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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-07-15 06:00:00 (5 ヒット)

日本の聖書翻訳はだいたい30年ごとに行なわれてきました(日本聖書協会)。1954、55年の口語訳、1987年の新共同訳、そして、今年、聖書協会共同訳が出版予定です。聖書の翻訳のことで言いますと、例えば、ローマ書3章22節と同10章4節は翻訳に違いがみられるところです。昨年出版された新改訳2017(いのちのことば社)では3章22節は「イエス・キリストを信じることによって」となっていて、従来の訳文と変わりませんが、脚注に「イエス・キリストの真実によって」とあります。10章4節については「律法が目指すものはキリスト」となっています。ちなみに口語訳では3章22節は「イエス・キリストを信じる信仰」、10章4節は「キリストは・・・律法の終り」となっています。新共同訳は3章22節が「イエス・キリストを信じることにより」、10章4節は「キリストは律法の目標」です。3章22節の議論としては、従来の訳「キリストへの信仰」では人間の側の信仰に強調点が置かれていたのではないか、ということ。それに対して、原文通りに「キリストの真実」と訳して、キリストの救いのみわざをもっと強調すべきではないか、ということ。10章4節では、「終わり」と「目標」の違いがありますが、キリストが律法の成就者であることをもっと示すべきではないか、ということ。このようにして、翻訳作業は留まることなく続きます。聖書は翻訳においては完成ということはないのです。聖書の翻訳の歴史、過程などを知る時に、翻訳聖書は絶えず改善されていくこと、それと共に私たちの信仰も絶えず改革されていくことが必要であることを思わされます。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-07-08 06:00:00 (8 ヒット)

「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」(ガラテヤ5章5、6節)
「“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいる」とあります。何を待ち望んでいるかというと、「義とされた者の希望が実現すること」です。これは私なりに噛み砕いて言いますと、「イエス様を信じて救いにあずかること、終わりの日の完全な救い、これを聖霊の助けによって確信し、待ち望む」ということです。なかなか救われたことが確信できない、実感できない・・・。そういう私たちです。特に目の前に起こってくる様々な苦しみ、困難なことがあると、自分が本当に救われているのだろうか?と心が迷ってしまいます。私たちは弱い者なのです。しかし、そういう私たち、私たち自身が確信できなかったり、実感できなかったりしても、神様の救いは変わらないのです、救いは与えられているのです。「“霊”により、信仰に基づいて」とありました。聖霊の助けです。私たちはイエス様を信じても、すぐに何かあると、心が揺れ、信仰もなくなりそうになる。でもそういう私たちを聖霊が助けてくださる、聖霊なる神様が助けていてくださる。信仰があるのかないのか分からなくなってしまうような私たちを支えていてくださる。「“霊”により、信仰に基づいて」、短い言葉ですが、とても大事な言葉です。口語訳聖書では「御霊の助けにより、信仰によって」となっています。イエス様を信じた、と言いながら、告白しながら、信仰があるかないか分からないような私を聖霊なる神様が助け、支えてくださる。このことを信じていきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-07-01 06:00:00 (11 ヒット)

ガラテヤの信徒への手紙4章21節からの御言葉からは、アブラハムの物語を例に挙げ、自由と奴隷について示しています。信仰生活というのも、自由な信仰生活と奴隷のような信仰生活というのがあるのです。奴隷のような信仰生活ということでお話しますと、それは人をがんじがらめに縛りつけるような信仰生活です。あなたはこうでなければならない。こうあるべきだ。そういうことを人に押し付ける。そればかりか自分自身にも押し付けてしまう。そういう信仰生活は人を裁いたり、自分を誇ったりするようなことになります。
 では自由な信仰生活というのはどういうものでしょうか?それはあれをしなければならない、これをしてはならない、という生き方ではありません。自由な信仰生活というのは、そうせずにおれない、という信仰生活です。献金のお勧めの時によく引用される聖書の言葉があります。「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです」(二コリント9章7節)。
 不承不承というのは、いやいやながら、ということです。強制される、人に無理やり強いられる、ということです。それは奴隷のような信仰生活です。しかし、聖書はそういう信仰生活であってはならない、と言っているのです。むしろ、こうしようと自分の心に決めたとおりにしなさい、というのです。それは神様に私は救われた。その救いの喜び、感謝から行ないなさい、ということです。ここに「喜んで与える人」とあるのは、神様の救いを喜び、感謝する心から与える、ささげる人ということです。喜び、感謝から、そうせずにはおれない、そこから始める信仰生活です。皆さんの信仰生活はどうでしょうか?奴隷のような信仰生活でしょうか?それとも自由な信仰生活、神様の救いを喜び、感謝しての信仰生活でしょうか?


