い主と信じる人、それはキリストに仕える者だということです。キリストに仕える。それはまず、イエス様が私たちに仕えてくださった。具体的には、イエス様は私たちを愛し、私たちを罪から救うために十字架にかかってくださった。そのイエス様に応えて、私たちもイエス様に仕えていくのです。信仰というのは、神様の救いの恵みに対する応答です。
次に、イエス・キリストを救い主と信じる人、その人は神様の秘められた計画を委ねられた管理者だというのです。神様の秘められた計画。神様の救いのご計画を委ねられた管理者が私たちというのです。神様は私たちを用いて、ご自分のご計画を行なわれるのです。私たちは信仰生活を歩んでいきますと、自分がいかに神様の愛から、神様の思いから、かけ離れた者であるかに気づかされます。けれども、そういう私を神様が用いてくださる。神様のご計画のために用いてくださる。それは私たちが神様からかけがえのない者として見られているから、愛されているからなのです。
スチュワードシップ、それは新約聖書の原語であるギリシャ語から言いますと、管理者の働きという意味になります。その管理者にとって大事なことは何かというと、「管理者に要求されるのは忠実であること」です。神様に忠実に応答していく、応えていくということです。日々の歩みの中で神様の恵みをおぼえ、それに対して応答してまいりましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-02-17 06:00:00 (148 ヒット)

「『それらの日の後、わたしが/イスラエルの家と結ぶ契約はこれである』と、/主は言われる。『すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、/彼らの心にそれを書きつけよう。わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となる。』」(ヘブライ8章10節)
ヘブライ人への手紙8章10節には「わたしの律法を彼らの思いに置き、/彼らの心にそれを書きつけよう」とありました。律法、モーセの十戒、それは書かれた文字を読み、それに従っていこうとするものでした。ところが、ここには「彼らの心にそれを書きつけよう」とあります。心に律法が書きつけられるというのです。これはどういう意味でしょうか?
新約聖書のローマの信徒への手紙10章4節にこのようなことが書かれています。「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために」。キリストは律法の目標。この目標という言葉は「終わり」(口語訳、聖書協会共同訳)とも訳せる言葉です。他には完成とか、成就とも訳せる言葉です。「律法が目指すものはキリストです」(新改訳2017)と訳してあるものもあります。この言葉が示していることは何かというと、イエス様が律法です、ということです。ですから、この「わたしの律法を彼らの思いに置き、/彼らの心にそれを書きつけよう」というのは、イエス様が私たちの心においでになるということです。イエス様を信じる人にはイエス様がその人の心においでになります。
旧約聖書の旧約、その時代には、神様がモーセに神様の喜ばれる生き方をするために律法をお与えになりましたが、新約聖書の新約、これは今の時代です。今は神様が私たちにイエス様をお与えになった。私たちはイエス様を心にお迎えし、イエス様が新しい律法そのものですから、イエス様に従って生きるように導かれているのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-02-03 06:00:00 (165 ヒット)

ヘブライ人への手紙7章20節からは「誓い」ということが言われています。「また、これは誓いによらないで行われたのではありません。レビの系統の祭司たちは、誓いによらないで祭司になっているのですが、この方は、誓いによって祭司となられたのです。神はこの方に対してこう言われました。「主はこう誓われ、/その御心を変えられることはない。『あなたこそ、永遠に祭司である。』」このようにして、イエスはいっそう優れた契約の保証となられたのです」(7章20〜22節)。
 レビの系統の祭司たちというのは、ユダヤの祭司のことです。ユダヤの祭司はレビ族という部族の出身者がなりました。その人たちというのは誓いによらないで祭司になった、というのですが、この方、これはイエス・キリストのことです。イエス・キリストという祭司は誓いによって祭司になられた、ということです。誓いというのは言い換えると、約束と言っても良いと思います。それでは「この方は、誓いによって祭司となられた」というのはどういうことでしょうか?
 誓い、ということについて、「神による誓い」(新改訳2017)と訳されているものもあります。神様による誓い、神様の誓いということです。神様が私たちに誓いを立ててくださった、約束してくださった。それが、神様はイエス・キリストという祭司をあなたがたのために立てました、ということです。さらに神様の誓いということは神様が私たちに対して、あなたを私は救います!私の大切な御子イエス・キリストによって救います!ということであり、その誓い、約束というのは変わることがありません。主は変わらないお方です。その主に助けていただいて、支えていただいて、主と共に歩んでまいりましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-01-27 06:00:00 (136 ヒット)

