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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-02-17 06:00:00 (1 ヒット)

「『それらの日の後、わたしが/イスラエルの家と結ぶ契約はこれである』と、/主は言われる。『すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、/彼らの心にそれを書きつけよう。わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となる。』」(ヘブライ8章10節)
ヘブライ人への手紙8章10節には「わたしの律法を彼らの思いに置き、/彼らの心にそれを書きつけよう」とありました。律法、モーセの十戒、それは書かれた文字を読み、それに従っていこうとするものでした。ところが、ここには「彼らの心にそれを書きつけよう」とあります。心に律法が書きつけられるというのです。これはどういう意味でしょうか?
新約聖書のローマの信徒への手紙10章4節にこのようなことが書かれています。「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために」。キリストは律法の目標。この目標という言葉は「終わり」(口語訳、聖書協会共同訳)とも訳せる言葉です。他には完成とか、成就とも訳せる言葉です。「律法が目指すものはキリストです」(新改訳2017)と訳してあるものもあります。この言葉が示していることは何かというと、イエス様が律法です、ということです。ですから、この「わたしの律法を彼らの思いに置き、/彼らの心にそれを書きつけよう」というのは、イエス様が私たちの心においでになるということです。イエス様を信じる人にはイエス様がその人の心においでになります。
旧約聖書の旧約、その時代には、神様がモーセに神様の喜ばれる生き方をするために律法をお与えになりましたが、新約聖書の新約、これは今の時代です。今は神様が私たちにイエス様をお与えになった。私たちはイエス様を心にお迎えし、イエス様が新しい律法そのものですから、イエス様に従って生きるように導かれているのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-02-03 06:00:00 (13 ヒット)

ヘブライ人への手紙7章20節からは「誓い」ということが言われています。「また、これは誓いによらないで行われたのではありません。レビの系統の祭司たちは、誓いによらないで祭司になっているのですが、この方は、誓いによって祭司となられたのです。神はこの方に対してこう言われました。「主はこう誓われ、/その御心を変えられることはない。『あなたこそ、永遠に祭司である。』」このようにして、イエスはいっそう優れた契約の保証となられたのです」(7章20〜22節)。
 レビの系統の祭司たちというのは、ユダヤの祭司のことです。ユダヤの祭司はレビ族という部族の出身者がなりました。その人たちというのは誓いによらないで祭司になった、というのですが、この方、これはイエス・キリストのことです。イエス・キリストという祭司は誓いによって祭司になられた、ということです。誓いというのは言い換えると、約束と言っても良いと思います。それでは「この方は、誓いによって祭司となられた」というのはどういうことでしょうか?
 誓い、ということについて、「神による誓い」(新改訳2017)と訳されているものもあります。神様による誓い、神様の誓いということです。神様が私たちに誓いを立ててくださった、約束してくださった。それが、神様はイエス・キリストという祭司をあなたがたのために立てました、ということです。さらに神様の誓いということは神様が私たちに対して、あなたを私は救います!私の大切な御子イエス・キリストによって救います!ということであり、その誓い、約束というのは変わることがありません。主は変わらないお方です。その主に助けていただいて、支えていただいて、主と共に歩んでまいりましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-01-27 06:00:00 (11 ヒット)

 神様に近づくために、どうしたら良いのか?ユダヤ人は、自分たちが神様の律法、掟を守ることによって、神様に近づくことができると考えていました。もしかすると、私たちもこれと同じことを考えているかもしれません。正しい行い、善いことをする人こそは神様に近づくことができる。ですから、その反対の人は神様に近づくことができない・・・。
 しかし、「わたしたちは、この希望によって神に近づくのです」(ヘブライ7章19節)とありました。「この希望」、これは何のことでしょうか?イエス様のことです。私たちは、この希望、すなわち、イエス様によって神様に近づくことができるのです。いえ、神様が近づいてくださったのです。弱さや無力さをおぼえる私、神様の前には一人の罪人である私、しかし、そこに主がお出でになった、神様が近づいてくださった。何という恵みでしょうか。
 ですから、神様に近づくために、私たちはどうしたら良いのか?それは私たちに近づいてくださった、私たちのところにおいでになったイエス様を受け入れるだけで良いのです。以前の掟が廃止された(18節)、とありますが、それはイエス様こそが律法、掟だからです。イエス様が神様の愛そのものだからです。私たちはこの方の言葉を聴いて、従って歩めば良いのです。イエス様が私たちと一緒に歩んでくださって、神様の愛に生きることを導いてくださいます。新しい年も主と共に歩みましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-01-20 06:00:00 (17 ヒット)

