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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-01-08 06:00:00 (483 ヒット)

マタイによる福音書3章13〜17節には主イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになることが記されています。ヨハネは救い主のことを知っていましたから、最初は拒みましたが、「正しいことをすべて行うことは、我々にふさわしいことです」(15節)という主の言葉を受け止め、バプテスマを授けます。バプテスマを受けたイエス様。主が神の子、救い主であることは二つの出来事で示されています。一つが神の霊、聖霊がイエス様に降ったということです(16節)。もう一つが天の声があったということです(17節)。「そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」。天の声、それは神様の声だと思います。神様はイエス様のことを私の愛する子であると言われ、私の心に適う者とも言われました。「わたしの心に適う者」、これは直訳しますと、「私は彼を喜んだ」という言葉になります。イエス様こそは、神様の愛されている、喜びの子です。そして、主は私たちにもこのことを伝えたいのです。あなたがたは神様に愛されている、神様に喜ばれた者。神様の子供!そのことを伝えるために主はおいでになったのです。どうか、このメッセージが私たちに与えられていることをおぼえ、私たちもこれを人々に伝えていきましょう。あなたは神様に愛されている、喜ばれている!


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-01-01 06:00:00 (478 ヒット)

新年あけましておめでとうございます。2012年を迎えました。新しい一年、みなさんはどのような抱負や計画を持っておられるでしょうか。昨年最後の礼拝は12月25日でクリスマス礼拝でした。その日の説教で語ったこと、それは幼子イエスに出会った占星術の学者たちはその後、どうなったか・・・。マタイによる福音書2章12節にはこのようなことが記されていました。「ところが、『ヘロデのところへ帰るな』と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」。別の道を通ったことが記されているのは興味深いことです。別の道、それはつまり、占星術の学者たちは今までとは別の道を通ったということです。今までの道、人生、それは私を人生の王、主とする人生でした。しかし、彼らは「宝の箱を開けて」(11節)、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ」(ローマ12章1節)たのです。今までとは別の道、別の人生。イエス・キリストを人生の王とする、主とする人生を歩み始めたのです。私たちの人生の道はどのようなものでしょうか。だれを人生の王、主としているでしょうか。ある方はこう言われました。「私たちの新年はクリスマスから始まる。キリストを受け入れた時から始まる」。新年を迎えた私たちですが、あの占星術の学者たちと同じく、この新しい年も別の道、すなわち、キリストを王とし、主とする道を歩んでいこうではありませんか。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-12-25 06:00:00 (408 ヒット)

マリアが身ごもったことを知ったヨセフ。しかし、それが「聖霊によって」の出来事であることは知りませんでした。悩めるヨセフ。そこに主の天使が告げます。「マリアの胎の子は聖霊によって宿った」(20節)と。そして、天使は神の言葉への従順を求めました。天使を通して聴いた神様の言葉に対して、ヨセフはどうしたでしょうか。「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた」(24、25節)。ヨセフはすぐに聴いた言葉に従いました。これがヨセフの信仰です。ヨセフはマリアのことで思い悩みました。しかし、神の言葉を聴いた時、彼はその思い悩みを捨てて、神様に従っていきました。私たちの人生においても様々なことがあります。そして、悩みます。悩むことは大切です。けれども、悩むこと、それ自体が私たちの目的ではありません。悩みの先、思い煩いの向こうにある神様の言葉、神様の救い、そこに私たちは向かっていくのです。ヨセフは思い悩むことを止めて、神様の言葉に信頼し、神様の言葉に人生を懸けていきました。私たちも神様の言葉に信頼し、自分の人生を懸けていこうではありませんか。その時、インマヌエル、神は我々と共におられる。そのことを私たちの日々の生活、人生において知らされていくのではないでしょうか。インマヌエルの主と共に歩んでいきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-12-18 06:00:00 (402 ヒット)

