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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-07-14 06:00:00 (2 ヒット)

 「すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み」(コロサイ1章10節)とありました。神様に喜ばれるように、とあります。口語訳聖書では「主のみこころにかなった生活をして真に主を喜ばせ」とありました。新改訳2017と聖書協会共同訳ではほとんど同じ言葉で訳されていました。「主にふさわしく歩んで、あらゆる点で主に喜ばれ」。すっきりした言葉で訳されています。主にふさわしく歩む。これは神様に造られた者にふさわしく、とか、神様に救われた者にふさわしく、という意味で考えることができます。
 旧約聖書・創世記の最初のところに神様が人間を造られた箇所が記されています。そこには「神は御自分にかたどって人を創造された」(創世記1章27節)とあり、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」(同31節)とありました。私たち人間は神様にかたどって、これは神様のご性質、ご意志を表わす存在として創造された、という意味です。そして、極めて良かった、ともあります。ところが、私たち人間は創世記3章にありますように、原罪、根本的な罪を犯したというのです。それは私たちをお造りになった神様を無視して、自分が神のようになってしまった、ということです。私の人生の主人はだれでしょうか?皆さんは何と答えるでしょうか?私は私だ!私の人生の主人、中心は自分。それが神様を無視した生き方です。しかし、今日の聖書は語っています。主にふさわしく歩むように。神様に造られた者、神様に救われた者にふさわしく歩むように。私たちの人生の主人は、中心は神様です。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-07-07 06:00:00 (7 ヒット)

 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ14章1〜3節)
 これはイエス様の言葉です。「用意してくださっている」と語られていました。イエス様はご自分を信じる者たちに、あなたがたのために場所を用意してくださっている。これは天の国の希望、私たちに神様が与えてくださる永遠の住まい、場所ということで考えることができるでしょう。そして、今、この世に生きている間でも、イエス様は私たちに住まいを、場所を、もっと言うと、居場所と言ったら良いでしょう。それを与えてくださっています。そのことについて、ここには「わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」と言われています。イエス様のいるところに、私たちもいる。すなわち、イエス様が共にいる、イエス様と共にある。これが私たちの居場所です。
 先日の特別集会の丸山先生の説教の中で、マルタとマリアの姉妹の話が語られました。その中で「必要なことはただ一つだけ」(ルカ10章42節)、その必要なただ一つというのは、マリアがイエス様のみ言葉に耳を傾けたこと、イエス様と共に過ごしたこと、と言われました。私たちも一人一人がイエス様のみ言葉に耳を傾け、イエス様と共に過ごす。このことを大事にするのです。このことを私たちの生活の中心にするのです。すると、そこから、生きる力をいただくのです。イエス様と共に過ごす。イエス様と共にある。このことが生きている間も、そして、天に召された後も、永遠に続くのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-06-30 06:00:00 (25 ヒット)

 「しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、監守長は監獄にいる囚人を皆、ヨセフの手にゆだね、獄中の人のすることはすべてヨセフが取りしきるようになった。監守長は、ヨセフの手にゆだねたことには、一切目を配らなくてもよかった。主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである。」(創世記39章21〜23節)
 私たちは自分にとって不幸、不運とも思えることがあると、神は私と共におられないのだろうか?神は私を愛しておられないのだろうか?と思うかもしれません。創世記のヨセフの記事を見てみますと、ヨセフは主人の妻の偽りの証言によって不当にも監獄に入れられることになりました。しかし、神様はヨセフを見離したわけでも、愛していないわけでもありませんでした。神様はヨセフを試練の中に置かれましたが、「主がヨセフと共におられ、恵みを施し・・・」と記されています。監守長からもヨセフは信頼されたことが記されています。神様はヨセフの試練の時も、その状況に応じた助けを与えてくださっているのです。一方、ヨセフも、試練の中で、神様の守りを信じ、腐ることなく、その置かれた場所で誠実に生きていきました。ヨセフ自身、主が共におられることを信じて、それを希望として生きたのではないでしょうか。
 キリスト教の信仰というのは、一見、何の魅力もないもののように思えるかもしれません。信じれば、良いことが起こりますよ、試練などありませんよ、そういうことは言いません。でも、信じてみて分かることは、不幸とか、不運と思える状況にあっても、そこでも神様は見捨てず、共におられる。そして、何の希望もないと思える、人生を投げ出してしまいたくなる、そういう中にあっても、どう生きていったらよいか。そのことを主が私たちに教え、導いてくださることを知るのです。人生山あり谷ありですが、山にある時も、谷にある時も、主が共にいてくださる。そこでも、どこでもやっていけるように教え、導いてくださる。イエス様を信じて本当に良かった。私は心からそのように思っています。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-06-23 06:00:00 (22 ヒット)