創世記32章23節からの箇所は新共同訳の小見出しにあるように、ペヌエルでヤコブが何者かと(何者かというのは神様の使い、あるいは神様ご自身であったと言われます)格闘する場面が記されています。兄エサウとの再会を前にして、ヤコブは祈ります(10〜13節)。そして、家族を導き、川を渡らせ、独り後に残った時に、この格闘の出来事となります(23〜25節)。ところで、ヤコブという名前について、創世記25章26節によると、ヤコブはエサウと双子の兄弟として生まれましたが、生まれる時、ヤコブはエサウの足をつかんでいたそうです。かかとというのがアケブという言葉だそうですが、そこから、ヤコブと名付けられたようです。ヤコブとは足を引っ張る者という意味だと聞いたことがあります。そのヤコブが神様の使いと格闘している時、腿の関節を打たれ、外れてしまいます。それは自分の力でやっていけると思っていた生き方が打ち砕かれたことを意味します。神様の使いはヤコブにこのように言います。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ」(29節)。ヤコブは勝利した、というのです。ヤコブの勝利とは、神様の使いとの格闘(これこそはヤコブの祈りであったと言われます)を通して、自分の力で生きるのでなく、神様の力によって生きる者とされた。今までの自分自身に打ち勝って、神様の勝利にあずかった、ということです。ヤコブはイスラエルと名付けられました。イスラエルとは、神様は戦う、神様は支配される、という意味です。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-01-13 06:00:00 (26 ヒット)

「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ2章14節)
私はこの天使の賛美を読むと、自分は御心、神様の心に適う人になっているのかな?と心配します。それで神様の御心に適う人になるように、一生懸命、新しい一年頑張るぞ!そういう決心をします。でも、本当に御心に適う人になれるのかなあ、と決心はしたもののまた心配になります。昨年、新しい日本語訳の聖書が出版されました。聖書協会共同訳という聖書です。その訳でこの「御心に適う人にあれ」というところを見てみましたら、新共同訳聖書と本文は同じでしたが、注が付いていて、そこには直訳では「神に喜ばれる人にあれ」とありました。御心に適う、それは直訳では神様に喜ばれる人だというのです。
私たちは幼いとき、子供時代、親に喜ばれるように、とあるいは学校なら、先生に喜ばれるように、また教会なら、牧師に喜ばれるように、と頑張って歩んで来られた方がおられるかもしれません。これを別な言い方をするなら、親や先生や牧師に気に入られるように、ということかもしれません。喜ばれよう、気に入られよう・・・。
では神様に喜ばれるというのはどういうことでしょうか?聖書をよく読んで、よくお祈りして、正しい行ないに努めて・・・。それが神様に喜ばれることでしょうか?「神に喜ばれる人にあれ」とは、神様に喜ばれる人になりなさい!ということではなく、神様はあなたを喜んでいるということです。神様はあなたという存在を喜んでいるということです。どんなあなたであっても、あなたの存在、あなた自身を喜ばれる神様ということです。
神様に喜ばれている私は、私を喜んでおられる、愛しておられる。そういう方の言葉を聴きたい、語り合いたい。だから、聖書を読むのです、祈るのです。愛される喜びから、愛してくださっている方の愛に応えていきたいと、神様に従っていくのです。それが信仰ということです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-01-06 06:00:00 (32 ヒット)

「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(ルカ2章6、7節)。
皇帝アウグストゥスの時代、当時、アウグストゥスが救い主と呼ばれていました。しかし、本当の救い主はアウグストゥスではなく、名も知られない夫婦の間に与えられた小さな命、小さな赤ちゃん、その子が本当の救い主なのでした。当時のユダヤの人たちは神の子、救い主がいつかやって来る。その方は私たちのためにどんなことをしてくださるか。大きな、力強い救い主を待ち望んでいたのではないでしょうか?ところが、本当の救い主はそれとはまったく違った、小さな、無力な方としておいでになりました。
飼い葉桶の中にいる救い主。そのことから、おそらくイエス様はどこも行く場所がなくて、家畜小屋におられたのだろう。家畜小屋の飼い葉桶におられたのだろう、と言われています。そして、汚く粗末な家畜小屋の飼葉桶というのは、私たちのことを象徴しているとも言われます。だれにも見せたくない、知られたくない私たちの心の中、罪に支配されている私たち、そこに救い主はおいでくださった。そういう私たちを愛し、受け入れ、神様がお示しになる新しい生き方、罪に支配された生き方ではなく、神様の愛に支配された生き方へと導いてくださる。この救い主と共に歩んでまいりましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-12-30 06:00:00 (42 ヒット)

