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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-02-25 06:00:00 (104 ヒット)

ルカによる福音書18章9〜14節には、イエス様のたとえ話が記されています。そこには対照的な二人の人の祈りの姿があります。一人はあるファリサイ派の人の祈りでした。もう一人はある徴税人の人の祈りでした。二人の祈りから知らされることは、どこを向いているか、どこを見つめているか、ということでした。自分に向かって生きる人、そして、神様に向かって、神様の恵みを見つめて生きる人の違いです。
あるファリサイ派の人の祈りで欠けていたことは、自分が誤った道を歩まないでいられるのは、断食をしたり、たくさんのささげものができるのはすべて神様の恵みによるものであるということを忘れていたということです。神様の恵みを忘れる時、私たちは自分の義を誇り出すのです。そして、人を裁きだすのです。
 一方、ある徴税人について言えば、彼は神様の恵みの前に、自分の罪深さに気づかされ、悔い改めるのです。彼は自分の罪を赦し、新しい人生を導いてくださる神様の恵みに圧倒されるのです。自分の罪に打ちひしがれたこの人は神様の恵みに圧倒されるのです。そして、神様の恵みに応えていこうと生きるのです。神様の恵みを見つめながら祈り、歩んでまいりましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-02-18 06:00:00 (120 ヒット)

「私は神様からえこひいきされている」。これは作家の三浦綾子さんがお連れ合いの光世さんに言われた言葉です。その著書にもこの話は記されています。三浦綾子さんというと、生涯のほとんどが病の苦しみの中にあった方です。そういう方が自分は神様からえこひいきされているというのはどういうことでしょうか?三浦さんはこう言っておられたそうです。「私は病気を一つする度に一つずつ新しいことを学んだ。素晴らしい恵みを受けた」。私は三浦綾子さんの言葉から、聖書のパウロの言葉を思い出しました(二コリント12章7〜9節)。
12:7 思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。12:8 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
 一つのとげというのは、パウロに与えられた病のことでした。病の中で、パウロは神様の語りかけを聞きます。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」。これがパウロにとっての神様からのえこひいきということではないでしょうか。病は確かに辛い、苦しいものです。世の中の考え、価値観では、不幸であるとか、悪いものと考えるかもしれません。しかし、聖書は、病を通して、神様の恵み、神様の力を知る、体験するというのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-02-11 06:00:00 (119 ヒット)

イエス様がご自分の弟子たちの足を洗われた、ということが記されていました。足を洗うというのは、僕の仕事でした。ですから、弟子の一人であるペトロは驚いてしまって、自分の足を洗わないでほしい、と言いました。ペトロとしては、あるいはペトロなりの、主に対する最善の態度、振る舞いと言えるものです。主よ、あなたは私の主、私の師ですから、そのあなたが僕の仕事である足を洗うなどということをしないでください!ところが、主が言われたことは次のようなことでした。「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(7節)、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」(8節)。
 7節の言葉からは、主はペトロがご自分のなさっていることを理解できないでいることはお見通しだったことが分かります。しかし、それもずっと分からないわけではなく、「後で、分かるようになる」と言われました。8節の言葉からは、もし、主がペトロの足を洗うことをペトロが拒むならば、主とペトロとは何のかかわりもないことになる、と言われたのです。そう言われて、あわててペトロはそれでは手も頭も洗ってください、などと言っています。
 このやり取りから知らされることは、ペトロにとっては、弟子としての正しい態度、あるいは信仰と思ってしたことが主の目にはそうではなかったということです。このようなことは私たちにも度々あるのではないかと思います。私は伝道をしています!奉仕をしています!自分ではこれが信仰だ!と思っていてもそうでないことがあるのです。なぜ、そういうことが起こるのかというと、私たちが主の言葉に聴くことをしない、主から学ぶことをしない時にそのようになるのです。まず、み言葉に聴き、主の思いを知って歩む。そういう私たちでありたいと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-02-04 06:00:00 (134 ヒット)

