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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-04-23 06:00:00 (90 ヒット)

「話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった」(ルカ24章15〜17節)。
話し合い、論じ合っている中に、イエス様が近づいて来て、一緒に歩き始められた、ということです。けれども、二人の弟子の目は遮られていて、そこに一緒に歩いておられるのがイエス様だとは分からなかった、ということです。復活ということは、どんなに議論しても分かることはできません。自分たちで話し合えば何とかなる、そう思っていること自体が、目が遮られている状態ということなのだと思います。話し合えば何とかなる。自分の力で何とかやれる。そう思っているうちは私たちの目も遮られている状態なのだと思います。でも、そういう弟子たちのところにもイエス様が近づいて来て、一緒に歩いてくださいました。
「そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(同25〜27節)。
信じられない弟子たちと一緒に歩んでくださり、しかも、聖書全体からご自分のことについて説明しておられるイエス様の様子が記されていました。私たちもこの弟子たちと同じように、気づかないことだらけ、分からないことだらけです。けれども、そういう私たちにも、イエス様の方から近づいてくださって、一緒に歩いてくださって、語り続けてくださっているのです。そして、イエス様が私たちの目を開かせてくださるのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-04-16 06:00:00 (87 ヒット)

トマスは主の復活を信じられませんでした。彼は、主の復活をこの目で見ないと信じられないと言ったのでした(25節)。そういうトマスに主は現れてくださったのです(26節)。そして、主は言われます。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(27節)と。その時、トマスはどうしたでしょうか?彼は「わたしの主、わたしの神よ」(28節)と言ったのです。信じることのできないこの私のために主が自ら現れてくださった!その喜び、感激からこう言ったのでしょうか?この時、トマスは主を見ました、主の傷跡を見ました。それは私のために十字架にかかってくださったことによる傷跡、私のために受けられた傷跡です。彼はそこで分かったのです。この方が私を愛しておられることを。私を愛しておられるから、傷を受けられ、命をささげられたことを。だから、こう叫ばずにはおられなかったのです。「わたしの主、わたしの神よ」と。「見ないのに信じる人は、幸い」(29節)と主は言われました。トマスは主の愛を見ました、主の愛を知りました。「わたしの主、わたしの神よ」、この告白は、これからは見ないで信じ続ける、私を愛しておられる方を信じ続ける、主の愛に生かされて生きる、という告白です。主の愛を信じて生きること、これこそは幸いな人生なのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-04-09 06:00:00 (101 ヒット)

ヨハネによる福音書8章37節に「わたしの言葉を受け入れない」とありました。これを別の訳で見てみますと、口語訳は「わたしの言葉が、あなたがたのうちに根をおろしていない」。岩波訳は「私のことばがおさめられない」とそれぞれなっていました。それぞれ意味の深い訳のように思いました。イエス様の言葉がおさめられない。それはなぜでしょうか?私たちの中にすでに別のものがおさまっているからではないでしょうか?最近、断捨離(だんしゃり)ということが流行りましたね。本当に必要なものとそうでないものを区別して、不必要なものは捨てていく。そして、本当に必要なもの、私たちにとっては何でしょう?本当に必要なもの、神様の言葉を心におさめていく。
神様の言葉が根を下ろすということ。み言葉が自分のうちにしっかりと根を下ろすようにするのです。すると、その人はみ言葉によって成長していきます。そのためには、み言葉を私に与えられた命の糧としていただくことです。み言葉の聴き方も様々ですが、私に与えられた命のパン、命の糧としてみ言葉を信じ受け入れていくのです。そのみ言葉が、イエス様が私たちに本当の自由を与えてくださいます。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-04-02 06:00:00 (105 ヒット)

