ホーム メッセージ 月間予定表 ニュースレター お問い合わせ
はじめての方へ
メインメニュー
ログイン
ユーザー名:

パスワード:


パスワード紛失

オンライン状況
15 人のユーザが現在オンラインです。 (1 人のユーザが メッセージ を参照しています。)

登録ユーザ: 0
ゲスト: 15

もっと...
アクセスカウンタ
今日 : 4
昨日 : 3030
総計 : 7501975019750197501975019
平均 : 2929
投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-07-10 06:00:00 (655 ヒット)

6節以下は献金について、種蒔きになぞらえて記しています。「惜しまず豊かに」(6節)というのは、「好意に満ちて」「喜んで」という意味です。そういうことから言いますと、ささげる態度、姿勢ということが言われていることが分かります。このようなことを言いますと、少しでも、喜んでささげればいいんだ、ということを言う人がいるかもしれません。それは確かにその通りですが、本当に信仰の喜びに満たされたら、少しでもいい、と思えなくなってきます。もっともっとささげたい、という思いが与えられます。家族のこととか、愛している人、気にかけていること、関心のあることなどに対しては、私たちはそれこそ、惜しみなく、何でもしたくなりますが、それと同じようにささげる心が与えられていきます。私たちは神様が私たちに対して、どのような目で見ておられるか、どんなに愛しておられるか、そのことをもっともっと知っていきたいと思います。そして、私たちもまた、神様を愛し、教会を愛する者となっていきたいと思います。その時、私たちのささげもの、ささげる心は変わっていくのです。神様に愛された喜びがあふれてのささげものとなっていくのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-07-03 06:00:00 (503 ヒット)

マケドニアの諸教会はパウロたちの期待以上の献げものを行った、ということです。この5節の「わたしたちの期待以上に」と記されている言葉ですが、ある訳ではこのように記されていました。「私たちが期待したようにではなく、むしろ神の意志(おもい)に従って」(岩波訳)。私たちの期待。私たちは相手に対して、何らかの期待をすることがあります。クリスチャン同士でもそのようなことがあります。特に私たちは若いクリスチャンに対して、こうあってほしい、こういうふうに成長してほしい。そんな期待を寄せることがあります。でも、それは私たちの枠の中に相手を押し込めるようなものです。むしろ、私たちを超えて、私たちが期待したようにではなく、神様がその人をどう取り扱われ、導かれるか。そこに期待していくべきではないでしょうか。これは教会でも言えますし、人を育てる、子供を育てる場合でも、考えられることではないでしょうか。「私たちが期待したようにではなく、むしろ神の意志(おもい)に従って」。神様の思い、ご計画、導きに従って、期待していく者でありたいと思うのです。マケドニア州の諸教会はパウロの考え、思いをはるかに超えて、主のために用いられていきました。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-06-26 06:00:00 (501 ヒット)

パウロはコリントの教会の人たちに対して心を開きました。ところで、この「心を開く」という言葉ですが、ここで言われている意味は「自分の心の中に相手の居場所を設ける」ということです。ですから、心を開くというのは、自分が相手を受け入れるということになります。自分が相手を受け入れる。私たちはより多くの人たちと良い人間関係を結びたいと願う。それは自分がその相手に心を開く。まず、自分がその相手を受け入れるということです。その時、相手も、自分が受け入れられていることを知り、心を開く、互いに受け入れ合うことになっていくのです。パウロはコリントの教会と良い関係ではありませんでした。しかし、そういうコリントの教会に対して、ひたすら、責め続け、裁き続けたのではなくて、私はあなたがたに心を開いた。私はあなたがたを受け入れた。そのように語っているのです。私たちが教会の兄弟姉妹との関係、また、家族との関係、あらゆる人間関係においても、このパウロの人々に対する態度、あり方に倣っていきたいと思います。まず、自分が相手に対して心を開く。まず、自分が相手を受け入れる。これはパウロの生き方であり、また、パウロの信じる主イエスの示された生き方ではないでしょうか。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-06-19 06:00:00 (551 ヒット)