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-06-24 06:00:00 (18 ヒット)

「知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。」(ガラテヤ4章13節)
パウロは自分の体が弱くなったことがきっかけで福音を告げ知らせた、と語っています。パウロが自分の体の弱さについて触れている箇所があります(二コリント12章7節以下)。その個所では、パウロは何か素晴らしい体験をしたのでしょう。しかし、そのために思いあがることのないように、そのことで傲慢になってしまわないようにと、自分の身に一つのとげが与えられたとあります。そのとげというのがパウロの病気のことだと思われます。その病が癒されるようにパウロは何度も祈りました。けれども、神様はパウロを癒されませんでしたが、そのことを通して、パウロに大事なメッセージを語っておられます。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(二コリント12章9節)。力は弱さの中で、とあります。これは病気のこともあるでしょうし、他にも弱さをおぼえる時のことでも考えることができます。しかし、その弱さの中で神様の恵みが働かれるということが示されています。パウロは病の苦しみのただ中で、そこにも生きて働かれる神様の恵み、力を知り、こう言ったのです。「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。・・・わたしは弱いときにこそ強い」(二コリント12章9、10節)。パウロは自分の弱さの中でこそ、本当に神様の恵みが分かったのでしょう。それゆえに福音を告げ知らせた、というのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-06-17 06:00:00 (32 ヒット)

「しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに」(ガラテヤ4章9節)。
神様を知っている私たち。でも、まだまだ知らないことだらけです。生涯かけて、神様を知っていきたいと思います。しかし、パウロはここで言い直しています。それは神様を知ることは大事なことだけれども、もっと大事なことがある。それは、この私が神様を知っている以上に、神様はこの私を知っておられる、ということです。神様から知られている私!私は神様から知られている、この言葉を読んだ時にこんなことを思いました。この私は私自身のことをどれだけ知っているか?自分が一番自分のことを知っている、分かっているかというと、そうではありません。人間関係などで問題になるのはそういう部分だと思います。自分で自分のことが分かっていないのに分かったつもりでいる。自分を客観的に見ることは大事です。自己点検、自己吟味ということでしょうか。自分の知らない自分自身。そのすべてを神様はご存じです。その神様の前に立ち、本当の自分を知る。そこから、真の悔い改めが起こってくるのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-06-10 06:00:00 (36 ヒット)

ガラテヤ3章23節に「信仰が現れる前」とありました。この信仰が現れた、とはどういうことでしょうか?一つは、この信仰が現れた、というこの信仰という言葉は別の言葉で置き換えてみることができます。それはイエス・キリストです。イエス・キリストが現れた、ということです。私たちが一生懸命に律法を守る、あるいは私たちにとっては聖書を守る。そのことによって救われるのではないということです。私たちは私たちのところに現れた方、イエス・キリストを信じることによって救われるというのです。そして、このイエス様と一緒に聖書の言葉、神様の言葉に従っていくのです。
もう一つのことは、信仰が現れた、信仰がやって来た、とあるように、信仰というのは、私たちの心の中からわき上がってくる、私たちの中から生まれてくるものではありません。信仰は神様が与えてくださるものです。私たちは、この私のところにイエス様がおいでくださった。そのことを受け入れて、そこから信仰生活が始まったことを知っているはずです。信仰は神様から与えられたものなのです。そして、信仰とは神様と私たちのつながりということです。ライフラインです。
律法を守ることで救われると考えていた人たちに向かって、パウロは律法とは例えて言うと、24節にありますように、「わたしたちをキリストのもとへ導く養育係」と説明しています。私たちが幼い時、自転車に乗り始めた時はまだペダルを漕ぐ力がなく前になかなか進まない、バランスも取れないのですぐに転倒してしまう。そのために補助輪を付けたはずです。そうすると、何とか前に進んで行くことができました。それもだんだん成長していくと、必要なくなります。律法は自転車の補助輪のような役目と言えるかもしれません。でも、25節にありますように「しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません」、今や信仰が現れた、イエス様がおいでになったので、私たちは自分の力で一生懸命律法を守ろうとする生き方をしなくてもよい。イエス様と一緒に歩んでいけばよい、というのです。
見知らぬ土地に行って、そこで地図を見ながら、行きたいところを探しても、迷ってしまうことがあります。しかし、その土地の人やガイドさんでも一緒にいてくれたら、あっという間に目的地に到着します。イエス様が来られる前は、地図を見ながら、自分なりに一生懸命、目的地を目指して歩んでいたようなものです。でもイエス様が来られたら、イエス様と一緒に歩みさえすれば、目的地に到着することができるのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-06-03 06:00:00 (39 ヒット)