ローマ11章33〜36節に記されていることは、神様への賛美の言葉であると言われます。神様の秘められた計画、神様の救いのご計画は、私たちには測り知れないものであることの驚き、喜びがここに歌われている、神様の救いに対する心からの感謝がここに歌われているというのです。どうして、こんなにも救いを喜び、感謝できるのでしょうか?パウロは異邦人の救い、イスラエルの民の救い、そのことを心から祈り、そのために励んだ人でした。そのパウロ自身、自分の救いを心にいつもおぼえていたのです。パウロはコリントの信徒への手紙一15章9、10節で自分に与えられた救いについて、こう語っています。「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」。
 大伝道者と言われるパウロですが、パウロ自身は自分のことを「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者」と言っています。そういう自分が「神の恵みによって今日のわたしがある」と言っています。自分は神様の教会を迫害していた。こんな私が救われた。これは驚くべきことだ!パウロにとって、救いは驚きであり、大きな喜びなのです。私たちはどうでしょうか?自分は救われるべくして救われた。救われるに値する人間。そう思っているでしょうか?そうではないはずです。自分が救われたこと、これはどんなに大きなことか。そのことを思ってみるとどうでしょうか。こんな私が神様の救いにあずかり、愛され、赦され、今あること・・・。「神の恵みによって今日のわたしがある」。そこから賛美が生まれます、賛美が溢れるのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-03-26 06:00:00 (94 ヒット)

「そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである」」(ヨハネ8章28、29節)。
 「人の子を上げたとき」。これはイエス様が十字架におかかりになる時、ということです。その時、初めて、イエス様が神様の子、救い主ということが分かる。そして、神様は私と共にいてくださる方、私を独りにしてはおかれない方であることが分かるというのです。
 イエス様はご自分を信じないユダヤ人たちに、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬ。神様のところに来ることはできない、と言われました。あなたがたは私を信じないから、もうだめなのだ、滅びに向かっているのだ、と言われたのでしょうか?いいえ、主は、彼らを厳しく、戒めながらも、「しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している」と言われました。それは、神様の願っておられることはあなたがたが罪のうちに死なないことだ。あなたがたの罪のために、すなわち、あなたがたが死なないために、あなたがたが生きるために、私は十字架にかかる。だからあなたがたは十字架の救いを信じなさい!この救いを受け取りなさい!それが、イエス様が本当に語るべきこととして言われたことなのです。 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-03-19 06:00:00 (101 ヒット)

「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです」(ローマ8章14、15節)。
 一人の人がイエス・キリストを救い主と信じることができるのは、人間の力や知恵によるのではなく、神の霊、聖霊によるものであると、この聖書の言葉は教えています。「神の子」とあるように、私たちはみんな神様の子供なのです。神様によって造られた者、神様に愛されているかけがえのない子供なのです。ですから、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」というのは、聖霊によって、自分が神様の子供であることに気づかされるということです。自分が神様の子供であることに気づいた人は、「アッバ、父よ」と神様を呼ぶのです。このアッバというのは、子供がお父さんに向かって親しく呼びかける言葉です。神様のことをお父さんと呼ぶ。神様をそんなに親しく、身近な方として呼んでも良いと教えられたのはイエス様です。
 教会は伝道しましょう!福音宣教をしましょう!と言いますが、これは、みなさんは神様の子供ですよ。神様に愛されている子供ですよ。このことを伝えていくことです。ところが、みなさんご自身が体験されてきたように、初めからそのことは気づかない、分からないのです。それは「神の霊」が、聖霊が気づかせてくださる、分からせてくださるのです。聖霊によって、神様ご自身がその人の心を開かせてくださって、そこで初めてその人は、自分が神様の子供であることを知るのです。そのために私たちがすることは何でしょうか?もちろん、救い主イエス様を伝えることですが、人々に聖霊が働かれるように、祈るということが大事です。毎週、祈祷会が行なわれていますが、これは何のためかというと、イエス様が人々に伝えられ、自分が神様の子供であることを知ることができますように。そのことを教会のみんなで心を合わせて祈るのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-03-12 06:00:00 (105 ヒット)

