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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-11-13 06:00:00 (123 ヒット)

ある方は言いました。私たちは悔い改めということを言うけれども、それは自分が気づいている罪を悔い改めているだけだ。自分が気づいていない罪があることも知らなければならない。自分は、自分のすべての罪を悔い改めている気になっている。しかし、そうではない。本当に気づかなければならないことも気づいていない、と言うのです。
コリントの信徒への手紙一8章2、3節に「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです」とあります。「知らねばならぬことをまだ知らない」。これは無知の知ということです。一般的な知識、知恵というだけではありません。自分が何者であるのか、自分の罪を知らない、そういう自分であることを知る。そして、そこから、私たちの信仰は始まるのです。3節には「しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られている」とあります。神様のことも私たちはまだよく知らない、分かっていない。だからこそ、聖書を読み続けるのです。そういう私たちですが、「その人は神に知られている」。私たちも、神様に知られている者だということです。私という存在が知られている、覚えられている。そればかりか、罪深い、弱さを抱えたこの私が神様に愛されているということです。神様に愛されている、神様の憐れみに生かされている。このことを感謝して歩みたいと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-11-06 06:00:00 (136 ヒット)

「初めに、神は天地を創造された」(創世記1章1節)。この言葉から聖書は、そして、創世記は始まります。神様がすべてのものを造られた。神様はすべてのものの創造者であることがここに示されています。そして、2節には「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」とあります。何もない、秩序も何もない、そういう状態が表わされています。これに続いて、「闇が深淵の面にあり」とあります。そして、「神の霊が水の面を動いていた」とあります。混沌、闇、そのような地にあって、神の霊が水の面を動いていたことが記されています。何もなかった時、しかし、そこにすでに神の霊が動いていた、とあるように、神様は生きて働いておられたことが示されています。そして、いよいよ神様の創造のわざが始まります。
「神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である」(3〜5節)。聖書が示す神様の第一声、神様が語られた最初の言葉、それは「光あれ」ということでした。混沌とした、闇の中に神様は光を創造されました。その光を神様は見られ、それを良しとされた、ということです。良しとされた、というのは神様のみ心にかなった、ということです。4節の後半には神様が光と闇を分けられたことも記されています。混沌としていた、つまり、無秩序な状態であったところから、神様は光と闇を分けられた、区別されたことによって、秩序を与えられたということです。そして、5節にありますように、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれました。これは口語訳では「光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた」となっています。名付けるということ、それは神様に名付けられたものは神様が支配する権威を持っておられるということです。支配され、それぞれに役割を与えられるのです。光と闇、それぞれに昼としての役割、夜としての役割を与えられたのです。光と闇を区別されたことによって、それが交互に来るようにされました。それで5節の後半には「夕べがあり、朝があった」とあります。ゼカリヤ書14章7節に「夕べになっても光がある」という言葉があります。それは私たちの人生には夕べのような時が来る。しかし、神様の光は変わることなく、私たちに注がれているのです。「光あれ」と語られた神様は私たちをご自身の光で包んでいてくださる。私たちはそのことを喜びたいと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-10-30 06:00:00 (124 ヒット)

ある朝、一つの黙想書を読んだ時、このようなことが書かれていました。私たちの信仰生活というのは、自分の愛する人を神様とそのみ言葉に委ねることの日々練習なのだというのです。そればかりか、自分自身を神様とそのみ言葉に委ねることの練習だともいうのです。そして、神様とそのみ言葉に委ねる時、上からの平安、神様からの平安をいただくのだ、というのです。
 練習という言葉を読んで、最初は違和感を持ちましたが、その言葉を繰り返し読んでいく中で確かに練習だと思いました。あるいは訓練と言っても良いかもしれません。なぜなら、私たちは生まれてこれまで、神様とそのみ言葉に委ねるということをしないで生きてきたからです。神様とそのみ言葉に委ねることをしないというのはどういうことかと言いますと、自分自身の力だけを頼りに生きるということです。でも本当のことを言えば、私たちは、自分は自分の力だけを頼りに生きていくのだ、生きているのだ、と思っていても、実は様々な人たちの助け、支えによって生きている、これまでも生きてきたのです。そして、何よりも忘れてはならないことは神様の助け、支えによって生きてきた、いや、生かされてきた。そのことを自覚する、そのことに気づいていく。それはとても大切なことです。
「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです」(使徒言行録20章32節)。
 これはパウロがエフェソの教会の長老たちと別れる時に語った言葉です。そして、今、私たちにも語られている言葉として聴きたいと思います。神様とその恵みの言葉に自分を委ねていく、神様とその恵みの言葉に自分の愛する人たちを委ねていくのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-10-23 06:00:00 (134 ヒット)