ガラテヤの信徒への手紙3章4節に「あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか」とあります。口語訳聖書では「あれほどの大きな経験」となっています。これはイエス様に救われた体験のことをパウロは言っています。パウロ自身はキリストに出会う前は、キリスト教の迫害者でした。そうすることが神様のみ心に適うことだと確信して、熱心にキリスト教会を迫害していました。そういうパウロがある時、ダマスコに行く途中で復活のイエス様に出会いました。そして、パウロはイエス・キリストを信じ、今までの生き方は間違っていたことに気づき、キリスト教の迫害者から、キリスト教の伝道者に大転換しました。すると、パウロにとっては、キリストを信じたという体験は確かにあれほどの大きな体験かもしれません。しかし、ここでパウロは自分のことだけを言っているのではないのです。キリストを信じたすべての人に向かって言っているのです。
しかし、パウロのような大きな体験、またあの人、この人のような大きな体験を私はしていない。そのように思われるかもしれません。イエス様を信じるという体験、それは特別に何か大きな出来事を通して、というのではなかったかもしれない。人と比べるなら、自分の体験というのは、本当に小さなもの。そのように思われる方があるかもしれません。パウロがあれほどの体験と言ったこと、それは私たちにとって、大きな体験と思えること、小さな体験と思えること、どんな体験であれ、パウロは、「イエス様に出会った」という、そのこと自体が大きな体験、あれほどの体験なのだ、と言っているのです。ところが、私たちの側で、イエス様に出会ったことを小さな体験にしてしまうのです。私たちの生活の中のほんの些細なことにしてしまうのです。でも、パウロはそうではないと言うのです。イエス様に出会ったということはあなたの人生にとって大きな出来事なのですよ。あなたに出会ってくださったイエス様をあなたの生活の中心に据えなさい。イエス様を片隅に追いやってはいけませんよ、と言うのです。イエス様を信じたけれど、何も変わらない。そうおっしゃる方があります。そういう方はいかがでしょうか、イエス様をあなたの生活の、人生の中心に据える。そこから、あなたの生活は、あなたの生き方は変わっていくのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-05-27 06:00:00 (36 ヒット)

ガラテヤの信徒への手紙2章20節にはこのようなことが記されていました。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」。ここに「キリストがわたしの内に生きておられる」とあります。イエス様は私と一緒に生きておられるということです。自分では律法を実行することができない、聖書の言葉を実践することができない。そういう私たちです。けれども、イエス様を信じて、この方を自分の人生に受け入れたら、「キリストがわたしの内に生きておられる」と言うことができるのです。律法の完成者であるイエス様が律法を実行してくださる、聖書の言葉に生きるように導いてくださるのです。
 同じ20節の言葉の中に「わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子」とありました。イエス様の愛、それはこの私のためにご自分の身を献げられたことで表わされた愛です。その身を献げられた、私たちの罪のために十字架にかかってくださった愛です。私たちは、その愛をしっかりと受け止めて生きていくのです。私たちのために十字架にかかり死んでくださった主は今、復活されて、私たちと共に生きておられます。主が一緒に生きておられる!このことを忘れないで、このことを拠り所として、一日一日を大切に歩んでいきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-05-20 06:00:00 (38 ヒット)