悪霊に取りつかれていた人、この人がイエス様と一緒に行きたいと願いました(17節)。それは救いの喜びからでしょうか。もしかして、そうではなかったかもしれません。それはイエス様のそれに対する態度、言葉から想像できます。イエス様は御自分と一緒に行くことを許しませんでした。そして、自分の家に帰るように言われました。この人はこれまで、自分がどのように生きてきたかを思い返すと、この地に留まることは居心地の悪いことだったかもしれません。ここから離れてしまいたい。逃げるようにして、イエス様と一緒に旅をしたかったのかもしれません。しかし、イエス様はそれを許さなかった。そして、自分の家に帰り、自分の家族に主の救いのみわざを伝えることを語られました。居心地が悪いから逃げる。そうではなくて、自分の家に帰り、自分の家族との関係に生きる。関係の回復をする。そして、自分の家族に主を伝えることを導かれました。主は彼を御自分の旅に同行させることはしませんでしたが、主と離れていても、しかし、自分の家族のただ中で、自分の居心地が悪いと思えるその中にあっても、主がおられる。どこにあっても、主が共におられる。その信仰に生きることを求められたのではないでしょうか。それが彼の新しい人生の出発だったのではないでしょうか。インマヌエル、主が共におられる(マタイ1章23節)。私たちもこの信仰に生きることを導かれているのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-12-11 06:00:00 (579 ヒット)

「夜は更け」とあります。夜というのは、暗い、希望のない、そのような世の中、時代を指します。世の中はますます暗闇へと向かっていくのではないか。悪い方へと向かっていくのではないか。そう思わざるを得ない出来事も次から次へと起こっています。しかし、私たちは「夜は更け、日は近づいた」。救いは近づいた。イエス様が再び来られるその日は近い。このことを信じて、希望を持って生きるのです。世の中の出来事だけを見ていくならば、闇から闇と思える時代です。けれども、私たちは神様の救いの出来事からすべてを見ていく。そうするならば、闇の中に光がある。夜は更け、日は近づいている。その希望を持って生きるのです。イエス様はこのように言われました。「あなたがたは世の光である」(マタイ5章14節)。つまり、イエスを救い主と信じる者は世の光なのです。希望は、光はどこにあるのか、と問う必要はないのです。私たち自身が世の光です。もっと厳密に言うと、私たちが光そのものではなくて、私たちはイエス様という光を照らす存在と言えると思います。その光は小さな光かもしれません。でも、その光は闇を照らすのです。人々に希望を与え、命を与えるのです。私たちは小さな者です。しかし、イエス・キリストという光を人々に伝えるように私たちは召され、用いられていることをおぼえたいと思うのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-12-04 06:00:00 (523 ヒット)

パウロは「御言葉を宣べ伝えなさい」と語りました。それに続いて、このようなことも語っています。「折が良くても悪くても励みなさい」。「折が良くても悪くても」、それはどんな時でも、御言葉を宣べ伝えることに励みなさい、ということです。私たちは福音を伝えることに励んでいます。しかし、伝えたからといって、すぐに結果が出るかというと、そうではありません。そうすると、自分の力、言葉、信仰が足りないのだろうかと考えてしまう。しかし、私たちはこの言葉に励まされて、福音を伝え続けたいと思うのです。「折が良くても悪くても」。聖書が私たちに語っている。主が私たちに語っている。この言葉に押し出されて、語り続けるのです。これに続いて言われていること、それは「とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです」ということです。忍耐強く、福音を語り、教えるのです。「忍耐強く」は口語訳では「寛容な心で」となっていました。寛容な心というのは、イエス様の心と言っても良いと思います。イエス様は一人の魂が救われることを願っておられ、その心で人々に関わられました。私たちも、そのイエス様の心を心として、人々に福音を語り、伝えていくのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-11-27 06:00:00 (467 ヒット)

「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(51節)。ここでイエス様はパンから肉の話をしています。「世を生かすためのわたしの肉」。「世を生かすため」、ここで言う「世」とは、世にあるすべての人々のことです。世の人々を生かすための「わたしの肉」、それはイエス様が私たちを愛するがゆえに、私たちを罪と死の滅びから救うためになされた十字架の救いのわざのことです。主は十字架の上で肉を裂かれ、血を流されたのです。そのようにして、御自分の命をささげられたのです。私たちが互いに愛し合うことができるのは、イエス様の十字架によってのことです。主の十字架によって救われ、生かされていることを信じ、受け入れる時、互いに愛し合うことができるのです。どうか、共に主の十字架を見上げ、その愛によって救われ、生かされているお互いであることをおぼえて互いに愛し合うことに努めていきましょう。言葉、そして、生き方をもって、主を伝えていきましょう。十字架の言葉を語り、主の十字架の歩みに従っていきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-11-20 06:00:00 (503 ヒット)