「わたしたちは生ける神の神殿」(16節)。このように聖書は記します。生ける神の神殿である私たち。この生ける神の神殿ということから、二つのことをおぼえたいと思います。一つは神様は私たちの中に、私たちの心のうちに生きて働いておられるということです。生きて働いておられる神様がいつも私たちと共に歩んでくださっている。このことを信頼して、期待していくことです。もう一つは私たちの信仰が生きた信仰であるように、ということです。私たちの信仰が生きた信仰であるように。与えられた信仰を働かせるということです。私たちはイエス様を信じています。イエス様を愛しています。人々はその信じている証し、愛している証しが知りたいのです。これは夫婦の関係、親子の関係でも、言うことができます。あなたが大事に思っている、愛している家族。それはただ思っているというだけ、口だけということではないと思います。お互いの生き方の中で、そのことは表されていくのではないでしょうか。神様との関係も同じです。神様を信じている、愛している、第一にしている。そのことを私たちはその生き方において表していく。それが最も良い証しとなり、伝道となります。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-06-12 06:00:00 (606 ヒット)

神様の協力者である私たちは神様からいただいた恵みを無駄にしてはいけない、と言われています。神様の恵みを無駄にする。口語訳では「神の恵みをいたずらに受けてはならない」とありました。神様の恵みをいたずらに受けてはなりません。神様の恵みを私たちはいつ、どうやって、受けるのでしょうか。毎週、礼拝を休まないようにする。毎日、聖書を読み、祈る。人助けや善行を行う。そうすると、神様の恵みを受けることができるのでしょうか?いいえ、そうではありません。神様の恵みを私たちはもうすでに受けているのです。神様の恵みを無駄にする、いたずらに受けるとはどういうことでしょうか。それは神様の恵み、この救いを私たちはすでに受けているのに、これを伝えない、忘れたかのようにして生きることです。イエス様がこの私のために十字架にかかって死んでくださった。このイエス様のおかげで私は救われた。この喜びを伝えない。あるいはこの喜びを忘れたかのようにして、当たり前のようにして生きている。それが神様の恵みを無駄にしている、いたずらに受けるということです。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」とパウロは記します。私の恵みの時、救いの日はいつだろうか?イエス・キリストを信じ受け入れたなら、今がその時、その日なのです。すべての人に神様の恵みが与えられている。すべての人が救いに招かれているそのことを信じて主を伝えていきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-06-05 06:00:00 (496 ヒット)

「わたしたちは、神にはありのままに知られています」(11節)とありました。ありのままに知られている。すべてを知られている。そうであるのに、私たちは自分のありのままを隠そう、隠そうと一生懸命になっているのではないでしょうか。それはただ外見、外面的なことだけではありません。信仰すらも、自分のありのままの姿を隠すための道具としてしまうことがある。私はこんなにたくさん奉仕をしました。私はこれだけ聖書の知識があります。そうやって、まわりに自分の信仰を誇る。でも、信仰はそういうものではないと思います。信仰とは、まさにありのままの、裸の自分が神様の前に出ることではないでしょうか。自分の罪も、弱さも、すべて、神様の前に明らかにする。どうしたって、神様の前には何も隠すことはできないのです。人には隠せたとしても、神様の前には隠すことはできないのです。パウロはこのようにも記しました。「わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います」。真実に生きようとするパウロの姿をここに見ます。ありのままの私。それは神様の前に罪深い私です。けれども、神様に愛され、赦された私です。そのことを知る時、私たちは立って行けるのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-05-29 06:00:00 (543 ヒット)

今、私たちのこの世での、地上での生活、歩みはここに記されていますように、「この地上の幕屋にあって苦しみもだえています」(5章2節)、「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいております」(5章4節)。苦しみもだえている私たちであり、重荷を負ってうめいている私たちです。そういう私たちですが、天から与えられる永遠の住みかに目を注いで生きるのです。キリストを信じる私たち、しかし、苦しみの中に生きる私たちに聖書は慰めの言葉を語ります。「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(フィリピ1章29節)。苦しみについて、パウロはこう言います。キリストのための苦しみだと。しかも、それは恵みとして与えられているというのです。私たちはキリストを知らない時代、信仰に生きる以前は苦しみというのは不幸のしるしと考えていたかもしれません。しかし、聖書は語るのです。キリストのための苦しみ、それは恵みとして与えられているのだと。苦しみ、それは不幸のしるしではありません。キリストが共におられるしるしと言って良いのではないでしょうか。キリストの苦しみ、主の十字架の歩みに私たちもあずからせていただいていることではないでしょうか。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-05-22 06:00:00 (520 ヒット)