アブラハムは創世記23章16節にありますように、銀四百シェケルで妻サラの墓地のための土地を購入しました。「差し上げます」(11節)、と言っているのに、銀四百シェケル、それはどれだけの価値か分かりませんが、大変高額であったそうです。それはアブラハムの気持ち、いいえ信仰です。少しでも安く上げよう。そういうことではなく、9節のアブラハムの言葉にもあったように、「十分な銀をお支払いします」ということを行ったのでした。ここではアブラハムはサラの墓地のためということでしたが、この後、ここはアブラハム、イサク、ヤコブも葬られることになります。アブラハムは神様が私に約束してくださったように、私に子供を、子孫を与えてくださる。神様の恵みに対する証しとして考えたのではないでしょうか。
 アブラハムのヘトの人々、エフロンに対する態度、振る舞い、それはその厚意や優しさに甘んじるというものではありませんでした。然るべき費用を支払って、妻サラを葬る場所を確保しました。私はこの時のアブラハムについて、福音書に記されています香油の記事、イエス様のために香油を注いだ女性の記事を思い起こしました(マルコ14章3〜9節参照)。高価な香油をイエス様のために使った女性のことをある弟子は無駄遣いと言いました。しかし、その女性にとっては、イエス様のために、ということは何にも増して価値のあることでしたから、イエス様のためにその香油を使ったのです。アブラハムの振る舞い、態度は神様の恵みに対する応答としてなされたことであったと思いますし、香油を注いだ女性もそうだったと思います。何に価値を置き、何のために使うか。私たちも信仰から考えていきたいと思います。アブラハムの人生は主にある人生、主を中心とする人生であった、その証しがここに記されていることです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-01-28 06:00:00 (126 ヒット)

宗教とか、信仰というと、それは人生の苦しみから解放してくれるもの、気持ちを楽にしてくれるもの、目の前の問題が解決されるもの、そういうこととだけ考えて、何か試練に遭うと、信仰があっても意味がない、無駄だった。そのように嘆く人がいます。確かに信仰があるからといって、試練が無くなるようなことはありません。病気にならないということもありません。イエス様を信じても、いろいろなことは起こってきます。でも、私の小さな経験から言えることは、一つ大きな違いがあるということです。それは試練に対する受け止め方が変わった、ということ、「信仰が試されている」という受け止め方に変わったということです。
 「信仰が試されている」ということについて、ペトロの手紙一1章6、7節にはこのような言葉が記されています。
1:6 それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、1:7 あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。
 信仰が試されているというのは私たちの信仰が火で精錬されている状態だというのです。火で精錬するというのは、不純物が取り除かれて、純粋なものだけが残るということです。私たちの家族との関係などはまさにそういうものではないでしょうか。試練に遭う。例えば、家族が病気になる。何か順調にいっていたことが挫折したりする。それはつらいこと、苦しいことですが、そのことを通して、家族が純化されていきます。家族が本当に愛し合う、大切にし合うことを身を持って教えられていくのではないでしょうか。試練そのものは嫌なもの、避けたいものですが、試練を通して、家族の関係、教会の兄弟姉妹の関係が本物の関係、本物の関わりになっていくのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-01-21 06:00:00 (119 ヒット)

東の方から、ユダヤ人の王としてお出でになった方に会いに来た占星術の学者たちの話を聞いて、不安を抱いた人たちがいました。「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」(マタイ2章3節)とあります。当時、ユダヤの王に君臨していたヘロデ王は自分を脅かす存在を感じて不安を抱いたのです。そして、彼は何をしたかというと、「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」(同16節)というのです。自分を脅かす存在を亡き者にするために、と多くの命を奪い取ってしまったのでした。
シャローム、主の平和がありますように!と私たちは願い、祈ります。それは不安を抱き、不安を抱かせる相手を敵と見なし、その命を奪う生き方とは正反対の生き方です。主の平和がありますように!それはお互いが主に与えられた命であり、お互いの存在を喜び合い、神様の祝福があるようにと祈り合う生き方です。ある方は救い主が小さな赤ちゃんとして生まれたのは、無力な者、無敵な者となられたことを表している、と言っています。イエス・キリストは力の無い、何の力も持たないお方としてお生まれになりました。そして、敵の無い、だれも敵としないお方としてお生まれになったのです。私たちもヘロデと同じように不安を抱くことがあります。その時、思い起こすのです。無力な、無敵な方として来られた救い主のお姿を。そして、この方に自分の人生を委ねていく時、この方を私たちの生きる道としていく時、不安は平安へと変わるのです。主の平安、主の平和に生きる人たちが新たに起こされるように祈りつつ、救い主をお伝えしていきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-01-14 06:00:00 (137 ヒット)

