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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-04-01 06:00:00 (55 ヒット)

「兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです」(ヤコブ5章10、11節)。
ヨブは、不条理とも言えるような苦難の中にありました。また周りの人たちの無理解もありました。苦しみというのは、その苦しみそのものも辛いですが、理解者がいないというのもそれに加えて二重の辛さとなります。しかし、ヨブ記を読んでいきますと、ヨブが神様と対話している場面が出てきます。私はこれについてはヨブの祈りということだと思います。ヨブは神様に祈り続け、神様の言葉を聴き、神様と向き合っていったのです。そこから、ヨブの忍耐、ヨブに忍耐する力が与えられたと思います。
そして、ヨブは知ったのです。「主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方」。神様という方がどのような方であるかということを知ったのです。神様は慈しみ深いお方、神様は憐れみに満ちたお方。ヨブ記の最後が示すことは、ヨブの人生は大きな苦難の人生であったけれど、決して不幸な人生ではなかった。幸いな人生であった。神様と共にある人生であったということだと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-03-25 06:00:00 (73 ヒット)

私たちは教会から派遣されて、世のただ中を生きる者です。世の中は神様のみ心に従っているかというと、そうではないことを知らされます。神様のみ心に適った世の中ではない。神様の喜ばれるような政治の動きをしているわけでもない。戦争は絶えることなく起こっている。小さくされている人たちがいる。世界中の様子を知れば知るほど、平和な世の中ではないことを知ります。それでは世の中というものはそういうものだから仕方がないとあきらめて、世の中のことは無関心で生きていくのか?というと、それは正しい選択ではないと思います。主の祈りにはどのようなことが教えられていたでしょうか(マタイ6章9、10節)。
天におられるわたしたちの父よ、
御名が崇められますように。
御国が来ますように。
御心が行われますように、天におけるように地の上にも。
「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」とありました。神様のみ心が行なわれますように、と祈ることが教えられています。それも天で、つまり、神様の国でそうであるように、地の上にも。私たちの生きているこの地上においても神様のみ心が行なわれますように、と祈ることが教えられているのです。この世においても、私たちの国においても、私たちの家庭においても、私たちの職場においても、私たちの置かれているそこでも神様のみ心が行なわれますように、と祈っていきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-03-18 06:00:00 (78 ヒット)

ヤコブの手紙4章10節には「主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます」とあります。主が高めてくださるというのは、他の人よりも偉くなるとか、上に立つということではありません。主が共にいてくださるということ、その喜びに生きる者にしてくださるということです。ここには「高めてくださいます」とありますが、世にあってはこの反対に低められるようなことばかりです。私たちはお互いに自分の方が上だ!と人よりも高みに行こうと考えます。今の時代でも私たちはバベルの塔のような生き方を求めてしまいます(創世記11章1〜9節)。しかし、たとえ人々から低められるようなこと、軽んじられるようなことがあったとしても、私たちの目が、私たちの心の目が神様を見つめているならば、それはどうでも良いことです。すべてをお造りになり、支配しておられる神様はあなたを愛し、あなたを良しとしておられるからです。主の恵みに応答する歩みを続けていきましょう。
ヨシュア記24章15節には「もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます」とあります。これはヨシュアの信仰告白と言える言葉です。私たちもこのように告白していこうではありませんか。「わたしとわたしの家は主に仕えます」。主に従っていきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-03-11 06:00:00 (86 ヒット)

「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。」(ヤコブ3章18節)
 「平和を実現する人たち」とありました(「平和を造り出す人たち」口語訳)。イエス様が語られた山上の説教の中にも、「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5章9節)とありました。これはイエス・キリストを信じる人のことを指しています。なぜなら、イエス・キリストを信じるというのは、神様との平和を得たということだからです。罪のために、神様との平和を失っていた、神様との関係が断絶されていた私たちがイエス・キリストの十字架の救いによって、神様との平和を得た、神様との関係を回復させていただいたのです。そのような恵みをいただいた私たちは世にあって、平和を実現することに努めるのです。世にある人々が神様との平和を実現するように、神様との関係を回復することができるように、平和の主、和解の主であるイエス・キリストを宣べ伝えるのです。また私たち自身も、自分がイエス様によって神様との平和をいただいた、神様との関係を回復させていただいたことを表していくのです。そのようにして義の実を蒔くことに努めるのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-03-04 06:00:00 (88 ヒット)

「馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります」(ヤコブ3章3、4節)。
 ここには馬と船の話が記されています。馬については、馬を御するためにはどうするか?馬の口にくつわをはめればよいというのです。そうすると、馬の体全体を意のままに動かすことができるとあります。もう一つの話は船です。船で大事なのは舵取りだというのです。どんなに強風に吹きまくられていても、舵取りがうまく操作するならば、大丈夫だというのです。
 私たちも神様からくつわをはめていただくのです。私たちも神様に舵取りをしていただくのです。イエス様を救い主と信じるとはこのことなんです。イエス様を救い主と信じていると言いながら、依然としてくつわをはめていただくこともしない、自分が舵取りをしてきた・・・。イエス様を救い主と信じるというのは、イエス様を私の人生の主、人生の主人といたします!という決心、告白です。それなのに、まだ自分自身を主としていたのではないですか?自分の王座をイエス様に明け渡していなかったのではないですか?もし、今、あなたがイエス様を人生の主とする、イエス様に王座を明け渡すなら、私たちの心も口も主が支配してくださり、主を賛美する人生へと変えられていくのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-02-25 06:00:00 (91 ヒット)

ルカによる福音書18章9〜14節には、イエス様のたとえ話が記されています。そこには対照的な二人の人の祈りの姿があります。一人はあるファリサイ派の人の祈りでした。もう一人はある徴税人の人の祈りでした。二人の祈りから知らされることは、どこを向いているか、どこを見つめているか、ということでした。自分に向かって生きる人、そして、神様に向かって、神様の恵みを見つめて生きる人の違いです。
あるファリサイ派の人の祈りで欠けていたことは、自分が誤った道を歩まないでいられるのは、断食をしたり、たくさんのささげものができるのはすべて神様の恵みによるものであるということを忘れていたということです。神様の恵みを忘れる時、私たちは自分の義を誇り出すのです。そして、人を裁きだすのです。
 一方、ある徴税人について言えば、彼は神様の恵みの前に、自分の罪深さに気づかされ、悔い改めるのです。彼は自分の罪を赦し、新しい人生を導いてくださる神様の恵みに圧倒されるのです。自分の罪に打ちひしがれたこの人は神様の恵みに圧倒されるのです。そして、神様の恵みに応えていこうと生きるのです。神様の恵みを見つめながら祈り、歩んでまいりましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-02-18 06:00:00 (97 ヒット)

「私は神様からえこひいきされている」。これは作家の三浦綾子さんがお連れ合いの光世さんに言われた言葉です。その著書にもこの話は記されています。三浦綾子さんというと、生涯のほとんどが病の苦しみの中にあった方です。そういう方が自分は神様からえこひいきされているというのはどういうことでしょうか?三浦さんはこう言っておられたそうです。「私は病気を一つする度に一つずつ新しいことを学んだ。素晴らしい恵みを受けた」。私は三浦綾子さんの言葉から、聖書のパウロの言葉を思い出しました(二コリント12章7〜9節)。
12:7 思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。12:8 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
 一つのとげというのは、パウロに与えられた病のことでした。病の中で、パウロは神様の語りかけを聞きます。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」。これがパウロにとっての神様からのえこひいきということではないでしょうか。病は確かに辛い、苦しいものです。世の中の考え、価値観では、不幸であるとか、悪いものと考えるかもしれません。しかし、聖書は、病を通して、神様の恵み、神様の力を知る、体験するというのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-02-11 06:00:00 (99 ヒット)

