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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-03-18 06:00:00 (469 ヒット)

主の故郷ナザレ、そこでは主は大工、マリアの息子と呼ばれ、主を求める者はほとんどいなかった。この箇所(マルコ6章1〜6節)は不信仰なナザレの町を驚き、みわざをなさらなかった、という箇所と言えますが、しかし、5節にこのようなことが記されています。「ごくわずかの病人に手を置いていやされた」。この少数の人たち、この人たちは病にあって、主に出会って、何とか、私たちを助けてください、と呼び求めたのかもしれません。主はそのごくわずかの、少数の信仰をかえりみてくださったことに私たちは注意しなければならないと思います。新年度に向かって、教会は多くの救われる魂が起こされるように、多くの方々が礼拝に集うように、と祈り、目標を立てていきますが、このごくわずかな信仰、少数の信仰ということも忘れてはなりません。私たちは百名、二百名と多くの人たちの救いや礼拝出席を願うあまり、一人の信仰、一人の信仰決心を喜ぶことをしないというようなことがあってはならないと思います。一人の信仰を喜ばれる主を見習い、私たちも一人の救い、一人の信仰の決心を大切にしていきたいと思うのです。そしてそこから、主の大いなるみわざが起こってくるのではないでしょうか。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-03-11 06:00:00 (474 ヒット)

クリスチャン、キリスト者とはいったい何でしょうか。一言でいうならば、赦された罪人だと思います。世の光であるイエス様の光、御言葉の光に照らされる時、私たちは神様の前に一人の罪人に過ぎないことを知らされるのです。でも、私たちは神様によって赦しをいただいた者なのです。主の晩餐が行われますが、これはイエス様の救いをおぼえて行う式です。イエス様の救いとは何でしょうか。イエス様が私たちの罪の身代わりになって十字架にかかって死んでくださったこと。すなわち、イエス様の救い、赦しというのは、イエス様が御自分の命を献げてまでして行ってくださったことです。そこまでして私たちを赦し、救いへと導いてくださったことを私たちは忘れないでいたいと思います。イエス様の十字架の救い、赦し。そのことを見つめて、見上げて生きていきたいと思います。私はイエス様に赦していただいた。そして、あの人も、この人も、イエス様に赦された者。そのことを知る時、私たちの人々との関わりも変わってくるのではないでしょうか。もっともっと、人々にイエス様を伝えたい、もっともっと、人々を愛そうとする者に私たち自身が変えられていくのではないでしょうか。イエス様の十字架の愛こそは私たちを造り変え、新しい創造のわざを行ってくださるのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-03-04 06:00:00 (514 ヒット)

イエス様の「わたしもあなたを罪に定めない」(11節)。この言葉は今も、私たち一人一人に向けられています。私たちはイエス様の赦しをいただいて、本当に感謝です。イエス様に感謝して新しい人生を一歩一歩、歩んでいきたいと思います。けれども、私たちはそのように思い、決心もするのですが、何度も何度も、繰り返し、罪を犯してしまう、人を愛さない、赦さない、そういうことの繰り返しです。私はそういう自分に自己嫌悪してしまうのですが、一つの聖書の言葉を思い起こし、慰めを受けました。マタイによる福音書18章21、22節です。ペトロがこの赦しの問いをイエス様にする時、ペトロは自分が人を赦す立場にいました。裁く立場にいた、と言っても良いでしょう。イエス様は七回の七十倍赦すように、と言われました。それはどこまでも赦しなさい、ということです。そして、一つのたとえ話を語られるわけですが、そこでイエス様がペトロに伝えたかったことはあなたが神様に七回の七十倍、つまり、どこまでも赦されている者ですよ、ということでした。私たちは主の赦しを知っていながら、それでもなお、日々、罪を犯して生きている。神様に赦されているのに、人を赦さないで生きている。そんな私たちのためにイエス様は七回の七十倍、どこまでも、私たちを赦しておられる。十字架におかかりになって、命を献げてまでして、私たちを赦しておられる。イエス様のこの赦しを忘れないでいたい、赦された者であることを忘れないでいたい。新しく生きるというのは、このことを日々、心に刻み続けながら生きることなのだろうと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-02-26 06:00:00 (594 ヒット)