エフェソの信徒への手紙4章12節に「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき」とあります。これが牧師の仕事であり、教会のリーダーたちの仕事です。「聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ」という言葉は口語訳では、「聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ」とありました。岩波訳では「奉仕の働きのため、キリストの体の構築のため聖なる人々を[霊的に]装備する」とありました。この「霊的装備」という言葉は印象深いものです。これが欠けてしまうならば、ガソリンのない自動車を走らせるようなことになってしまいます。私たちがまず、霊的に装備されること、霊的な養い、霊的に整えられることが必要です。それは命の言葉であるみ言葉をいただくということです。
13節に「わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長する」とあり、キリスト者、教会の成長のことが言われています。この「信仰と知識」という言葉を本田哲郎神父は「信頼してあゆみを起こし、神の子を体験する」と訳しています。また岩波訳は「信仰の一体性に、そして神の子の認識の[一体性]」と訳しています。信仰とは、ただ頭の中で信じるだけのことではなく、主を信頼して歩むことであると教えられます。また知識ということについても観念的なものではなく、神の子を体験するということ、神の子を認識することが大事であることを教えられます。私たちが日々の生活の中で主の言葉に従っていく時、そこで生きて働いておられる主を体験する、イエス・キリストとの人格的な出会いを体験するのです。そして、その喜びからますます主のものとして生きようとするのです。それがキリストにある成長です。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-03-05 06:00:00 (113 ヒット)

「しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています」(7節)。この前、東京地方連合の壮年研修会に出席しました。松見俊先生がお話してくださいましたが、松見先生が教会のみんなにいつも話すことは、「自分には賜物がない、と言ってはいけない」ということだそうです。なぜ、そう言うのか、というと、神様はだれにでも賜物を与えてくださっているからだ、というのです。まさに聖書が言っているとおりです。但し、お読みしました箇所には、「キリストの賜物のはかりに従って」とあることに注意しなければなりません。賜物はみんなに与えられています。でも、それはキリストの賜物のはかりに従って与えられていることです。私のはかりではないのです。人間のはかりではないのです。私たちは神様から与えられた分に応じて、最善を尽くして励んでいけばよいのです。他の人と比べたりして、優越感を持ったり、劣等感を持ったりする必要はないのです。他の教会をうらやんだり、他の人をねたんだりする必要はないのです。大事なことは、この教会に与えられている賜物、みなさん一人一人に与えられている賜物を喜んで受け入れて、それを神様のために、キリストの体である教会のために用いていくことです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-02-26 06:00:00 (100 ヒット)

今月は、スチュワードシップ強調月間として、毎週の朝の礼拝でスチュワードシップの証しをしていただいています。神様からいただいた恵みの管理者として、実際の生活の中でどのように歩んでいるのか、証しを通して、私たちは教えられます。朝の礼拝の前の時間、教会学校があります。教会学校ではもちろん、聖書を学ぶわけですが、聖書を学ぶための補助として、『聖書教育』というテキストを参照します。この『聖書教育』の成人科の箇所に、以前は、ある一時期だったかもしれませんが、「福音の生活化」という項目がありました。「福音の生活化」、福音、神様の言葉を実際の生活の中で適用するということです。日曜日に、教会に行って、みんなで聖書の勉強をした。そこで終わりではないのです。礼拝で説教を聴いた。そこで終わりではないのです。聴いた言葉を、私たちの実際の生活、日常の中で適用していく。聖書の言葉に生きるのです。それがあって、本当に聖書の言葉は分かるのです。聖書が、神様の言葉が生きた言葉であることが分かるのです。教会学校、礼拝、日曜日だけのことではありません。日曜日から、今日から歩み出す、その中で聖書が本当に分かるのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-02-19 06:00:00 (137 ヒット)

 創世記13章1節以下にはアブラム(後のアブラハム)一向がエジプトを出て、再びネゲブ地方へ上った。つまり、後戻りしている様子が記されています。私たちの人生も後戻りさせられるようなことが度々あります。アブラムも後戻りさせられました。あのエジプトでの失敗(12章10〜20節参照)。そういうアブラムでしたが、3、4節に書かれていることは印象深いものです。「ネゲブ地方から更に、ベテルに向かって旅を続け、ベテルとアイとの間の、以前に天幕を張った所まで来た。そこは、彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所であった」。ここに書かれていること、それはアブラムが最初に祭壇を築いたところ、それがベテルとアイの間の地であった、ということです(12章8節参照)。
 そこに再びやって来た、ということはどういうことでしょうか?4節には「そこは、彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所であった」とありますが、おそらく、そこでアブラムは再び、主のみ名を呼んだのではないでしょうか?つまり、そこで神様を礼拝した。エジプトで神様のみ心から外れた生き方をしてしまったアブラム。けれども神様はそのことを示してくださり、後戻りさせてくださったのです。アブラムは一からやり直すことができたのです。そして、アブラムは神様を礼拝し、再出発を始めることができたのです。
 神様から罪を示されること、生き方の間違いを示されること・・・。それは私たちにとっては、痛いこと、辛いことです。けれども、罪のまま放置されるよりは、間違った道をどこまでも突き進むよりは、はるかに良いことです。滅びの道を進むのではなく、命の道へと修正させていただけるのですから。アブラムは神様に悔い改め、神様に感謝をささげたのではないでしょうか?そして、私たちの毎週の礼拝も、いえ毎日の歩みも、神様への感謝と悔い改めです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-02-12 06:00:00 (125 ヒット)

