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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-12-08 06:00:00 (0 ヒット)

「時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい。いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。」(コロサイ4章5、6節)
 「外部の人」とあるのは、まだ教会に加わっておられない人たち、イエス様に出会っておられない人たちのことです。その人たちに対して、「時をよく用い」というのは、機会を見つけては、イエス様との出会いに導くように努めることが言われています。また「塩で味付けされた快い言葉で語」るように、とありました。塩で味付けされた、と言いますと、料理で言うならば、美味しいということになるでしょう。塩で味付けられた快い言葉。別の箇所ではこのようなことが書かれています。
「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。」(エフェソ4章29節)
 この聖書の言葉と併せて読んでみますと、塩で味付けられた快い言葉というのは、私たち自身が神様の言葉にいつも触れ、生かされ、そこから、出てくる言葉であると思います。私は神様に愛され、生かされている。その喜びを日々、味わっている人は語る言葉が違ってくると思うのです。私も自分が普段、どんな言葉を話しているだろうか、と振り返りますと、批判的な言葉や否定的な言葉を話していることがいかに多いことでしょうか。そして、そのような時、自分自身の心が神様の言葉から、神様の心から離れていないだろうか、と反省させられます。私たちがまず聞くべき言葉、第一にすべき言葉、それは神様の恵みの言葉です。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-12-01 06:00:00 (7 ヒット)

 今年は先週11月24日から本日までの一週間、世界バプテスト祈祷週間として、祈祷週間の初日の朝礼拝を世界バプテスト祈祷週間特別礼拝として、世界宣教をおぼえて女性会を中心にして行い、本日最終日の朝礼拝ではルワンダでお働きをされています佐々木和之IMVをお招きして、宣教していただきます。
 私たち日本バプテスト連盟では、返還前の沖縄に始まり、ブラジル、インドネシア、タイ、シンガポールに次々と宣教師を送り出しました。最近は国際ミッションボランティア(IMV)として、短期間、タイ、カンボジアなどアジア諸国に滞在し、教会や地域の人々に仕える働きに携わる人も起こされるようになり、世界宣教の裾野が広がった感があります。IMVでも、長期にわたる働きとして、ルワンダに「和解の福音」を携えて派遣されている佐々木和之氏がおられます。また、シンガポール国際日本語教会(IJCS)の伊藤世里江牧師、インドネシアの野口日宇満・佳奈宣教師ご夫妻、カンボジアの嶋田和幸・薫宣教師ご夫妻、その他、アジアフィールド伝道、福島移住女性支援、ネパールの女性と子ども支援のために、BWAid(世界バプテスト連盟救援委員会)、国際緊急支援(災害などの緊急支援)の働きのために、これからも福音が全世界に伝えられていくように祈りつつ、献げていきましょう。また国内伝道についても併せてお祈りください。今年度の連盟全体の献金目標額は4500万円、赤塚教会の献金目標額は80万円です。目標達成のプロセスに共に加わりましょう。
 世界宣教とは、全世界、全国に出て行っての働きであり、それは私たちの家族、友人など、身近なところでも福音を伝えることです。主の宣教命令を受けて、神様の愛に押し出されて、全世界に目を向けながら、この働きに共に励みましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-11-24 06:00:00 (16 ヒット)

 主は十二人の弟子たちを使徒として任命されました。「任命された」(14節)は元の言葉では「造られた」という意味の言葉です。主はご自分の弟子たちを使徒として造りかえてくださるのです。「彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるため」(マルコ13章14、15節)とありました。イエス様はご自分がお選びになった使徒たちをご自分のそばに置かれました。いつも一緒に歩まれました。イエス様が語られる言葉、イエス様が行われること、それらを彼らはすぐそばで聴き、見て、学びました。そして今、イエス様を信じて救いに入れられた私たちもキリストの使徒として、キリストの使いとして、この世のただ中でイエス様に従うことをイエス様から求められています。私たちも日々、イエス様の言葉を聴き、その歩みを知り、学ぶのです。イエス様の生き方に倣うのです。
 主は私たちを世に遣わされます。使徒たちに宣教させ、悪霊を追い出す権威を持たせた、とありました。宣教、悪霊を追い出す、それはイエス様の福音を宣べ伝えることです。人々が様々な世の罪、悪から解放されるように努めることです。人々がイエス様と出会い、新しい人生を始めることができるように祈りつつ、励みましょう。何か大きなことをするように、というのではありません。小さなことから、身近なところから、始めていくのです。私たち自身は小さな者、弱さをおぼえる者ですが、そういう私たちと主が一緒に歩んでおられること、聖霊の助けがあることを信じて励んでまいりましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-11-17 06:00:00 (23 ヒット)