私たちは生まれて、これまで、自分の力だけで生きてきたでしょうか。人の世話になったこともないでしょうか。まったくそうではありません。生まれてすぐ、病院の方々、家族の人たちに支えられ、助けられてきました。私たちを育ててくれた人たちがいました。そう考えると、どれだけのものを受けてきたでしょうか。そして、いっぱいに愛を受けてきたから、その感謝と喜びから、私たちは人にも何かしてあげたい、と与える生き方へと向かわされていくのではないでしょうか。繰り返しますが、私たちは神様の愛と恵みを受けてきた者であり、様々な人たちの支え、助けを受けてきた者です。その私たちが与える者として生きるというのは、それは受けたことの感謝、喜びを表すということではないでしょうか。私は本当に幸せな人生というのは、感謝の心をもって生きる人生のことだと思います。「ありがとう」と言える人生のことだと思います。神様にありがとう、人にもありがとう、と言える人生のことだと思います。今月はスチュワードシップ強調月間ですが、私たちが神様のために働くということも、神様へのありがとうということから行われるものだと思います。神様へのありがとう、その心、思いから、伝道をする、奉仕をする、献金をささげるのです。ありがとうの人生、ありがとうの信仰を歩みましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-02-19 06:00:00 (535 ヒット)

イエス様という大祭司、この方はどんなに素晴らしい方なのでしょうか。それは私たちの弱さに同情され、知っておられる方ということです。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」。イエス様は私たちの弱さに同情できない方ではない、とあります。なぜ、そのようなことが言えるのでしょうか。「罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」とあります。イエス様はあらゆる点において、私たちと同じように試練に遭われた、というのです。ところで、ここに「同情できない方ではなく」とありましたが、別の日本語訳を見てみますと、「共に苦しむことのできない方ではなく」(岩波版・小林稔訳)となっています。イエス様は私たちと共に苦しんでくださるというのです。だから、私たちが苦しみにある時、それはイエス様も一緒に苦しんでおられるというのです。私たちの苦しみは自分だけの苦しみなのではありません。だれも分かってくれない、と思うことがあります。でも、イエス様は知っておられる、分かっておられるのです。そのイエス様に慰めをいただいて、励ましをいただいて、私たちは苦しいこと、辛いこともありますが、歩んでいきましょう、生きていきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-02-12 06:00:00 (491 ヒット)

イエス様は人々に教えられました。何を教えられたでしょうか、何を伝えられたでしょうか。それは「わたしをお遣わしになった方の教え」(16節)、つまり、イエス様を世にお遣わしになった方、父なる神様の教えでした。このようなことを語られることによって、イエス様は私たちに対して、あなたは何を人々に伝えますか、と問われているのではないでしょうか。私たちが伝えるべき教え、それはイエス様を、そして、私たちをお遣わしになった方、神様の教え、神様の言葉です。イエス様は「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである」(16節)と言われました。この言葉から、イエス様の教えは神様の教えとまったく同じであることが示されます。私たちは本当に神様の語られていることを正しく理解し、受け止めて、それを人々に語っているだろうか、伝えているだろうか。そのことを自問自答させられます。イエス様が一人、静まって祈られたことが聖書の中に記されています。それはイエス様のこの世における歩みは深い祈りの生活であったことを示していると思います。神様に祈り、神様の言葉に耳を傾ける生活。そこから、みわざを行っていったのではないでしょうか。私たちもまた、イエス様に倣って、祈りを大切にし、神様の言葉を聴くことを大切していきたいと思います。そして、祈りと御言葉から、すべてのことを行う者でありたいと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-02-05 06:00:00 (567 ヒット)

ヘブライ人への手紙4章13節の言葉は最後の審判を彷彿させる言葉です。「この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません」。岩波書店版(小林稔訳)では「私たちはその前で総決算しなければならない」とあります。この「自分のことを申し述べねばなりません」という言葉は弁明とか、答弁、勘定といった意味があります。終わりの日、私たちは神様の前に言い開きをしなければならない、総決算しなければならない。そう考えると恐ろしい気がしますが、ある牧師先生がそのことに関してお話された言葉を思い出します。それは主の審きというものは大変厳しいものである。私たちの隠された罪もすべて明らかにされる時である。しかし、それと同時にそのような私たちに与えられた罪の赦しがどんなに素晴らしいものであるかも知らされる時である。私たちがそのことゆえに審きに耐えうる者とされたことを知らされる恵みと感謝の時である。だから、そのことを希望として、主を信じ続けよう、というメッセージでした。審きの厳しさと共に赦しの恵みを知らされる。それが私たち主の救いを信じる者の希望。この希望があるから、私たちは今、喜んで、主を信じ、主に従うことができるのではないでしょうか。私たちは最後まで、終わりの日まで、主を信じ続ける、主に従い続ける者でありたいと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-01-29 06:00:00 (671 ヒット)