イエス様がバプテスマを受けられた時、霊が降って、天からこのような声が聞こえた、とあります。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マルコ1章11節)。イエス様を信じる人には霊が降ります。ここで霊というのは神様の霊、聖霊のことです。聖霊が降った、というのは、神様はご自分を信じる人と共におられるということです。
そして、天からの声が聞こえたとあります。これは神様の声が聞こえたということです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。神様がご自分の御子であるイエス様に言われた言葉ですが、私たちにも同じように語られます。神様にとって、あなたは私の愛する子供、私の心に適う者。この「わたしの心に適う者」という言葉は、新しい聖書協会共同訳でも同じですが、聖書協会共同訳の注釈を見ますと、直訳ではこのように訳されるとあります。「私はあなたを喜ぶ」。神様にとって、ご自分の御子であるイエス様は喜びです。そして、私たちも神様にとっては喜びの存在なのです。私たちはこのことをいつもおぼえていたいと思います。私たちは神様に喜ばれている。私たちは神様にとって喜びの存在です。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-06-16 06:00:00 (27 ヒット)

 「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ」(マタイ13章16節)。
 主イエスは弟子たちに幸いと言われました。種を蒔く人のたとえ話を読むと、どれも私たちに当てはまることです。ですから、ああ、私は道端に蒔かれた種のようだ!石だらけのところに蒔かれた種のようだ!茨の中に蒔かれた種のようだ!と言って、嘆く人がいるかもしれません。しかし、私たちは嘆きに留まりません。ここには御言葉を聞いて悟ることが大事であると言われています。私たちは弱い者ですが、この蒔かれた種、御言葉を聞いて悟る。御言葉を聴き続ける、御言葉に信頼して生きるのです。
 主は「耳のある者は聞きなさい」(マタイ13章9節)と言われました。聞く耳を主は与えてくださいました。私たちにはこのような約束が示されています。「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである」(同23節)。主は弟子たちに、主を信じる私たちに聞く耳を与え、見える目を与えてくださいました。宝の持ち腐れではいけません。与えられた目で主を見上げ続け、与えられた耳で主の御言葉を聴き続けていくのです。そうするならば、主は私たちを良い土地にしてくださり、実を結ばせてくださるのです。主を信じて歩みましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-06-09 06:00:00 (28 ヒット)

ヘブライ人への手紙13章18節に「わたしたちは、明らかな良心を持っていると確信しており」とあります。「明らかな良心」とは何でしょうか?別の訳では「正しい良心」(新改訳、聖書協会共同訳)となっていました。岩波訳では「私たちは[自分の]内奥の意識が良い[状態にある]」とありました。内奥という言葉は滅多に聞かないことです。しかし、私たちの信仰を考えるうえで大事な言葉だと思います。内奥、心の奥深く、という意味になるでしょうか?
私たちは自分の信仰についてどのように考えているでしょうか?内奥、心の奥深くまで、イエス様を信じているでしょうか?イエス様が自分の心の奥深くまで、人格を支配しておられるでしょうか?それとも、外側は信仰があるように思えるけれども、内側はどうもそれとは違う、そういうことはないでしょうか?信仰生活というのは、初めはだれもが外側の部分から、あるいは形からと言ってもよいでしょうか。しかし、少しずつ、私たちの内側へ、中の方へと浸透していく、イエス様が私たちの内側へ、中へ入ってくださるのです。大事なことは私たちの方も日々、イエス様に対して、心を開いていく、イエス様に対して素直に、正直になっていくことです。パウロはそのことをこのような言葉で言い表しています。
「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(二コリント3章18節)
 ここに「主と同じ姿に造りかえられていきます」とあります。リビングバイブルでは「主に似た者にされていく」となっています。イエス様は神様の愛そのものの方です。そういう方に似た者にされる。素晴らしいことです。あの人は教会に行くようになってから変わったね。前は意地悪だったのに、他人のことを考えるような人ではなかったのに。イエス様を受け入れて信じた人の中に、その変化に気づくようなことがあります。でもそれは自分の努力、頑張りではできないことです。「主の霊の働きによる」とあります。主の霊、聖霊の働きによって、すなわち、イエス様によって変えられて、私たちは主と同じ姿に、主に似た者にされていくのです。私たちは互いにこのことを祈っていきましょう。そして、共に主の愛のうちに生きる者となりますように。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-06-02 06:00:00 (29 ヒット)