 信仰生活とは信仰と生活という言葉の通り、観念的なものではありません。それは私たちの実際の生活の中で表されるものです。牧師(私)は礼拝が終わると、何とか聖書の言葉を語りきった。けれども福音を十分にお伝えできただろうか?いろいろな思いを持って、礼拝を終え、今日からの新しい週を歩みます。大事なのはその日々の生活です。聖書の言葉は知っているけれど、聖書の言葉に果たして生きているだろうか?神様の愛を信じていると言いながら、その神様の愛に生きているだろうか?そういう自分にいやというほど、気づかされていきます。本当はそういうことは考えたくないし、見ないようにしたい。その方が楽に生きていけると思う。でも、忘れてしまおうとしても、隠してしまおうとしても、心に痛みをおぼえる。それがイエス様が私たちに与えてくださった信仰です。信仰は私たちの心の目を開かせ、大切なことを見ること、知ることができるようになるのです。
 そして、私たちは悔い改めへと導かれます。悔い改めとは、自分の罪(神様のみ心でないこと、神様の喜ばれないこと)に気づき、生き方を改めることです。そうは言っても、自分自身の力で自分を改めることはできません。自分を新しくすることはできません。そういう私たちのために、私たちを罪から救うために十字架にかかってくださり、私たちが新しく生きるために復活され、今、一緒に歩んでくださっているイエス様。「あなたは何を持ってイエスを主と信じていると言えるのか!」もしそのように問われたなら、「私には何もありません。でも私を愛してくださるイエス様によって生かされているのです。その恵みに少しでも感謝して応えていきたいと願いながら歩んでいます」(ガラテヤ2章20節参照)。私たちが言えることはこのことだけです。私たちの主、私たちの神様、この方に自分を委ねて、歩んでいきたいと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-11-10 06:00:00 (24 ヒット)

そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。(マルコ3章9、10節)
 イエス様が弟子たちにお願いしたこと、それは小舟を用意するように、ということでした。なぜかというと、群衆に押しつぶされないためだった、というのです。10節にもイエス様のもとに集まってきた病にある人たちを癒やされたことで、次から次へと、病に悩む人たちがイエス様に触れようとして、そばに押し寄せた、ということが記されています。
 イエス様は人々の求めに応えられ、癒やされましたが、それがあまりにも多く、イエス様ご自身が押しつぶされそうになった、というのです。私たちはもしかすると、イエス様という方をスーパーマンのような方と考えているかもしれません。どんなにたくさんの人たちが押し寄せてきても、次々と癒やしたり、助けたりするような方と考えているかもしれません。しかし、ここにはイエス様が群衆に押しつぶされないように、弟子たちに小舟を用意させた、ということが書いてあります。神の子、救い主、そういう方でも、押しつぶされそうになる、ということが書いてあるのです。このようなイエス様の様子を知って、私たちはどう思うでしょうか?がっかりするでしょうか?イエス様は神の子、救い主ですから、罪は犯さなかったでしょう。しかし、私たちと同じように、人間としての弱さは体験されたのではないでしょうか(ヘブライ4章15節参照)。イエス様もお一人ではできない。イエス様は弟子たちに小舟を用意してほしい、とお願いしています。つまり、弟子たちに助けを求めたのです。
 イエス様は弟子たちの協力を求めました。教会はイエス様が私たちに一緒に神様の働きを行いたい。一緒にこのために協力してほしい。その呼びかけに応えて励むところではないでしょうか?使徒パウロはこう言っています。「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」(二コリント6章1節)。神様の協力者と言っています。私たちは神様の協力者なのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-11-03 06:00:00 (37 ヒット)

