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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-06-17 06:00:00 (3 ヒット)

「しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに」(ガラテヤ4章9節)。
神様を知っている私たち。でも、まだまだ知らないことだらけです。生涯かけて、神様を知っていきたいと思います。しかし、パウロはここで言い直しています。それは神様を知ることは大事なことだけれども、もっと大事なことがある。それは、この私が神様を知っている以上に、神様はこの私を知っておられる、ということです。神様から知られている私!私は神様から知られている、この言葉を読んだ時にこんなことを思いました。この私は私自身のことをどれだけ知っているか?自分が一番自分のことを知っている、分かっているかというと、そうではありません。人間関係などで問題になるのはそういう部分だと思います。自分で自分のことが分かっていないのに分かったつもりでいる。自分を客観的に見ることは大事です。自己点検、自己吟味ということでしょうか。自分の知らない自分自身。そのすべてを神様はご存じです。その神様の前に立ち、本当の自分を知る。そこから、真の悔い改めが起こってくるのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-06-10 06:00:00 (10 ヒット)

ガラテヤ3章23節に「信仰が現れる前」とありました。この信仰が現れた、とはどういうことでしょうか?一つは、この信仰が現れた、というこの信仰という言葉は別の言葉で置き換えてみることができます。それはイエス・キリストです。イエス・キリストが現れた、ということです。私たちが一生懸命に律法を守る、あるいは私たちにとっては聖書を守る。そのことによって救われるのではないということです。私たちは私たちのところに現れた方、イエス・キリストを信じることによって救われるというのです。そして、このイエス様と一緒に聖書の言葉、神様の言葉に従っていくのです。
もう一つのことは、信仰が現れた、信仰がやって来た、とあるように、信仰というのは、私たちの心の中からわき上がってくる、私たちの中から生まれてくるものではありません。信仰は神様が与えてくださるものです。私たちは、この私のところにイエス様がおいでくださった。そのことを受け入れて、そこから信仰生活が始まったことを知っているはずです。信仰は神様から与えられたものなのです。そして、信仰とは神様と私たちのつながりということです。ライフラインです。
律法を守ることで救われると考えていた人たちに向かって、パウロは律法とは例えて言うと、24節にありますように、「わたしたちをキリストのもとへ導く養育係」と説明しています。私たちが幼い時、自転車に乗り始めた時はまだペダルを漕ぐ力がなく前になかなか進まない、バランスも取れないのですぐに転倒してしまう。そのために補助輪を付けたはずです。そうすると、何とか前に進んで行くことができました。それもだんだん成長していくと、必要なくなります。律法は自転車の補助輪のような役目と言えるかもしれません。でも、25節にありますように「しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません」、今や信仰が現れた、イエス様がおいでになったので、私たちは自分の力で一生懸命律法を守ろうとする生き方をしなくてもよい。イエス様と一緒に歩んでいけばよい、というのです。
見知らぬ土地に行って、そこで地図を見ながら、行きたいところを探しても、迷ってしまうことがあります。しかし、その土地の人やガイドさんでも一緒にいてくれたら、あっという間に目的地に到着します。イエス様が来られる前は、地図を見ながら、自分なりに一生懸命、目的地を目指して歩んでいたようなものです。でもイエス様が来られたら、イエス様と一緒に歩みさえすれば、目的地に到着することができるのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-06-03 06:00:00 (12 ヒット)

