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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-09-17 06:00:00 (5 ヒット)

「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように」(ローマ15章5、6節)。「同じ思いを抱かせ」、「主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせて」とありました。抱かせてくださる、たたえさせてくださる、というのです。つまり、これは自分の力によってではない、ということです。この章の1節に「強くない者の弱さを担うべき」とありました。他者の弱さを担うということです。でも、私たちにそれができるでしょうか?自分の力では、他者の弱さを担うことはできないのです。愛にも乏しい自分。自分のことばかり考えて生きてしまう。そういう私たちです。しかし、同じ思いを抱かせてくださる。神様をたたえさせてくださる。それをさせてくださる方がおられるのです。
神様について、「忍耐と慰めの源」とありました。神様が私たちに忍耐する力を与え、他者を慰める心を与えてくださるのです。神様がさせてくださる。そのことを知る私たちはこのような祈りに導かれるのではないでしょうか。「私があの人の弱さを担うことができますように、私があの人を慰めることができますように。私にはできませんがあなたがそれをさせてください。いいえ、あなたこそが本当に人の弱さを担われ、人に慰めを与えられる方です。あなたご自身がお一人お一人の心に臨んでください」。神様のみわざを信じていきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-09-10 06:00:00 (15 ヒット)

「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(ヨハネ10章16節)。
 イエス様は「この囲いに入っていないほかの羊・・・その羊をも導かなければならない」と言われました。羊飼いと羊というのは、神様と私たち人間のことです。私たち人間は神様によって造られたものであり、神様に愛されているものです。私たちは日々、神様に養われて生きている者なのです。ところが、罪のために、私たちは神様から離れてしまいました。聖書が教える罪とは、自分は神様とは関係ない、神様に愛されていない者として、生きることです。けれども、神様は私たちと共に歩みたい!神様はあなたを愛している!そのことを聖書の言葉を通して、何度も何度も語っておられます。そして、神様の御子であるイエス・キリストを私たちのところにお送りくださったのです。
 イエス・キリストは、ご自分のことを「羊の門」(7節)、「良い羊飼い」(11節)と言われました。羊の門、良い羊飼いとは、本当にあなたを救うもの、あなたを生かすものということです。今まで、皆さんにとって、それは何だったでしょうか?人それぞれ違うと思いますが、聖書は、本当にあなたを救う方、生かす方、それはイエス・キリストであると示しています。どうか、この方を皆さんの心に、人生にお受けいただきたいと心から願っています。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-09-03 06:00:00 (17 ヒット)

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(二コリント4章7〜18節)
ここに「たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても」とあります。体や心の弱り、衰え、私たちはそのことを、身を持っておぼえる、感じるのです。しかし、「わたしたちは落胆しません」とあります。落胆せざるを得ない状況、現実なのに、なぜ、落胆しません、と言うことができるのでしょうか?何か自分に発破をかけて、あるいは気合を入れて、言っていることなのでしょうか?強がりでも言っているのでしょうか?いいえ、そうではありません。この落胆しません、という言葉はこの章の1節にも出ていました。そこではこのようなことが記されています。
「こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。」(二コリント4章1節)
なぜ、落胆しないのでしょうか?「憐れみを受けた者」と記されているように、憐れみを受けたから、というのです。この憐れみというのは、神様の憐れみということです。神様は私たちの弱さをご存じです。その私たちを神様は憐れみ、私たちという「土の器」に「宝」(同7節)を送ってくださったのです。だから、神様が私たちに願っておられることは、その宝を受け取るということです。神様の憐れみによって、イエス・キリストという宝を受け取ってほしい、ということです。この宝を、イエス・キリストという宝を受け入れるならば、私たちは落胆しないのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-08-27 06:00:00 (20 ヒット)

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(33節)。
私たちの悩んでいること、心配していることというのは、この聖書の言葉で言うなら、「これらのもの」ということです。これは私たちが生きるために必要だと思っているものを指しています。この33節の聖書の言葉には、まず、これらのものを求めなさい、とはなっていません。まず求めるのは、神様の国と神様の義であると言われています。それでは私たちにとって必要なことは求めなくてよい、求めるな、ということなのでしょうか?いいえ、神様の国と神様の義を求めよ。この後にこういう言葉が続いています。「そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。ここで注意したいのは、「与えられる」ということです。つまり、私たちに必要なものは与えられる、というのです。だれが与えてくれるのでしょうか?32節には「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」とあります。神様は私たちにとって必要なものはみんなご存じであるというのです。その私たちの必要なものをご存じである神様が私たちにそれを与えてくださるというのです。だから、すべてを神様にお任せしなさい、神様を信頼しなさい、ということです。すべてを主にお任せして、信頼して、主に従っていきなさい、ということです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-08-20 06:00:00 (26 ヒット)

