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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-05-20 06:00:00 (457 ヒット)

主はラザロの葬られている墓の前でそこにいる人たちに石を取りのけるように言われました。それは私たち人間を生と死で隔てる壁を取りのけるように、ということです。私たちは死の前には無力です。何をすることもできません。しかし、主はそれを取りのけよ、と言われました。その隔ての壁を取りのける方がおられること、その方を信じるように。主はそのように言われた。信仰を求められたのではないでしょうか。主は墓の前で憤られました。それは死の力に対する憤り、怒りであり、そして、主が死と闘われた、ということです。そして、主は死に打ち勝たれたのです。そのことを私たちは主の十字架と復活の出来事から知るのです。死に打ち勝たれた方は死んだラザロをお呼びになります。「ラザロ、出て来なさい」。主がお呼びになった時、何が起きたでしょうか。「死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた」とあります。死んでいたラザロが出て来たのです。ラザロはよみがえったのです。私たちは主に呼びかけられ、主に招かれ、それによって生きるのです。死んでいた者が生きるのです。主の声に応えていく時、生きる者に、永遠の命に生きる者とされるのです。今、主は私たちにも呼びかけられます、招かれます。あなたの名前を呼び、出て来なさい、と言われます。私たちもまた、この呼びかけに応えて行こうではありませんか。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-05-13 06:00:00 (503 ヒット)

ベタニア村のマリアとマルタは自分の兄弟ラザロが病気であることをいち早く、イエス様に伝えたかったようです。そこで二人は人をやって、ラザロのことを伝えます。「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」(3節)。マルタとマリアはラザロのことをこのように言わせています。「あなたの愛しておられる者」。これはマルタとマリアの確信です。二人はラザロが主に愛されている者という確信を持っていました。そればかりか、おそらく、二人は自分たちもまた、主に愛されている私という確信を持っていたのではないでしょうか。私たちはどうでしょうか。私は主に愛されている者、主に愛されている私、この確信を持っているでしょうか。クリスチャン、キリスト者、それはイエス・キリストの十字架と復活の救いを信じる者です。この救いを信じるというのは、主がこの私のために命をささげてくださった、すなわち、主が命をかけて私を愛してくださった、ということです。そうであるならば、私たちも主に愛されている者です。私は主によって救われた、主に愛されている、この確信は持つべきものなのです。そして、このことを信じる私たちは人々にも告げ知らせるのです。「あなたは主に愛された者」と。互いが主に愛された者であることを知り、分かち合う。それこそが福音宣教なのではないでしょうか。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-05-06 06:00:00 (456 ヒット)

良い羊飼い、それは自分の羊を知っている。羊もまた、羊飼いを知っている。イエス様と私たちの関係がこのような関係だというのです。イエス様は私たちを知っているのです。そして、私たちもイエス様を知っている・・・。しかし、どうでしょうか、確かにイエス様は私たちのことを知っておられるのだろうけども、果たして、私たちはイエス様を知っているでしょうか。イエス様が救い主であること、神様であること、愛の方であることは知っている。でも、イエス様のことをどれほど、知っているでしょうか。私たちが互いに親しい関係にある方とのことを考えてみると、自分の連れ合いのこと、家族のこと、友人のこと、どこまで知っているでしょうか。知らないこともたくさんあるのではないでしょうか。でも、親しい関係とは、愛の関係とは、知ろうと努める関係と言えるのではないでしょうか。私たちは神様が私のことを知っているほどには神様のことを知らないかもしれない。でも、知ろうと努めるのです。神様の心、思い、それを知ろうと努めるのです。私たちが聖書を読むというのは、それが目的です。自分の生き方に何か、利益をもたらすため、それだけが目的ならば、本当には聖書は理解できないと思います。神様の心、思いを知ろうと努める。そして、その心、思いに応えて生きようとする。それが神様を信じる、イエス様を信じて生きるということではないでしょうか。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-04-29 06:00:00 (569 ヒット)

「霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか」(9節)。霊の父である神様が私たちを鍛錬させる意味、目的は10節に示されています。「わたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられる」とありました。それは私たちの側からしますと、罪と戦うとか、信仰の鍛錬というのは、「霊の父に服従して生きる」、つまり、神様に従って生きるためのことなのです。私たちは戦いや訓練が目的ではありません。主に従い生きるために、それに伴って、戦わなければならないことがあるし、訓練を受けるのです。しかし、目的は主に従い生きることです。9節は口語訳ではこのように記されています。「わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか」。この言葉が表しているように、主に従い生きるとは、神様の前に真に生きるということです。いろいろな生き方がありますが、神様が私たちに求められる生き方、それは真に生きる。神様の真理、真実を求めて生きること。そして、それこそが本当に実を結ぶ人生、良き人生ではないでしょうか。このような人生を新たに生きる方がありますように心から願います。そして、そのような人生を導かれる方、主イエスをこれからもお伝えしていきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-04-22 06:00:00 (451 ヒット)