「キリストを見たことがないのに愛し・・・」(8節)。ペトロの手紙について、伝統的な理解では、この書はイエス様の弟子の一人、イエス様に直接会った弟子ペトロの書いたものと言われています。そのペトロがこのようなことを記しています。ペトロはキリストを見た人でした。そのペトロが、「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」と記しているのです。
 イエス様はこう言われました。「見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20章29節)。見ないで信じる信仰。私の想像ですが、ペトロは見ないのに、イエス様を愛している。見ないのに、イエス様を信じている。そういう人たちのことをうらやましがっていたのではないかと思うのです。見ないのに、イエス様を愛し、信じることができるあなたがた!それは本当に素晴らしいこと、恵みなのだよ。あなたがたに神様が信仰を与えてくださった。見ないで信じる信仰を与えてくださった。何とうらやましいことか、素晴らしいことか!私はイエス様を見たのに、イエス様と一緒に歩んだのに、イエス様を裏切ってしまったし、イエス様が信じられなくなった時もあった・・・。信仰は自分の力でどうこうというものではないね。神様が与えてくださるものだね。何かそういう会話でもしていそうな気がします。そして、この「あなたがた」、キリストを見ないで愛するあなたがた、キリストを見ないで信じるあなたがた、というのは、今を生きる私たちにも向けられた言葉のように思えます。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-02-05 06:00:00 (131 ヒット)

私たちの教会では毎年2月をスチュワードシップ強調月間として、毎週、朝礼拝の中で奉仕、教会学校、伝道、献金の証しを聞き、教会学校でも、スチュワードシップについて学ぶ時を持ちます。ところでスチュワードシップとは何でしょうか。それは、「神様の恵みに対して応答する信仰」ということです。そういうことで言うならば、2月に限らず、毎月がスチュワードシップ月間です。私たちの教会ではこの月、自分たちがスチュワードシップの信仰を歩んでいるか、自分自身の信仰をかえりみて、新たな決心をするのです。私たちは神様からすべてのものを与えられています。そのことをおぼえて、神様への感謝の応答をしていくのです。
「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」(ローマ12章1節)。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」(一コリント6章20節)。「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」(一ペトロ4章10節)。これらのみ言葉から、私たちを罪から救い出してくださった主の十字架の愛、神様から与えられた様々な恵みを共におぼえ、分かち合い、自分にはどのような賜物を授かっているのか、使命があるのか、など互いに話し合ってみるのもよいでしょう。スチュワードシップの信仰、神様の恵みに応答する歩みをこれからも歩んでまいりましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-01-29 06:00:00 (126 ヒット)

アブラム(後のアブラハム)は神様からの語りかけを受け、生まれ故郷、父の家を離れて旅立ちます(1、4節)。神様の言葉を頼りに決断した姿はまさに「信仰の父」と言われる人物だと思えます。ところが、旅立って間もなく、滞在地が飢饉に遭い、エジプトへ下ります。そこでアブラムは自分たちの生活の潤うことのため、また自分の保身のため、妻サライを自分の妹であると偽る過ちを犯します。サライはファラオの妻として召し入れられようとするその時、ファラオと宮廷の人々の間に恐ろしい病が起こり、そのことを通して、ファラオは真実を知り、アブラムと妻サライ、そして、すべての持ち物をエジプトから追い出します。アブラムとサライ、彼らは後に多くの国民の父、また多くの国民の母となる人たちでした。神様はご自分のために、ご自分の救いのご計画のために彼らが罪に陥って、信仰の旅路を中断してしまうようなことがないように、彼らの罪を示し、立ち直らせて、再び歩みを始めさせたのでした。そして、今、私たちも救いのご計画の中にある一人一人です。神様は私たちのこともアブラムやサライのように、救いのご計画を担わされた大切な一人一人として扱っておられます。そういう私たちですが、神様から離れ、自分勝手に歩もうとしてしまう時、神様の厳しい語りかけや戒めがあるかもしれません。しかし、それは神様が私たちを信仰の旅路に歩ませるための訓練であることをおぼえたいと思います。私たちの歩みの一つ一つを神様の言葉に尋ねながら、祈りつつ、聴きながら、共にこの信仰の旅路を歩んでまいりましょう。アブラムは「信仰の父」と言われる人物ですが、決して完全無欠な人でなかったことを知ります。ただ神様の恵み、赦しを受けて生きた人、そのことゆえに「信仰の父」と言えると思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-01-22 06:00:00 (137 ヒット)

