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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-01-08 06:00:00 (133 ヒット)

ルカ2章には、シメオンの記事と共に、ここにはアンナという人のことも書かれています。若い時に夫を亡くした女性でした。この人の生涯について、こう書かれていました。「彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した」(37、38節)。神殿を離れない。それは教会を離れない、神様から離れない。そういう意味で理解して良いと思います。彼女の生涯は神殿を離れない。神様に礼拝する生涯であり、神様に祈る生涯であり、神様に仕える生涯であったことが分かります。そして、この女性がイエス様に会った時、彼女は「近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した」。シメオンは救い主を抱きました。アンナは救い主に近づき、神様を賛美し、そして、人々に救い主のことを話した。救いは今、ここに来た!と話したのです。救いを待ち望んでいた人たちのところに今から二千年前に神様が救いを、救い主を送ってくださいました。私たちは救い主がおいでになったことを先週、喜び、お祝いしました。そして、これからもアンナのように救い主イエス・キリストのことを話し続けていきましょう。神様を礼拝し、神様に祈り、神様に仕え、神様のお送りくださった救い主を伝える。これこそが救いを待ち望む生き方です。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-01-01 06:00:00 (108 ヒット)

「ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」(マタイ2章12節)。
 ユダヤ人の王として生まれた方、救い主イエス・キリストに会いに東の方から占星術の学者たちがエルサレムにやって来ました。彼らはユダヤの人たちからすると、異邦人、異教徒でした。そういう人たちが星に導かれて、救い主に会いに来たのでした。神様は様々な方法を用いて、人を救いへと導かれるのです。学者たちは救い主に会うことができました。その時、彼らはその方を礼拝したのです(同11節)。この方こそ、真の神様と信じたのです。そして、帰り道、ヘロデのところへは行きませんでした。彼らは「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」のでした。別の道を通った。それは今まで通った道、自分を王、自分を主としてきた道から、イエスを王、イエスを主として生きる道を歩み出したということです。道ということで言えば、イエス様のこのような言葉があります。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14章6節)。イエス様はご自分が道であると言われます。私は道である。それはイエス様が私たちと一緒に歩いてくださるということです。そして、このイエス様という道こそは父のもとに、神様のもとに行くことができる道だというのです。新しい年が始まりました。この年もイエス様という道を共に歩んでまいりましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-12-25 06:00:00 (124 ヒット)

「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた」(マタイ1章24、25節)。
 ここに「ヨセフは眠りから覚めると」とあります。この「覚める」という言葉は「起き上がる」という意味です。眠りから起き上がった。それは、眠っていたのが目が覚めて起きた、という肉体的な意味に留まりません。起き上がった。それは、ヨセフは決心した、ということです。その決心がこの後に記されていることです。「主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ」。主に天使が命じたこと、それを神様の言葉であると信じ受け入れたのです。それが妻マリアを迎え入れた、ということです。神様が私に与えてくださった妻、神様が私に与えてくださった子供、ヨセフはマリアを、そして、聖霊によって宿した子供を引き受けた、ということです。
 ヨセフは主の天使の告げ知らせた神様の言葉を受け入れ、妻を迎え入れました。妻マリアの人生を引き受けた、一緒に担った、ということです。そして、聖霊によって身ごもった、ということ。つまり、聖霊、神様の力、神様のみわざとしての出来事であることを信じた、ということです。名付けた名前はイエス、それは「自分の民を罪から救う」(21節)という意味です。さらに預言の言葉にはインマヌエル、それは「神は我々と共におられる」(23節)という意味です。ヨセフの深い悩みは、恐れは取り去られました。神様の言葉に自分の人生のいっさいをお任せしたからです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-12-18 06:00:00 (117 ヒット)

創世記12章2節に「祝福の源」とありました。3節には「地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」とありました。この両方の言葉を合わせて読んで分かることはアブラムに与えられた使命ということです。それは何かというと、人々に祝福をもたらすという使命です。アブラムの旅は大きな決断を強いられるものでしたが、そればかりか、アブラムに神様は大切な使命を与えられたのです。あなたが祝福の源、基(口語訳)となる。なぜなら、地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入るのだから、というのです。
 岩波訳では3節の言葉が「大地のあらゆる種族はあなた[の名]によって祝福し合うであろう」となっていました。祝福し合う、というのです。神様の祝福を互いに分かち合う。そういう意味で理解できます。そして、このアブラムの使命というのは、私たちの使命でもあると思うのです。私たちも神様の然りを受けた、良しとされた一人一人です。そのことを人々にお伝えする。神様からの然り、神様からの良し、それを私たちはこのような言葉で言い表します。あなたは神様から愛されている。そして、神様が私たちにご自身の愛を表された究極的な愛、それはイエス・キリストを私たちのところに送ってくださった。イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかり死んでくださった、ということです。このことを伝えるのが私たちの使命です。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-12-11 06:00:00 (139 ヒット)

