ホーム メッセージ 月間予定表 ニュースレター お問い合わせ
はじめての方へ
メインメニュー
ログイン
ユーザー名:

パスワード:


パスワード紛失

オンライン状況
6 人のユーザが現在オンラインです。 (1 人のユーザが メッセージ を参照しています。)

登録ユーザ: 0
ゲスト: 6

もっと...
アクセスカウンタ
今日 : 8
昨日 : 1616
総計 : 8372783727837278372783727
平均 : 2929
投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-12-09 06:00:00 (2 ヒット)

「しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています。」(ヘブライ6章9節)
あなたがたについてもっと良いこと、救いに関わることがあると確信している、とあります。ヘブライ5章11節には「あなたがたの耳が鈍くなっているので」と言われていましたが、ここではまったく正反対のことが言われています。あなたがたの信仰はちっとも成長していない。何年経っても、固い食物が食べられない乳を必要とする幼子のようだ。そう言っていたのが、ここではもっと良いこと、救いに関わることがあると確信している、というのです。どうして、こんなことが言えたのでしょう?このヘブライ人への手紙を記した人はイエス様に期待していたのです。人間的な弱さを抱えた一人一人だけれども、主がこの人たちを良きように導いてくださる。そういう確信があったからです。
使徒パウロという人は、新約聖書の半分以上を記した人です。その中で多くの教会宛の手紙を書いていますが、教会の現状、教会の中に様々な問題があることをよく知っていながら、パウロは各教会に宛てた手紙で教会の人たちのことを聖徒たち、聖なる人たちと呼んでいます。これも神様がそのような者としてくださる。その確信から聖徒たち、聖なる人たちと呼んでいたのです。
神様と出会うと、人は変えられる、新しい人生を生きることができる。この確信の言葉が語られているのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-12-02 06:00:00 (8 ヒット)

「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」(ヘブライ5章7節)。
イエス様が祈りと願いをささげられる様子がここに書かれていました。この箇所について、これはイエス様が十字架におかかりになる前にゲツセマネで祈ったことが表わされているといわれます。またイエス様が十字架におかかりになった時のことが表わされているともいわれます。ゲツセマネの祈りの箇所を見てみましょう。
 「「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕」(ルカ22章42〜44節)。
イエス様は父なる神様から、ご自分が十字架にかかることによって人々を罪から救うことになる。そのことを知っていました。しかし、主はそのことを大変恐れました。人間として死に向き合わされるという、死に対する恐怖を体験され、こう言われました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」。これは、できることなら、十字架にかかることから逃れさせてください、ということです。けれども、この後、イエス様は決断され、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られました。ある方は、十字架にかかることから逃れさせてください、と主が祈られた後、しかし、あなたのみ心をなさってください、と祈られた。この祈りと祈りの間にはどれだけの時間があっただろうか?と言っています。この方の言っている意味はどういうことかというと、十字架におかかりになることについて、イエス様はどれだけ悩み苦しまれたことだろうか、ということです。悩み苦しまれたイエス様、しかし、十字架におかかりになることを決断されたのは神様の言われたことだから、という神様に対する愛から、人々が救われることになる、という人々に対する愛から決断されたのでした。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-11-25 06:00:00 (7 ヒット)

「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブライ4章15節)
ここに記されていることはイエス・キリストは私たちの弱さに同情できない方ではない、ということです。なぜ、そのようなことが言えるのでしょうか。「罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」とあります。イエス様は神の子、神様ですから、罪を犯すことはありませんでした。しかし、あらゆる点において、私たちと同じように試練に遭われた、というのです。
 ところで、この「同情できない方ではなく」ということ、別の日本語訳を見てみますと、「共に苦しむことのできない方ではなく」(岩波版・小林稔訳)となっています。イエス様は私たちと共に苦しんでくださるというのです。だから、私たちが苦しみにある時、それはイエス様も一緒に苦しんでおられるというのです。ヘブライ人への手紙2章17、18節にはこのようなことが記されています。
「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」
私たちの苦しみは自分だけの苦しみなのではありません。私たちは、自分の苦しみなど、だれも分かってくれない、と思うことがあるかもしれません。でも、イエス様は知っておられる、分かっておられるのです。そのイエス様に慰めをいただいて、励ましをいただいて、歩んでいきましょう、生きていきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-11-18 06:00:00 (13 ヒット)