私たちは聖書から神様から愛されていること、そして、私たちお互いが愛し合うことを教えられます。しかしどうでしょうか、神様を愛するということ、このことについてはあまり、意識していない、無関心ということはないでしょうか。聖書は分厚い書物で、ここにたくさんの言葉が記されています。けれども、その中の中心は何か、そのことを読み落とすようなことがあってはなりません。イエス様はある時、聖書の中心的教えを旧約聖書から示されました。「 『先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。』イエスは言われた。『「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な第一の掟である。22:39 第二も、これと同じように重要である。「隣人を自分のように愛しなさい。」律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている』」(マタイ22章36〜40節)。律法の中で最も重要なもの、それは二つ、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」ということと「隣人を自分のように愛しなさい」ということです。第一の掟として言われたのは、「あなたの神である主を愛しなさい」ということでした。神様を愛する。ヨハネの手紙一5章3節には「神を愛するとは、神の掟を守ることです」とあります。神様を愛する。それは神様の言葉を聴いて生きることです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-04-15 06:00:00 (430 ヒット)

空の墓、それを見たもう一人の弟子のことがこのように記されています。「それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた」(20章8節)。私はこの後の20章9節の言葉から考えると、主が墓の中にはいなかったこと、主が取り去られたこと、そのことを信じた、ということだと思っていました。でも、改めてお読みしますと、そういうことではないように思えます。もう一人の弟子は空の墓を見て、信じたのです。主が復活されたことを信じたのです。この後の20章9節には「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」とあります。私はもう一人の弟子が主の復活を信じたこと、そして、しかし、この時、まだ聖書の言葉を理解していなかった、ということから、信仰というのは、復活を信じるということは、神様が与えてくださるものなのだ、ということを強く思わされました。私たちが聖書を深く理解したから、聖書の言葉をよく知っているから、復活を、主の救いを信じることができるかというと、そうではないと思うのです。まず、神様御自身が私たちに信仰を与えてくださる、信じる心を与えてくださるのです。私はまだ、教会に来たばかりだから。聖書の言葉もよく知らないから。そう考えて、信仰に入ること、バプテスマを受けることはできないと思われる方があるかもしれませんが、信仰は神様が与えてくださるものです。そして、信仰をもって聖書を読む時、そこで初めて、聖書を理解することができるのではないでしょうか。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-04-08 06:00:00 (443 ヒット)

過越祭に来ていたギリシア人たちはフィリポにイエス様にお会いできるように、と願いました。すると、フィリポはどうしたでしょうか。「フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した」(22節)。フィリポはアンデレと話をし、二人でイエス様のところに行って、その件を話した、ということです。フィリポはイエス様と出会い、友人ナタナエルを導きました。このアンデレもイエス様と出会い、その後、アンデレは自分の兄弟であるシモン・ペトロをイエス様へと導きました。友人を導いたフィリポ、兄弟を導いたアンデレ、この二人が一緒にイエス様のもとに行き、ギリシア人たちがあなたに会いたいと言っている、と伝えに行ったわけです。フィリポはアンデレと話した。これは小さな出来事ですが、伝道、福音宣教というものがどのようにして行われるかを示しているのではないでしょうか。それは一人で、独断で、独善で行うものではないのです。協力して行うものなのです。そして、フィリポとアンデレはギリシア人たちをイエス様のもとへと導く、引き継ぐ役割を担いました。私たちも同じです。伝道は協力して行うものであり、伝道はイエス様のもとへと導く、引き継ぐことです。福音宣教、伝道に励みましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-04-01 06:00:00 (520 ヒット)

ヨハネによる福音書9章6節以下、イエス様のいやしの出来事が記されています。ここで一つ興味深いのは、イエス様はこの目の見えない人の目に唾で土をこね、塗られ、その後、シロアムの池に行くように言われていることです。「イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た」(6、7節)。シロアムとは「遣わされた者」という意味です。生まれつき目の見えないこの人はイエス様の言われた通り、シロアムの池に行き、そこで目を洗ったところ、目が見えるようになったということです。そのことで人々の話題になります。8節以下で目の見えなかったこの人は以前、物乞いをしていた人と同一人物なのか、という問いに対して、「わたしがそうなのです」(9節)と答えています。さらに目が見えるようになったことについて尋ねられ、「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです」(11節)と答えています。このように、この人は人々に自分に起こった出来事、神様のみわざについて語る、伝える役割が与えられたことが示されています。これがシロアム、遣わされた者ということです。主にいやしていただいたこの人はこれから、神様のみわざを伝える者として歩んでいくのです。そして、これは私たちも同じです。イエス様の救いをいただいた私たちは人々に自分がイエス様に救われたことを伝えていくのです。それが遣わされた者の歩みです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-03-25 06:00:00 (500 ヒット)

