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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-11-19 06:00:00 (0 ヒット)

イエス様はご自分が復活であり、命と言われ、ご自分を信じる者は死んでも生きる、決して死ぬことはない、と言われました。そして、あなたはこのことを信じるか?と尋ねられました。マルタはこう答えました。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」(ヨハネ11章27節)。この言葉からは、マルタが、イエス様が復活であり、命であるということを信じていたかは分かりません。マルタが言っていることから分かるのは、イエス様のことを神の子、メシア、救い主であると信じていたということです。私はおそらく、マルタは、イエス様が復活であり、命であるということは、マルタ自身にとって初めて聞いたことだったと思いますから、理解することも、信じることもできなかったと思います。しかし、マルタはイエス様が神の子、救い主ということは信じていました。私はこのマルタの言葉を読みながら、私たちがイエス様を信じた時も、これと同じだったのではないかと思いました。
マルタはイエス様を神の子、救い主と信じていました。けれども、まだ十字架の救いのこと、復活のこと、永遠の命のことははっきりとは分からないまま信じていたと思います。しかし、これはマルタの大切な信仰告白として、聖書に遺されているのです。そして、イエス様はまだはっきりとは分からない、信じられないでいるマルタに、そして、私たちにこれからも語りかけてくださり、イエス様を信じることがどんなに大きな恵みであるか、素晴らしいことであるかを教えてくださるのです。ですから、私たちはこれからも主の言葉を聴き続けていきましょう。主が私たちの心の目を開いてくださり、分からせてくださいます、教えてくださいます。「主よ、お話しください。僕は聞いております」(サムエル記上3章9節)と祈りつつ、主の言葉に聴いてまいりましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-11-12 06:00:00 (4 ヒット)

「兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また、“霊”が与えてくださる愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください」(ローマ15章30節)。
パウロは、私のために祈ってください、と言っています。そして、私と一緒に祈ってください、とも言っています。
私のために祈ってください。私たちはお互いのために祈り合うのです。あの人やこの人のために祈ろう。それだけではなく、自分のことも祈ってください。自分のことも祈ってもらう。私たちはそういう群れでありたいと思います。そして、私と一緒に祈ってください。教会は兄弟姉妹と一緒に祈るところです。毎週の祈祷会で、教会姉妹が一緒に祈り合います。日曜日に礼拝に集ったお互いも一緒に祈ってみませんか?祈りの課題を出し合い、私のために祈ってください。互いにそういって祈り合うのはいかがでしょうか?
この30節の言葉がフランシスコ会訳ではこのようになっていました。「どうか神に対してわたしのために祈り、わたしとともに戦ってください」。「わたしとともに戦ってください」。この言葉ですと、祈りは戦いであるということが示されます。祈りは戦いです。ヤコブが神様の使いと組み打ちした場面(創世記32章24節以下)ではヤコブが神様の使いと戦ったのは、祈りであったと言われます。ヤコブの祈りはこのような祈りでした。「祝福してくださるまでは離しません」(創世記32章27節)。ヤコブは神様が私を祝福してくださるまでは離しません、と言って、神様の使いから離れることをしませんでした。私たちも神様にしがみついて祈っていきたいと思うのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-11-05 06:00:00 (17 ヒット)