 「善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです。」(ヘブライ13章16節)
 「善い行いと施し」、これは特にキリスト教でなくても、一般的にも納得するような教えのように思えます。けれども、まず、この「施し」ということに注意してみたいと思います。貧しい人への施し、困っている人たちに施しをする。大事なことですが、この言葉が聖書協会共同訳では別の訳として「交わり」と訳すことができると紹介されています。また新改訳2017では「分かち合うこと」と訳されています。聖書が教える施しというのは、交わり、また分かち合うことというのです。それはどういうことかというと、私たちはみんな神様から生きるために必要なものを神様から与えられているということです。ですから、本来は私のものと思っているもののすべては神様のものです。ですから、私のものの中から何かを恵んでやる、という態度であってはならないのです。すべてのものは神様のもの、私も神様から生きるために必要なものとしてあれを、これを与えられている。その感謝から、人々と分かち合う。貧しい人たち、苦しみにある人たちと分かち合う。それが聖書が教える施しです。
 善い行いというのも、神様が私に善いことをしてくださったから、それに倣って、私も善い行いをする。それが聖書が教える善い行いです。エフェソの信徒への手紙2章10節にはこう書かれています。「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです」。ここには私たちとはどういう存在であるかということも言われています。「わたしたちは神に造られたもの」とあります。聖書協会共同訳と新改訳2017では「私たちは神の作品」とあります。神様に造られた私たち、神様の作品である私たちは神様の喜ばれることを求めて生きるのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-05-26 06:00:00 (44 ヒット)

 金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。(ヘブライ13章5節)
 金銭、お金というものを何か悪いもの、汚いものと考える人がいます。しかし、お金自体は悪いもの、汚いものではありません。それをどのように使うか、用いるかが大事なことです。ここに「金銭に執着しない生活」とありますが、これはお金に仕えるようなことにならないように、お金を神様のようにしないように、ということです。お金は生活のため、生きていくために必要なものです。けれども、私たちに命を与え、生かしておられる神様を忘れた時、お金を神様のようにしてしまうことがあります。このことは気をつけなければなりません。
 「今持っているもので満足しなさい」とあります。お金の有る無し、生活の豊かさ、貧しさ、そういうことに対して、私たちはある時は満足感を持ち、ある時は不平不満に陥ったりしますが、この「今持っているもので満足しなさい」というのは、私たちにすべてのものを与え、生かしておられる神様に対して感謝していますか?神様を信頼して生きていますか?ということが言われているのです。神様が共におられること、このことこそ、あなたの満足、あなたの喜び、あなたの生きる力としなさい、ということです。ですからこの後、このような言葉が続いています。「神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました」(申命記31章6、8節の引用)。
 神様は「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われているのだから、神様を信頼して生きていきなさい、ということです。金銭に執着するとか、今を満足できない、というのは、神様に対する信頼の欠如ということではないでしょうか?そこから、恐れ、不安、心配、不平不満が起こって来るのではないでしょうか。主は共におられる。主を信頼して歩みましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-05-19 06:00:00 (40 ヒット)

「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」(マタイ7章24節)。神様の言葉を聞いて行う。これはとてもシンプルな教えでだれにでもできそうなことです。でも、本当にそうしようと決心し、実行していくと、あることは行えるけれど、あることは行えない・・・。そういう壁にぶち当たります。作家の三浦綾子さんは聖書の言葉を実行しようとすると、そうできない自分を知る。そして、自分はいかに神様の言葉から遠いかが分かる、と書いています。つまり、聖書の言葉に従っていく時、自分がそれに従い得ない、神様から離れている、罪深い自分に気づかされるというのです。イエス様は私の言葉を聞いて従いなさい、と言われました。私たちはイエス様の言われるように、神様の言葉を聞いて従っていきたいと思います。しかし、これは神様の権威、神様の力によって、できることです。「人間にできることではないが、神は何でもできる」(マタイ19章26節)とイエス様が言われた通りです。ですから、私たちはこのように祈っていきたいと思います。「私は自分のことを岩の上に家を建てた賢い人のように思っていました。けれども、神様の言葉を聞いて、行なおうとする時、それができない自分を知ります。私は砂の上に家を建てた愚かな人のようです。でも、そういう私を主が助けてくださり、主と共に歩む時、主が私を日々、造り変え、主に従う者にしてくださることを信じます」。そのように祈りつつ、歩んでまいりましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-05-12 06:00:00 (55 ヒット)

