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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-08-28 06:00:00 (550 ヒット)

万物の相続者、世界の創造者、神様の栄光の反映、神様の本質の完全な現れ、万物を御言葉によって支えておられる方、人々の罪を清められた方、神様の右の座に着かれた方。この聖書の箇所から、御子イエス・キリストがどのような方であるかを知らされます。イエス・キリストは神の子、救い主です。そして、私たちは主のものです。私たちはただの人にすぎませんが、主によって罪赦された者です。イエス・キリストの御前に立つ時、そこで私たちは自分が何者であるかを知ります。罪人である私たち、しかし、罪赦された者、神様に愛され、生かされている者。イエス・キリストを知るということは、本当の自分を知るということでもあります。ありのままの自分でいいのだ、という言葉をよく聞きます。ありのままの自分として生きる。それはただ気楽に、何事にもとらわれない生き方ということでしょうか。ありのままの自分として生きる。それは聖書の視点からいうと、イエス・キリストに愛され、生かされている自分を知って生きるということではないでしょうか。主に愛され、生かされていることを日々、おぼえながら生きる。神様のありのまま(神様の愛と恵みをそのままに受ける)に生きる人生、それこそは幸いな人生ではないでしょうか。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-08-21 06:00:00 (460 ヒット)

種蒔きのたとえ(マルコ4章1〜9節)はよく知られているたとえ話の一つです。私たちはこのたとえ話のそれぞれの地に蒔かれた種の様子を知って、ああ、私は石だらけの所のような者だ、私は茨の中のような者だ、と嘆くかもしれません。しかし、このたとえから、種を蒔いた人のことに目を注ぐ必要があると思います。種を蒔いた人とはだれでしょうか。それは福音を伝える私たちのことと考えることもできますが、イエス様こそは真の種蒔きではないでしょうか。聖書の舞台であるイスラエルは乾燥した地域で、耕作に適した土地はほとんどないということを聞きます。それでも、農夫は一生懸命、土地を耕して、良い地にして、種を蒔くのだそうです。私たちも、私たちの心も、乾燥した、ゴツゴツした、耕作には適さないような土地のような者だったのではないでしょうか。そういう私たちを主は耕しておられる。そして、私たちが良い地になって、実を結ぶように願っておられるのではないでしょうか。今まで、良い土地ではなかったかもしれません。しかし、御言葉を聞いて生きようとするならば、主は私たちの心を耕してくださり、私たちが実り豊かな人生を生きることができるように導いてくださるのではないでしょうか。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-08-14 06:00:00 (487 ヒット)

バプテスマのヨハネの二人の弟子はヨハネの導きにより、イエス様に従っていきました。その様子をイエス様は知られ、彼らにこのように言われました。「何を求めているのか」(38節)。イエス様は二人に対して、このように問いかけられました。この問いかけに答えることができなかった二人の弟子をイエス様はどのように扱われたのでしょうか。あなたがたは分かっていない。だからだめだ。弟子としてふさわしくない。一刀両断に切り捨てられたのでしょうか。いいえ違います。イエス様は二人にこう言われました。「来なさい。そうすれば分かる」(39節)。御自分のもとに来るように、と言われ、二人の弟子はイエス様のところに一日、泊まった、ということです。そして、彼らはイエス様と語り合い、イエス様の言葉を聴き、イエス様がだれであるかを知ったのではないでしょうか。私たちはイエス様を信じている、イエス様に従っていると言いながら、右にも左にも曲がってしまうそういう者です。神様の喜ばれること、求めておられることからすぐに離れてしまう者です。そういう私たちにイエス様は「あなたは何を求めていますか」と問われる。そこで私たちはハッとさせられる。自分の歩みについて振り返らされる。悔い改めさせられる。そして、「来なさい。そうすれば分かる」。イエス様の愛の呼びかけを受けて、イエス様のもとに行き、イエス様の言葉を聴くのです。信仰生活はこのことの繰り返しです。大切なことはいつも、イエス様のもとに行くということです。イエス様のところに留まるということです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-08-07 06:00:00 (717 ヒット)