イエス様がご自分の弟子たちの足を洗われた、ということが記されていました。足を洗うというのは、僕の仕事でした。ですから、弟子の一人であるペトロは驚いてしまって、自分の足を洗わないでほしい、と言いました。ペトロとしては、あるいはペトロなりの、主に対する最善の態度、振る舞いと言えるものです。主よ、あなたは私の主、私の師ですから、そのあなたが僕の仕事である足を洗うなどということをしないでください!ところが、主が言われたことは次のようなことでした。「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(7節)、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」(8節)。
 7節の言葉からは、主はペトロがご自分のなさっていることを理解できないでいることはお見通しだったことが分かります。しかし、それもずっと分からないわけではなく、「後で、分かるようになる」と言われました。8節の言葉からは、もし、主がペトロの足を洗うことをペトロが拒むならば、主とペトロとは何のかかわりもないことになる、と言われたのです。そう言われて、あわててペトロはそれでは手も頭も洗ってください、などと言っています。
 このやり取りから知らされることは、ペトロにとっては、弟子としての正しい態度、あるいは信仰と思ってしたことが主の目にはそうではなかったということです。このようなことは私たちにも度々あるのではないかと思います。私は伝道をしています!奉仕をしています!自分ではこれが信仰だ!と思っていてもそうでないことがあるのです。なぜ、そういうことが起こるのかというと、私たちが主の言葉に聴くことをしない、主から学ぶことをしない時にそのようになるのです。まず、み言葉に聴き、主の思いを知って歩む。そういう私たちでありたいと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-02-04 06:00:00 (106 ヒット)

アブラハムは創世記23章16節にありますように、銀四百シェケルで妻サラの墓地のための土地を購入しました。「差し上げます」(11節)、と言っているのに、銀四百シェケル、それはどれだけの価値か分かりませんが、大変高額であったそうです。それはアブラハムの気持ち、いいえ信仰です。少しでも安く上げよう。そういうことではなく、9節のアブラハムの言葉にもあったように、「十分な銀をお支払いします」ということを行ったのでした。ここではアブラハムはサラの墓地のためということでしたが、この後、ここはアブラハム、イサク、ヤコブも葬られることになります。アブラハムは神様が私に約束してくださったように、私に子供を、子孫を与えてくださる。神様の恵みに対する証しとして考えたのではないでしょうか。
 アブラハムのヘトの人々、エフロンに対する態度、振る舞い、それはその厚意や優しさに甘んじるというものではありませんでした。然るべき費用を支払って、妻サラを葬る場所を確保しました。私はこの時のアブラハムについて、福音書に記されています香油の記事、イエス様のために香油を注いだ女性の記事を思い起こしました(マルコ14章3〜9節参照)。高価な香油をイエス様のために使った女性のことをある弟子は無駄遣いと言いました。しかし、その女性にとっては、イエス様のために、ということは何にも増して価値のあることでしたから、イエス様のためにその香油を使ったのです。アブラハムの振る舞い、態度は神様の恵みに対する応答としてなされたことであったと思いますし、香油を注いだ女性もそうだったと思います。何に価値を置き、何のために使うか。私たちも信仰から考えていきたいと思います。アブラハムの人生は主にある人生、主を中心とする人生であった、その証しがここに記されていることです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-01-28 06:00:00 (108 ヒット)

宗教とか、信仰というと、それは人生の苦しみから解放してくれるもの、気持ちを楽にしてくれるもの、目の前の問題が解決されるもの、そういうこととだけ考えて、何か試練に遭うと、信仰があっても意味がない、無駄だった。そのように嘆く人がいます。確かに信仰があるからといって、試練が無くなるようなことはありません。病気にならないということもありません。イエス様を信じても、いろいろなことは起こってきます。でも、私の小さな経験から言えることは、一つ大きな違いがあるということです。それは試練に対する受け止め方が変わった、ということ、「信仰が試されている」という受け止め方に変わったということです。
 「信仰が試されている」ということについて、ペトロの手紙一1章6、7節にはこのような言葉が記されています。
1:6 それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、1:7 あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。
 信仰が試されているというのは私たちの信仰が火で精錬されている状態だというのです。火で精錬するというのは、不純物が取り除かれて、純粋なものだけが残るということです。私たちの家族との関係などはまさにそういうものではないでしょうか。試練に遭う。例えば、家族が病気になる。何か順調にいっていたことが挫折したりする。それはつらいこと、苦しいことですが、そのことを通して、家族が純化されていきます。家族が本当に愛し合う、大切にし合うことを身を持って教えられていくのではないでしょうか。試練そのものは嫌なもの、避けたいものですが、試練を通して、家族の関係、教会の兄弟姉妹の関係が本物の関係、本物の関わりになっていくのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-01-21 06:00:00 (105 ヒット)