先日の新聞やニュースに、故マーチン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の9歳の孫娘ヨランダ・リネー・キングさんが「私には夢がある。銃のない世界だ」と演説したことが報道されていました。アメリカ・ワシントンで行なわれた銃規制強化を求めるデモでの話です(3月24日)。マーチン・ルーサー・キング牧師というと、人種差別撤廃に取り組んだ黒人公民権運動指導者でした。4月4日には、キング牧師が暗殺されて50年ということで追悼集会も行なわれました。以下、キング牧師が1963年8月28日のワシントン大行進の時に行なった演説の一部を引用します。
わたしは夢を持っています。それはいつの日かジョージアの赤土の上で、昔の奴隷の子孫と昔の奴隷主とが兄弟愛のテーブルに一緒に座ることができるようになるだろうという夢です。
わたしは夢を持っています。それはわたしの四人の小さな子供たちが皮膚の色によってではなく、人格の中身によって評価される国に住むことができるようになるだろうという夢です。(梶原寿訳)
私はキング牧師のこの演説を読むと、思い起こす聖書の言葉があります。「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる」(イザヤ11章6〜8節)。これが、聖書が示す平和、主の平和です。私たちの力では実現不可能に思えますが、このような平和が来ることを聖書は告げるのです。私たちは祈りつつ、待ち望みつつ、励みましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-05-13 06:00:00 (50 ヒット)

ガラテヤの信徒への手紙2章4節に、自由ということが記されていました。それも「わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由」となっていました。それはイエス様から与えられた自由ということです。この自由について、ガラテヤの信徒への手紙5章13節を読んでみましょう。
「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」
 ここで言われていることは、あなたは神様から与えられている自由を何のために使いますか?ということです。神様は私たちに対して、ご自分に従って欲しい、と願っておられます。けれども、無理やり、奴隷のようにして従わせるようなことはなさらないのです。神様は自分で決断できるように、選び取っていけるように、私たちに自由を与えてくださったのです。なぜ、そうされたのでしょうか?それは、神様は私たちを愛しておられるから、信頼しておられるからなのです。だから、私たちは神様の私たちに対する愛と信頼を受け止めて、そこから、応えていくのです。神様が与えてくださった自由、それは私たちに対する愛と信頼のしるしです。皆さんはそれに対してどうされるでしょうか?


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-05-06 06:00:00 (48 ヒット)

イエス様を信じておられる方は、この私が教会に行き、福音を聞き、自分でイエス様を信じる決心をした。そう思っておられると思います。それはその通りです。間違いではありません。ところが、聖書を読んでいきますと、こういう言葉に出会います。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハネ15章16節)
 私が教会に行くことを選び、イエス様を信じることを選び取った。そう思われるかもしれません。ところが、イエス様はこのように言われているのです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」。自分が選んだ。自分で信じた。そう思っている私たちにイエス様は、いいえ、あなたがたが私を選んだのではありません。私があなたがたを選んだのです、と言われているのです。
 この言葉から教えられることは、イエス様を信じた、というのは、自分の悟りとか、決断、決心、それに先立って、イエス様からの招き、呼びかけがあったということです。イエス様が教会を用いて、あるキリスト者を用いて、また牧師を用いて、人々に福音を伝えさせた、ということです。ガラテヤ1章12節に「わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされた」とあるのは、そういうことです。実際には、目に見える方法としては、人が人に福音を伝えているように思いますが、その背後には、見えない神様の働きが、導きがあった、ということです。ここに「イエス・キリストの啓示」とありますが、イエス様がご自分から、ご自分のことを私たちに現わしてくださった、ということです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-04-29 06:00:00 (57 ヒット)

ガラテヤの信徒への手紙1章10節には「今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません」とあります。新共同訳聖書で「人に取り入ろうとしている」が口語訳聖書では「人に喜ばれようとしている」、新共同訳聖書で「人の気に入ろうとあくせくしている」が口語訳聖書では「人の歓心を買おうと努めている」となっています。人に喜ばれようとすること、人の歓心を買おうとすること、それ自体が悪いことではありません。しかし、ここで言われていることは、神様に喜ばれることよりも人に喜ばれることを求める、神様よりも人の目を気にする、人の評価を求める、そういう生き方が問われているのです。そして、それはキリストの僕としての生き方ではない、というのです。そうではなくて、神様に喜ばれる生き方を求めていく。神様の目に何が真実であるのかを求めていく。それがキリストの僕の生き方なのです。
4月4日は公民権運動(人種差別撤廃運動、特に黒人差別に対して)で知られるマーティン・ルーサー・キング牧師が暗殺されて50年ということでアメリカでは追悼式典などが行なわれました。真実を求める時、それは時として命がけのことになります。キング牧師は神様のみ心がなること、神様の真実が行なわれることを求めて生きた人でした。私たちの命は神様から与えられた命です。イエス・キリストがご自分の命をささげて与えてくださった命です。その命をどう生きるかというと、命を与えてくださった神様の言葉から聴いていくのです。神様の言葉から私たちは神様のみ心、真実を知らされるのです。神様のみ心を、真実を求めて歩んでまいりましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-04-22 06:00:00 (119 ヒット)