「自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に」(22節)とあります。これは神様のみ前に出て、神様に自分をすっかり任せていく、ということです。人の言葉や考えを聞くこと、知ることはもちろん大事なことです。そうでないと、独善的な信仰に陥ることもあるからです。けれども、まず聴くべきは神様のみ言葉、まず知るべきは神様のみ心です。人の目や人の言葉が気になる。でもいいのです。神様が良しとされることに歩むならば。神様のために腹をくくると言ったらよいでしょうか。「確信に基づいていないことは、すべて罪なのです」(23節)ともありました。ここで言われている罪というのは信頼の欠如ということです。神様への信頼、そこが欠けていないか。人間の言葉や態度に支配されていないか?神様にために腹をくくる、神様に自分をお任せしていくのです。
17節に「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」とありました。神様の国、これは神様の支配という意味です。神様の御子イエス・キリストがおいでになった。だから今はもう私たちは人に支配されるのではありません。神様の支配、「聖霊によって与えられる義と平和と喜び」に生きる者とされたのです。弱さ、脆さを抱えた私たちですが、その私たちを神様が支配してくださいますように、と祈りつつ歩んでまいりましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-08-13 06:00:00 (30 ヒット)

主イエスは神様と私たち人間の関係について、羊飼いと羊のたとえでお話されました。羊飼いと羊、それは愛の関係です。ところが、互いに愛し合う、大切にし合う関係から離れてしまうことがあるのです。私は妻に対して、どうだっただろうか?私は家族に対して、どうだっただろうか?私は友に対して、どうだっただろうか?利害関係、利用するだけ、そんなことになってしまうことがあるのです。感謝の心、感謝の気持ちがないという時というのは、やってもらって当然、当たり前という状態の時です。神様の恵みも当たり前、他人に助けてもらったり、お世話してもらっても当たり前・・・。しかし、その一つ一つを恵みとして受け止めていくことが大事なことです。新生讃美歌の103番には「数えてみよ主の恵み」という賛美歌がありますが、主の恵みよりも、自分が行なった善いことは数えている、しっかりおぼえているのです。でも神様の恵みは忘れる、他人からしてもらったことは忘れる。本当に忘れてはならないことは忘れる。けれども、忘れてもよいことは忘れない。こういうことでも人間の罪深さ、自己中心性ということを知らされます。数えてみよ主の恵みです。神様の恵みをしっかり心に刻み付けましょう。私のために十字架におかかりになった、命をささげてくださった。このことを忘れないでいましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-08-06 06:00:00 (36 ヒット)

「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」(8、9節)。ここに「主のために」とありました。このことを考えていくうえで大事なことが「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」ということです。キリストが、イエス・キリストが死なれた、生きられた。それはだれのためだったか、ということです。
それは私たちすべての者のためだった、ということです。私たちが罪と死の滅びから救われるために、主は十字架にかかられた、ご自分の命をささげられた、ということです。そのこと抜きに「主のために」ということを理解することはできないのです。まず、イエス様がこの私のために死んでくださった。その主の愛に応えて生きる。それが「主のために」生きるということなのです。食べものや特定の日のこと、それだけのことではありません。私たちの生活のすべてにおいて、私のために十字架にかかり、私を罪と死の滅びから救ってくださった主のために生きるのです。主の愛に応えて生きる、主の恵みに応えて生きるのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-07-30 06:00:00 (33 ヒット)

目が見えなかった人。彼はイエス様によって目が見えるようになりました。けれども、まわりは自分のことをああだ、こうだ、と言う。何としんどいことか。しかし、そういう自分の一挙手一投足をすべて聞いておられる、見ておられる方がいる。そして、その方が私に出会ってくださっている。私を見つけ出してくださっている。
その方、すなわち、イエス様は彼にこう言われました。「あなたは人の子を信じるか」(35節)。イエス様からの信仰の招きです。あなたは人の子、救い主を信じますか?という信仰の招きがここに与えられました。そして、この招き、呼びかけと言うのは、この人だけではありません。皆さん一人一人にも与えられていることです。イエス様ご自身が、あなたは人の子を信じますか?救い主を信じますか?皆さんの心に語りかけておられます。あるいは皆さんの家族にも、友人にも語りかけておられるのです。イエス様はすべての人がご自分のことを信じてほしい、信頼してほしい。そう願っておられるのです。皆さんは自分の家族にイエス様を伝えたい、友人にイエス様を伝えたい、と願い、祈っておられることと思いますが、イエス様ご自身が、あなたは人の子を信じますか?そういう招き、呼びかけを一人一人に与えておられることをおぼえて、それに応える日が来ることを待ち望んで祈り、伝え続けましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-07-23 06:00:00 (37 ヒット)