 信仰とは何でしょうか。それは自分の信じる力、信じる行いということではありません。聖書が教える信仰は信頼、神様に対する信頼です。律法学者とファリサイ派の人々がイエス様にしるしを見せてくれるように願いました(マタイ12章38節)。それに対して、イエス様はヨナのしるしの他にはしるしは与えられないと言われました(同39節)。ヨナのしるしとはイエス様の救いのみわざのことです。私たちがしるしを求めるとき、神様はいるかいないか、そのしるし、証拠を求めています。例えば、だれかが自分に親切にしてくれた。ああ、自分にとって良いことがあったから、神様がいると認めよう。これこそは神様がいることのしるしだ。でも、自分にとって悪いことがあったら、それは神様なんていないことのしるしだ。しるしを求める信仰とはそういうものです。けれども、イエス様は言われました。あなたたちに与えられた神様からの唯一のしるし、それは主の十字架の愛なのだ、イエス様ご自身なのだと。
 イエス様が示された信仰とは、神様を信頼することです。私たちを愛し、十字架の救いのみわざをなさった神様の愛を信じることです。人生にはいろいろなことが起こってくる。けれども、あなたの心に、あなたの人生にあなたを愛しておられるイエス様がおられる。だから、あなたは守られる、大丈夫。そのことを信じる、信頼することです。
 43節からのイエス様の言葉、それは心を空き家にしてはいけない、空っぽにしてはいけない。あなたの心に、あなたの人生にイエス様をお迎えしましょう、というメッセージです。汚れた霊とは私たちに生きる希望を失わせるもの、生きる喜びを失わせるものです。自分がどんなに正しく、立派に生きようとしても、私たちを変わることなく、愛し、支えておられる方を見失っているならば、すぐに汚れた霊に心を奪われてしまいます。イエス様をお迎えし、イエス様を信頼して日々歩んでまいりましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-10-27 06:00:00 (28 ヒット)

「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」(マタイ12章33〜37節)
心にあることが口から出てくるとあります。政治家の失言ということがよくニュースになります。失言した政治家は「心にもないことを言ってしまい、申し訳ありません」と謝罪をします。しかし、心にないことを口に出して言うことはありません。心にあることを人は口に出すのです。失言というのもおかしいと思います。言った言葉、それがその人の考え、人格を表すのであって、失言というよりはその人の本音と言ったほうが良いでしょう。
35節に「善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる」とありました。私たちの倉、すなわち、心は何を入れているでしょうか?心に入れているものから外に出てきます。教会で毎日、聖書を読みましょう、祈りましょう、と言われることがありますが、これは良いものを私たちの心に入れるということです。
主の言葉を心に蓄える。主の言葉、主のお考えが私たちの心を支配するように。これが主が私たちに求めておられることです。詩編119編11節にこのような言葉があります。
「わたしは仰せを心に納めています/あなたに対して過ちを犯すことのないように。」
口語訳聖書ではこのようになっています。
「わたしはあなたにむかって/罪を犯すことのないように、心のうちにみ言葉をたくわえました。」
神様の言葉を心に蓄えましょう。そして、神様のみ心が私たちを支配しますように。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-10-20 06:00:00 (43 ヒット)