「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」(33節)。
この言葉はイザヤ書28章16節の引用です。つまずきというと、教会の中で「あの人につまずいた」などと言いますが、ここでは何につまずいたかというと、神様につまずいた人たちのことが言われています。実は私たちの信仰の歩みも、神様につまずく歩みです。神様につまずくというと、変なことを言っているように思われますが、信仰とはこういうものだ!神様とはこういう方だ!そのように私たちは、私たちの信仰観、神様像を持つわけですが、神様の言葉を聴いて歩む中で引っくり返されるような経験をしていくのです。この30節以下では人は行いによって救われると考え、自分の正しさを追求していた人たちが、自分の行いや正しさを追求することが救いではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって救われる、ということを知らされていったのです。どんなに立派な行い、たくさんの良いわざを行なっても、それで人は救われるわけではない。イエス・キリストを信じる信仰だけが私たちを救う。そして、その救われた喜び、感謝から、恵みの応答として行いというものが起こってくるのです。神様を信じて生きる歩みはそのようにして、自分の思いも考えも、日々新しくされていく歩みです。今まで見えていなかったものが見えてくる、気づいていなかったものが気づかされる歩みです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-10-16 06:00:00 (129 ヒット)

9月の特別集会の朝礼拝で講師の堀肇先生はルカによる福音書24章のエマオ途上のイエス様と弟子たちの箇所からお話してくださいました。その話の中で繰り返し、堀先生は主客転倒ということを言われました。主客転倒、イエス様と弟子たちの間でその転倒、転換があったというのです。すなわち、弟子たちにとって、それまで人生の主体、主人は自分でした。それがイエス様に出会って、その主体、主人が変わった。自分ではない、イエス様に変わったのです。その時、どういうことが起こったでしょうか?「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(ルカ24章30、31節)。イエス様のお姿は見えなくなったけれども、そこにおられるのはイエス様だと分かった、というのです。
イエス様は私の時、つまり、神様が私に与えられた時、定められた時、神様の救いのご計画を優先されました。そして、ご自分は神様の御手の中にある。どこまでも、神様を主体として歩まれ、生きられました。そして、私たちもあの弟子たちが体験したように、イエス様を人生の主体、主人としていく時、主が共におられることを知るのです。イエス様と共にある人生がどんなに素晴らしいものであるのかを知らされていくのです。イエス様を人生の主体、主人としていく。それはイエス様に自分の人生のすべてをお任せしていくということです。この方を信頼して生きていくということです。イエス様は私の人生の主。この方の言葉に聴きながら歩んでいきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-10-09 06:00:00 (128 ヒット)

復活されたイエス様とペトロの会話、この会話の中で印象的なのはペトロの言葉です。「主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」(15、16節)、「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」(17節)。イエス様がご自分を愛しているか?という問いに対して、はい、愛しています!と力強く、自信に溢れて答えてはいません。あなたがご存じです、あなたが知っています、と答えています。
以前のペトロは、自分はどんなことがあってもイエス様から離れない、イエス様を否定しない。そういう自信に溢れた信仰だったわけですが、イエス様が捕らえられ、十字架におかかりになった時にはイエス様から離れ、否定してしまいました。そういう本当の自分の姿を知った時、はい、私はあなたを愛しています!ではなくて、あなたがご存じです、あなたが知っています、と答えるほかなかったのでしょう。このペトロの言葉は何か自分のことをはっきり表さないような、あいまいな言葉に感じるかもしれませんが、これはペトロが自分の弱さもすべても主に委ねた言葉と言えるのではないかと思うのです。そして、そういうペトロに主はこう言われたのでした。「わたしの羊を飼いなさい」(17節)。
魂への配慮、羊飼いとして生きる。それは神様の前に自分の本当の姿を知った時、自分の罪深さ、弱さ、そういうものに気づかされた時、主がそのような者と共に生きて働いてなされていくものだと思います。そして、私たちが何よりも忘れてはならないのは、まず、この私に主がかかわってくださった。私の魂を配慮され、愛された。主が私の羊飼いとして、この罪深い、弱い羊である私を養ってくださっていることをいつも心に留めておくことです。福音宣教、それは私たちの本当の羊飼い、私たちに命を与え、愛し、人生を導かれる方をお知らせすることです。これからもこのことに励んでいきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-10-02 06:00:00 (135 ヒット)