マリアはこのように神様を賛美しています。「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(ルカ1章47節)。あがめる、というのは大きくなる、という意味です。ですから、神様、あなたのみ名をあがめます、というと、神様が大きくなりますように、ということ、私の内におられる神様が大きくなりますように、ということです。神様を信じても、日々の生活の中で、神様を小さくしてしまっている。神様をどこか隅っこに追いやってしまっている。そういうことはないでしょうか?しかし、私たちは神様をあがめます、と祈っていきたいと思います。神様が大きくなりますように。神様が私の人生の中心におられ、私を支配されますように、と祈っていきたいと思います。
「身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう」(同48節)。自分のことを「主のはしため」とマリアは言っています。マリアは自分が本当に小さな、貧しく、弱い者であると言っているのです。しかし、そういう者に神様は目を留めてくださった。マリアはただ「はしため」と言っているのではありません。「主のはしため」と言っています。自分が主のもの、神様のものであるということを自覚しています。エフェソの信徒への手紙2章10節には「わたしたちは神に造られたもの」とあります。私は神様に造られた者、神様に愛されている者、神様のもの。そのことを知るとき、ここにありますように、自分が「幸いな者」であることを知るのです。マリアは自分から救い主が生まれるという幸いにあずかりました。そして、私たちもその救い主を私たちの心にお迎えし、救い主と一緒に人生を歩む者とされました。それは幸いなことです。私たちは主にあって幸いな者です。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-12-23 06:00:00 (35 ヒット)

受胎告知で知られるルカによる福音書1章26〜38節ですが、この箇所はマリアと主の天使の対話の場面でもあります。マリアはこう言います。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(38節)。マリアは主の天使の告げた救い主がマリアによって誕生することを理解したのでしょうか?いいえ、そうではないと思います。主の天使は一生懸命、困惑するマリアに語りますが、語れば語るほど、ますますマリアにとっては理解できない、ありえないと思えたのではないでしょうか?しかし、マリアは天使の語る最後の一言が心に強く響いたのではないでしょうか。「神にできないことは何一つない」(37節)。私には理解し得ない、何か驚くべきことが告げ知らされている。けれども、この神様の言葉を信じて、神様に自分を委ねていこう。それがこの「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」ということではないかと思います。
マリアは神様から選ばれた人でした。救い主はマリアから産まれることになったからです。しかし、マリアは神様に選ばれるだけの素晴らしい信仰の持ち主だったのでしょうか?いいえ、マリアは自分のことを私は主のはしためと言っていますが、自分は何も特別な存在ではない。優れた者ではない。小さな者に過ぎない。マリアはそう思っていたでしょう。しかし、そういうマリアを神様は選ばれました。
マリアは天使から告げ知らせた神様の言葉をすぐに信じられたかというとそうではありませんでした。幾度もそのやり取りがあり、その中でマリアは「神にできないことは何一つない」、この言葉に自分を賭けた、自分を委ねたのだと思います。このように見ていきますと、マリアが信仰深い人だった、というよりも天使との対話の中で神様はマリアに信仰を与えてくださった。つまり、信仰というのは神様が与えてくださるもの、神様がその人に信じる心を与えてくださるということを知らされます。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-12-16 06:00:00 (50 ヒット)