詩編40編8節に「御覧ください、わたしは来ております」とあります。これは主の御前に集い、主に礼拝をささげる私たちのことです。そして、私たちは何をささげるのでしょうか。私は来ております。この言葉から分かることはこの私をささげるということです。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマ12章1節)。礼拝、それは何をささげるか。自分をささげるのです。そして、自分をささげる私たちの日々の生き方は「心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(ローマ12章2節)、このようなものです。これと同じようなことが詩編40編8、9節にも記されています。「わたしのことは/巻物に記されております。わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み/あなたの教えを胸に刻み」。御旨を行う。神様の御心に従うことを行う。そして、神様の教えを胸に刻む。心に蓄える、決して忘れない。主の救いの恵みに応え、自分をささげていきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-07-31 06:00:00 (470 ヒット)

「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(18節)。神様を見た者はだれもいません。しかし、神様は御自身の独り子であるイエス様によって神様を示されました。私たちは人々に神様をお伝えする時、どうするかというと、イエス・キリストをお伝えするのです。私たちの日々の生活は悩み苦しみの毎日です。しかし、14節には「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とあります。イエス様は人となって来られ、私たちの間に宿られた。この「宿られた」というのは、幕屋を張るということ、テント暮らしをされた、ということです。私たちのためにこの世に旅人として、寄留者としてお出でになったということです。そして、私たちの様々な人生の重荷、悩みをすべて知られ、共に担っておられるのです。そのような神様が私たちの神様です。そのような神様だから、私たちは苦しみ、悩みの中にあっても、慰めを受け、立つことができるのです。どうか、これからも私たちの間に宿られたイエス様と共に歩んでまいりましょう。このイエス様をお伝えしましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-07-24 06:00:00 (650 ヒット)

レビ記19章18節に「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」とあります。愛するということ、それは甘やかすというのとは違います。よく言われることですが、神様の愛と義は表裏一体です。間違っていても、過ちを犯しても、いいよ、いいよ、というものではありません。罪は厳しく問われ、戒められなければなりません。愛するとは、罪を放置することではありません。愛するとは、人を罪から救い出すことです。そのために私たちは時に戒め合わなければならないこともあります。そのようなことを知る時、イエス様がその私たちの罪をすべて負ってくださり、身代わりとなって裁きを受けられ、死なれたこと、そのようにして、私たちを罪から救い出してくださったこと。この出来事がどんなに大きなことであるかを知るのではないでしょうか。聖書は神様があなたに語られている言葉です。そして、イエス・キリストの十字架はあなたのためになさった神様の救いのみわざです。あなたに語られている御言葉、あなたのための十字架、そのことをいつも心に留めて、私たちの日々の生活が神様の救いの恵みに対する感謝の応答でありますように。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-07-17 06:00:00 (610 ヒット)

パウロはこう記しました。「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」。自分の弱さを誇る。それは自分の弱さの中で生きて働く神様の力を誇るということです。神様御自身を誇る。コリントの教会の中には、何か特別な聖霊体験をした人たちがそれを誇るようなことがあったようです。それも、神様を誇るのではなく、そのような体験をした自分を誇ったようです。しかし、パウロがこの箇所で示したかったこと、誇りとしたこと、それは病の中で、弱さの中で生きて働く神様の力でした。私たちは人間的な基準で、幸か不幸か、ということを考え、神様の恵みさえも、そういったことから考えることがあるかもしれません。しかし、人間の目には不幸と思える、つらい苦しみの中にあって、弱さの中にあっても、神様の恵み、祝福は変わることがないことをパウロは身を持って示され、そのことを人々に分かち合ったのです。私たちも弱さをおぼえる時、そこにも神様は共におられ、御自身を示される。私たちは互いにこのことを信じて、励まし合い、弱さの中で生きて働かれる主を誇りとしていこうではありませんか。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-07-10 06:00:00 (663 ヒット)

6節以下は献金について、種蒔きになぞらえて記しています。「惜しまず豊かに」(6節)というのは、「好意に満ちて」「喜んで」という意味です。そういうことから言いますと、ささげる態度、姿勢ということが言われていることが分かります。このようなことを言いますと、少しでも、喜んでささげればいいんだ、ということを言う人がいるかもしれません。それは確かにその通りですが、本当に信仰の喜びに満たされたら、少しでもいい、と思えなくなってきます。もっともっとささげたい、という思いが与えられます。家族のこととか、愛している人、気にかけていること、関心のあることなどに対しては、私たちはそれこそ、惜しみなく、何でもしたくなりますが、それと同じようにささげる心が与えられていきます。私たちは神様が私たちに対して、どのような目で見ておられるか、どんなに愛しておられるか、そのことをもっともっと知っていきたいと思います。そして、私たちもまた、神様を愛し、教会を愛する者となっていきたいと思います。その時、私たちのささげもの、ささげる心は変わっていくのです。神様に愛された喜びがあふれてのささげものとなっていくのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-07-03 06:00:00 (511 ヒット)