ギデオンを選んだ神様、そして、ギデオン率いるイスラエルの民を選んだ神様。その選びですが、能力とか、腕力とか、知力とか、そういったことで選ばれたのではありませんでした。ただ一つ、選びに際して、問題にされていること、問われていることは「私があなたと共にいる」、このことを信じているか、神様を信頼しているか、ということでした。神様はギデオンに、そして、イスラエルの民に求められたように、私たちにも御自身を信頼して生きることを願っておられるのではないでしょうか。私があなたと共にいる。だから、あなたは私を信頼して、私と共に歩んでいきましょう。それが神様の選びなのです。ですから、私たちは自分が神様に選ばれているかどうか、そのことを問うたり、思いめぐらしたりする必要はないのです。大切なことは神様が共にいることを信じて歩んでいくということです。神様が共にいることを信じて歩む。それは神様がいることを知っている、それだけのことではなく、神様との関係に生きる、神様との交わりに生きるということであり、神様の言葉を聴き、それに従って生きるということです。神様が私たちを通して、私たちを用いて、御自身のみわざを表されるように願い、祈りつつ歩んでまいりましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-01-22 06:00:00 (553 ヒット)

「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」(68、69節)。主の問いかけに対して、ペトロは見事な信仰告白をしています。ところが、主はこれに対して、このように言われました。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか」(70節)。主体的信仰は大事なことです。けれども、主はそれに先立って、神様の選びがあったことを示しておられます。私の決心は大事なことですが、それを導いたのは、実は神様であった。神様の選びが先立ってあったから、私たちは信仰告白、信仰の決心をすることができたのです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」(15章16節)。私の信仰決心、信仰告白。それに先立つ神様の選び。神様からの招き、呼びかけがあっての私。そのことを私たちは忘れてはならないのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-01-15 06:00:00 (468 ヒット)

世にある様々なもの、それは確かに素晴らしいものもあります。良いと思えるものもあります。世の中にあるもの、すべてを否定する。そのようなことがここには言われているのではないと思います。ただ私たちはそれらを偶像化してしまう。もっと言いますと、神のようにしてしまうこと。人気の芸能人のことをアイドルと言います。あのアイドルという言葉は英語で偶像という意味だと聞いたことがあります。私たちはいろいろなものを偶像化してしまう。人生において、第一のものとしてしまう。ある人は自分の社会的地位、経歴、ある人は家、ある人はお金、そして、ある人は家族。もちろん、それらは大切にするべきものです。神様が与えてくださったものであり、それゆえに大切にすべきです。しかし、それらのものが神様よりも第一となってしまう。それが神様以外のものにひれ伏すということです。イエス様はこのように言われました。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある」。神様を礼拝すること、神様を第一とすることが何よりも優先されなければならない。私たちに与えられた人生、それは神様を礼拝する人生、神様の言葉に生きる人生。そして、そこにこそ、本当の祝福がある。この新しい一年がみなさん一人一人にとって祝福の一年でありますように心よりお祈りいたします。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-01-08 06:00:00 (528 ヒット)

マタイによる福音書3章13〜17節には主イエスがバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになることが記されています。ヨハネは救い主のことを知っていましたから、最初は拒みましたが、「正しいことをすべて行うことは、我々にふさわしいことです」(15節)という主の言葉を受け止め、バプテスマを授けます。バプテスマを受けたイエス様。主が神の子、救い主であることは二つの出来事で示されています。一つが神の霊、聖霊がイエス様に降ったということです(16節)。もう一つが天の声があったということです(17節)。「そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」。天の声、それは神様の声だと思います。神様はイエス様のことを私の愛する子であると言われ、私の心に適う者とも言われました。「わたしの心に適う者」、これは直訳しますと、「私は彼を喜んだ」という言葉になります。イエス様こそは、神様の愛されている、喜びの子です。そして、主は私たちにもこのことを伝えたいのです。あなたがたは神様に愛されている、神様に喜ばれた者。神様の子供!そのことを伝えるために主はおいでになったのです。どうか、このメッセージが私たちに与えられていることをおぼえ、私たちもこれを人々に伝えていきましょう。あなたは神様に愛されている、喜ばれている!