使徒言行録7章には、ステファノの説教が記されています。そもそもステファノが律法と神殿をけなした、ということから、最高法院でその訴えに対する弁明として語る場面でしたが、弁明というよりは聖書の言葉そのもの、説教が語られていました。しかし、その後半の内容から分かってきたことは、やはり、ステファノの語ったことは、説教でありましたが、弁明でもあった、ということです。それも、単なる自己弁護ということではなく、聖書が、あなたがたが訴えている、あなたがたが問題にしていることに対してどう語っているか。聖書からそのことを答えていったのでした。
これを聞いた人々の様子がこのように記されています。「人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした」(使徒7章54節)。彼らはステファノが語ったことに対して、激しく怒った、ということです。それと対照的なのがステファノでした。「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った」(使徒7章55、56節)。ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめていた、というのです。そこには神様の栄光と神様の右に立っておられる主イエスがおられた。その主を見た。だから、ステファノはこう言っています。「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」。人の子、つまり、イエス様が見える、というのです。このステファノの姿から教えられるのは、ステファノは何を見て生きていたか、ということです。目の前には、ステファノの説教を聞いて、怒りに満ちた人たちがいました。しかし、ステファノはその人たちではなく、天を見つめ、主を見上げていた、というのです。私たち教会は何を見つめて歩んでいるのか?そのことが問われる思いがします。主の言葉を聞き、怒りに満ちている人たちの顔色を見ながら、教会は歩むでしょうか?それとも、天を見つめ、主を見上げて教会は歩むでしょうか?


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-12-09 06:00:00 (46 ヒット)

「しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています。」(ヘブライ6章9節)
あなたがたについてもっと良いこと、救いに関わることがあると確信している、とあります。ヘブライ5章11節には「あなたがたの耳が鈍くなっているので」と言われていましたが、ここではまったく正反対のことが言われています。あなたがたの信仰はちっとも成長していない。何年経っても、固い食物が食べられない乳を必要とする幼子のようだ。そう言っていたのが、ここではもっと良いこと、救いに関わることがあると確信している、というのです。どうして、こんなことが言えたのでしょう?このヘブライ人への手紙を記した人はイエス様に期待していたのです。人間的な弱さを抱えた一人一人だけれども、主がこの人たちを良きように導いてくださる。そういう確信があったからです。
使徒パウロという人は、新約聖書の半分以上を記した人です。その中で多くの教会宛の手紙を書いていますが、教会の現状、教会の中に様々な問題があることをよく知っていながら、パウロは各教会に宛てた手紙で教会の人たちのことを聖徒たち、聖なる人たちと呼んでいます。これも神様がそのような者としてくださる。その確信から聖徒たち、聖なる人たちと呼んでいたのです。
神様と出会うと、人は変えられる、新しい人生を生きることができる。この確信の言葉が語られているのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-12-02 06:00:00 (61 ヒット)

「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」(ヘブライ5章7節)。
イエス様が祈りと願いをささげられる様子がここに書かれていました。この箇所について、これはイエス様が十字架におかかりになる前にゲツセマネで祈ったことが表わされているといわれます。またイエス様が十字架におかかりになった時のことが表わされているともいわれます。ゲツセマネの祈りの箇所を見てみましょう。
 「「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕」(ルカ22章42〜44節)。
イエス様は父なる神様から、ご自分が十字架にかかることによって人々を罪から救うことになる。そのことを知っていました。しかし、主はそのことを大変恐れました。人間として死に向き合わされるという、死に対する恐怖を体験され、こう言われました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」。これは、できることなら、十字架にかかることから逃れさせてください、ということです。けれども、この後、イエス様は決断され、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られました。ある方は、十字架にかかることから逃れさせてください、と主が祈られた後、しかし、あなたのみ心をなさってください、と祈られた。この祈りと祈りの間にはどれだけの時間があっただろうか?と言っています。この方の言っている意味はどういうことかというと、十字架におかかりになることについて、イエス様はどれだけ悩み苦しまれたことだろうか、ということです。悩み苦しまれたイエス様、しかし、十字架におかかりになることを決断されたのは神様の言われたことだから、という神様に対する愛から、人々が救われることになる、という人々に対する愛から決断されたのでした。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-11-25 06:00:00 (56 ヒット)

「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブライ4章15節)
ここに記されていることはイエス・キリストは私たちの弱さに同情できない方ではない、ということです。なぜ、そのようなことが言えるのでしょうか。「罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」とあります。イエス様は神の子、神様ですから、罪を犯すことはありませんでした。しかし、あらゆる点において、私たちと同じように試練に遭われた、というのです。
 ところで、この「同情できない方ではなく」ということ、別の日本語訳を見てみますと、「共に苦しむことのできない方ではなく」(岩波版・小林稔訳)となっています。イエス様は私たちと共に苦しんでくださるというのです。だから、私たちが苦しみにある時、それはイエス様も一緒に苦しんでおられるというのです。ヘブライ人への手紙2章17、18節にはこのようなことが記されています。
「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」
私たちの苦しみは自分だけの苦しみなのではありません。私たちは、自分の苦しみなど、だれも分かってくれない、と思うことがあるかもしれません。でも、イエス様は知っておられる、分かっておられるのです。そのイエス様に慰めをいただいて、励ましをいただいて、歩んでいきましょう、生きていきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-11-18 06:00:00 (53 ヒット)