ヨハネによる福音書11章からは、ラザロのことが記されています。マリアとマルタの姉妹はイエス様のもとに使いを送り、そして、自分たちの兄弟ラザロが病気であることを伝えています。「姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた」(ヨハネ11章3節)。彼女たちの兄弟であるラザロについて、「あなたの愛しておられる者」と言っていることは注目すべきことです。ラザロはイエス様、あなたの愛しておられる者です。
ラザロのことを心から愛していた、大切に思っていたのは、マリアとマルタの姉妹であったでしょう。しかし、この姉妹たちは自分たちももちろん愛しているラザロであるけれども、イエス様も愛しておられる。そう信じていたのだと思います。それはこの姉妹がイエス様との出会いを、人格的な出会いを体験し、自分たちはイエス様に愛されているということを知っていた。そして、私たちを愛しておられるイエス様はラザロのことも愛しておられる。そう信じていたのだと思います。
イエスを主と信じた私たちもイエス様がこの私を愛しておられる、と信じていると思います。イエス様を信じるというのはそういうことです。イエス様がこの私を愛しておられることを信じる。子供の時、教会学校でよく歌った賛美歌が「主われを愛す」でした。子供の時におぼえた歌は口ずさむことができるほど、おぼえているものです。「主われを愛す」。救い主イエス様は私を愛しておられる。
 そのイエス様は私を愛しておられるだけでない。私が愛している家族のことも愛しているはずだ。私たちはそう信じたいと思います。マリア、マルタは、私たちを愛しているイエス様は私たちの兄弟ラザロのことも愛しているはずだ。だから、彼女たちはこのように言うことができたのです。「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」。この確信を私たちも大事にしたいと思うのです。皆さんの家族や友人、出会う人、その一人一人について、主が愛しておられる者。
もしかして、その人はまだイエス様に出会っていない。イエス様を信じていないかもしれません。でも、イエス様はその人を愛している。イエス様は、私を愛さないから、私もあなたを愛さない。そういう方ではありません。考えてみると、私たちもかつてはそうでした。イエス様を知らない、愛さない。でも、その時も主は私たちを愛しておられました。そして今、その愛を知り、その愛に応えて生きようとしています。クリスチャンとして生きるというのはそういうことです。イエス様の愛を信じて、その愛に応えて生きる。新たに主に出会い、主の愛を信じて生きる方がありますように。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-10-29 06:00:00 (18 ヒット)

マリアとマルタの姉妹の話は聖書の中でもよく知られています。ルカによる福音書10章38節から、その聖書の記事が記されています。イエス様は忙しさの中で思い悩むマルタに向かって、言葉をかけられます。それがこの言葉です。
主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。10:42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ10章41、42節)
「主はお答えになった」とありました。マルタがイエス様に尋ねているのです。主よ、なぜですか?と。すると、マルタの問いに主はお答えになりました。それは「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」ということでした。口語訳聖書では「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」となっていました。
「必要なことはただ一つだけ」、「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけ」。私たちにとって大切なことは幾つもあります。あれもこれも大切です。しなければならないものです。しかし、主は私たちにとって本当に大切なものは一つなのだ、と言われます。この後、主は「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と言われますが、この「良い方」という言葉は岩波訳では「善い分け前」となっています。この言葉からは、神様が与えてくださるものということを連想します。神様は私たちに善い分け前を与えてくださる。しかし、「選んだ」とありますから、それを選び、それを受け取るのは私たちの意思によります。
マリアはその神様が与えてくださる善い分け前を選び、受け取りました。マリアが選び、受け取ったのはイエス様が語られるみ言葉であり、救いでした。神様はそれをみんなに与えたい。善い分け前として与えたいと願っておられます。その善い分け前のことを主は「必要なことはただ一つだけ」、最も大切なものと言われたのです。私たちはそれを選び、受け取るでしょうか?


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-10-22 06:00:00 (24 ヒット)

パウロが自分に与えられた働きをどのように考えていたか、次の言葉から分かります。
「そこでわたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました」(15章17〜19節)。
 「互いに戒め合うこと」(同14節)、信仰のアドバイスを聞けなくするのは、自分のプライドが原因です。それが聞くことを妨げるのです。自分のプライド、誇りが主に従えなくしてしまうのです。しかし、パウロはこう言っています。「わたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています」。パウロの誇りは神様のために働くことでした。こうも言っています。「キリストがわたしを通して働かれたこと」。神様のための働きをさせていただいている。しかし、それはキリストが私を通して働かれた。私ではなくて、私の力や知恵ではなくて、神様が私を通して働かれた。そして、そのことがパウロの誇りだというのです。
 私の誇り、プライド。私がこれだけのことをした、あれだけのものを持っている・・・。自分の行い、自分の持ち物、自分の知恵、自分の力、そういったものが自分の誇り。しかし、パウロはそれらのものはすべて神様が与えてくださったもの、神様が私にさせてくださったこと。だから、自分自身を誇ることはできない。誇るべきは、私を通して働かれる神様なのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-10-15 06:00:00 (24 ヒット)

「ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった」(創世記19章26節)。ロトの妻が後ろを振り向いた、とあります。信仰生活、神様に従って生きるということは、後ろを振り向かない、ということです。後ろを振り向いたら、塩の柱になるのです、前に進めなくなるのです。後ろというのは、自分の過去の罪の生活であったり、むしろ、過去の華々しい栄光であったり、人それぞれ違いますが、今、自分が神様に従うことを妨げるものです。それは捨てていくのです、離れていくのです。そして、前に向かって進むのです。ヘブライ書の著者はこう記します。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(ヘブライ12章1、2節)。
創世記19章29節には「こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された」とありました。この「神はアブラハムを御心に留め」ということ、これはアブラハムの執り成し(創世記18章)のことです。神様はアブラハムの執り成しの祈りを聴いていてくださったのです。それで甥のロトは救い出されたのです。アブラハムは自分の甥である、家族であるロトのために祈りました。私たちも、私たちの愛する家族が神様の救いにあずかりますように。神様は祈りを聴いてくださる。そのことを信じて、祈り、伝えていきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-10-08 06:00:00 (26 ヒット)

「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった」(ヨハネ10章41節)。
聖書を読んでいきますと、二つの信仰を知らされます。一つはしるしを見て信じる信仰です。イエス様がこんな奇跡を行なった。病気の人を癒した。悪霊を追い出した。だから信じる。そういう信仰です。もう一つは、この方について話したことは、すべて本当だった、真実だった。神様という方は真実な方だから、信じるという信仰です。もっとこの二つの違いをお話しますと、しるしを見て信じる信仰というのは、自分が祈って、願ったことがかなえられたから信じる。かなえられなかったら信じることをやめる。自分の考えや思いと違うから信仰生活をやめる。言ってみれば、自分を主体とする信仰です。
一方、神様は真実であると信じる信仰というのは、自分が祈って、願っていたことがかなえられていない。そこで信じることはやめた、ではなくて、その時、そのことについても神様に尋ねるのです。神様、あなたは私の祈りに応えてくださらないのですか?あなたはこのことについてどのようにお考えなのですか?あなたは何を私に語っておられるのですか?神様にどこまでも尋ねていく、聴いていく、神様と対話していく信仰です。これは自分ではなく、神様を主体とする信仰です。すぐには、答えはないかもしれない。自分の思い通りの答えではないかもしれない。でも、神様は愛である、真実な方である。そのことを信じて、すべてを受け止めていく信仰です。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-10-01 06:00:00 (52 ヒット)

ローマの信徒への手紙15章7節には、「神の栄光のために」ということが言われていました。私たちが互いに相手を受け入れるというのは、神様の栄光のためなのだ、というのです。別の訳では、このように訳されています。「キリストがあなたたちを受けとめてくださったように、あなたたちは互いを受けとめ、神を輝かし出してください」(本田哲郎訳)。この訳では、神様の栄光のために、ということが、神様を輝かし出してください、となっています。イエス様の山上の説教の中にはこのようなことが記されています。
「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(マタイ5章14〜16節)。
 「あなたがたは世の光である」とあります。ここで注意しなければならないことは、あなたがたは世の光になりなさい、とは言われてはいない、ということです。もう既にあなたがたは世の光なのだ、ということです。イエス様を救い主と信じたら、神様と信じたから、その人は世の光なのです。世の中を照らす光となった、というのです。それで「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」とあります。しかし、私たちそのものが光なのではありません。ヨハネによる福音書1章4、9節には光について、このように書かれています。
「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」(ヨハネ1章4節)。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(ヨハネ1章9節)。
 ここで言われていることはイエス様のことです。イエス様こそは命の言葉、命そのものであって、人間を照らす光、私たち人間に希望を与え、生きる力を与える方であることが言われています。ですから、私たちはそのイエス様という光を人々の前に輝かすように努めるのです。それは具体的には、イエス様を人々にお伝えすることです。私たちの言葉や生き方でお伝えしていくのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-09-24 06:00:00 (34 ヒット)