 マルコによる福音書3章5節には、イエス様の問い(「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」・4節)に沈黙する人たちに向かってのイエス様の態度、様子が記されています。
「そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。」(5節)
 真ん中に立たされた片手の萎えた人のことを考えてみましょう。この人は安息日に会堂に来て、神様を礼拝していたことでしょう。この人は神様に対して、自分の萎えた手が癒やされたいと願いを持っていたのではないでしょうか。神様にそのことを祈っていたのではないでしょうか。イエス様は人の心を見られる、知られる方です。その人の心にある願いを知り、癒やされようとしたのではないでしょうか。ところが、人々はこの人は片手が萎えて不自由だけれども、命に関わるほどのことではない。それなのにあのイエスという人はこの人を癒やそうとしている。それは安息日を破ることだ。人々にとっては、この人が抱えている心の苦しみ、痛み、それよりも安息日にするかしないか。そちらに関心が向けられていました。それがかたくなな心ということです。人の苦しみ、痛みを知ろうともしない、無関心、それが、かたくなな心ということです。イエス様は人々のかたくなな心を悲しみながら、そこで片手の萎えた人に言われます。「手を伸ばしなさい」。主が言われたこの言葉を聞いて、手を伸ばしてみたところ、その手は元通りになった、回復したというのです。
 主は人々の前で片手の萎えた人を癒やされました。片手の萎えた人とは私たちの周りにいる苦しみにある人、痛みにある人のことです。安息日、主の日は神様に愛されているお互いが神様の恵みにあるように覚えるとき、祈るときです。そして、神様を礼拝するときです。安息日に善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。主は善を行われ、命を救われました。安息日、主の日に礼拝するとは善を行われた方、命を救われた方を覚えるときです。私たちは主の日に教会に集まり、主の愛のわざを覚え、この主の日から、教会から世に派遣されて、善を行うこと、命を救うことに励んでいくのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-10-13 06:00:00 (39 ヒット)

 主は「安息日は、人のために定められた」(マルコ2章27節)と言われました。このことに関連して、旧約聖書の十戒の安息日について書いてある箇所があります。出エジプト記20章8〜10節と申命記5章12〜15節です。出エジプト記では「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(出エジプト20章11節)。とあり、申命記では「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである」(申命記5章15節)とあります。出エジプト記には神様の創造のみわざを思い起こして感謝すること、申命記にはイスラエルの民がエジプトから救い出されたこと、これは私たちにとっては罪から救い出されたことを思い起こして感謝するということになるでしょう。安息日、そして、私たちにとっての主の日の礼拝、それは神様の恵みを思い起こす日、時なのです。
 私たちの教会の今年度の年度聖句は詩編103編2節です。「わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない」。新改訳聖書も分かりやすく訳されています。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」。主の日、それは神様が私たちになさった恵みを感謝する日です。神様の恵みを思い起こしましょう。神様は私たちを愛しておられる、私たちをかけがえのない存在としておられる。そのことを思い起こしていくとき、私は今日も生きていくことができる、やっていける。主が私と共におられるから、主が私を愛しておられるから大丈夫。礼拝は、教会生活は、人を生かすためにある、私たちに生きる力を与えるものなのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-10-06 06:00:00 (60 ヒット)

コロサイの信徒への手紙3章12〜17節、ここには「感謝」という言葉が何度も出ています。「いつも感謝していなさい」(15節)、「感謝して心から神をほめたたえなさい」(16節)、「イエスによって、父である神に感謝しなさい」(17節)。私たちは「感謝」という言葉、日常でどれだけ使っているでしょうか?ある人はこう言いました。「聖書に感謝という言葉がたくさん出てくるけれども、感謝できることは少ない」。自分にとって良いことがあったら、神様に感謝できますが、そうでないときはなかなか感謝できないかもしれません。「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」(17節)。何を話すにも、行うにも、というのは私たちの日常生活のことです。すべて主イエスの名によって行い、というのは、いつもどこでもイエス様が一緒におられることを意識していなさい、ということではないでしょうか。そして、ここには「イエスによって、父である神に感謝しなさい」とありますが、私たちが神様に感謝できるのも、イエスによって、ということ、イエス様が私たちを感謝する者へと導いてくださるということです。
自分にとって良いとは思われないことがあると、感謝することは難しいです。そういうとき、無理に感謝する必要はありません。感謝できない私。でも、その時、イエス様を見つめてください。イエス様の私に対する関わりを思ってください。愛せないとか、赦せないとか、感謝できない・・・、そういう私を変わることなく、主は愛しておられる。その変わらない主の愛を思い起こす。主の愛を知り、主に愛されている私を知る。そこから小さな感謝の心が芽生えてくるのではないでしょうか。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-09-29 06:00:00 (60 ヒット)