東の方から、ユダヤ人の王としてお出でになった方に会いに来た占星術の学者たちの話を聞いて、不安を抱いた人たちがいました。「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」(マタイ2章3節)とあります。当時、ユダヤの王に君臨していたヘロデ王は自分を脅かす存在を感じて不安を抱いたのです。そして、彼は何をしたかというと、「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」(同16節)というのです。自分を脅かす存在を亡き者にするために、と多くの命を奪い取ってしまったのでした。
シャローム、主の平和がありますように!と私たちは願い、祈ります。それは不安を抱き、不安を抱かせる相手を敵と見なし、その命を奪う生き方とは正反対の生き方です。主の平和がありますように!それはお互いが主に与えられた命であり、お互いの存在を喜び合い、神様の祝福があるようにと祈り合う生き方です。ある方は救い主が小さな赤ちゃんとして生まれたのは、無力な者、無敵な者となられたことを表している、と言っています。イエス・キリストは力の無い、何の力も持たないお方としてお生まれになりました。そして、敵の無い、だれも敵としないお方としてお生まれになったのです。私たちもヘロデと同じように不安を抱くことがあります。その時、思い起こすのです。無力な、無敵な方として来られた救い主のお姿を。そして、この方に自分の人生を委ねていく時、この方を私たちの生きる道としていく時、不安は平安へと変わるのです。主の平安、主の平和に生きる人たちが新たに起こされるように祈りつつ、救い主をお伝えしていきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-01-14 06:00:00 (122 ヒット)

「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」(マタイ2章3節)。
ヘロデ王というのは、ユダヤ人ではありませんでした。ローマの支配にあったユダヤに送り出された人でエドム人であったと言われます。傀儡政権で、いつ自分の地位がどうなるか、という心配があったのでしょう。ヘロデ王が不安を抱くのは分かる気がします。しかし、ここには「エルサレムの人々も皆、同様であった」とあります。エルサレムの人々、彼らはユダヤ人の王、本当のユダヤ人の王、メシア、救い主を待ち望んでいたはずです。ところが、彼らもヘロデと同様に不安を抱いた、というのです。ヘロデは不安を抱いたが、エルサレムの人たちは喜んだ、とは書いていないのです。これはどういうことでしょうか?実はこのことも分かる気がするのです。というのは、私たちは王を迎えるというのは決して嬉しいことではないのです。王を迎えるというのは、自分を支配する人を受け入れるということです。私たちはだれからも支配されたくはないのです。自分が王でいたい。自分を支配するのは自分だ。そう願っているのが正直なところではないでしょうか?
一方、救い主に出会った占星術の学者たちは救い主のイエス様をひれ伏して拝みました。イエス様に頭を下げたのです。そして、この方を私の人生の王、主としました。そして、宝の箱、自分がこれだけは譲れない、しがみついていたいと思っていたものを主に献げたのです。そして、この占星術の学者たちの行為というのは一言で言うならば、自分の人生をすべてイエス・キリストにお委ねした、お任せした、ということです。
イエス・キリストはあなたのためにおいでになりました。あなたの王として、あなたの人生の主として、あなたと共に歩みたいと願っておられます。この方に自分を委ねて生きる、任せて生きる人生。今までとは違う別の道、新しい道を、不安から平安へ至る道を歩み出そうではありませんか。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-01-07 06:00:00 (108 ヒット)