「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」(ヨハネ10章28〜30節)
イエス様はこう約束してくださっています。「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」(28節)。私たちには永遠の命が与えられる。そして、私たちは滅びない。私たちをイエス様から奪い取るものは何もない!この約束を信じましょう。次の29節の言葉はとても感動的です。「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない」。ここに書いてあること、「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大」とあります。神様が私にくださったもの、それはすべてのものよりも偉大というのです。
神様がイエス様にくださったもの、イエス様は何について言っているでしょうか?偉大とありますから、何かすごいもの、素晴らしいものでしょうか?このイエス様にくださったものについて、これは何と、私たちのことだというのです。私たちのことをイエス様は、父なる神様が私にくださったもの、それはすべてのものより偉大なもの、というのです。これはイザヤ43章4節の言葉と共通します。「わたしの目にあなたは価高く、貴く わたしはあなたを愛し」。神様のまなざしを見つめて歩んでいきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-09-17 06:00:00 (45 ヒット)

「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように」(ローマ15章5、6節)。「同じ思いを抱かせ」、「主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせて」とありました。抱かせてくださる、たたえさせてくださる、というのです。つまり、これは自分の力によってではない、ということです。この章の1節に「強くない者の弱さを担うべき」とありました。他者の弱さを担うということです。でも、私たちにそれができるでしょうか?自分の力では、他者の弱さを担うことはできないのです。愛にも乏しい自分。自分のことばかり考えて生きてしまう。そういう私たちです。しかし、同じ思いを抱かせてくださる。神様をたたえさせてくださる。それをさせてくださる方がおられるのです。
神様について、「忍耐と慰めの源」とありました。神様が私たちに忍耐する力を与え、他者を慰める心を与えてくださるのです。神様がさせてくださる。そのことを知る私たちはこのような祈りに導かれるのではないでしょうか。「私があの人の弱さを担うことができますように、私があの人を慰めることができますように。私にはできませんがあなたがそれをさせてください。いいえ、あなたこそが本当に人の弱さを担われ、人に慰めを与えられる方です。あなたご自身がお一人お一人の心に臨んでください」。神様のみわざを信じていきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-09-10 06:00:00 (50 ヒット)

「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(ヨハネ10章16節)。
 イエス様は「この囲いに入っていないほかの羊・・・その羊をも導かなければならない」と言われました。羊飼いと羊というのは、神様と私たち人間のことです。私たち人間は神様によって造られたものであり、神様に愛されているものです。私たちは日々、神様に養われて生きている者なのです。ところが、罪のために、私たちは神様から離れてしまいました。聖書が教える罪とは、自分は神様とは関係ない、神様に愛されていない者として、生きることです。けれども、神様は私たちと共に歩みたい!神様はあなたを愛している!そのことを聖書の言葉を通して、何度も何度も語っておられます。そして、神様の御子であるイエス・キリストを私たちのところにお送りくださったのです。
 イエス・キリストは、ご自分のことを「羊の門」(7節)、「良い羊飼い」(11節)と言われました。羊の門、良い羊飼いとは、本当にあなたを救うもの、あなたを生かすものということです。今まで、皆さんにとって、それは何だったでしょうか?人それぞれ違うと思いますが、聖書は、本当にあなたを救う方、生かす方、それはイエス・キリストであると示しています。どうか、この方を皆さんの心に、人生にお受けいただきたいと心から願っています。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-09-03 06:00:00 (46 ヒット)

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(二コリント4章7〜18節)
ここに「たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても」とあります。体や心の弱り、衰え、私たちはそのことを、身を持っておぼえる、感じるのです。しかし、「わたしたちは落胆しません」とあります。落胆せざるを得ない状況、現実なのに、なぜ、落胆しません、と言うことができるのでしょうか?何か自分に発破をかけて、あるいは気合を入れて、言っていることなのでしょうか?強がりでも言っているのでしょうか?いいえ、そうではありません。この落胆しません、という言葉はこの章の1節にも出ていました。そこではこのようなことが記されています。
「こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。」(二コリント4章1節)
なぜ、落胆しないのでしょうか?「憐れみを受けた者」と記されているように、憐れみを受けたから、というのです。この憐れみというのは、神様の憐れみということです。神様は私たちの弱さをご存じです。その私たちを神様は憐れみ、私たちという「土の器」に「宝」(同7節)を送ってくださったのです。だから、神様が私たちに願っておられることは、その宝を受け取るということです。神様の憐れみによって、イエス・キリストという宝を受け取ってほしい、ということです。この宝を、イエス・キリストという宝を受け入れるならば、私たちは落胆しないのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-08-27 06:00:00 (51 ヒット)