ヘブライ人への手紙4章12節には神様の言葉とはどういうものであるかが示されていました。「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができる」。神様の言葉は生きているというのです。その生きている言葉、命の言葉を私たちは日々、いただいていきましょう。また「心の思いや考えを見分けることができる」とありました。聖書の言葉、神様の言葉によって私たちは神様を知らされます。そして、自分自身を知らされる、人間を知らされるのです。
このヘブライ人への手紙4章7節には「心をかたくなにしてはならない」(7節)とありました。心がかたくな、ということ、これは漢字で書きますと、頑なと書きます。頑固ということです。神様に対してかたくな、頑固になってはいけない、ということです。ある牧師先生は「かたくな」というのは、自分を知らない状態、自分は変わらなくても良いと思っている状態であると言われました。それに対して、聖書の言葉は私たちの本当の姿を映し出します。本当の自分を知らされる。私たちが毎朝、出かける時、鏡の前に立ち、自分の容姿を見て整えるように、聖書の言葉から自分の本当の姿を知って整えていくのです。日々、主によって自分を変えていただきましょう(ローマ12章2節)。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-11-11 06:00:00 (16 ヒット)

マタイ18章21〜35節には、赦された家来の譬えが記されています。私はこの箇所から、主の祈りの一節を思い起こしました。
わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。(マタイ6章12節)
「負い目」というのは罪のことです。ですから、私たちの罪をお赦しください、という祈りが祈られているのです。神様の前に立つ時、そこで私たちの罪が明らかになります。罪に気づかされた時、私たちはこの私の罪をお赦しください、と祈らされます。またここには、私たちとあります。自分の罪の問題だけでなく、教会の兄弟姉妹のこと、愛する家族のこと、そのことも一緒に祈りたいと思います。
 そして、自分に対して罪を犯した者を赦すことができますように、という祈りが続けられています。このように見ていきますと、罪というのは、まず、神様との関係において、そして、お互いの関係において、ということが分かります。神様から赦された私たちはその赦された感謝、喜びを持って、互いの間において赦し合っていくのです。
マタイ18章35節には、「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら」とありました。この「心から」ということは大事なことです。心から。それはうわべだけではなく、心の奥底から、ということで考えられるでしょう。そして、もう一つのこととして、私たちの心に赦しの心が与えられているのです。なぜなら、私たちは神様に赦されていることを知っているからです。赦しを知っている、信じている。それは私たちにも赦しの心が与えられているということです。なかなか赦せない、そういうことが多いと思います。しかし、もうすでに私たちには神様ご自身が私を赦してくださったことによって、赦しの心が与えられている。赦し、赦され、生きる者とされている。この希望を持って歩みたいと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-11-04 06:00:00 (21 ヒット)

「あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。―― わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。――」(ヘブライ3章13、14節)
私たちも荒れ野の旅をしたイスラエルの民と同じく、かたくなになってしまわないように、こういうアドバイスが語られています。「「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい」。信仰というのは「今日」のことなのだ、ということです。過去のことをどんなに誇っても、過去にああいうことをした、こういうことをした、と言っても、今、信じていなければどうでしょうか?また明日、将来、信じます!と言っても、今、信じなければ、いつまでたっても信仰をスタートさせることはできません。聖書は、あなたは今、信じなさい!と言っています。
 さて、どんなアドバイスがされているかというと、「日々励まし合いなさい」ということです。励まし合うことが大事です。礼拝に集う私たちはそこでお互いに励まし合うことができるでしょう。祈祷会でも祈り合い、励まし合うことができます。この「日々励まし合いなさい」と訳されている言葉、「日々互いに声をかけあいなさい」(田川建三訳)と訳されているものがありました。声を掛けあう。挨拶の一言でもいいでしょう。イスラエルの挨拶は、シャローム、それは平和という意味です。シャローム、神様の平和がありますように、ということです。私たちも、あなたに神様の平和がありますように、と互いに声を掛けあってみましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-10-28 06:00:00 (22 ヒット)

モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました。家を建てる人が家そのものよりも尊ばれるように、イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい者とされました。どんな家でもだれかが造るわけです。万物を造られたのは神なのです。(ヘブライ3章2〜4節)
「モーセが神の家全体の中で忠実であった」とありました。「神の家」、それは何でしょうか?神様の家族、神様の家庭ということです。そして、モーセにとっては神様の家族というのはイスラエルの民のことでした。モーセはイスラエルの民の一人でしたが、その指導者とされました。イスラエルの民のために仕え、励みました。一方、イエス様については、「イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました」とあり、さらに「家を建てる人が家そのものよりも尊ばれるように」、「万物を造られたのは神」ともあります。神様の家、家族を造られたのは神様であるということが言われています。モーセは神様の家族に忠実であったが、イエス様はその神様の家族を建てられた、造られた方、神様に忠実であった、と言われています。
家族を形成する、建てるのはだれでしょうか。おそらく多くの人は家族というのは、その家族の一員で形成されると考えると思います。しかし、それに対して、聖書はそれとは違うことを教えています。
主御自身が建ててくださるのでなければ/家を建てる人の労苦はむなしい。(詩編127編1節)
「主御自身が建ててくださるのでなければ」とあります。目に見えるところで考えますと、家庭というのは家族の人たちで構成され、形成されていくわけです。しかし、聖書は私たちの家庭を建ててくださるのは神様なのだ、というのです。教会というのは、先ほどのイスラエルの民と同じく、神様の家族です。教会も神様が建ててくださる。ですから、私たちは教会を建ててくださる方である神様の言葉に聴き、従い、歩むのです。神様の言葉が教会を建てる、私たちを建てるのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-10-21 06:00:00 (26 ヒット)

「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25章40節)。最も小さい者とはだれのことでしょうか?世の中で小さくされている人たち、貧しい人たち、虐げられている人たち・・・。そういう人たちと考えても間違いではないと思います。けれども、もう一つのことを忘れてはならないと思います。それは私たち自身のことです。私たちは神様の前に立つ時、小さな者です。愛においてもそうです。本当に愛の乏しい者です。神様から「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」(同35、36節)。こんなこと、言われるはずはないだろうと思えるような小さな者です。でも、そういう小さな私の小さな愛を神様は見ておられる。こんなこと、人に自慢できるほどのことではない、だれでもやっているような、特別素晴らしいとも思えないような、そういう一つ一つのことも神様は見ておられる。そして、その小さなことを神様は喜んでおられる・・・。
 私のすること、行なうことは小さなことかもしれない。でも、神様はご存じ。私ができることは人に誇るようなことでも自慢できることでもないけれど、神様に愛され、救われた喜び、感謝から。ある方は私が行なう、私がする、というではなく、神様によってさせていただいている、ということを忘れないように心掛けています、と言われました。愛のわざにおいても小さな私たちですが、まず、神様の愛と恵みを受け止めて、そこからすべてを始めていきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-10-14 06:00:00 (46 ヒット)

イエス様のことをヘブライ人への手紙12章17節では「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司」(17節)と記していました。憐れみ深い。それは一緒に苦しみ、一緒に耐える、ということです。ヘンリー・ナウエンというカトリックの神父で大学の教授をしておられ、最後はラルシュ共同体という知的ハンディキャップを持つ人たちのコミュニティーで仕えられた方がおられました。この方の著書に『傷ついた癒し人』という題名の本があります。傷ついた癒し人、それはイエス様のことであり、イエス様に従って生きようとする人もそうであると思います。聖書の互いに愛し合いなさい、という言葉を聴いて、私たちは愛することに努めます。しかし、それは時に自ら傷を受けるようなこともあります。その時、私たちはイエス様が私たちを救うために、愛するために自ら傷を受けられたことを思い起こしたいと思います。以下はイザヤ書53章のイエス様の救いを示している箇所です。
「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ書53章4、5節)


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-10-07 06:00:00 (60 ヒット)

「だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます」(ヘブライ2章1節)。ここに「聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません」とあります。「聞いたこと」というのは、神様の言葉のことです。新共同訳聖書の注意を払う、という言葉もよいですが、口語訳聖書では「いっそう強く心に留めねばならない」となっていました。注意を払う、心に留める。神様の言葉を大事に心に受け止めていくということです。
アメリカの若いクリスチャンの中で、腕にWWJDという文字の入った腕輪などのグッズを付けている人がいると聞いたことがあります。WWJD、これはWhat Would Jesus Do?を略したものです。日本語では「イエス様ならどうすると思う?」という意味です。このWWJDの文字の入ったグッズはキリスト教の書店のグッズ売り場にも置いてあるようですが、それを見て、いろいろな人生の選択、選び取りの時、イエス様ならどうされるだろう?そのことを考えてみるとよいと思います。そのために聖書を開いて、あるいは心に留めている聖書の言葉を思い起こしてみるということは大事なことです。
神様の言葉に注意を払わないと、心に留めておかなければ、押し流されてしまいます、と言われていました。押し流されてしまうというのは、世の中の考えに押し流されてしまうということです。イエス様を信じる者にとっては、イエス様の考えが第一、一番です。それなのに、簡単に押し流されてしまう。3節には「これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて」とあります。神様の言葉を大事にしないというのは、神様から与えられた救いに対してむとんちゃくになるということ、新改訳ではこのむとんちゃくということをないがしろにする、とありました。イエス様の救いにむとんちゃくでないように、イエス様をないがしろにしないように、私たちはいつもこのことに気をつけなければなりません。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-09-30 06:00:00 (52 ヒット)

ヘブライ人への手紙1章5〜14節の間に何度もカギ括弧の言葉が出てきます。例えば、5節には「あなたはわたしの子、/わたしは今日、あなたを産んだ」、「わたしは彼の父となり、/彼はわたしの子となる」とありますが、みんな聖書、旧約聖書からの引用です。聖書が言っているのは、神様はイエス様のことを私の子供と言っています。そして、神様はイエス様の父と言っているのです。神様とイエス様は一つです。
6、7節では、天使について、「神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ」、「神は、その天使たちを風とし、/御自分に仕える者たちを燃える炎とする」と言われています。天使というのは、「彼」、すなわち、イエス様を礼拝する者、イエス様に仕える者ということです。そして、8節以下には、イエス様が神様であることが言われています。9節にこういう言葉があります。「神よ、あなたの神は、喜びの油を、/あなたの仲間に注ぐよりも多く、あなたに注いだ」(ここで「あなた」というのはイエス様のこと)。神様はイエス様に喜びの油を、イエス様の仲間に注ぐよりも多く、イエス様に注いだ。これはイエス様には誰よりも多くの喜びが与えられているということです。それはイエス様こそは喜びの源泉、源だ、ということです。
イエス様を信じたある一人の方はこのように証しされました。私は自分が神様に愛されているという喜びを知りました。自分が教会の人たちに祈られているという喜びを知りました。今まで知らなかった喜びを教会に来て、聖書の話から、また教会の兄弟姉妹との交わりの中で知らされていきました、というのです。でもその喜びはまだほんの一部です。これからもっともっと知らされていくのです。イエス様の喜びをもっともっと知らされていくのです。愛される喜び、愛する喜び、私たちはイエス様と一緒に歩んでいく中でその喜びを知らされていくのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-09-23 06:00:00 (39 ヒット)

「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。」(ヘブライ1章3節)
御子、つまり、イエス・キリストは神様の栄光の反映とあります。口語訳聖書では、神様の栄光の輝きとなっています。イエス様という方は神様の栄光を反射させて、輝かせて行かれたお方です。聖書を読んでいきますと、イエス様が神様の言葉を語り、また神様の素晴らしいみわざを行なったことが書かれていますが、それはすべて神様の栄光を、光を表わすためでした。イエス様を信じる人をクリスチャンと言います。日本語ではキリスト者、キリストのものと言いますが、イエス様を信じる人も同じです。イエス様が神様の栄光、光を表わされたように、私たちも神様の栄光、光を表わすために生きるのです。実は私たち人間は神様の栄光、光を表わすために造られたのです。ところで、神様という方は一言で言うと、どういうお方でしょうか?
「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」(一ヨハネ4章16節)
「神は愛です」とありました。神様は愛です、愛のお方です。先ほど、神様の栄光とか光と言いましたが、それをもっと具体的に言うと、愛ということです。神様の栄光が表わされるというのは、神様の愛が表わされるということです。その神様の愛を表わすために造られたのが私たちなのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-09-16 06:00:00 (50 ヒット)