ガラテヤの信徒への手紙3章4節に「あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか」とあります。口語訳聖書では「あれほどの大きな経験」となっています。これはイエス様に救われた体験のことをパウロは言っています。パウロ自身はキリストに出会う前は、キリスト教の迫害者でした。そうすることが神様のみ心に適うことだと確信して、熱心にキリスト教会を迫害していました。そういうパウロがある時、ダマスコに行く途中で復活のイエス様に出会いました。そして、パウロはイエス・キリストを信じ、今までの生き方は間違っていたことに気づき、キリスト教の迫害者から、キリスト教の伝道者に大転換しました。すると、パウロにとっては、キリストを信じたという体験は確かにあれほどの大きな体験かもしれません。しかし、ここでパウロは自分のことだけを言っているのではないのです。キリストを信じたすべての人に向かって言っているのです。
しかし、パウロのような大きな体験、またあの人、この人のような大きな体験を私はしていない。そのように思われるかもしれません。イエス様を信じるという体験、それは特別に何か大きな出来事を通して、というのではなかったかもしれない。人と比べるなら、自分の体験というのは、本当に小さなもの。そのように思われる方があるかもしれません。パウロがあれほどの体験と言ったこと、それは私たちにとって、大きな体験と思えること、小さな体験と思えること、どんな体験であれ、パウロは、「イエス様に出会った」という、そのこと自体が大きな体験、あれほどの体験なのだ、と言っているのです。ところが、私たちの側で、イエス様に出会ったことを小さな体験にしてしまうのです。私たちの生活の中のほんの些細なことにしてしまうのです。でも、パウロはそうではないと言うのです。イエス様に出会ったということはあなたの人生にとって大きな出来事なのですよ。あなたに出会ってくださったイエス様をあなたの生活の中心に据えなさい。イエス様を片隅に追いやってはいけませんよ、と言うのです。イエス様を信じたけれど、何も変わらない。そうおっしゃる方があります。そういう方はいかがでしょうか、イエス様をあなたの生活の、人生の中心に据える。そこから、あなたの生活は、あなたの生き方は変わっていくのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-05-27 06:00:00 (14 ヒット)

ガラテヤの信徒への手紙2章20節にはこのようなことが記されていました。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」。ここに「キリストがわたしの内に生きておられる」とあります。イエス様は私と一緒に生きておられるということです。自分では律法を実行することができない、聖書の言葉を実践することができない。そういう私たちです。けれども、イエス様を信じて、この方を自分の人生に受け入れたら、「キリストがわたしの内に生きておられる」と言うことができるのです。律法の完成者であるイエス様が律法を実行してくださる、聖書の言葉に生きるように導いてくださるのです。
 同じ20節の言葉の中に「わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子」とありました。イエス様の愛、それはこの私のためにご自分の身を献げられたことで表わされた愛です。その身を献げられた、私たちの罪のために十字架にかかってくださった愛です。私たちは、その愛をしっかりと受け止めて生きていくのです。私たちのために十字架にかかり死んでくださった主は今、復活されて、私たちと共に生きておられます。主が一緒に生きておられる!このことを忘れないで、このことを拠り所として、一日一日を大切に歩んでいきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-05-20 06:00:00 (23 ヒット)

先日の新聞やニュースに、故マーチン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の9歳の孫娘ヨランダ・リネー・キングさんが「私には夢がある。銃のない世界だ」と演説したことが報道されていました。アメリカ・ワシントンで行なわれた銃規制強化を求めるデモでの話です(3月24日)。マーチン・ルーサー・キング牧師というと、人種差別撤廃に取り組んだ黒人公民権運動指導者でした。4月4日には、キング牧師が暗殺されて50年ということで追悼集会も行なわれました。以下、キング牧師が1963年8月28日のワシントン大行進の時に行なった演説の一部を引用します。
わたしは夢を持っています。それはいつの日かジョージアの赤土の上で、昔の奴隷の子孫と昔の奴隷主とが兄弟愛のテーブルに一緒に座ることができるようになるだろうという夢です。
わたしは夢を持っています。それはわたしの四人の小さな子供たちが皮膚の色によってではなく、人格の中身によって評価される国に住むことができるようになるだろうという夢です。(梶原寿訳)
私はキング牧師のこの演説を読むと、思い起こす聖書の言葉があります。「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる」(イザヤ11章6〜8節)。これが、聖書が示す平和、主の平和です。私たちの力では実現不可能に思えますが、このような平和が来ることを聖書は告げるのです。私たちは祈りつつ、待ち望みつつ、励みましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-05-13 06:00:00 (28 ヒット)