「互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」(コロサイ3章9、10節)
 ここには、嘘をつくな、ということが言われていました。嘘をつく。不真実、真実を言わない、真実に生きないことです。神様に造られ、神様に愛されている私。神様に造られ、神様に愛されているあの人、この人。それが聖書に書いてある真実です。それなのに、それを否定する。そうでないと思い込む。私は、あの人は神様に愛されていない。私たちは、自分が愛されていないと思うと、何をやってもよい。自分の欲望のまま、思いのままに生きようとするのではないでしょうか。でもそれは嘘、真実ではないのです。続いて、このようなことが語られています。「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達する」。
 私たちはイエス・キリストに出会ったら、もう古い人ではないのです。新しい人なのです。古いというのは、罪に支配された、自己中心の生き方をする私です。でもあなたは古いままで終わらない、というのです。古い人をその行いと共に脱ぎ捨てた。そして、造り主、これは神様のことです。神様の姿に倣う新しい人を身に着ける。創世記1章27節に「神は御自分にかたどって人を創造された」とあります。神様の心、お考えを表す存在として人間は造られた、ということです。
 ヨハネという人は神様とはどのような方であるか、一言でこう言い表しました。「神は愛」(一ヨハネ4章8節)。私たち人間は神様の愛を表す存在として造られたのです。考えてみますと、私たちは自分が愛されていることを知ると元気になります。心がワクワクします。けれども、自分は愛されていない、受け入れられていない、そう思うと、悲しくなります、生きる力も失います。神様は愛。私たちは神様に愛されている者です。愛されている喜びを持って生きるのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-09-22 06:00:00 (71 ヒット)

「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。」(2章19、20節)
 ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は断食をするのに、イエス様の弟子たちはしない。どうしてか?その質問に対する答えがこれでした。ユニークなのは、花婿とか、婚礼という話をなさっていることです。このイエス様の言葉から分かることは、花婿というのはだれか、ということです。ここで花婿とはイエス様自身のことです。すると、花嫁がいるわけですが、花嫁はだれでしょうか?それは私たちのことです。
 教会は「キリストの花嫁」と言われます。エフェソの信徒への手紙5章21節以下には「妻と夫」というテーマの箇所があります(エフェソ5章21〜33節参照)。ここには妻と夫に対する勧めが記されていますが、それだけでなく、教会とキリストが妻と夫の関係になぞらえて語られています。私たちはキリストの花嫁です。花婿であるキリストを喜んでお迎えする。それが今、この時なのだ、とイエス様は言われたのです。
 イエス様はこう言われました。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない」。断食というのは、神様に心を向ける大切な信仰のあり方です。でも、今、その神様のみ子であるイエス・キリストが私たちのところに来てくださったのです。イエス様が私たちと一緒にいるのです。神様の前に罪を悔い改めることは大事なことです。自分の日々の歩みを振り返り、神様の愛に生きることができただろうか?神様の正しさに生きることができただろうか?そのことを自問自答する。そして、明日からの歩みはどうか、神様のみ心に適った歩みができますように、と祈る。
 しかし、そのイエス様が私たちのところに来てくださった、一緒に歩んでくださるというのです。自分で一生懸命に頑張ろうとしても、頑張れない、頑張っても罪を犯してしまう、そういう私たちと一緒に歩んでくださるのです。だから、私たちは明日からは一生懸命、罪を犯さないように頑張ります!と誓ったりしなくても良いのです。私のところにおいでくださった、一緒に歩んでくださったイエス様が私をご自由に用いてください、私を使って神様の愛と正しさを表してください、と祈れば良いのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-09-08 06:00:00 (68 ヒット)