迫害を受け、命を狙われ、逃げるエリヤ。そのエリヤの声に神様は耳を傾けてくださり、再び語られます(15〜18節)。15節には「行け、あなたの来た道を引き返し」とあり、最後の18節には「しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である」とあります。命からがら逃げ出してきたエリヤに向かって、その来た道を引き返すように、というのはエリヤにとって驚きだったと思います。時として、神様の思いは私たちとは異なるのです。その異なる神様の思い、御計画に私たちはよく耳を傾け、それに従っていかなければならないのです。「しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である」。エリヤの神様に対する率直な言葉(10、14節)、エリヤは「わたし一人だけが残り」という言葉を繰り返していました。エリヤは試練の中にあって、孤独感でいっぱいだったようです。しかし、神様は「イスラエルに七千人を残す」と言われました。あなたは一人ではない。信仰の友、同労者がいるではないか。そして、私が共にいる。これが神様のエリヤに対するメッセージです。私たちも一人ではないのです。主にある兄弟姉妹と共に主の教会を建て上げていく。主のみわざに励んでいくのです。2011年度の神様の私たちの教会に対する恵みを感謝しながら、2012年度も神様が私たちを導いてくださることを信じて、主の教会を建て上げていきましょう、主のみわざに励んでいきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-03-18 06:00:00 (476 ヒット)

主の故郷ナザレ、そこでは主は大工、マリアの息子と呼ばれ、主を求める者はほとんどいなかった。この箇所(マルコ6章1〜6節)は不信仰なナザレの町を驚き、みわざをなさらなかった、という箇所と言えますが、しかし、5節にこのようなことが記されています。「ごくわずかの病人に手を置いていやされた」。この少数の人たち、この人たちは病にあって、主に出会って、何とか、私たちを助けてください、と呼び求めたのかもしれません。主はそのごくわずかの、少数の信仰をかえりみてくださったことに私たちは注意しなければならないと思います。新年度に向かって、教会は多くの救われる魂が起こされるように、多くの方々が礼拝に集うように、と祈り、目標を立てていきますが、このごくわずかな信仰、少数の信仰ということも忘れてはなりません。私たちは百名、二百名と多くの人たちの救いや礼拝出席を願うあまり、一人の信仰、一人の信仰決心を喜ぶことをしないというようなことがあってはならないと思います。一人の信仰を喜ばれる主を見習い、私たちも一人の救い、一人の信仰の決心を大切にしていきたいと思うのです。そしてそこから、主の大いなるみわざが起こってくるのではないでしょうか。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-03-11 06:00:00 (480 ヒット)

クリスチャン、キリスト者とはいったい何でしょうか。一言でいうならば、赦された罪人だと思います。世の光であるイエス様の光、御言葉の光に照らされる時、私たちは神様の前に一人の罪人に過ぎないことを知らされるのです。でも、私たちは神様によって赦しをいただいた者なのです。主の晩餐が行われますが、これはイエス様の救いをおぼえて行う式です。イエス様の救いとは何でしょうか。イエス様が私たちの罪の身代わりになって十字架にかかって死んでくださったこと。すなわち、イエス様の救い、赦しというのは、イエス様が御自分の命を献げてまでして行ってくださったことです。そこまでして私たちを赦し、救いへと導いてくださったことを私たちは忘れないでいたいと思います。イエス様の十字架の救い、赦し。そのことを見つめて、見上げて生きていきたいと思います。私はイエス様に赦していただいた。そして、あの人も、この人も、イエス様に赦された者。そのことを知る時、私たちの人々との関わりも変わってくるのではないでしょうか。もっともっと、人々にイエス様を伝えたい、もっともっと、人々を愛そうとする者に私たち自身が変えられていくのではないでしょうか。イエス様の十字架の愛こそは私たちを造り変え、新しい創造のわざを行ってくださるのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-03-04 06:00:00 (549 ヒット)