ガラテヤの信徒への手紙2章4節に、自由ということが記されていました。それも「わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由」となっていました。それはイエス様から与えられた自由ということです。この自由について、ガラテヤの信徒への手紙5章13節を読んでみましょう。
「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」
 ここで言われていることは、あなたは神様から与えられている自由を何のために使いますか?ということです。神様は私たちに対して、ご自分に従って欲しい、と願っておられます。けれども、無理やり、奴隷のようにして従わせるようなことはなさらないのです。神様は自分で決断できるように、選び取っていけるように、私たちに自由を与えてくださったのです。なぜ、そうされたのでしょうか?それは、神様は私たちを愛しておられるから、信頼しておられるからなのです。だから、私たちは神様の私たちに対する愛と信頼を受け止めて、そこから、応えていくのです。神様が与えてくださった自由、それは私たちに対する愛と信頼のしるしです。皆さんはそれに対してどうされるでしょうか?


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-05-06 06:00:00 (26 ヒット)

イエス様を信じておられる方は、この私が教会に行き、福音を聞き、自分でイエス様を信じる決心をした。そう思っておられると思います。それはその通りです。間違いではありません。ところが、聖書を読んでいきますと、こういう言葉に出会います。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハネ15章16節)
 私が教会に行くことを選び、イエス様を信じることを選び取った。そう思われるかもしれません。ところが、イエス様はこのように言われているのです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」。自分が選んだ。自分で信じた。そう思っている私たちにイエス様は、いいえ、あなたがたが私を選んだのではありません。私があなたがたを選んだのです、と言われているのです。
 この言葉から教えられることは、イエス様を信じた、というのは、自分の悟りとか、決断、決心、それに先立って、イエス様からの招き、呼びかけがあったということです。イエス様が教会を用いて、あるキリスト者を用いて、また牧師を用いて、人々に福音を伝えさせた、ということです。ガラテヤ1章12節に「わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされた」とあるのは、そういうことです。実際には、目に見える方法としては、人が人に福音を伝えているように思いますが、その背後には、見えない神様の働きが、導きがあった、ということです。ここに「イエス・キリストの啓示」とありますが、イエス様がご自分から、ご自分のことを私たちに現わしてくださった、ということです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-04-29 06:00:00 (36 ヒット)

ガラテヤの信徒への手紙1章10節には「今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません」とあります。新共同訳聖書で「人に取り入ろうとしている」が口語訳聖書では「人に喜ばれようとしている」、新共同訳聖書で「人の気に入ろうとあくせくしている」が口語訳聖書では「人の歓心を買おうと努めている」となっています。人に喜ばれようとすること、人の歓心を買おうとすること、それ自体が悪いことではありません。しかし、ここで言われていることは、神様に喜ばれることよりも人に喜ばれることを求める、神様よりも人の目を気にする、人の評価を求める、そういう生き方が問われているのです。そして、それはキリストの僕としての生き方ではない、というのです。そうではなくて、神様に喜ばれる生き方を求めていく。神様の目に何が真実であるのかを求めていく。それがキリストの僕の生き方なのです。
4月4日は公民権運動(人種差別撤廃運動、特に黒人差別に対して)で知られるマーティン・ルーサー・キング牧師が暗殺されて50年ということでアメリカでは追悼式典などが行なわれました。真実を求める時、それは時として命がけのことになります。キング牧師は神様のみ心がなること、神様の真実が行なわれることを求めて生きた人でした。私たちの命は神様から与えられた命です。イエス・キリストがご自分の命をささげて与えてくださった命です。その命をどう生きるかというと、命を与えてくださった神様の言葉から聴いていくのです。神様の言葉から私たちは神様のみ心、真実を知らされるのです。神様のみ心を、真実を求めて歩んでまいりましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-04-22 06:00:00 (101 ヒット)