「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」(マタイ2章3節)。
ヘロデ王というのは、ユダヤ人ではありませんでした。ローマの支配にあったユダヤに送り出された人でエドム人であったと言われます。傀儡政権で、いつ自分の地位がどうなるか、という心配があったのでしょう。ヘロデ王が不安を抱くのは分かる気がします。しかし、ここには「エルサレムの人々も皆、同様であった」とあります。エルサレムの人々、彼らはユダヤ人の王、本当のユダヤ人の王、メシア、救い主を待ち望んでいたはずです。ところが、彼らもヘロデと同様に不安を抱いた、というのです。ヘロデは不安を抱いたが、エルサレムの人たちは喜んだ、とは書いていないのです。これはどういうことでしょうか?実はこのことも分かる気がするのです。というのは、私たちは王を迎えるというのは決して嬉しいことではないのです。王を迎えるというのは、自分を支配する人を受け入れるということです。私たちはだれからも支配されたくはないのです。自分が王でいたい。自分を支配するのは自分だ。そう願っているのが正直なところではないでしょうか?
一方、救い主に出会った占星術の学者たちは救い主のイエス様をひれ伏して拝みました。イエス様に頭を下げたのです。そして、この方を私の人生の王、主としました。そして、宝の箱、自分がこれだけは譲れない、しがみついていたいと思っていたものを主に献げたのです。そして、この占星術の学者たちの行為というのは一言で言うならば、自分の人生をすべてイエス・キリストにお委ねした、お任せした、ということです。
イエス・キリストはあなたのためにおいでになりました。あなたの王として、あなたの人生の主として、あなたと共に歩みたいと願っておられます。この方に自分を委ねて生きる、任せて生きる人生。今までとは違う別の道、新しい道を、不安から平安へ至る道を歩み出そうではありませんか。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2018-01-07 06:00:00 (121 ヒット)

マタイ福音書のヨセフの苦悩。妻マリアの聖霊による妊娠は理解できない出来事でした。ヨセフは一人で思い悩みます。そこに主の天使の言葉が語りかけます。私はこのヨセフと主の天使の記事から、こんなメッセージを聴きます。一人で悩まないで!神様に尋ねてみなさい!ヨセフはこの言葉に賭けることにしました。神様に自分の人生を賭ける。神様、あなたの言葉を信じます!あなたに自分をお任せします!神様、あなたに私の人生を、いえ、私の妻のこともすべてお任せします!これが信仰です。信仰に生きるというのは、神様に自分をお任せして生きるということです。
さらに、その子の名をイエスと名付けるように、と主の天使は告げます。イエスというのは「自分の民を罪から救う」という意味です。さらにイエス・キリストはインマヌエルと言われます。それは「神は我々と共におられる」という意味です。二千年ほど前に神様が私たちに送ってくださった救い主はこのような方です。私たちを罪から救ってくださる。私たちと共におられる。
ところで罪とは何でしょう?罪とは、神様を知らない、認めないことです。もっと言いますと、自分を神とすることです。自分を正しい者とすることです。そして、自分が罪人であることを知らないこと、認めないことです。イエスを主と信じる人のことはある方はこう言い表しています。赦された罪人、神様に赦されたことを知る罪人。私たちはどこまでも正しい者には成り得ませんが、罪から救われた、罪を赦された、その感謝を持って、喜びを持って生きるのです。自分が丈夫な者であるかのように思ってしまう、正しい者であるかのように思ってしまう。神様の前に出る時、神様の光に照らされた時、自分がどんなに小さく、貧しく、愚かな者であるか、このことを私たちは知らなければなりません。自分の本当の姿は見なければならない、向き合わなければならないのです。そうでなければ、罪も救いも分からないのです。しかし、そういう私を神様は赦しておられる。そういう私に神様は手を差し伸べ、共に歩んでくださっておられる。インマヌエル、主は共におられます。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-12-24 06:00:00 (151 ヒット)

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです」(29〜32節)。
「この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」。これは救い主に出会ったから、もう私はいつ死んでもいい!という意味だと言われます。私はこのシメオンがこれほどまでに喜びを表している様子を読んで、私たちはどうだろうか?私たちも救い主に出会ったはずなのに、こんな喜びがあるのだろうか?こんなに喜びを表しているだろうか?と考えさせられたのです。もしかすると、私たちは救いを別のことと考えてしまってはいないか?目に見えるあのこと、このことの方が自分にとっては救いのようなものと考えてしまってはいないか・・・。そうすることで救いを救いではないように考えてしまってはいないだろうか?そういうことを問いかけられました。そして、私たちは初心に帰るべきではないか。救いはイエス・キリストにある。救い主イエス・キリストを信じる信仰、私たちはいつもこの信仰に立ち返る必要があるのではないかと思います。
シメオン、アンナ、救いを待ち望む人に確かに神様は救いをお与えくださいました。イエス・キリストがあなたの目の前においでになった!そのことが分かるようにしてくださり、彼らは主に出会うことができたのでした。私たちもイエス・キリストが救い主であることを知っており、また信じている一人一人です。私たちもシメオンとアンナが救い主に出会う恵みを受けたように、私たちも同じ恵みを受けた一人一人です。そうであるならば、私たちもシメオンやアンナと同じように、主を賛美しようではありませんか!主を伝えていこうではありませんか!