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(33節)。
私たちの悩んでいること、心配していることというのは、この聖書の言葉で言うなら、「これらのもの」ということです。これは私たちが生きるために必要だと思っているものを指しています。この33節の聖書の言葉には、まず、これらのものを求めなさい、とはなっていません。まず求めるのは、神様の国と神様の義であると言われています。それでは私たちにとって必要なことは求めなくてよい、求めるな、ということなのでしょうか?いいえ、神様の国と神様の義を求めよ。この後にこういう言葉が続いています。「そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。ここで注意したいのは、「与えられる」ということです。つまり、私たちに必要なものは与えられる、というのです。だれが与えてくれるのでしょうか?32節には「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」とあります。神様は私たちにとって必要なものはみんなご存じであるというのです。その私たちの必要なものをご存じである神様が私たちにそれを与えてくださるというのです。だから、すべてを神様にお任せしなさい、神様を信頼しなさい、ということです。すべてを主にお任せして、信頼して、主に従っていきなさい、ということです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-08-20 06:00:00 (48 ヒット)

「自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に」(22節)とあります。これは神様のみ前に出て、神様に自分をすっかり任せていく、ということです。人の言葉や考えを聞くこと、知ることはもちろん大事なことです。そうでないと、独善的な信仰に陥ることもあるからです。けれども、まず聴くべきは神様のみ言葉、まず知るべきは神様のみ心です。人の目や人の言葉が気になる。でもいいのです。神様が良しとされることに歩むならば。神様のために腹をくくると言ったらよいでしょうか。「確信に基づいていないことは、すべて罪なのです」(23節)ともありました。ここで言われている罪というのは信頼の欠如ということです。神様への信頼、そこが欠けていないか。人間の言葉や態度に支配されていないか?神様にために腹をくくる、神様に自分をお任せしていくのです。
17節に「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」とありました。神様の国、これは神様の支配という意味です。神様の御子イエス・キリストがおいでになった。だから今はもう私たちは人に支配されるのではありません。神様の支配、「聖霊によって与えられる義と平和と喜び」に生きる者とされたのです。弱さ、脆さを抱えた私たちですが、その私たちを神様が支配してくださいますように、と祈りつつ歩んでまいりましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-08-13 06:00:00 (50 ヒット)

主イエスは神様と私たち人間の関係について、羊飼いと羊のたとえでお話されました。羊飼いと羊、それは愛の関係です。ところが、互いに愛し合う、大切にし合う関係から離れてしまうことがあるのです。私は妻に対して、どうだっただろうか?私は家族に対して、どうだっただろうか?私は友に対して、どうだっただろうか?利害関係、利用するだけ、そんなことになってしまうことがあるのです。感謝の心、感謝の気持ちがないという時というのは、やってもらって当然、当たり前という状態の時です。神様の恵みも当たり前、他人に助けてもらったり、お世話してもらっても当たり前・・・。しかし、その一つ一つを恵みとして受け止めていくことが大事なことです。新生讃美歌の103番には「数えてみよ主の恵み」という賛美歌がありますが、主の恵みよりも、自分が行なった善いことは数えている、しっかりおぼえているのです。でも神様の恵みは忘れる、他人からしてもらったことは忘れる。本当に忘れてはならないことは忘れる。けれども、忘れてもよいことは忘れない。こういうことでも人間の罪深さ、自己中心性ということを知らされます。数えてみよ主の恵みです。神様の恵みをしっかり心に刻み付けましょう。私のために十字架におかかりになった、命をささげてくださった。このことを忘れないでいましょう。


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