イエス様は弟子たちの中の一人トマスに特別に語ってくださいました。私はイエス様が復活されたことを信じることができません!そう言っていたトマスに特別に語ってくださいました。「それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った」(27、28節)。信じられないトマスに、トマスが言っていたとおり、あなたの指をここに当てて、私の手を見てみなさい。あなたの手を伸ばし、私のわき腹に入れてみなさい。イエス様はご自分が十字架におかかりになった時に受けた体の傷を見るように、触るように、と言われました。トマスが実際に触ったかは分かりません。ここにはそのことは書いてありません。でも、もうトマスにとってはその必要はなかったと思います。私のために復活されたイエス様が顕われてくださった。その十字架で受けた傷を見せてくださった。その傷を見た時、私のために十字架にかかってくださった。そのことを知った、信じたのではないでしょうか。トマスはこう言いました。「わたしの主、わたしの神よ」。私のために十字架にかかってくださった、私のために命をささげてくださった。そのことをトマスはこう言い表したのです。「わたしの主、わたしの神よ」。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-04-15 06:00:00 (37 ヒット)

「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」(ヨハネ12章36節)。主はこのように語られました。「光のあるうちに、光を信じなさい」。この聖書の場面では、イエス様が人々にご自分がこの世にいる間に、私を信じなさい、と言われたと思います。しかし、これを読む私たちにとっての「光のあるうちに」というのはどういうことになるでしょうか?私たちの生きている間に、ということでしょうか?そう考えてもよいでしょうけれども、私はこの「光のあるうちに」というのは、今、この時のことを言われていると思います。イエス様が皆さんに語られている今、この時こそがイエス様を信じる時。私はそう信じて、そのつもりで光を、イエス様を語らせていただいています。
イエス様の十字架と復活、それはこの私のためであった。イエス様の救いをしっかりと心で、全人格で受け止めていく日々でありたいと思います。イエス・キリストの十字架と復活、このことによって、私に神様と共にある新しい人生が与えられ、始められた。そのことがガラテヤの信徒への手紙2章20節にはこのように言い表されています。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」。このことを心から感謝して、主にある人生を歩み続けていきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-04-08 06:00:00 (37 ヒット)

「罪を告白し合い、互いのために祈りなさい」(16節)とありました。お互いが憎み合ったり、裁き合ったりしている状態というのは、イエス様の十字架の愛を忘れてしまっている、離れてしまっている状態なのではないでしょうか?聖書が教える罪というのは、神様の愛から離れていること、神様を信頼しないことを言いますから、罪に陥っている状態と言えるのではないでしょうか?そういうお互いが神様の前に自分の罪を告白する。「神様、私は人を憎み、裁き、あなたの愛と赦しから離れていました。お赦しください」。そのような罪の告白、悔い改めがなされる。そうするならば、お互いが本当に愛し合い、赦し合う群れとされ、教会は前進していくのではないでしょうか。
 「信仰に基づく祈り」(15節)、「正しい人の祈り」(16節)、それは何か特別な信仰深い、完全な信仰を持った人の祈りということではなくて(実際にそういう人はいません)、本当に祈るべきことを祈るということではないかと思います。今、この教会にとって本当に必要なこと、またそれぞれの個人にとって本当に必要なことを祈るということです。イエス様の弟子たちはイエス様に向かって、ある時、このようなことを言いました。「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」(ルカ11章1節)。このように求めた時、主は弟子たちに主の祈りを教えてくださいましたが、私たちも主よ、私たちが本当に求めるべきこと、願うべきことを教えてください、と祈っていくところから始めていきたいと思うのです。主よ、私たちの教会の歩みを導いてください、主が私たちの教会に求めておられることをお示しください。そのような祈りを行なっていきたいと思うのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-04-01 06:00:00 (44 ヒット)

「兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです」(ヤコブ5章10、11節)。
ヨブは、不条理とも言えるような苦難の中にありました。また周りの人たちの無理解もありました。苦しみというのは、その苦しみそのものも辛いですが、理解者がいないというのもそれに加えて二重の辛さとなります。しかし、ヨブ記を読んでいきますと、ヨブが神様と対話している場面が出てきます。私はこれについてはヨブの祈りということだと思います。ヨブは神様に祈り続け、神様の言葉を聴き、神様と向き合っていったのです。そこから、ヨブの忍耐、ヨブに忍耐する力が与えられたと思います。
そして、ヨブは知ったのです。「主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方」。神様という方がどのような方であるかということを知ったのです。神様は慈しみ深いお方、神様は憐れみに満ちたお方。ヨブ記の最後が示すことは、ヨブの人生は大きな苦難の人生であったけれど、決して不幸な人生ではなかった。幸いな人生であった。神様と共にある人生であったということだと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-03-25 06:00:00 (58 ヒット)

私たちは教会から派遣されて、世のただ中を生きる者です。世の中は神様のみ心に従っているかというと、そうではないことを知らされます。神様のみ心に適った世の中ではない。神様の喜ばれるような政治の動きをしているわけでもない。戦争は絶えることなく起こっている。小さくされている人たちがいる。世界中の様子を知れば知るほど、平和な世の中ではないことを知ります。それでは世の中というものはそういうものだから仕方がないとあきらめて、世の中のことは無関心で生きていくのか?というと、それは正しい選択ではないと思います。主の祈りにはどのようなことが教えられていたでしょうか(マタイ6章9、10節)。
天におられるわたしたちの父よ、
御名が崇められますように。
御国が来ますように。
御心が行われますように、天におけるように地の上にも。
「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」とありました。神様のみ心が行なわれますように、と祈ることが教えられています。それも天で、つまり、神様の国でそうであるように、地の上にも。私たちの生きているこの地上においても神様のみ心が行なわれますように、と祈ることが教えられているのです。この世においても、私たちの国においても、私たちの家庭においても、私たちの職場においても、私たちの置かれているそこでも神様のみ心が行なわれますように、と祈っていきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-03-18 06:00:00 (64 ヒット)

ヤコブの手紙4章10節には「主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます」とあります。主が高めてくださるというのは、他の人よりも偉くなるとか、上に立つということではありません。主が共にいてくださるということ、その喜びに生きる者にしてくださるということです。ここには「高めてくださいます」とありますが、世にあってはこの反対に低められるようなことばかりです。私たちはお互いに自分の方が上だ!と人よりも高みに行こうと考えます。今の時代でも私たちはバベルの塔のような生き方を求めてしまいます(創世記11章1〜9節)。しかし、たとえ人々から低められるようなこと、軽んじられるようなことがあったとしても、私たちの目が、私たちの心の目が神様を見つめているならば、それはどうでも良いことです。すべてをお造りになり、支配しておられる神様はあなたを愛し、あなたを良しとしておられるからです。主の恵みに応答する歩みを続けていきましょう。
ヨシュア記24章15節には「もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます」とあります。これはヨシュアの信仰告白と言える言葉です。私たちもこのように告白していこうではありませんか。「わたしとわたしの家は主に仕えます」。主に従っていきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-03-11 06:00:00 (69 ヒット)

「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。」(ヤコブ3章18節)
 「平和を実現する人たち」とありました(「平和を造り出す人たち」口語訳)。イエス様が語られた山上の説教の中にも、「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5章9節)とありました。これはイエス・キリストを信じる人のことを指しています。なぜなら、イエス・キリストを信じるというのは、神様との平和を得たということだからです。罪のために、神様との平和を失っていた、神様との関係が断絶されていた私たちがイエス・キリストの十字架の救いによって、神様との平和を得た、神様との関係を回復させていただいたのです。そのような恵みをいただいた私たちは世にあって、平和を実現することに努めるのです。世にある人々が神様との平和を実現するように、神様との関係を回復することができるように、平和の主、和解の主であるイエス・キリストを宣べ伝えるのです。また私たち自身も、自分がイエス様によって神様との平和をいただいた、神様との関係を回復させていただいたことを表していくのです。そのようにして義の実を蒔くことに努めるのです。


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