 神様に近づくために、どうしたら良いのか?ユダヤ人は、自分たちが神様の律法、掟を守ることによって、神様に近づくことができると考えていました。もしかすると、私たちもこれと同じことを考えているかもしれません。正しい行い、善いことをする人こそは神様に近づくことができる。ですから、その反対の人は神様に近づくことができない・・・。
 しかし、「わたしたちは、この希望によって神に近づくのです」(ヘブライ7章19節)とありました。「この希望」、これは何のことでしょうか?イエス様のことです。私たちは、この希望、すなわち、イエス様によって神様に近づくことができるのです。いえ、神様が近づいてくださったのです。弱さや無力さをおぼえる私、神様の前には一人の罪人である私、しかし、そこに主がお出でになった、神様が近づいてくださった。何という恵みでしょうか。
 ですから、神様に近づくために、私たちはどうしたら良いのか?それは私たちに近づいてくださった、私たちのところにおいでになったイエス様を受け入れるだけで良いのです。以前の掟が廃止された(18節)、とありますが、それはイエス様こそが律法、掟だからです。イエス様が神様の愛そのものだからです。私たちはこの方の言葉を聴いて、従って歩めば良いのです。イエス様が私たちと一緒に歩んでくださって、神様の愛に生きることを導いてくださいます。新しい年も主と共に歩みましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-01-20 06:00:00 (177 ヒット)

創世記32章23節からの箇所は新共同訳の小見出しにあるように、ペヌエルでヤコブが何者かと(何者かというのは神様の使い、あるいは神様ご自身であったと言われます)格闘する場面が記されています。兄エサウとの再会を前にして、ヤコブは祈ります(10〜13節)。そして、家族を導き、川を渡らせ、独り後に残った時に、この格闘の出来事となります(23〜25節)。ところで、ヤコブという名前について、創世記25章26節によると、ヤコブはエサウと双子の兄弟として生まれましたが、生まれる時、ヤコブはエサウの足をつかんでいたそうです。かかとというのがアケブという言葉だそうですが、そこから、ヤコブと名付けられたようです。ヤコブとは足を引っ張る者という意味だと聞いたことがあります。そのヤコブが神様の使いと格闘している時、腿の関節を打たれ、外れてしまいます。それは自分の力でやっていけると思っていた生き方が打ち砕かれたことを意味します。神様の使いはヤコブにこのように言います。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ」(29節)。ヤコブは勝利した、というのです。ヤコブの勝利とは、神様の使いとの格闘(これこそはヤコブの祈りであったと言われます)を通して、自分の力で生きるのでなく、神様の力によって生きる者とされた。今までの自分自身に打ち勝って、神様の勝利にあずかった、ということです。ヤコブはイスラエルと名付けられました。イスラエルとは、神様は戦う、神様は支配される、という意味です。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-01-13 06:00:00 (136 ヒット)

「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ2章14節)
私はこの天使の賛美を読むと、自分は御心、神様の心に適う人になっているのかな?と心配します。それで神様の御心に適う人になるように、一生懸命、新しい一年頑張るぞ!そういう決心をします。でも、本当に御心に適う人になれるのかなあ、と決心はしたもののまた心配になります。昨年、新しい日本語訳の聖書が出版されました。聖書協会共同訳という聖書です。その訳でこの「御心に適う人にあれ」というところを見てみましたら、新共同訳聖書と本文は同じでしたが、注が付いていて、そこには直訳では「神に喜ばれる人にあれ」とありました。御心に適う、それは直訳では神様に喜ばれる人だというのです。
私たちは幼いとき、子供時代、親に喜ばれるように、とあるいは学校なら、先生に喜ばれるように、また教会なら、牧師に喜ばれるように、と頑張って歩んで来られた方がおられるかもしれません。これを別な言い方をするなら、親や先生や牧師に気に入られるように、ということかもしれません。喜ばれよう、気に入られよう・・・。
では神様に喜ばれるというのはどういうことでしょうか?聖書をよく読んで、よくお祈りして、正しい行ないに努めて・・・。それが神様に喜ばれることでしょうか?「神に喜ばれる人にあれ」とは、神様に喜ばれる人になりなさい!ということではなく、神様はあなたを喜んでいるということです。神様はあなたという存在を喜んでいるということです。どんなあなたであっても、あなたの存在、あなた自身を喜ばれる神様ということです。
神様に喜ばれている私は、私を喜んでおられる、愛しておられる。そういう方の言葉を聴きたい、語り合いたい。だから、聖書を読むのです、祈るのです。愛される喜びから、愛してくださっている方の愛に応えていきたいと、神様に従っていくのです。それが信仰ということです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-01-06 06:00:00 (162 ヒット)