聖書の教えの中心は、神様を愛すること、そして、隣人、他人を愛することです。それは言葉では簡単なように思えますが、実際には、難しいものです。しかし、愛そう、愛していこう、その動機づけというものがあります。それは自分が愛されている、ということを知ることです。自分が愛されていることを知ったら、それは嬉しいことですから、愛されている私も愛そう、愛していこう。そういう思いに導かれていくのです。皆さん、神様を愛しましょう!隣人を愛しましょう!そう言われても、それができないことを知らされるばかりです。何て、自分は愛がないのだ。そういうことばかりに気づかされます。でもあなたは愛されている!このことを知ったら、生き方が変わるのです。
 神様に愛されている私、神様に大切な者とされている私。毎週、教会へ通う。日々の聖書の言葉に聴き、祈る。そのことについて、ある方は、身づくろいをし直しに来ているのだ、と言われます。世のただ中に生きている私たち。疲れをおぼえます。いろいろな問題、課題を抱えます。不安、心配があります。愛とは真逆のことを見たり聞いたりします。そういう私たちが神様の前に出る。そして、神様は私たちを変わることなく、愛しておられることを知る。まさに心の身づくろいです。
 12節にはこういう言葉がありました。「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」。14節にはこういう言葉がありました。「主イエス・キリストを身にまといなさい」。身に着ける、身にまとう。愛の負債だらけの私たちです。でも、そういう私たちに光の武具を身に着けよ!イエス・キリストを身にまとえ!と言われる。私たちがまずすること、それは受けるということです。何を受けるのでしょうか?イエス様の愛を受け入れることです。そして、実はそこからしか、信仰は始まらないのです。愛するとか、赦すとか、それはイエス様の愛を受けて始まることなのです。自分が愛されていることを知る。自分が赦されていること知る。そこからすべてが始まるのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-07-16 06:00:00 (51 ヒット)

「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです」(一ペトロ2章1、2節)。
幼子は乳を飲み、栄養を摂って、成長していきます。それと同じように、私たちも霊の乳を飲むのです。この霊の乳とは何かと言いますと、神様の言葉です。神様の言葉を日々いただいて成長していくのです。
私たちはイエス様を救い主と信じてバプテスマを受けました。クリスチャンとしての生き方が始まりました。でも、最初のうちは、霊的には、信仰の上ではまだ幼子、子供です。ペトロの手紙には「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って」とありましたが、これはイエス様を信じる前の古い価値観、考え方、また罪の支配(罪というのは自己中心ということです)に生きていた状態を示しています。私たちはイエス様を信じて、従って生きるからには、それらは捨てなければならない。そして、新しい価値観、新しい考え方に変えられることを求めていくのです。
新しい価値観、考え方というのは、神様の価値観、お考えということです。罪に支配されていた生き方から、神様に支配された生き方に変えられていく。神様の価値観、お考え、それは神様の言葉を読まなければ、聴かなければ分かりません。だから、霊の乳である神様の言葉を日々、心に受け入れていく。フィリピの信徒への手紙2章5節(文語訳)には「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」とあります。イエス・キリストの心を心とする。これが霊的な大人、信仰の上での大人ということです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-07-09 06:00:00 (60 ヒット)

「ここもかみの みくになれば」という賛美歌があります。私たちが以前使用していました教団讃美歌と言われるものの90番です。歌詞を一節だけ紹介してみます。
ここもかみの みくになれば あめつち御歌を うたいかわし 
岩に樹々に 空に海に たえなる御業ぞ あらわれたる
 この歌詞にあります「ここも」とはどこのことでしょうか?それは私たちの国のことです。そして、私たちの職場のことであり、私たちの家庭のことであり、私たちの教会のことです。ここも神様の御国なのです。神様がおられるところ、ここにも神様が生きて働いておられるのです。
正直なところ、私の生活している場、そこでは神様のみ心が行なわれていないのではないか?と思わずにおれません。その現実に、私たちは悲しみ、心が痛みます。山上の説教の中に、「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」(マタイ5章4節)とあり、「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」(マタイ5章6節)とあります。神様のみ心、神様の喜ばれることから程遠い現実と思える・・・。私たちはそのことを悲しみます。そして、愛と義が行なわれますように。祈らされます。すべての権威は神様からのもの。神様の愛と義がどこにおいても行われるように、と祈っていきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-07-02 06:00:00 (46 ヒット)