マケドニアの諸教会はパウロたちの期待以上の献げものを行った、ということです。この5節の「わたしたちの期待以上に」と記されている言葉ですが、ある訳ではこのように記されていました。「私たちが期待したようにではなく、むしろ神の意志(おもい)に従って」(岩波訳)。私たちの期待。私たちは相手に対して、何らかの期待をすることがあります。クリスチャン同士でもそのようなことがあります。特に私たちは若いクリスチャンに対して、こうあってほしい、こういうふうに成長してほしい。そんな期待を寄せることがあります。でも、それは私たちの枠の中に相手を押し込めるようなものです。むしろ、私たちを超えて、私たちが期待したようにではなく、神様がその人をどう取り扱われ、導かれるか。そこに期待していくべきではないでしょうか。これは教会でも言えますし、人を育てる、子供を育てる場合でも、考えられることではないでしょうか。「私たちが期待したようにではなく、むしろ神の意志(おもい)に従って」。神様の思い、ご計画、導きに従って、期待していく者でありたいと思うのです。マケドニア州の諸教会はパウロの考え、思いをはるかに超えて、主のために用いられていきました。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-06-26 06:00:00 (517 ヒット)

パウロはコリントの教会の人たちに対して心を開きました。ところで、この「心を開く」という言葉ですが、ここで言われている意味は「自分の心の中に相手の居場所を設ける」ということです。ですから、心を開くというのは、自分が相手を受け入れるということになります。自分が相手を受け入れる。私たちはより多くの人たちと良い人間関係を結びたいと願う。それは自分がその相手に心を開く。まず、自分がその相手を受け入れるということです。その時、相手も、自分が受け入れられていることを知り、心を開く、互いに受け入れ合うことになっていくのです。パウロはコリントの教会と良い関係ではありませんでした。しかし、そういうコリントの教会に対して、ひたすら、責め続け、裁き続けたのではなくて、私はあなたがたに心を開いた。私はあなたがたを受け入れた。そのように語っているのです。私たちが教会の兄弟姉妹との関係、また、家族との関係、あらゆる人間関係においても、このパウロの人々に対する態度、あり方に倣っていきたいと思います。まず、自分が相手に対して心を開く。まず、自分が相手を受け入れる。これはパウロの生き方であり、また、パウロの信じる主イエスの示された生き方ではないでしょうか。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-06-19 06:00:00 (564 ヒット)

「わたしたちは生ける神の神殿」(16節)。このように聖書は記します。生ける神の神殿である私たち。この生ける神の神殿ということから、二つのことをおぼえたいと思います。一つは神様は私たちの中に、私たちの心のうちに生きて働いておられるということです。生きて働いておられる神様がいつも私たちと共に歩んでくださっている。このことを信頼して、期待していくことです。もう一つは私たちの信仰が生きた信仰であるように、ということです。私たちの信仰が生きた信仰であるように。与えられた信仰を働かせるということです。私たちはイエス様を信じています。イエス様を愛しています。人々はその信じている証し、愛している証しが知りたいのです。これは夫婦の関係、親子の関係でも、言うことができます。あなたが大事に思っている、愛している家族。それはただ思っているというだけ、口だけということではないと思います。お互いの生き方の中で、そのことは表されていくのではないでしょうか。神様との関係も同じです。神様を信じている、愛している、第一にしている。そのことを私たちはその生き方において表していく。それが最も良い証しとなり、伝道となります。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-06-12 06:00:00 (616 ヒット)