使徒パウロは私たち人間のことを「土の器」と言いました。土の器、それはもろく、壊れやすいものです。私たちの体も、心も、もろく、壊れやすいものです。しかし、その中に宝がある。イエス・キリストという宝があるのです。土の器である私たち、イエスは主であると信じる私たちの生き方について、この箇所(二コリント4章10〜12節)は示します。この箇所に「死」という言葉が繰り返されています。実は土の器である私たち、イエスを主と信じる者の人生というのは、死ぬということなのです。主イエスのために死ぬ。イエス様は御自分の弟子たちにある時、このようなことを言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」(マタイ16章24、25節)。主イエスのために死ぬ。それはこのイエス様の言葉で言うならば、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」ということです。主イエスのために死ぬとは、自分に死ぬということ。そして、主の十字架を負う、主に従うということなのです。そして、「わたしのために命を失う者は、それを得る」。主のために自分をささげる者は命を得る。ここで言う命とは、永遠の命のことです。主イエスのために死ぬ時、私たちは本当に生きる。永遠の命に、イエスの命に生きる者とされるのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-05-15 06:00:00 (656 ヒット)

マルコによる福音書3章13節から、十二使徒の選びの記事があります。選ばれた人たちというのは、群衆とは違う、何か優れたものを持った、できる人たちだったのでしょうか。それについては「これと思う人々」とあります。残念ながら、私たちは聖書から、十二使徒の選ばれた理由、条件といったことをこれ以上、知ることはできません。主に選ばれた十二人。それは祈りの中で選ばれた(ルカ6章12節参照)。そのようにしか言えません。その十二人について、「そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」(14、15節)とあります。自分のそばに置く。そして、派遣させるため。これらのことから、主が選ばれた十二使徒とはどういう者たちか分かること、それは第一に主が共におられるということ。第二に主が派遣された者ということ。そして、第三に宣教し、悪霊を追い出す権能を持たされた者ということです。ここから分かること、それは彼らの能力などについては何も言われていないということです。このことは私たちにも言えるのではないでしょうか。私たちがどのような者であれ、主が共におられることを信じ、主が派遣してくださったことを信じ、宣教と悪霊を追い出す権能を与えてくださったことを信じて励む。後は私たちの側がその信仰に立つかどうか、従うかどうか。それが弟子の条件ではないでしょうか。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-05-08 06:00:00 (444 ヒット)

パウロはトロアスでテトスに会うことができませんでした。そのことについて、自分は「不安の心を抱いたまま・・・マケドニア州を出発した」(13節)とあります。パウロはトロアスでテトスに会い、コリントの教会の状況を聞くはずでした。ところが、そのテトスに会うことができなかった。それでパウロは不安の心を抱いた、とあります。不安の心を抱いてしまったパウロはこの後、宣教旅行を続けられたのでしょうか。マケドニア州を出発した、というのは、それでも、宣教旅行を続けた、ということです。なぜ、続けられたのでしょうか。パウロは状況に支配されなかったのです。目の前の出来事に左右されなかったのです。パウロは主を見上げたのです。主が自分に与えてくださった福音宣教の使命、そこを見つめ、宣教の旅を止めることをしなかったのです。私たちが主のみわざに励む、福音宣教に励む時も、パウロと同じく、心に不安を抱くようなことが度々起こってきます。福音を伝えても無理なのではないか。自分はその器ではないのではないか・・・。しかし、私たちはそこであきらめたり、止めてはならないのです。主を見上げていくのです。主は私たちに福音を伝えるという使命を与えておられる。その主御自身がいつも私たちと共におられる。主の言葉、主のまなざしに押し出されて歩んでいきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-05-01 06:00:00 (524 ヒット)

あの墓の前に立ち尽くしていた婦人たちとは、私たちのことかもしれません。復活の主が見えなくなる、分からなくなる。何かあると、すぐに信仰を見失う。ぐらついてしまう。そういう私たちです。しかし、あの婦人たちのそばに現れた二人の人が私たちのところにも現れてくれる。それは主にある兄弟姉妹であるかもしれません。この私のために祈ってくれるあの人、この人かもしれません。私たちが弱り果て、信仰を見失いそうになる時、愛を持って関わり、祈ってくれる、そして、御言葉を示してくれる人たち。私たちも、その愛に押し出され、祈りに促され、御言葉に聴いていきましょう。そして、復活の主をいつも思い起こすのです。婦人たちの前に現れた二人の人。私たちもまた、あの二人の人のように、人々に御言葉を指し示す者、復活の主を伝える者となっていくのです。8、9節にこのように記されています。「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた」。主の言葉を思い出した婦人たちは、そのことを人々に一部始終知らせた、とあります。私たちもこのことをお知らせしましょう。主は復活された。主は生きておられる。復活の主を礼拝し、復活の主と共に歩みを続けましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-04-24 06:00:00 (715 ヒット)