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-12-17 06:00:00 (131 ヒット)

「イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」(17節)。復活の主に出会った弟子たちでしたが、主を礼拝しつつも疑う者もいた、ということです。私はこの記事を読む度に、ああ、これは私のことだなあ。私たちのことではないだろうか、と思うのです。イエスを主と信じて、主が共におられることを知っているのに、信じているのに、心が揺れ動いてしまうそういう私たちです。しかし、そういう私たちを主はどうされるでしょうか?
「イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(18〜20節)。
ひれ伏しながら疑う弟子たちのところに主は近寄って来られたのです。そうであるならば、ひれ伏しながら疑う私たちのところにも主は近寄って来られるのではないでしょうか?そして、そういう弟子たちに、そういう私たちに宣教命令を語られるのです。つまり、私たちの状況、状態がどうであれ、そういう私たちに主は語られ、主は私たちを宣教の働きのために用いてくださるというのです。主が私たちのところに近寄って来られた。主が私たちのところにおいでになった。イエス様がお生まれになって私たちのためにおいでになった!このクリスマスの出来事を私たちは全世界の人々に宣べ伝えていきましょう。神様の平和が来ますように!


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-12-10 06:00:00 (126 ヒット)

26 節には「信仰による従順」とありました。この言葉は同じローマの信徒への手紙の最初の箇所、1章5節にもあります。「わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました」。
パウロは自分のことを使徒と言っています。私は神様の恵みによって使徒とされた。使徒とは何でしょうか?使徒とは、ここに記されているように、主のみ名を広めて、すべての異邦人、すなわち、すべての人を信仰による従順、キリストに仕える人になるように導く人です。キリストに仕える。このことをさらに言いますと、他者に仕えるということです。お互いが仕え合う。他者に仕え合うということです。
私たちは今までは自分の腹に仕えてきました。自分自身に仕えてきました。あるいは他者を自分に仕えさせようとしてきました。しかし、今はキリストを主と信じた。それはもうそういう生き方を止めて、キリストに仕える者とされたということです。悔い改め、回心という言葉が聖書に出てきます。新約聖書の元の言葉では、メタノイア、向きを変えるという意味です。どこからどこへ向きを変えるのでしょうか?今日の聖書の言葉に自分の腹に仕える、ということとキリストに仕えるということが言われていました。メタノイア、悔い改めとは自分に向いていたところから、キリストに向いて生きるということです。どうか、そのことを忘れないように、そこから離れないように。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-12-03 06:00:00 (127 ヒット)

「マリアの信仰」というと、クリスマスの時期ですので主イエスの母マリアのことを思い起こすかもしれません。ここではマルタとラザロのきょうだいであるマリアのことです。ヨハネによる福音書11章では、ラザロを亡くして、悲しむマルタとマリアの姿が記されています。主はマルタと対話され、それに続いて、マリアをお呼びになりました。マリアはすぐに主のおられる所に行きました。その時のことが32節に記されています。
「マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った」。
マリアが言った言葉は先にマルタがイエス様と出会った時に言った言葉と同じでした。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。マリアも同じ言葉を主に言いました。その時のマリアの様子について、「イエスを見るなり足もとにひれ伏し」とあります。イエス様にひれ伏す、というのは、信仰的なように思えますが、これはイエス様の前に自分の悲しみを体の全身を持って表しているように思えます。泣きすがると言ったら良いでしょうか。ですから、これは主の前に信仰的に立派に振る舞った、というよりは、主の前に自分の心の内をすっかり注ぎ出した、ということのように思えてなりません。このようなことを知る時、信仰とは何か?ということを考えさせられます。神様の前に立派に振る舞うのも信仰なのでしょう。しかし、神様の前に自分の本当の姿をさらけだす。そして、主にすがりついていく。マリアの信仰はそういう信仰なのではないかと思うのです。自分の弱さや貧しさに気づかされる時、そこでこそ、主が共におられることの恵みを知るのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-11-26 06:00:00 (119 ヒット)