主の言葉、これこそは無くてはならぬ唯一の大切なものです。いろいろな大切なものがある中で、御言葉を聴くことを最も大切なものとしていきましょう。御言葉、それは私たちを思い煩いから解放し、生きる力となります。主の言葉を聴いていきましょう。そして、この御言葉こそは主から私たちへの最高のもてなしです。このもてなしを私たちは喜んで受けていくのです。マルタのように、私たちも、イエス様のために、教会のために、と思って、いろいろなことをしても、喜びがなかったり、人を裁いたりするようなことがある時、自分が御言葉から離れてしまっている、御言葉を忘れてしまっていることに気づかされるのではないでしょうか。御言葉から神様に生かされ、愛されている喜びを味わい、救いの喜びを味わい、その喜びから、主のために、教会のために、あれをしよう、これをしようとするのです。主は今日も御言葉をもって、私たちをもてなしてくださいます。私たちが人々にできる最高のもてなしも御言葉をお伝えすること、分かち合うことです。御言葉によって私たちは生きる力、生きる希望を与えられるのです。これからも、私たちは主のもてなしを受け、人々にも御言葉のもてなしをしていこうではありませんか。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-11-13 06:00:00 (444 ヒット)

「神の業」(29節)、それは十字架の救いの業です。この救いを信じること、それが「神がお遣わしになった者を信じる」(同節)ことです。そして、このことを信じ受け入れた人はどうなるか。その喜びと感謝から、神様の働きに加わり励んでいこうとするようになるのです。愛は人を育てます、成長させます。神様の愛、十字架の愛によって私たちは育っていく、成長していく。愛されている喜びと感謝から、神様のために、人のために、そのような生き方へと変えられていきます。イエス様は人々との対話の中で、ご自身が「命のパン」であると言われました(34、35節)。「永遠の命に至る食べ物」、「命のパン」、それは主ご自身のことです。この方を信じ受け入れていくならば、その人は、飢えることがない、渇くことがない。そのように主は語られます。私たちの心は飢え渇きます。どんなに食べ物やモノで満たされても、それが本当に人の心の飢え渇きをいやすものではないことを知っているはずです。それは一時的な満たしにしか過ぎません。本当に私たちを満たすもの、それはイエス・キリストの愛です。この愛に触れた時、この愛を受け入れた時、私たちは互いに愛し合う者、神様のために生きる者と変えられます。この愛に生きる私たちであるように主の言葉に聴き従いましょう。この愛に生きる人たちが起こされるように主を伝えていきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-11-06 06:00:00 (476 ヒット)

三十八年病に苦しんできた人。どんなにつらかったでしょうか。だれも私のことを分かってくれない。助けてくれない。主はこの人のその心をしっかり受け止められたのではないでしょうか。受け止めて、そして、この人に言われたこと、それは「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」(8節)ということでした。私は以前はこの言葉を読むと、ああ、イエス様は人のことをああだ、こうだ、と言うのを止めて、自立して生きていきなさい。そうおっしゃっているのだ、と思っていました。でも、今考えてみますと、そういうメッセージなのだろうか、と思うようになりました。この人は三十八年、身を横たえて、自分の人生を嘆いていたのではないでしょうか。人生を投げ出してしまいたいと思っていたのではないでしょうか。あきらめの人生になっていたのではないでしょうか。しかし、主は言われました。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」。それはあなたは起き上がることができる。床を担いで歩くこともできる。なぜなら、私が共にいる。私があなたを起き上がらせ、あなたの床、それはあなたの人生、あなたの人生の重荷を一緒に担っていくから。そのようなメッセージとして今、私は聴くのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-10-30 06:00:00 (593 ヒット)

神様が私たちを選ばれた理由、それは神様が私たちを愛されているゆえということです。7節に「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは」とありました。新改訳聖書を見てみますと、「主があなたがたを恋い慕って」と訳されています。神様は私たちを恋い慕っているというほどに、深く愛しておられるのです。私たちが愛するという場合はどうでしょうか。互いを品定めしたり、評価したりして、自分が認める人、自分にとって愛するにふさわしい人、そういう人は愛する、受け入れるけれど、そうでない人は・・・、ということになってはいないでしょうか。そして、その品定め、評価は自分自身にも向けられて、何か失敗したり、できなかったりすると、自分はダメだ、生きていてもしょうがない、と考えてしまう・・・。しかし、神様は私たち人間とは異なり、何かを持っているから、何かができるから、そういった理由でお選びになったのではないのです。「ただ、あなたに対する主の愛のゆえに」とありましたように、ただ愛のゆえに、私たちの命を、存在を喜び、愛されるゆえに選ばれたのです。その神様の愛を拠り所として私たちは生きるように。それが聖書のメッセージです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-10-23 06:00:00 (682 ヒット)