イエス様は「柔和」(ゼカリヤ9章9節の口語訳。新共同訳は「高ぶることなく」)な方であった。柔和というと、怒らないとか、優しい、といった意味を考えるかもしれませんが、この言葉の意味は新共同訳が訳していますように、高ぶらない、謙遜という意味があると同時に、他者との関係において、その相手を生かす力と言われた方があります。柔和、それは他者を生かす力。まさに私たちの主、イエス・キリストはそのような方なのではないでしょうか。子ろばに乗って、エルサレムを入城されたイエス様。それは柔和なお方、他者を生かすお方として、私たちのもとにおいでになったことを示しているのではないでしょうか。戦争のための馬ではない。作物を耕すためのろば。壊したり、殺したりではなく、作り出し、生み出し、育てることに用いられるろば。そのろばに乗って主は来られた。イエス様こそは、自分を捨て、他者のために生きられ、死なれた方。この方によって、今、私たちは生きる者とされた。生かされている私たちは、先立つ主に倣って、主の私たちへの愛に押し出されて、主と共に、他者のために生きる者へと導かれているのではないでしょうか。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-04-17 06:30:00 (664 ヒット)

主は片手の萎えた人に向かって、「真ん中に立ちなさい」と言われました。それまで、この手の萎えた人は真ん中ではないところ、片隅に置かれていた人だったのではないでしょうか。片隅に置かれる。この人は片手が萎えていた、ということです。病の人でした。人々の間では罪の結果であると言われていたかもしれません。片隅に置かれていた、疎外されていたこの人を主は真ん中に引き出しました。この人も一人の礼拝者だったかもしれません。けれども、真ん中にいることを許されない。あの人はあんな病気になっている。何か、罪を犯したからだろう。人々の冷ややかな視線を浴びながら、片隅で、人に見られないようにして、礼拝していたのではないでしょうか。しかし主は彼を引き出して、あなたこそは神様に愛されている者、真ん中で礼拝しなさい!あなたはこの世のただ中で、この社会で生きていきなさい!と言われるのです。そして、主は今も片隅に追いやられている人たちを人々の真ん中に、神様の御前に立たせて、生きよ、と語られます。あなたは私の愛する、かけがえのない存在。その声に押し出されて、私たちは今日も生きていくことができるのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-04-10 06:30:00 (511 ヒット)

「あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです」(2章10節)。この言葉からおぼえたいことは、「キリストの前で」ということです。私たちはいつも、キリストの前に、神様の御前に立つ者でなければならないのです。神様の前に立つことをしないでいる時、神様を忘れる時、私たちはあの十戒の戒め(出エジプト20章3〜7節)を破るのです。神様でないものを神とする。自分を神とする。その自分という神が人を裁き、自分を裁くのです。私たちは真の神様以外のものを神としてはならないのです。唯一の神様こそは絶対的な方であり、イエス・キリストの十字架の赦しこそは絶対的なものなのです。愛さない、赦さない。そこにサタンはつけ込みます。そして、お互いの関係を破壊、破綻させます。私たちのお互いの関係、それはイエス・キリストの十字架、イエス・キリストによる愛と赦しを介しての関係です。お互いがイエス・キリストの愛と赦しを受けた者、主に愛されている者、主に赦されている者、そのことを思いつつ、お互いにそのことを喜び、感謝しながら、共に主のわざに励みます。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-04-03 06:30:00 (550 ヒット)

私たちは新年度の計画を立てようとします。家庭の計画、教会としての計画もあります。しかし、それが計画通りにいかないことも度々起こってきます。神様の御前に立つとき、私たちの計画というのも、完全なものではない、絶対的なものではないこと、私たちの計画を超えた神様のご計画があることをあることをおぼえたいと思います。私たちには、主の御心、御旨とは今は分からないことも多くありますが、主にゆだねつつ、主の御心を求めて、祈り、励むのです。神様のご計画を求めて、神様の然り、神様の良しとするところを求めていくのです。パウロは「神は真実な方です」(二コリント1章18節)と言いました。新しい一年、私たちの歩みはどのようなことがあるかは分かりません。今は特に不安や心配をもたらすような出来事が次々と起こっています。これからどんなことが起こるのだろうか、どんな時代になるのだろうか、と思わざるを得ない。しかし、忘れてはならないのは、神様は真実な方ということです。神様の私たちに対する愛は変わらない。神様がどんな時にも共におられることには変わりはない。神様は真実な方。そのことを信じて、信頼して、主を見上げて歩んでまいりましょう。


« 1 ... 18 19 20 (21) 22 23 »
PageTop「ャ