以前、私の友人が「親父を超えていきたい」と言っていたことが今も心に残っています。私の親父、父も亡くなって四年が経ちました。改めて、「親父を超える」ということ、あるいは「親(父や母)を超える」ということを考えさせられています。先月の夕礼拝で創世記9章18〜29節の聖書から御言葉の取り次ぎをさせていただきました。神様と共に歩んだというノア(創世記6章9節)でしたが、ぶどう園を作り、ぶどう酒を飲んで天幕の中で裸で酔っ払っていた、というのです。父の醜態を見た息子たちの対照的な二つの態度が記されていました。一つは父の恥を告発したという息子ハムの態度です。もう一つは他の息子たち、セムとヤフェトの態度です。父の恥を見ないようにして、それを覆った、というのです。これは恥を見ないふりをしたとか、うやむやにしたという意味ではないと思います。「父の裸を覆った」(23節)というのは、父を赦した、ということではないかと思うのです。なぜ、そうできたのか?セムとヤフェトは自分たちが赦されて生きてきたことを知っていたからです。父に愛され、赦されてきた・・・。愛と赦しを受けてきたことを知る人は他者を愛し、赦すことに努めるのです。さて、話は戻ります。「親父超え」、それは親よりも優れた人生を生きるとか、上に立つという意味で一般的には考えられるでしょうが、信仰の視点から言うならば、セムとヤフェトこそ、「親父超え」をした人たちでしょう。父ノアの恥、それは人間的な弱さと言えるものかもしれません。彼らはそういう父を愛し、赦し、受け入れたのです。言い換えるならば、一人の対等な人間として受け入れたということです。私たちの生涯においての課題は愛と赦しに生きるということです。そしてそれは私たち自身が真の親父、つまり、父なる神に愛され、赦された者だからこそ、そのように生きることに導かれているのです。主の十字架を見上げて歩みましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-09-25 06:00:00 (158 ヒット)

「ヤコブは眠りから覚めて言った。『まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった』」(創世記28章16節)。
ヤコブは人生に行き詰まっていた時でした。家族との関係に失敗し、逃亡し、先が見えない。そういうヤコブが見た夢が記されています(同11〜15節)。「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた」(同12節)とありますが、天と地を神様の御使いが上ったり下ったりしていた、というのは、天の神様がこの地上の私たちのところにもおいでになって、かかわっておられることを示しています。そして、アブラハムに約束した言葉をヤコブにも語ります。「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」(同15節)。行き詰まり、孤独に苦しむヤコブでしたが、神様の言葉を聴き、そこでこう言います。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」(同16節)。ああ、神様はここにもおられた。私と共におられた。このことを知らされ、気づかされ、ヤコブは立ち直るのです。いいえ、神様の愛によって、恵みによって立ち上がらされていくのです。ヤコブ、この人の別名はイスラエルでした。このヤコブの子孫がイスラエルの民なのです。イスラエルの民とは神様の憐れみによる民なのです。
 「まことに主がこの場所におられるのに・・・」。「この場所」とはどこでしょうか?人生、様々なことが起こってきます。けれども、どこにおいても、どんな状況にあっても、そこに主がおられる。主はあなたと共におられる。このことを忘れないでいたいと思うのです。そして、神様の憐れみを感謝して生きる。それがキリストを信じる者の生き方です。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-09-18 06:00:00 (151 ヒット)

創世記9章18節以下ではぶどう酒で酔い、天幕の中で裸になっていたノアに対しての息子たちの振る舞いが記されていました。酔いからさめたノアはこのようなことを言っています。印象的なのは息子のハム、その子供、子孫カナンについて、「カナンは呪われよ」(25節)とありますが、セムたちについては「セムの神、主をたたえよ」(26節)と言われていることです。セムが、ヤフェトがたたえられよ、ではありません。人間賛美ではないのです。セムの神、主をたたえよ、とノアは神様を賛美しています。ノアは天幕で醜態を晒しましたが、セムとヤフェトの愛の振る舞いを通して、神様の愛と赦しを感謝したのかもしれません。ノアは神様を賛美する、神様を礼拝する生涯を生きた人でした。ノアの物語の最初に記されていたノアの紹介、「ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ」(6章9節)、この言葉は最後まで覆らなかったと私は信じています。
私たちも神様の愛と赦しを信じ、受け入れたならば、その後、どんなに自分の罪深さ、弱さをおぼえることがあっても、神様の愛と赦しは変わらないことを信じていきたいと思います。私たちは自分の罪深さを知れば知るほど、弱さを知れば知るほど、神様の愛と赦しがどんなに大きなものであるかを知らされていくのです。そして、だからこそ、私たちは日々、悔い改めていきることができるのです。悔い改めとは自分の方に向いていた生き方を神様の方に向いて生きることです。すぐにあっちに、こっちに向いてしまう私たちですが、日々、神様に向き直って生きるのです。日々、悔い改めて、日々、新たに生きる。それが覆われた者、罪赦された者の歩みです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-09-11 06:00:00 (140 ヒット)

「ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた」(2節)とあります。仮庵祭とは、ユダヤ教の三大祭りの一つであること、私たちの暦(太陽暦)で言えば、10月初旬の七日間にわたって行われること、そして、イスラエルの民が荒れ野の生活、天幕暮らしをしていましたが、その時、仮庵を作って祭りの間、仮住まいをしていたことを記念しての祭りでした。イスラエルの民は指導者モーセに率いられて、荒れ野を旅しました。天幕、テント暮らしをしていたわけですが、その中でも神様の守りを体験しました。その感謝を表す。そればかりか、この時代(イエス様の時代)においては嘆きを表す時でもあったと言われます。この時代、ユダヤはローマの支配下にありました。なぜ、神様は私たちを今、助けてくださらないのか?神様は私たちをどうなさろうとされるのか?そういう嘆きです。そして、それゆえに救い主を待ち望んだのです。
感謝と嘆き。これは私たちにも重なることのように思います。神様の救い、十字架による罪の贖い、救いを感謝する。しかし、その一方では私たちの現実、この世はいったいどうなっているのか?私たちの個人的なことを考えても、様々な苦しみはある。感謝と共に嘆きがある。それが私たちの信仰生活です。けれども私たちは感謝する対象を知っているだけでなく、嘆くことのできる対象を知っているのです。それ自体が救いだと思います。だれに向かって、この心の苦しみを嘆き叫んだらよいのか?私たちは神様に心の苦しみを嘆き叫ぶのです。神様はきっと聴いていてくださる、知っていてくださる、その心を受け取っていてくださる。そして、必ずや神様の助けがある。私たちはそう信じていきたいと思うのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-09-04 06:00:00 (148 ヒット)

「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」(31節)とあります。「神がわたしたちの味方」です。つまり、私たちが神様の味方とは書いていないのです。神様が私たちの味方となってくださった、というのです。ですから、私たちは、自分は果たして、神様の味方なのだろうか?神様の味方になるために何をしたら良いのか?どんな努力をしたらいいのか?そういうことがここで言われているのではないのです。
神様が私たちの味方になってくださった。このことについて、同じローマ5章10節にはこのように記されています。「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです」。ここに「敵であったときでさえ」とあります。これはだれのことでしょうか?私たちのことです。私たちは神様に出会う前、神様の敵でした。神様を無視し、そのみ心を知らず、自分の思いを中心に、いえ、自分の思いを神として生きていました。それは神様を敵とする生き方でした。そういう私たちでしたが、「御子の死によって神と和解させていただいた」のです。御子、つまり、神様の御子であるイエス・キリストの死、十字架の死によって、私たちは神様と和解させていただいたのです。
このことがローマ8章31節では「神がわたしたちの味方」という言葉で言い表されています。以前の私たちは神様の敵でした。それが神様の方から歩み寄ってくださった。罪、聖書でいう罪というのは、神様から離れている状態ということです。神様の御子であるイエス・キリストが私たちの罪をすべて引き受けて赦してくださった。それは十字架におかかりになるという仕方でなさったのです。そのことによって、私たちは神様と和解させていただいたのです。神様の方から、私たちの味方になってくださったのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-08-28 06:00:00 (146 ヒット)

イエス様は「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか」(70節)と言われました。それは弟子たちをその選びに応え得るような者として、選ばれるにふさわしい者として選んだわけではないということです。そのことを知る私たちは主の選びの恵みにいつも心を向けていたいと思うのです。私たちが救われたのは、私たちが弟子として選ばれたのはただただ主の恵みによることなのです。
イエス様は十二弟子に向かって、「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか」と言われましたが、その中の一人がご自分を裏切ることもご存じでした。それでもなお、「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか」と主は言われたのです。ここには「あなたがた十一人」、つまり、イスカリオテのユダを除く十一人とは言われていないのです。「あなたがた十二人」と言われているのです。それは、あのイスカリオテのユダも主に選ばれた一人なのだ!ということです。ご自分を裏切ることを知っていながら、それでもなお、主は私が選んだ!と言われたのです。
イスカリオテのユダは後に主イエスを裏切ります。しかし、私たちは自分がユダのような人間ではない、と断言することができるような者ではないことを知っていると思います。日々の歩みの中で、何度も何度も主イエスを裏切る。あのペトロのように、何度も何度も主を知らないと言ってしまう。そういう私たちではないでしょうか。しかし、そういう私たちにも主は言われるのです。あなたがたを私が選んだのだ、と。何度も何度も主を裏切り、否定してしまう私たち。そういう私たちをそれでも、赦し、愛し、立ち上がらせてくださる神様、神様の愛に感謝して歩んでいきたいと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-08-21 06:00:00 (174 ヒット)