イエス様の「わたしもあなたを罪に定めない」(11節)。この言葉は今も、私たち一人一人に向けられています。私たちはイエス様の赦しをいただいて、本当に感謝です。イエス様に感謝して新しい人生を一歩一歩、歩んでいきたいと思います。けれども、私たちはそのように思い、決心もするのですが、何度も何度も、繰り返し、罪を犯してしまう、人を愛さない、赦さない、そういうことの繰り返しです。私はそういう自分に自己嫌悪してしまうのですが、一つの聖書の言葉を思い起こし、慰めを受けました。マタイによる福音書18章21、22節です。ペトロがこの赦しの問いをイエス様にする時、ペトロは自分が人を赦す立場にいました。裁く立場にいた、と言っても良いでしょう。イエス様は七回の七十倍赦すように、と言われました。それはどこまでも赦しなさい、ということです。そして、一つのたとえ話を語られるわけですが、そこでイエス様がペトロに伝えたかったことはあなたが神様に七回の七十倍、つまり、どこまでも赦されている者ですよ、ということでした。私たちは主の赦しを知っていながら、それでもなお、日々、罪を犯して生きている。神様に赦されているのに、人を赦さないで生きている。そんな私たちのためにイエス様は七回の七十倍、どこまでも、私たちを赦しておられる。十字架におかかりになって、命を献げてまでして、私たちを赦しておられる。イエス様のこの赦しを忘れないでいたい、赦された者であることを忘れないでいたい。新しく生きるというのは、このことを日々、心に刻み続けながら生きることなのだろうと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-02-26 06:00:00 (601 ヒット)

私たちは生まれて、これまで、自分の力だけで生きてきたでしょうか。人の世話になったこともないでしょうか。まったくそうではありません。生まれてすぐ、病院の方々、家族の人たちに支えられ、助けられてきました。私たちを育ててくれた人たちがいました。そう考えると、どれだけのものを受けてきたでしょうか。そして、いっぱいに愛を受けてきたから、その感謝と喜びから、私たちは人にも何かしてあげたい、と与える生き方へと向かわされていくのではないでしょうか。繰り返しますが、私たちは神様の愛と恵みを受けてきた者であり、様々な人たちの支え、助けを受けてきた者です。その私たちが与える者として生きるというのは、それは受けたことの感謝、喜びを表すということではないでしょうか。私は本当に幸せな人生というのは、感謝の心をもって生きる人生のことだと思います。「ありがとう」と言える人生のことだと思います。神様にありがとう、人にもありがとう、と言える人生のことだと思います。今月はスチュワードシップ強調月間ですが、私たちが神様のために働くということも、神様へのありがとうということから行われるものだと思います。神様へのありがとう、その心、思いから、伝道をする、奉仕をする、献金をささげるのです。ありがとうの人生、ありがとうの信仰を歩みましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-02-19 06:00:00 (547 ヒット)

イエス様という大祭司、この方はどんなに素晴らしい方なのでしょうか。それは私たちの弱さに同情され、知っておられる方ということです。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」。イエス様は私たちの弱さに同情できない方ではない、とあります。なぜ、そのようなことが言えるのでしょうか。「罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」とあります。イエス様はあらゆる点において、私たちと同じように試練に遭われた、というのです。ところで、ここに「同情できない方ではなく」とありましたが、別の日本語訳を見てみますと、「共に苦しむことのできない方ではなく」(岩波版・小林稔訳)となっています。イエス様は私たちと共に苦しんでくださるというのです。だから、私たちが苦しみにある時、それはイエス様も一緒に苦しんでおられるというのです。私たちの苦しみは自分だけの苦しみなのではありません。だれも分かってくれない、と思うことがあります。でも、イエス様は知っておられる、分かっておられるのです。そのイエス様に慰めをいただいて、励ましをいただいて、私たちは苦しいこと、辛いこともありますが、歩んでいきましょう、生きていきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2012-02-12 06:00:00 (498 ヒット)

イエス様は人々に教えられました。何を教えられたでしょうか、何を伝えられたでしょうか。それは「わたしをお遣わしになった方の教え」(16節)、つまり、イエス様を世にお遣わしになった方、父なる神様の教えでした。このようなことを語られることによって、イエス様は私たちに対して、あなたは何を人々に伝えますか、と問われているのではないでしょうか。私たちが伝えるべき教え、それはイエス様を、そして、私たちをお遣わしになった方、神様の教え、神様の言葉です。イエス様は「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである」(16節)と言われました。この言葉から、イエス様の教えは神様の教えとまったく同じであることが示されます。私たちは本当に神様の語られていることを正しく理解し、受け止めて、それを人々に語っているだろうか、伝えているだろうか。そのことを自問自答させられます。イエス様が一人、静まって祈られたことが聖書の中に記されています。それはイエス様のこの世における歩みは深い祈りの生活であったことを示していると思います。神様に祈り、神様の言葉に耳を傾ける生活。そこから、みわざを行っていったのではないでしょうか。私たちもまた、イエス様に倣って、祈りを大切にし、神様の言葉を聴くことを大切していきたいと思います。そして、祈りと御言葉から、すべてのことを行う者でありたいと思います。


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