頭であるキリスト。「この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ」(コロサイ2章19節)とありますが、これは教会のことです。教会を人間の体に例えて言われています。イエス・キリストが頭。そして、私たちは体の各部分です。
私は今でこそ、手足も自由に動きますが、数年前に手足が動かなくなる神経の病気になったことがあります。手を動かすリハビリをしていた時のことです。リハビリの先生が手は動かなくても、その手をじっと見つめて動くように頭で思いなさい、と指導されました。実際には手がさっぱり動かないのに、そんなことを言われるので困ってしまいましたが、先生の指導の通りにしました。これは頭(脳)から手が動くように指令する訓練なのでしょう。最初のうちはまったく動きませんでしたが、時間が経つうちに少しずつ手が動くようになりました。イエス様が頭。イエス様のお考え、思い、それを知り、そのために励むのが教会なのです。
キリストを信じる成人、キリストを信じる大人。それはキリストを頭として、キリストにしっかり付いていく。そうするならば、育てられ、成長してゆくというのです。最初のうちはイエス様の言われること、お考え、それがなかなか分からないかもしれませんが、ずっと続けてゆくうちに少しずつ、分かってくるのです。そして、イエス様の言われること、お考えを私たちの生き方の中に反映させることができるようになるのです。それがキリストにある大人、成人です。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-09-01 06:00:00 (71 ヒット)

 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5章13〜16節)
 塩と光、地の塩、世の光の話がここに語られています。暑い夏を過ごしています。熱中症にならないように、こまめに水分を補給するように、と言われます。しかし、水分だけでなく、塩分も必要だと言われます。お読みしました聖書では、塩ということでは、塩味と言われていました。食塩のことです。食塩として使われる塩は料理ではもっぱら隠し味として使われます。塩そのものが目立ってはならないのです。塩というのは、まわりを引き立たせるための役割があるということ、他者を支え、助ける生き方が示されています。
 そして、光。光の話をしているのに、山の上の町のことが例えとして挙げられています。これは当時のユダヤの都エルサレムを指しています。隠れることができない町。私たちも人々の前に隠れることなく、表わしていく存在なのです。それは続くともし火の例えでさらに示されます。ともし火を升の下に置くことはしません。ともし火はまわりを照らす、部屋を照らす役割があるからです。蛍光灯を部屋の下に取り付ける人はいません。それでは意味がありません。天井の方に取り付けます。
 「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」。ともし火の火、光は人々の前に表わされるものです。光とは、ここに書いているように、立派な行いということです。私たちが立派な行いをしたら、人々は私たちを素晴らしい人だと言って、あがめるように思いますが、ここにはあなたがたの天の父、神様があがめられるようになる、と書いてあります。ここで言われていることは、光とか、立派な行いというのは、私たちから出たことではない、ということです。神様が私たちに光を与えてくださった。この光というのは何かというと、私は三つのことで表したいと思います。それは信仰、希望、愛です(一コリント13章13節)。神様があなたがたに与えてくださった信仰を、神様があなたがたに与えてくださった希望を、神様があなたがたに与えてくださった愛を人々に表わしなさい。そのようにして、私たち人間は神様を表わす存在とされているのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-08-25 06:00:00 (75 ヒット)

「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」(マルコ2章7節)
イエス様が中風の人に対して、「子よ、あなたの罪は赦される」(同5節)と言ったことに対して、律法学者たちは批判しました。しかし、ここには律法学者たちがこのようなことを発言した、とは書いてありません。「心の中であれこれと考えた」(6節)とあります。心の中であれこれと考える。私たちもこういうことはあるのではないでしょうか。自分の言った言葉、行なった行動。それは神様に喜ばれることなのだろうか?それとも・・・。心の中で考えるということは、その人の人間としての本質を表わすことです。本当の自分の姿がそこで分かる。この後の聖書の記事を読んでいきますと、イエス様は律法学者たちの心の中と対話しておられるのです。口に出していないことなのに、イエス様は彼らの心をご存じで、対話しておられるのです。
イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。」(8節)
 イエス様は彼らの心の中の考えをご自分の霊の力ですぐに知って言われた、とあります。イエス様という方は人の心を知る方なのです。私たちの心の中をご存じの方なのです。そこでイエス様は律法学者たちの心の中と対話されたのです。そして、今、私たちとも対話されるのです。


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