「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(ルカ2章6、7節)。
皇帝アウグストゥスの時代、当時、アウグストゥスが救い主と呼ばれていました。しかし、本当の救い主はアウグストゥスではなく、名も知られない夫婦の間に与えられた小さな命、小さな赤ちゃん、その子が本当の救い主なのでした。当時のユダヤの人たちは神の子、救い主がいつかやって来る。その方は私たちのためにどんなことをしてくださるか。大きな、力強い救い主を待ち望んでいたのではないでしょうか?ところが、本当の救い主はそれとはまったく違った、小さな、無力な方としておいでになりました。
飼い葉桶の中にいる救い主。そのことから、おそらくイエス様はどこも行く場所がなくて、家畜小屋におられたのだろう。家畜小屋の飼い葉桶におられたのだろう、と言われています。そして、汚く粗末な家畜小屋の飼葉桶というのは、私たちのことを象徴しているとも言われます。だれにも見せたくない、知られたくない私たちの心の中、罪に支配されている私たち、そこに救い主はおいでくださった。そういう私たちを愛し、受け入れ、神様がお示しになる新しい生き方、罪に支配された生き方ではなく、神様の愛に支配された生き方へと導いてくださる。この救い主と共に歩んでまいりましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-12-30 06:00:00 (188 ヒット)

マリアはこのように神様を賛美しています。「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(ルカ1章47節)。あがめる、というのは大きくなる、という意味です。ですから、神様、あなたのみ名をあがめます、というと、神様が大きくなりますように、ということ、私の内におられる神様が大きくなりますように、ということです。神様を信じても、日々の生活の中で、神様を小さくしてしまっている。神様をどこか隅っこに追いやってしまっている。そういうことはないでしょうか?しかし、私たちは神様をあがめます、と祈っていきたいと思います。神様が大きくなりますように。神様が私の人生の中心におられ、私を支配されますように、と祈っていきたいと思います。
「身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう」(同48節)。自分のことを「主のはしため」とマリアは言っています。マリアは自分が本当に小さな、貧しく、弱い者であると言っているのです。しかし、そういう者に神様は目を留めてくださった。マリアはただ「はしため」と言っているのではありません。「主のはしため」と言っています。自分が主のもの、神様のものであるということを自覚しています。エフェソの信徒への手紙2章10節には「わたしたちは神に造られたもの」とあります。私は神様に造られた者、神様に愛されている者、神様のもの。そのことを知るとき、ここにありますように、自分が「幸いな者」であることを知るのです。マリアは自分から救い主が生まれるという幸いにあずかりました。そして、私たちもその救い主を私たちの心にお迎えし、救い主と一緒に人生を歩む者とされました。それは幸いなことです。私たちは主にあって幸いな者です。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-12-23 06:00:00 (142 ヒット)

受胎告知で知られるルカによる福音書1章26〜38節ですが、この箇所はマリアと主の天使の対話の場面でもあります。マリアはこう言います。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(38節)。マリアは主の天使の告げた救い主がマリアによって誕生することを理解したのでしょうか?いいえ、そうではないと思います。主の天使は一生懸命、困惑するマリアに語りますが、語れば語るほど、ますますマリアにとっては理解できない、ありえないと思えたのではないでしょうか?しかし、マリアは天使の語る最後の一言が心に強く響いたのではないでしょうか。「神にできないことは何一つない」(37節)。私には理解し得ない、何か驚くべきことが告げ知らされている。けれども、この神様の言葉を信じて、神様に自分を委ねていこう。それがこの「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」ということではないかと思います。
マリアは神様から選ばれた人でした。救い主はマリアから産まれることになったからです。しかし、マリアは神様に選ばれるだけの素晴らしい信仰の持ち主だったのでしょうか?いいえ、マリアは自分のことを私は主のはしためと言っていますが、自分は何も特別な存在ではない。優れた者ではない。小さな者に過ぎない。マリアはそう思っていたでしょう。しかし、そういうマリアを神様は選ばれました。
マリアは天使から告げ知らせた神様の言葉をすぐに信じられたかというとそうではありませんでした。幾度もそのやり取りがあり、その中でマリアは「神にできないことは何一つない」、この言葉に自分を賭けた、自分を委ねたのだと思います。このように見ていきますと、マリアが信仰深い人だった、というよりも天使との対話の中で神様はマリアに信仰を与えてくださった。つまり、信仰というのは神様が与えてくださるもの、神様がその人に信じる心を与えてくださるということを知らされます。


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