イエス様は「わたしはだれをも裁かない」(15節)と言われました。しかし、もし裁くとすれば、裁くのは私一人でなく、父なる神様が共におられ、神様が裁く、と言われたのです。神様の裁きと人間の裁きの違いは何でしょうか?人間の裁き、それは相手の罪、悪、あるいは弱さや欠点を裁きます。そして、相手を自分の中から葬り去ってしまおうとする。それが人間の裁きです。これが自分自身にも向けられることがあります。何かで失敗した時、挫折した時、ああ、何と自分はダメなのだろうか、と嘆きます。そして、自棄(やけ)を起こす、自分を棄てる、自分で自分自身を葬り去ってしまおうとする。肉に従って裁くとはそういうことです。
 肉に従って裁いてしまう私たちですが、イエス様は「わたしはだれをも裁かない」と言われました。これは、私はあなたがたのようには裁かない、ということです。そして、あなたがたには、別の方法、神様の裁きによって裁く、というのです。それはどんな裁きでしょうか?イエス様はご自分のことを「世の光」(12節)と言われました。この世を、私たちを照らすのです。すると、闇の中のことが、隠されていたことが、心の中のことが明らかにされます。私たちの罪が示される。そして、イエス様は私たちに罪があることを教え、罪を告白するように導き、罪から私たちを救い出してくださったのです。イエス様が私たちの罪のすべてを受け止めて、身代わりとなって救い出してくださったのです。これが、イエス様が十字架におかかりになった意味です。神様の裁き、それは私たちを罪から救うためです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-01-15 06:00:00 (134 ヒット)

「神は御自分の民を退けられたのであろうか」(1節)。これについて、「決してそうではない。わたしもイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です」と続きます。「決してそうではない」というのは、神様はご自分の民であるイスラエルを退けてはおられない、ということです。さらに「わたしもイスラエル人で・・・」と書いていますように、パウロ自身がイスラエル人であり、同じイスラエルの民が神様に退けられるようなことはあってはならない、と強く願っていました。しかし、「決してそうではない」というのは、パウロ自身がそうあって欲しくない、という願望をただ言っているだけではありません。神様はイスラエルの民を退けてはいない!その確かな証拠を神様からいただいている。だから、確信をもってこのように言うことができたのです。
 それでは、その確かな証拠とは何でしょうか?2節に「神は、前もって知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした。それとも、エリヤについて聖書に何と書いてあるか、あなたがたは知らないのですか」とあります。聖書に書いている。それが、イスラエルが神様に退けられていない証拠だというのです。
 聖書に書いてあるから。私はこの言葉を聞く時、一つの賛美歌を思い起こします。新生讃美歌523番です。この賛美歌の歌詞ですが、元々の歌詞では歌詞の内容が少し違っています。「主われを愛す 主は強ければ」、これが「イエス様が私を愛していることを知っている なぜなら聖書がそのように教えているから」となっているのです。
聖書が教えている。私たちは聖書から、神様が私たちを愛していることを知るのです。この聖書はイエス様が私を愛していることを教えている書物なのです。新しい年の初めです。皆さんはどのような一年の計をお持ちでしょうか?聖書を一日一章ずつでも読んでみよう。1ページずつでも読んでみよう。そういう計画、目標を立ててみたらいかがでしょうか?聖書から、私たちに向けられた神様の愛を日々、聴いていただきたいと願っています。


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