イエス様はこう言われました。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」。イエス様はご自分のことをまことのぶどうの木と言われました。イエス様につながることが大事。そういうメッセージをここから聞きますが、もう一つ大事なことは神様は農夫ということです。ここでは神様がぶどうの木、枝を手入れしてくださることが言われていますが、私は農夫というと、土地を耕すというイメージがあります。神様は私たちを耕してくれるのです。私たちは最初は良い土地とは言えないかもしれない。ゴツゴツしている。固い石ころだらけかもしれません。でも、神様が私たちを耕してくださる。良い土地にしてくださる。今日の箇所で言うならば、手入れしてくださる。良い実を結ぶように手入れしてくださる。そのために私たちがすることは神様の言葉を心に受け入れること、神様を信頼して従っていくことです。
 神様の呼び名、呼び方、いろいろとあります。神様は羊飼いでもあります。それに対して、私たちは羊。羊というのは可愛らしいというイメージがありますが、聖書ではあまり良いイメージではないようです。羊は弱い。羊は自分勝手。本当に私たちのような者です。そういう私たちを羊飼いである神様が日々養ってくださる。見捨てないで、支えていてくださる。神様は農夫、神様は羊飼い。この方の言葉に聴いて歩みましょう。この方を信頼して従っていきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-08-14 06:00:00 (161 ヒット)

主の晩餐式の時に配られるパンと杯、これはイエス・キリストの十字架の死による私たちの罪の救いを象徴するものです。イエス・キリストが救い主であると信じる者は、これを受け取らなければならないのです。自分では解決できない過ち、罪。それは自分で自分を罰しても解決することはできないのです。しかし、その罪のために主は十字架にかかってくださいました。イエス様は私たちが罪によって受ける罰のすべてを私たちの代わりに受けられたのです。私たちがパンと杯を受け取るというのは、私の罪をイエス様が赦し、救ってくださったことを表すことなのです。
毎週の礼拝もそうです。私は信仰深くない。日々、罪を繰り返してしまう。そんな私は神様の前に出ることはできない。クリスチャンとして生きる。そんなことはできない。そのようにお考えの方がおられるならば、いいえ、むしろ、そういうあなたのために神様は御子イエス様を送ってくださった。あなたを救うために十字架におかかりになったイエス様は復活され、あなたが新しく生きていくことができるように今、出会ってくださる。そのことを知って、神様の前に出て、神様の御子イエス様に出会ってください。この方はあなたの人生を一緒に歩んでくださいます。クリスチャン、イエス様を信じて生きるというのは、立派な、強い人間になるということではありません。神様の前に自分の罪深さ、弱さを知り、そのままで神様の前に出て、この方を信頼し、この方に支えられながら生きるということです。そして、主と共に歩む時、私たちは日々新たにされるのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-08-07 06:00:00 (154 ヒット)

先日の夕礼拝(女性会主催)に出席して学んだみ言葉はヨハネによる福音書5章1〜9節でした。主イエスが「ベトザダ」と呼ばれる池の回廊で出会った一人の人のことが記されていました。その人というのは、「三十八年も病気で苦しんでいる人」(5節)とありました。長い期間、病気で苦しんでいるというのはどれほどのことだろうか、と考えさせられました。私は半年近くの入院生活を経験しましたが、それよりもはるかに長い闘病生活です。想像もつきません。この人に主イエスは語られます。「良くなりたいのか」(6節)。この一言を受けて、彼はこう答えます。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」(7節)。私はこの人の言葉を読んだとき、あまりの病による辛さで、思いが暗くなってしまい、あの人もこの人もだれも私を助けてくれない!とつぶやいている姿に「不信仰」という思いがよぎりました。それでは主イエスはそういう彼をどうされたのでしょうか?やはり、「不信仰」と言われたのでしょうか?「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」(8節)。これが主が言われたことでした。病に苦しみ、その心の思いを打ち明けた一人の病人。その心をしっかりと受け止めてくださったのが主イエス・キリストでした。そして、その受け止めが彼を起き上がらせたのではないでしょうか?つぶやいても良いのです。でも空に向かってではなく、神に向かってつぶやいてみませんか。主はあなたの心を知ってくださる、受け止めてくださるのです。私を知っておられる!私の心の叫びを聴いておられる!そこから新しい一歩が始まります。


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