この箇所(マルコ4章26〜34節)には種のたとえが記されています。32節には「蒔くと、成長して」ということが記されています。種を蒔くと成長というのは当たり前のことです。種は地に蒔かれてこそ、成長します。種は地に蒔かれて、土の中に入ってこそ、成長します。でも、種は蒔かれなければ成長しないのです。それと同じように、福音も蒔かれなければ、つまり、伝えなければならないのです。福音は伝えるものであり、自分の中にだけ留めておくものではありません。伝えることによって、人々に福音は知れ渡り、福音を受け入れる人が起こされていくのです。「蒔くと、成長して」。私はこの言葉から、ヨハネによる福音書12章24節の一粒の麦の箇所を思い起こしました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12章24節)。イエス様こそは一粒の麦として死んでくださった方です。そして、そのことによって、多くの実が結ばれ、私たちは死から命へと導かれたのです。主の死にあずかり、新しい命に生きる者とされた私たちは主の言葉に聴き、主の歩みに倣って、福音の種を蒔き続けましょう。私たち自身が福音の種となりましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-10-09 06:00:00 (446 ヒット)

水を求められたイエス様。しかし、最終的なイエス様の目的はこの女性に水を、本当に必要な水、渇くことのない水、永遠の命に至る水を与えることでした。そして、その水とはイエス様御自身です。毎日、人目を避けて、何とか日々、生きるために必要な水をくみ、隠れるようにして生きていたこの女性。けれども、主は彼女のすべてをご存じであり、彼女が本当に生きるために必要なものは渇くことのない、永遠の命に至る水、イエス様御自身であることを示されました。人目を避けなければならない、彼女にそうさせていたのは、彼女の罪だったのではないでしょうか。その罪から離れて、主と共に新しく生きるように。人の愛を求めて生きていた。愛されたい、愛されたい、と愛されることばかりを求めて生きていた。その生き方から、神様の愛を知り、愛されている私が神様の愛に生きることへ。神様を愛し、人を愛する者へ。イエス様はこの一人の人に出会ってくださり、新しい人生を導かれたのではないでしょうか。主イエスは今も、今日も、私たちと出会ってくださいます。そして、私たちにも新しい人生、主と共にある人生を導いてくださいます。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-10-02 06:00:00 (459 ヒット)

ニコデモは主が「新たに生まれねばならない」(7節)と言われたことに対して、「どうして、そんなことがありえましょうか」(9節)と言いました。新しく生まれるなんて、私にはできません、ということです。このニコデモの言葉は真実です。私たちは自分の力で新しくなろうと思っても、それは無理なのです、できないのです。そういう私たちのために、主はおいでくださったのです。自分では新しくなることも、自分で自分を救うこともできない私たちのために、主はおいでくださった。私たちが救われるため、新しく生まれるため、そのために必要なことは何か。それは神様が私たちのためにお送りくださった独り子であるイエス・キリストを信じることです。そうするならば、この方が私たちを日々、新たにさせてくださる、変えてくださるのです。私たちの心の闇、それを主は御自身の光で照らし、罪を示し、私たちを悔い改めさせ、新しく生きることを導いてくださいます。私たちは自分の中にある闇をそのままにしてはなりません。ニコデモは光を求めて、真の解決を求めて、主のもとに行きました。私たちも、主のもとに行き、すべてをきよめていただき、新しく歩んでいこうではありませんか。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-09-25 06:00:00 (572 ヒット)

「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(6節)。ここに「アブラムは主を信じた」とありました。アブラムは前から、神様を信じていたではないか。そのように言われる方があるかもしれません。しかし、ここで言われていることはそういうことではありません。信仰とは、今が大事です。今、信じるかどうか、です。昔、過去に熱心だった、求めていた、というのではなくて、今、主を信じているかどうか、そこが大事なことです。ある方は目覚めてすぐ、自問自答するそうです。それは自分に向かって、「あなたは今日、イエス・キリストを信じるか」と問うのだそうです。そして、「はい、信じます」と告白するのだそうです。私たちも、日々、この信仰の問いかけをしていく。私は今日、今日も、イエス様を信じます。そのような決心を持って歩んでいく者でありたいと思うのです。「主はそれを彼の義と認められた」。信仰によって義とされる。それは、私たちは自分の行いによって救われるのではない。神様を信じることによって救われる、ということです。そして、救われた喜びから、その感謝の応答として行いが起こってくるのです。伝道する、奉仕する、献金する・・・。それは自分が救われるためではなく、救われた感謝、喜びから行うのです。


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