主イエスは「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である」(9章4、5節)と言われました。「まだ日のあるうちに」、「だれも働くことのできない夜が来る」ということについて、イエス様が地上にいる間のことを意味していると理解されます。つまり、神様の業をする時間、期間は限られているということです。これを私たちのこととして読むならば、私たちの地上における人生として考えてよいのではないかと思います。私たちがこの地上に、この世に生きている間、その限られた時の中で、私たちは神様の働きに励むのです。
先日、児玉先生のお誕生のお祝いをしました。そのご挨拶で、児玉先生は、忠実な僕よ、よくやった!と神様からおほめの言葉にあずかりたいから、生涯、神様にお仕えしていきたい、とお話なさいました。先生が生涯最期の時まで主のためにお仕えしたい、と言われたことはとても印象的でした。信仰生活は過去のものではなく、現在のこと、今のことであるということを教えられました。そして、このイエス様の言葉はまさにそのことを語っていると思います。まだ日のあるうちに、この世にいる間、精一杯、神様にお仕えしていきましょう、神様のお働きに励んでいきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-06-25 06:00:00 (49 ヒット)

アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」(創世記17章1節)。
神様はアブラムに語りかけます。何と酷な話でしょうか?九十九歳の人に向かって、全き者、すなわち、完全な者になりなさい!と言われているのですから。けれども、この神様の言葉から、一つのことが分かります。それはいきなり、あなたは全き者になりなさい!とは言われていないことです。その前にこういう言葉があります。「わたしは全能の神である」。神様はご自分がどういう方であるのかを示されました。神様は全能の神様。この全能の神様というのは、エル・シャダイと言います。
神様は全能の神様です。ある牧師先生の説教テープを聴いていましたら、この先生が繰り返し、このようなことを言われていました。「神様は全能、私は無能。でも、全能の神様に自分の人生を委ねたら素晴らしい人生となります」。神様に自分を委ねて生きる。そのことをその先生から教えられました。
神様はアブラムにも言われるのです。私は全能の神様。すべてを成し得る神様。その私に委ねて生きよ!それが私は全能の神様である、と言われた意味です。その神様に委ねて生きるとき、あなたは全き者となる。あなたの人生は完全な人生となる。それがここで神様がアブラムに言われたメッセージなのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-06-18 06:00:00 (54 ヒット)

「朝の十五分があなたを変える」。こういうことを聞いたことがあります。ちいろば牧師として知られていた故榎本保郎牧師の言葉です。榎本先生は朝の十五分について、このように言われました。五分は聖書を読み、次の五分は祈り、そして、最後の五分は神様からの語りかけをノートに書き留める(あるいは聖書を黙想する、思い巡らす)。わずか十五分ですが、その日々の積み重ねがあなたを変えるというのです。聖書自身が聖書についてこう記しています。「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(二テモテ3章15、16節)。「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです」(一ペトロ2章1、2節)。聖書は私たちを養い、成長させます。しかし、そのためには、肉体の健康、成長に日々の食事を欠かすことができないように、「命のパン」(ヨハネ6章35節)である聖書の言葉を日々、私たちの心にいただくのです。食事をする時、食材を調理し、味付けしていただきます。それと同じように、聖書もそのままでは食べにくい(読みにくい)かもしれません。その場合はいろいろな聖書日課、黙想書などがありますので、それらを使って読むのもよいでしょう。朝の十五分、あまりにも多忙なため、朝に時間が取れない方はお昼でも、夜でもよいですから、そのわずかな時間を神様との交わりの時としてみましょう。み言葉(聖書)があなたを変えます。あなたに霊的な成長をもたらします。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-06-11 06:00:00 (59 ヒット)

使徒言行録2章には、教会の誕生日の出来事が記されています。このことのために神様に用いられた人たちというのはどんな人たちだったでしょうか?イエス様の弟子たちでした。それはあのガリラヤの人たち!と言われるような人たち、無学な田舎の人たちでした。この人たちには、能力があったとか、優秀であったとか、そういうことは一言もここには書かれていません。彼らは主の約束を信じて、心を合わせて祈っていた。祈っていただけなのです。そこに聖霊が、神様の力が臨みました。聖霊降臨の時に起こった出来事について、音と舌ということが記されています。聴くこと、語ることです。今、私たちにも聖霊が臨み、私たちに神様の言葉を語られます。私たちがすることはそれが必ず実現すると信じて聴くことです。そして、神様はそういう私たちの舌を、口を用いられます。私たちのこの口から神様のみわざが語られるのです。私たちはガリラヤの人たちのように、小さな者、弱さを抱えた者であるかもしれませんが、そういう私たちが神様に用いられて、神様のみわざを語る時、それを聴く人に救いが訪れる、一人の人が救いにあずかるのです。このような素晴らしい働き、使命を私たちは神様からいただいたことを感謝したいと思います。この聖霊降臨の出来事、キリスト教会、それは心を合わせて祈ることから起こったことでした。私たちもまず、祈りから始めていきましょう。聖霊が、神様の力が生きて働かれますように。聖霊が私たちをご自由にお用いくださって、救いのみ業が行われますように。


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