本日からの一週間は世界バプテスト祈祷週間です。当教会では祈祷週間の初日、今朝の礼拝を世界バプテスト祈祷週間特別礼拝として、世界宣教をおぼえて女性会を中心にして行います。
私たち日本バプテスト連盟では、返還前の沖縄に始まり、ブラジル、インドネシア、タイ、シンガポールに次々と宣教師を送り出しました。最近は国際ミッションボランティア(IMV)として、短期間、タイ、カンボジアなどアジア諸国に滞在し、教会や地域の人々に仕える働きに携わる人も起こされるようになり、世界宣教の裾野が広がった感があります。IMVでも、長期にわたる働きとして、ルワンダに「和解の福音」を携えて派遣されている佐々木和之氏がおられます。また、シンガポール国際日本語教会(IJCS)の伊藤世里江牧師、インドネシアの野口日宇満・佳奈宣教師ご夫妻、カンボジアの嶋田和幸・薫宣教師ご夫妻、その他、アジアフィールド伝道、福島移住女性支援、ネパールの女性と子ども支援のために、BWAid(世界バプテスト連盟救援委員会)、国際緊急支援(災害などの緊急支援)の働きのために、これからも福音が全世界に伝えられていくように祈りつつ、献げていきましょう。また国内伝道についても併せてお祈りください。今年度の連盟全体の献金目標額は4500万円、赤塚教会の献金目標額は80万円です。目標達成のプロセスに共に加わりましょう。
世界宣教とは、全世界、全国に出て行っての働きであり、それは私たちの家族、友人など、身近なところでも福音を伝えることです。主の宣教命令を受けて、神様の愛に押し出されて、全世界に目を向けながら、この働きに共に励みましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-11-19 06:00:00 (119 ヒット)

イエス様はご自分が復活であり、命と言われ、ご自分を信じる者は死んでも生きる、決して死ぬことはない、と言われました。そして、あなたはこのことを信じるか?と尋ねられました。マルタはこう答えました。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」(ヨハネ11章27節)。この言葉からは、マルタが、イエス様が復活であり、命であるということを信じていたかは分かりません。マルタが言っていることから分かるのは、イエス様のことを神の子、メシア、救い主であると信じていたということです。私はおそらく、マルタは、イエス様が復活であり、命であるということは、マルタ自身にとって初めて聞いたことだったと思いますから、理解することも、信じることもできなかったと思います。しかし、マルタはイエス様が神の子、救い主ということは信じていました。私はこのマルタの言葉を読みながら、私たちがイエス様を信じた時も、これと同じだったのではないかと思いました。
マルタはイエス様を神の子、救い主と信じていました。けれども、まだ十字架の救いのこと、復活のこと、永遠の命のことははっきりとは分からないまま信じていたと思います。しかし、これはマルタの大切な信仰告白として、聖書に遺されているのです。そして、イエス様はまだはっきりとは分からない、信じられないでいるマルタに、そして、私たちにこれからも語りかけてくださり、イエス様を信じることがどんなに大きな恵みであるか、素晴らしいことであるかを教えてくださるのです。ですから、私たちはこれからも主の言葉を聴き続けていきましょう。主が私たちの心の目を開いてくださり、分からせてくださいます、教えてくださいます。「主よ、お話しください。僕は聞いております」(サムエル記上3章9節)と祈りつつ、主の言葉に聴いてまいりましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-11-12 06:00:00 (174 ヒット)

「兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また、“霊”が与えてくださる愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください」(ローマ15章30節)。
パウロは、私のために祈ってください、と言っています。そして、私と一緒に祈ってください、とも言っています。
私のために祈ってください。私たちはお互いのために祈り合うのです。あの人やこの人のために祈ろう。それだけではなく、自分のことも祈ってください。自分のことも祈ってもらう。私たちはそういう群れでありたいと思います。そして、私と一緒に祈ってください。教会は兄弟姉妹と一緒に祈るところです。毎週の祈祷会で、教会姉妹が一緒に祈り合います。日曜日に礼拝に集ったお互いも一緒に祈ってみませんか?祈りの課題を出し合い、私のために祈ってください。互いにそういって祈り合うのはいかがでしょうか?
この30節の言葉がフランシスコ会訳ではこのようになっていました。「どうか神に対してわたしのために祈り、わたしとともに戦ってください」。「わたしとともに戦ってください」。この言葉ですと、祈りは戦いであるということが示されます。祈りは戦いです。ヤコブが神様の使いと組み打ちした場面(創世記32章24節以下)ではヤコブが神様の使いと戦ったのは、祈りであったと言われます。ヤコブの祈りはこのような祈りでした。「祝福してくださるまでは離しません」(創世記32章27節)。ヤコブは神様が私を祝福してくださるまでは離しません、と言って、神様の使いから離れることをしませんでした。私たちも神様にしがみついて祈っていきたいと思うのです。


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