 新共同訳聖書ではヘブライ人への手紙12章14節以下に「キリスト者にふさわしい生活の勧告」という小見出しが付いていました。「キリスト者にふさわしい生活」というのは何だろうと考えてみました。キリスト者、クリスチャンというと、一般的にはいろいろなイメージがあるように思います。真面目な人であるとか、善い行いを求める人などありますが、そういうイメージ通りに生きることがキリスト者にふさわしく生きるということではありません。キリスト者、クリスチャンというのは、言い換えますと、神様の恵み、神様の愛と義を知っている人、信じている人です。私は神様から命を与えられ、生かされている。そう信じて生きる人のことです。ですから、このキリスト者にふさわしい生活、生き方というのは、神様の恵みに応える生き方と言ったらよいかと思います。皆さんそれぞれが私はどのようにして神様の恵みに応えていったらよいだろうか?そのことを祈りながら考えていくのです。そして、私はこうだ、と思ったら、そのように歩み出していくのです。
 信仰生活というのは、まず、受けるということが大事です。神様の恵みを受ける。しかし、受けることに留まるのではなく、私たち自身も求めるのです。イエス様は山上の説教の中でこのように語られました(マタイ7章7、8節)。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(マタイ7章7、8節)。求めなさい、と言われました。ヘブライ12章14節にも「追い求めなさい」とありました。何を追い求めるのかというと、平和を追い求める、聖なる生活を追い求めるのです。その「求める」ということを「近づく」という言葉でも表されていました。「あなたがたが近づいたのは、・・・新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です」(ヘブライ12章22〜24節)。イエス・キリストの十字架の救い、それは和解、平和の福音に生きるということです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-05-05 06:00:00 (69 ヒット)

「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」(マタイ28章10節)
復活されたイエス様は婦人たちに出会い、ご自分の弟子たちにガリラヤへ行くように言いなさい、と言われました。ガリラヤというのはイエス様が福音を伝えることを始めた場所です。ですから、言っている意味は弟子たちにガリラヤから再び、神様の福音を伝えに行こう!ということです。このイエス様の言葉で注目したいことは、イエス様はご自分の弟子たちのことを弟子たちとは言わないで、「わたしの兄弟たち」と言っておられることです。
教会で私たちはお互いのことを主にある兄弟姉妹と言います。それはイエス様が私たちのことをイエス様の家族、神様の家族と言っておられるからです(「あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族」エフェソ2章19節)。復活されたイエス様は今、私たちにもこう言っておられるのではないでしょうか。あなたは私の兄弟、あなたは私の姉妹。こう言ってくださるイエス様に対して、私たちも、この方を私の人生の主と呼んで、この方を自分の人生に受け入れて、この方と共に歩んでまいりましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-04-28 06:00:00 (70 ヒット)

 ローマの信徒への手紙12章15節に「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」とあります。これはとても美しい聖書の言葉の一つであると思います。共に喜び、共に泣く。そういう生き方は人間として美しいものだと思います。けれども、これを実践する、行なうとなるとどうでしょうか?ある人はこの聖書の言葉について、共に泣くことはできるけれど、共に喜ぶことは難しいと言います。特に自分が苦しみのただ中にある時、人の喜びを共有、共感するのは難しいと言います。一方で、共に泣くということはそれに比べると、難しいものではない、と言う方もいます。
 共に喜ぶ、ということは難しい。共に泣く、ということでは、人が試練に遭っている時は共感できる。けれども、その人がその試練を乗り越えたら、もうその人に共感できなくなる。人の不幸は共感できても、人の幸せは共感できないというのはどういうことなのだろう?自分自身のことでもそのことを思いますが、それが人間の心の貧しさであり、人間の罪の姿であると思うのです。ヘブライ12章4節の「罪と戦って血を流すまで」とは、そういう私たちの罪、どこまでも自己中心で他者を愛せないことを知っておられ、その私を罪から救いだし、新しい人として生きるように、愛する者となるように、血を流された方、救い主イエス・キリストのことであるということ。罪に対して、自分では戦えないでいる、打ち勝つこともできないでいる私たちができることはただ一つ、この方を信じて生きることなのではないでしょうか。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-04-21 06:00:00 (59 ヒット)

「あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。」(ヘブライ12章3節)
「あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように」とありますが、私たちの人生の歩み、信仰の歩みというのは、こういうことがしばしばあります。気力を失い、疲れ果ててしまう。そういう私たちに「御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい」と言っています。「御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方」とありますが、イエス様に反抗した罪人たちというのは、どういう人たちなのだろう?そのことを考えてみますと、これはあの人、この人のことではどうもなさそうだ。いやこれはこの私のことだ。私はそのようにこの箇所を読んでみました。そうすると、イエス様はこの私のことを忍耐してくださっている。すぐに右にも、左にも曲がってしまう。イエス様の言われる言葉とはまったく反対のことをしてしまう。そういう私のことを忍耐してくださっている。そのことに気づかされたのです。そして、感謝の思いが心に溢れてきました。イエス様、本当にありがとうございます。私に対する深い愛を感謝します、と祈りをささげました。
私たちの信仰の歩み、人生の歩み、それを走り抜くことができるのは、イエス様が共におられるからです。この箇所では、信仰者を競技者で例えていますが、この箇所からイエス様という方は私たちの伴走者であると思いました。伴走者というのは、視覚障害の方のマラソン、ブラインドマラソンというものですが、競技される方に伴って走る人のことです。伴走者は競技者の目となって、その方向を伝え、示していきます。私たちもイエス様が伴走者となって、私たちの歩むべき道、方向をイエス様が示してくださることによって、歩むことができるのです。伴走者であるイエス様と共に歩んでまいりましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-04-14 06:00:00 (62 ヒット)

「ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブライ11章16節)
「天の故郷」とあります。天の国、神の国、そこに入ることができる。救いのことです。それこそは神様が与えてくださった最も素晴らしい約束です。旧約聖書に出てくる信仰者たちはなぜ、その約束を手に入れることができなかったのでしょうか?ヘブライ11章39節にも「その信仰のゆえに神に認められ」とあります。その人たちの信仰は神様にも認められていたのです。それなのになぜ約束のものを手に入れることができなかったのでしょうか?その答えが40節です。
「神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。」(11章40節)
 なぜ、旧約の信仰者たちは、ただ一つの最も素晴らしい約束、11章40節の言葉で言えば、「更にまさったもの」を手に入れることができなかったかというと、それは私たちのためであった、というのです。私たち、つまり、ここにいる私のことです。40節の最後に「わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかった」とあります。文語訳聖書では「彼らも我らと偕ならざれば」となっています。「偕ならざれば」というのは、みんなと一緒でなければ、という意味です。旧約の信仰者たちと私たちが一緒でなければ、ということです。神様は約束のもの、更にまさったものをみんなに一緒に与えたいと願っておられるのです。私たちが一緒に受けるためにどうしたらよいでしょうか?この更にまさったもの、福音を伝えていくのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2019-04-07 06:00:00 (68 ヒット)

 アブラハムは神様が示す約束の地へ行きました。しかし、幕屋に住んだ(9節)とあります。それはなぜでしょうか?天の故郷を信じていたからです。この世においてはよそ者、仮住まいの者として生きたのです。それはこの世に固執しない、この世に支配されない生き方と言うことです。そして、それは自分に固執しない、自分に支配されない、と言う生き方でもあります。自分さえ良ければよい、と言う生き方ではない、他者のために生きる、他者の喜びや悲しみを一緒に喜び、悲しむ生き方です。これこそは聖書が教える生き方です。けれども、なかなかそういうふうには生きられない私たちですが、どこを見つめて生きるか、何を目当てに生きるかが大事です。自分の罪深さ、自分の弱さだけを見つめて生きるのではなく、私たちを愛しておられるイエス様を見つめて生きるのです。そこから、生きる力、愛する力が与えられるのです。
 私たちは神様から造られ、愛されて生きている者です。そして、この地上、この世では神様の教えに従って生きるように召されています。イエス様は弟子たちにこう言われました。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(ヨハネ15章12節)。イエス様ははっきりと、これがご自分の掟であると言われました。この短い言葉から、二つの大切なことが言われています。一つは「わたしがあなたがたを愛したように」とありますように、神様は私たちを愛していると言うことです。そして、二つ目は「互いに愛し合いなさい」と言うことです。神様が私たちを愛されたように、あなたがたも互いに愛し合いなさい、と言われているのです。私たちは、天の故郷を目指しながら、この地上でどのように生きていったらよいでしょうか?お読みしました聖書には、生き方の原則、土台が言われています。自分が神様に愛されていることを知り、神様が愛されたように、互いに愛し合うと言うことです。神様の愛がこの地上でも、この世でも大いに表わされ、一人一人が神様によって本当に生きた者となるように、私たちは祈りつつ励んでいきましょう。


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