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-01-01 06:00:00 (525 ヒット)

新年あけましておめでとうございます。2012年を迎えました。新しい一年、みなさんはどのような抱負や計画を持っておられるでしょうか。昨年最後の礼拝は12月25日でクリスマス礼拝でした。その日の説教で語ったこと、それは幼子イエスに出会った占星術の学者たちはその後、どうなったか・・・。マタイによる福音書2章12節にはこのようなことが記されていました。「ところが、『ヘロデのところへ帰るな』と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」。別の道を通ったことが記されているのは興味深いことです。別の道、それはつまり、占星術の学者たちは今までとは別の道を通ったということです。今までの道、人生、それは私を人生の王、主とする人生でした。しかし、彼らは「宝の箱を開けて」(11節)、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ」(ローマ12章1節)たのです。今までとは別の道、別の人生。イエス・キリストを人生の王とする、主とする人生を歩み始めたのです。私たちの人生の道はどのようなものでしょうか。だれを人生の王、主としているでしょうか。ある方はこう言われました。「私たちの新年はクリスマスから始まる。キリストを受け入れた時から始まる」。新年を迎えた私たちですが、あの占星術の学者たちと同じく、この新しい年も別の道、すなわち、キリストを王とし、主とする道を歩んでいこうではありませんか。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-12-25 06:00:00 (452 ヒット)

マリアが身ごもったことを知ったヨセフ。しかし、それが「聖霊によって」の出来事であることは知りませんでした。悩めるヨセフ。そこに主の天使が告げます。「マリアの胎の子は聖霊によって宿った」(20節)と。そして、天使は神の言葉への従順を求めました。天使を通して聴いた神様の言葉に対して、ヨセフはどうしたでしょうか。「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた」(24、25節)。ヨセフはすぐに聴いた言葉に従いました。これがヨセフの信仰です。ヨセフはマリアのことで思い悩みました。しかし、神の言葉を聴いた時、彼はその思い悩みを捨てて、神様に従っていきました。私たちの人生においても様々なことがあります。そして、悩みます。悩むことは大切です。けれども、悩むこと、それ自体が私たちの目的ではありません。悩みの先、思い煩いの向こうにある神様の言葉、神様の救い、そこに私たちは向かっていくのです。ヨセフは思い悩むことを止めて、神様の言葉に信頼し、神様の言葉に人生を懸けていきました。私たちも神様の言葉に信頼し、自分の人生を懸けていこうではありませんか。その時、インマヌエル、神は我々と共におられる。そのことを私たちの日々の生活、人生において知らされていくのではないでしょうか。インマヌエルの主と共に歩んでいきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-12-18 06:00:00 (444 ヒット)

悪霊に取りつかれていた人、この人がイエス様と一緒に行きたいと願いました(17節)。それは救いの喜びからでしょうか。もしかして、そうではなかったかもしれません。それはイエス様のそれに対する態度、言葉から想像できます。イエス様は御自分と一緒に行くことを許しませんでした。そして、自分の家に帰るように言われました。この人はこれまで、自分がどのように生きてきたかを思い返すと、この地に留まることは居心地の悪いことだったかもしれません。ここから離れてしまいたい。逃げるようにして、イエス様と一緒に旅をしたかったのかもしれません。しかし、イエス様はそれを許さなかった。そして、自分の家に帰り、自分の家族に主の救いのみわざを伝えることを語られました。居心地が悪いから逃げる。そうではなくて、自分の家に帰り、自分の家族との関係に生きる。関係の回復をする。そして、自分の家族に主を伝えることを導かれました。主は彼を御自分の旅に同行させることはしませんでしたが、主と離れていても、しかし、自分の家族のただ中で、自分の居心地が悪いと思えるその中にあっても、主がおられる。どこにあっても、主が共におられる。その信仰に生きることを求められたのではないでしょうか。それが彼の新しい人生の出発だったのではないでしょうか。インマヌエル、主が共におられる(マタイ1章23節)。私たちもこの信仰に生きることを導かれているのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2011-12-11 06:00:00 (633 ヒット)

「夜は更け」とあります。夜というのは、暗い、希望のない、そのような世の中、時代を指します。世の中はますます暗闇へと向かっていくのではないか。悪い方へと向かっていくのではないか。そう思わざるを得ない出来事も次から次へと起こっています。しかし、私たちは「夜は更け、日は近づいた」。救いは近づいた。イエス様が再び来られるその日は近い。このことを信じて、希望を持って生きるのです。世の中の出来事だけを見ていくならば、闇から闇と思える時代です。けれども、私たちは神様の救いの出来事からすべてを見ていく。そうするならば、闇の中に光がある。夜は更け、日は近づいている。その希望を持って生きるのです。イエス様はこのように言われました。「あなたがたは世の光である」(マタイ5章14節)。つまり、イエスを救い主と信じる者は世の光なのです。希望は、光はどこにあるのか、と問う必要はないのです。私たち自身が世の光です。もっと厳密に言うと、私たちが光そのものではなくて、私たちはイエス様という光を照らす存在と言えると思います。その光は小さな光かもしれません。でも、その光は闇を照らすのです。人々に希望を与え、命を与えるのです。私たちは小さな者です。しかし、イエス・キリストという光を人々に伝えるように私たちは召され、用いられていることをおぼえたいと思うのです。


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