ヘブライ人への手紙4章12節には神様の言葉とはどういうものであるかが示されていました。「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができる」。神様の言葉は生きているというのです。その生きている言葉、命の言葉を私たちは日々、いただいていきましょう。また「心の思いや考えを見分けることができる」とありました。聖書の言葉、神様の言葉によって私たちは神様を知らされます。そして、自分自身を知らされる、人間を知らされるのです。
このヘブライ人への手紙4章7節には「心をかたくなにしてはならない」(7節)とありました。心がかたくな、ということ、これは漢字で書きますと、頑なと書きます。頑固ということです。神様に対してかたくな、頑固になってはいけない、ということです。ある牧師先生は「かたくな」というのは、自分を知らない状態、自分は変わらなくても良いと思っている状態であると言われました。それに対して、聖書の言葉は私たちの本当の姿を映し出します。本当の自分を知らされる。私たちが毎朝、出かける時、鏡の前に立ち、自分の容姿を見て整えるように、聖書の言葉から自分の本当の姿を知って整えていくのです。日々、主によって自分を変えていただきましょう(ローマ12章2節)。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-11-11 06:00:00 (61 ヒット)

マタイ18章21〜35節には、赦された家来の譬えが記されています。私はこの箇所から、主の祈りの一節を思い起こしました。
わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。(マタイ6章12節)
「負い目」というのは罪のことです。ですから、私たちの罪をお赦しください、という祈りが祈られているのです。神様の前に立つ時、そこで私たちの罪が明らかになります。罪に気づかされた時、私たちはこの私の罪をお赦しください、と祈らされます。またここには、私たちとあります。自分の罪の問題だけでなく、教会の兄弟姉妹のこと、愛する家族のこと、そのことも一緒に祈りたいと思います。
 そして、自分に対して罪を犯した者を赦すことができますように、という祈りが続けられています。このように見ていきますと、罪というのは、まず、神様との関係において、そして、お互いの関係において、ということが分かります。神様から赦された私たちはその赦された感謝、喜びを持って、互いの間において赦し合っていくのです。
マタイ18章35節には、「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら」とありました。この「心から」ということは大事なことです。心から。それはうわべだけではなく、心の奥底から、ということで考えられるでしょう。そして、もう一つのこととして、私たちの心に赦しの心が与えられているのです。なぜなら、私たちは神様に赦されていることを知っているからです。赦しを知っている、信じている。それは私たちにも赦しの心が与えられているということです。なかなか赦せない、そういうことが多いと思います。しかし、もうすでに私たちには神様ご自身が私を赦してくださったことによって、赦しの心が与えられている。赦し、赦され、生きる者とされている。この希望を持って歩みたいと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-11-04 06:00:00 (68 ヒット)

「あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。―― わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。――」(ヘブライ3章13、14節)
私たちも荒れ野の旅をしたイスラエルの民と同じく、かたくなになってしまわないように、こういうアドバイスが語られています。「「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい」。信仰というのは「今日」のことなのだ、ということです。過去のことをどんなに誇っても、過去にああいうことをした、こういうことをした、と言っても、今、信じていなければどうでしょうか?また明日、将来、信じます!と言っても、今、信じなければ、いつまでたっても信仰をスタートさせることはできません。聖書は、あなたは今、信じなさい!と言っています。
 さて、どんなアドバイスがされているかというと、「日々励まし合いなさい」ということです。励まし合うことが大事です。礼拝に集う私たちはそこでお互いに励まし合うことができるでしょう。祈祷会でも祈り合い、励まし合うことができます。この「日々励まし合いなさい」と訳されている言葉、「日々互いに声をかけあいなさい」(田川建三訳)と訳されているものがありました。声を掛けあう。挨拶の一言でもいいでしょう。イスラエルの挨拶は、シャローム、それは平和という意味です。シャローム、神様の平和がありますように、ということです。私たちも、あなたに神様の平和がありますように、と互いに声を掛けあってみましょう。


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