「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった」(ヨハネ12章3節)。ラザロとマルタのきょうだいマリアは純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエス様の足に塗り、自分の髪の毛でその足を拭った、ということです。すると、家中が香油の香りでいっぱいになりました。ナルドというのは、ヒマラヤ原産の植物の名前だそうで、その根から香油が採れるのだそうです。マリアが持って来た香油は一リトラであったということですが、一リトラというのは、326グラムだそうです。ではどれだけの価値があったかというと、この後の5節から考えられるのは、三百デナリオン、約一年分の労働賃金分の価値があった、ということです。その高価な香油をイエス様のためにいっぺんに使ってしまった。ベタニアのマリア、この人が行なったこと、それは損得勘定や計算を越えたイエス様に対する感謝を表わす献げ物でした。しかし、この聖書の話はイエス様に対して、たくさんの、多くの献げ物をしましょう!という話ではないと思います。マリアがイエス様からどれだけたくさんの、多くの恵みを受けたか、愛を受けたか、という話だと思います。その受けた恵み、愛に対して、喜びあふれて、感謝があふれて、このような出来事が起こったのです。
ルカによる福音書7章47節に「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」という言葉があります。ここでイエス様が言われているのは、神様の愛と赦しをあなたはどれだけ気づいていますか?どれだけ知っていますか?ということです。マリアはイエス様がこの私のために十字架にかかってくださる、命を献げてくださる。イエス様の愛と赦しを知り、その感謝を表わしていったのです。私たちもイエス様の十字架の愛と赦しを心から受け止めていきたいと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-09-09 06:00:00 (37 ヒット)

イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」(ヨハネ11章40〜42節)
主はラザロを生き返らせたこの出来事を通して、復活とは何か、新しい命とは何かを示されました。復活とは、新しい命とは、石を取りのけることです。私たちを縛るものをほどくということです。その石とは何でしょうか。その縛るものとは何でしょうか。それは罪であり、死です。罪は、死は私たちを支配します。しかし、主は心に憤りを覚えられました。私たち人間を罪と死の支配のままにすることを憤られるのです。石を取りのけよ、ほどいてやって、行かせよ。主は私たちを罪と死から解放してくださるのです。それが復活であり、新しい命です。私たちがイエス・キリストを信じるならば、私たちは罪と死に支配されない。たとえ、この地上における生涯が終わろうとも、罪と死に支配されない。それが復活です、それが新しい命です。イエス・キリストを信じるならば、罪と死に支配されず、地上での死に終わらず、イエス・キリストにあって永遠に生きる者とされるのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-09-02 06:00:00 (54 ヒット)

イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」(ヨハネ11章23〜27節)
ここに復活の話が出てきます。人は死んで終わりではない。復活の時がある。マルタはそう信じていました。そういうマルタに対して、イエス様はこう言われます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。イエス様はご自分のことを復活であり、命であると言われます。ご自分を信じる者は、死んでも生きる。生きていてイエス様を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。
イエス様を信じる人は死んでも生きる、決して死なない。なぜなら、その一人一人は復活であり、命である方とつながっているから、一緒にいるからです。イエス様とつながっているなら、イエス様と一緒にいるなら、たとえ、この地上での生涯は終わっても、それですべてが終わりではないのです。復活であり、命であるイエス様と一緒に生き続けているのです。それが聖書が教える永遠の命です。
3世紀からバプテスマ式の時に用いられていた信仰告白文をもとにして作られたのが「使徒信条」です。この信条の最後の言葉は「我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。アーメン」です。結びの「永遠の生命を信ず」。私たちも声高らかに唱えたい、祈りの言葉としたいと思います。主は私たちに永遠の命を与えてくださいました。主は私たちにも言われます。あなたはこのことを信じるか。はい、信じます!と答えていきましょう。


(1) 2 3 4 ... 27 »
PageTop「ャ