神様の協力者である私たちは神様からいただいた恵みを無駄にしてはいけない、と言われています。神様の恵みを無駄にする。口語訳では「神の恵みをいたずらに受けてはならない」とありました。神様の恵みをいたずらに受けてはなりません。神様の恵みを私たちはいつ、どうやって、受けるのでしょうか。毎週、礼拝を休まないようにする。毎日、聖書を読み、祈る。人助けや善行を行う。そうすると、神様の恵みを受けることができるのでしょうか?いいえ、そうではありません。神様の恵みを私たちはもうすでに受けているのです。神様の恵みを無駄にする、いたずらに受けるとはどういうことでしょうか。それは神様の恵み、この救いを私たちはすでに受けているのに、これを伝えない、忘れたかのようにして生きることです。イエス様がこの私のために十字架にかかって死んでくださった。このイエス様のおかげで私は救われた。この喜びを伝えない。あるいはこの喜びを忘れたかのようにして、当たり前のようにして生きている。それが神様の恵みを無駄にしている、いたずらに受けるということです。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」とパウロは記します。私の恵みの時、救いの日はいつだろうか?イエス・キリストを信じ受け入れたなら、今がその時、その日なのです。すべての人に神様の恵みが与えられている。すべての人が救いに招かれているそのことを信じて主を伝えていきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-06-05 06:00:00 (504 ヒット)

「わたしたちは、神にはありのままに知られています」(11節)とありました。ありのままに知られている。すべてを知られている。そうであるのに、私たちは自分のありのままを隠そう、隠そうと一生懸命になっているのではないでしょうか。それはただ外見、外面的なことだけではありません。信仰すらも、自分のありのままの姿を隠すための道具としてしまうことがある。私はこんなにたくさん奉仕をしました。私はこれだけ聖書の知識があります。そうやって、まわりに自分の信仰を誇る。でも、信仰はそういうものではないと思います。信仰とは、まさにありのままの、裸の自分が神様の前に出ることではないでしょうか。自分の罪も、弱さも、すべて、神様の前に明らかにする。どうしたって、神様の前には何も隠すことはできないのです。人には隠せたとしても、神様の前には隠すことはできないのです。パウロはこのようにも記しました。「わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います」。真実に生きようとするパウロの姿をここに見ます。ありのままの私。それは神様の前に罪深い私です。けれども、神様に愛され、赦された私です。そのことを知る時、私たちは立って行けるのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-05-29 06:00:00 (551 ヒット)

今、私たちのこの世での、地上での生活、歩みはここに記されていますように、「この地上の幕屋にあって苦しみもだえています」(5章2節)、「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいております」(5章4節)。苦しみもだえている私たちであり、重荷を負ってうめいている私たちです。そういう私たちですが、天から与えられる永遠の住みかに目を注いで生きるのです。キリストを信じる私たち、しかし、苦しみの中に生きる私たちに聖書は慰めの言葉を語ります。「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(フィリピ1章29節)。苦しみについて、パウロはこう言います。キリストのための苦しみだと。しかも、それは恵みとして与えられているというのです。私たちはキリストを知らない時代、信仰に生きる以前は苦しみというのは不幸のしるしと考えていたかもしれません。しかし、聖書は語るのです。キリストのための苦しみ、それは恵みとして与えられているのだと。苦しみ、それは不幸のしるしではありません。キリストが共におられるしるしと言って良いのではないでしょうか。キリストの苦しみ、主の十字架の歩みに私たちもあずからせていただいていることではないでしょうか。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-05-22 06:00:00 (534 ヒット)

使徒パウロは私たち人間のことを「土の器」と言いました。土の器、それはもろく、壊れやすいものです。私たちの体も、心も、もろく、壊れやすいものです。しかし、その中に宝がある。イエス・キリストという宝があるのです。土の器である私たち、イエスは主であると信じる私たちの生き方について、この箇所(二コリント4章10〜12節)は示します。この箇所に「死」という言葉が繰り返されています。実は土の器である私たち、イエスを主と信じる者の人生というのは、死ぬということなのです。主イエスのために死ぬ。イエス様は御自分の弟子たちにある時、このようなことを言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」(マタイ16章24、25節)。主イエスのために死ぬ。それはこのイエス様の言葉で言うならば、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」ということです。主イエスのために死ぬとは、自分に死ぬということ。そして、主の十字架を負う、主に従うということなのです。そして、「わたしのために命を失う者は、それを得る」。主のために自分をささげる者は命を得る。ここで言う命とは、永遠の命のことです。主イエスのために死ぬ時、私たちは本当に生きる。永遠の命に、イエスの命に生きる者とされるのです。


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