イエス様は弟子たちの中の一人トマスに特別に語ってくださいました。私はイエス様が復活されたことを信じることができません!そう言っていたトマスに特別に語ってくださいました。「それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った」(27、28節)。信じられないトマスに、トマスが言っていたとおり、あなたの指をここに当てて、私の手を見てみなさい。あなたの手を伸ばし、私のわき腹に入れてみなさい。イエス様はご自分が十字架におかかりになった時に受けた体の傷を見るように、触るように、と言われました。トマスが実際に触ったかは分かりません。ここにはそのことは書いてありません。でも、もうトマスにとってはその必要はなかったと思います。私のために復活されたイエス様が顕われてくださった。その十字架で受けた傷を見せてくださった。その傷を見た時、私のために十字架にかかってくださった。そのことを知った、信じたのではないでしょうか。トマスはこう言いました。「わたしの主、わたしの神よ」。私のために十字架にかかってくださった、私のために命をささげてくださった。そのことをトマスはこう言い表したのです。「わたしの主、わたしの神よ」。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-04-15 06:00:00 (46 ヒット)

「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」(ヨハネ12章36節)。主はこのように語られました。「光のあるうちに、光を信じなさい」。この聖書の場面では、イエス様が人々にご自分がこの世にいる間に、私を信じなさい、と言われたと思います。しかし、これを読む私たちにとっての「光のあるうちに」というのはどういうことになるでしょうか?私たちの生きている間に、ということでしょうか?そう考えてもよいでしょうけれども、私はこの「光のあるうちに」というのは、今、この時のことを言われていると思います。イエス様が皆さんに語られている今、この時こそがイエス様を信じる時。私はそう信じて、そのつもりで光を、イエス様を語らせていただいています。
イエス様の十字架と復活、それはこの私のためであった。イエス様の救いをしっかりと心で、全人格で受け止めていく日々でありたいと思います。イエス・キリストの十字架と復活、このことによって、私に神様と共にある新しい人生が与えられ、始められた。そのことがガラテヤの信徒への手紙2章20節にはこのように言い表されています。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」。このことを心から感謝して、主にある人生を歩み続けていきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-04-08 06:00:00 (51 ヒット)

「罪を告白し合い、互いのために祈りなさい」(16節)とありました。お互いが憎み合ったり、裁き合ったりしている状態というのは、イエス様の十字架の愛を忘れてしまっている、離れてしまっている状態なのではないでしょうか?聖書が教える罪というのは、神様の愛から離れていること、神様を信頼しないことを言いますから、罪に陥っている状態と言えるのではないでしょうか?そういうお互いが神様の前に自分の罪を告白する。「神様、私は人を憎み、裁き、あなたの愛と赦しから離れていました。お赦しください」。そのような罪の告白、悔い改めがなされる。そうするならば、お互いが本当に愛し合い、赦し合う群れとされ、教会は前進していくのではないでしょうか。
 「信仰に基づく祈り」(15節)、「正しい人の祈り」(16節)、それは何か特別な信仰深い、完全な信仰を持った人の祈りということではなくて(実際にそういう人はいません)、本当に祈るべきことを祈るということではないかと思います。今、この教会にとって本当に必要なこと、またそれぞれの個人にとって本当に必要なことを祈るということです。イエス様の弟子たちはイエス様に向かって、ある時、このようなことを言いました。「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」(ルカ11章1節)。このように求めた時、主は弟子たちに主の祈りを教えてくださいましたが、私たちも主よ、私たちが本当に求めるべきこと、願うべきことを教えてください、と祈っていくところから始めていきたいと思うのです。主よ、私たちの教会の歩みを導いてください、主が私たちの教会に求めておられることをお示しください。そのような祈りを行なっていきたいと思うのです。


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