マタイ福音書のヨセフの苦悩。妻マリアの聖霊による妊娠は理解できない出来事でした。ヨセフは一人で思い悩みます。そこに主の天使の言葉が語りかけます。私はこのヨセフと主の天使の記事から、こんなメッセージを聴きます。一人で悩まないで!神様に尋ねてみなさい!ヨセフはこの言葉に賭けることにしました。神様に自分の人生を賭ける。神様、あなたの言葉を信じます!あなたに自分をお任せします!神様、あなたに私の人生を、いえ、私の妻のこともすべてお任せします!これが信仰です。信仰に生きるというのは、神様に自分をお任せして生きるということです。
さらに、その子の名をイエスと名付けるように、と主の天使は告げます。イエスというのは「自分の民を罪から救う」という意味です。さらにイエス・キリストはインマヌエルと言われます。それは「神は我々と共におられる」という意味です。二千年ほど前に神様が私たちに送ってくださった救い主はこのような方です。私たちを罪から救ってくださる。私たちと共におられる。
ところで罪とは何でしょう?罪とは、神様を知らない、認めないことです。もっと言いますと、自分を神とすることです。自分を正しい者とすることです。そして、自分が罪人であることを知らないこと、認めないことです。イエスを主と信じる人のことはある方はこう言い表しています。赦された罪人、神様に赦されたことを知る罪人。私たちはどこまでも正しい者には成り得ませんが、罪から救われた、罪を赦された、その感謝を持って、喜びを持って生きるのです。自分が丈夫な者であるかのように思ってしまう、正しい者であるかのように思ってしまう。神様の前に出る時、神様の光に照らされた時、自分がどんなに小さく、貧しく、愚かな者であるか、このことを私たちは知らなければなりません。自分の本当の姿は見なければならない、向き合わなければならないのです。そうでなければ、罪も救いも分からないのです。しかし、そういう私を神様は赦しておられる。そういう私に神様は手を差し伸べ、共に歩んでくださっておられる。インマヌエル、主は共におられます。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-12-24 06:00:00 (139 ヒット)

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです」(29〜32節)。
「この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」。これは救い主に出会ったから、もう私はいつ死んでもいい!という意味だと言われます。私はこのシメオンがこれほどまでに喜びを表している様子を読んで、私たちはどうだろうか?私たちも救い主に出会ったはずなのに、こんな喜びがあるのだろうか?こんなに喜びを表しているだろうか?と考えさせられたのです。もしかすると、私たちは救いを別のことと考えてしまってはいないか?目に見えるあのこと、このことの方が自分にとっては救いのようなものと考えてしまってはいないか・・・。そうすることで救いを救いではないように考えてしまってはいないだろうか?そういうことを問いかけられました。そして、私たちは初心に帰るべきではないか。救いはイエス・キリストにある。救い主イエス・キリストを信じる信仰、私たちはいつもこの信仰に立ち返る必要があるのではないかと思います。
シメオン、アンナ、救いを待ち望む人に確かに神様は救いをお与えくださいました。イエス・キリストがあなたの目の前においでになった!そのことが分かるようにしてくださり、彼らは主に出会うことができたのでした。私たちもイエス・キリストが救い主であることを知っており、また信じている一人一人です。私たちもシメオンとアンナが救い主に出会う恵みを受けたように、私たちも同じ恵みを受けた一人一人です。そうであるならば、私たちもシメオンやアンナと同じように、主を賛美しようではありませんか!主を伝えていこうではありませんか!


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-12-17 06:00:00 (117 ヒット)

「イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」(17節)。復活の主に出会った弟子たちでしたが、主を礼拝しつつも疑う者もいた、ということです。私はこの記事を読む度に、ああ、これは私のことだなあ。私たちのことではないだろうか、と思うのです。イエスを主と信じて、主が共におられることを知っているのに、信じているのに、心が揺れ動いてしまうそういう私たちです。しかし、そういう私たちを主はどうされるでしょうか?
「イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(18〜20節)。
ひれ伏しながら疑う弟子たちのところに主は近寄って来られたのです。そうであるならば、ひれ伏しながら疑う私たちのところにも主は近寄って来られるのではないでしょうか?そして、そういう弟子たちに、そういう私たちに宣教命令を語られるのです。つまり、私たちの状況、状態がどうであれ、そういう私たちに主は語られ、主は私たちを宣教の働きのために用いてくださるというのです。主が私たちのところに近寄って来られた。主が私たちのところにおいでになった。イエス様がお生まれになって私たちのためにおいでになった!このクリスマスの出来事を私たちは全世界の人々に宣べ伝えていきましょう。神様の平和が来ますように!


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