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」。このイエス様の言葉は印象的です。この「もう罪を犯してはならない」について、ある牧師先生は「もう罪を犯すことはできなくなった」、そういう意味が込められた言葉なのだ、と語っておられます。もちろん、私たちはイエス様の赦しをいただいた後も罪を犯してしまう者です。しかし、もう罪を犯すことはできなくなった。この言葉は私たちのこれからの歩みにおいて現実のものとなっていくのです。なぜなら、「行きなさい」というのは自分一人で行くということではないからです。これからはイエス様が一緒なのです。イエス様と一緒にこれからの人生の旅路を歩むことができるのです。この方は私たちを罪から守ってくださいます。そして、忘れてはならないこと、それは「わたしもあなたを罪に定めない」、この罪の赦しの宣言の背後にあるものをいつも、いえ、いつまでもおぼえていくのです。この罪の赦し、私はあなたを赦します!それは言葉だけのことではありません。イエス様は身をもって私たちを罪から救い、赦してくださったのです。御自分の命をささげることによって、十字架の出来事をもって私たちを罪から救い、赦してくださったのです。主イエス・キリストの救い、私たちのためにイエス様がなさった救いのみわざを心に刻み込んでいきたいと思います。このことによって、今、私たちは日々新たに生きることができるようになったことをおぼえたいと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-12-04 06:00:00 (118 ヒット)

「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」(15節)。良い知らせを伝える者の足、それは何と美しいことか、とあります。新改訳聖書を見ますと、「なんとりっぱでしょう」とありました。「美しい」と「立派」では随分違うように思います。原語を見てみますと、ギリシャ語では、「良い」という言葉で訳される言葉が使われていました。他の箇所などでどんなふうに訳されているか調べてみましたら、ナルドの香油の話が記されている箇所では「わたしに良いことをしてくれたのだ」(マルコ14章6節)とあり、マルコによる福音書10章17節では「善い先生」。新改訳聖書では「尊い先生」と訳されていました。このような箇所を合わせて考えていきますと、この「美しい」ということは外見的なもの、姿、形の美しさというよりも内面的な意味で考えたら良いかと思います。何と善いことか、何と尊いことか・・・。そして、これはある有名な伝道者のことだとか、宣教師のこと、牧師のことだけに限らないのです。ここで言われていることは、すべてのイエス・キリストを伝える人のことなのです。ですから、これは私たち一人一人のことです。私たちのことを聖書はこう言っているのです。良い知らせを伝える人の足は何と美しいことか!何と善いことか!何と尊いことか!私たちのことを聖書がこのように言っていることを喜びたいと思います。そして、感謝して励んでいきたいと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-11-27 06:00:00 (168 ヒット)

本日からの一週間は世界バプテスト祈祷週間です。当教会では祈祷週間の初日、今朝の礼拝を世界バプテスト祈祷週間特別礼拝として、世界宣教をおぼえて女性会を中心にして行います。
私たち日本バプテスト連盟では、返還前の沖縄に始まり、ブラジル、インドネシア、タイ、シンガポールに次々と宣教師を送り出しました。最近は国際ミッションボランティア(IMV)として、短期間、タイ、カンボジアなどアジア諸国に滞在し、教会や地域の人々に仕える働きに携わる人も起こされるようになり、世界宣教の裾野が広がった感があります。IMVでも、長期にわたる働きとして、ルワンダに「和解の福音」を携えて派遣されている佐々木和之氏がおられます。また、シンガポール国際日本語教会(IJCS)の伊藤世里江牧師、インドネシアの野口日宇満・佳奈宣教師ご夫妻、カンボジアの嶋田和幸・薫宣教師ご夫妻、その他、インド「プリ子供の家」、ネパールの女性と子ども支援のために、BWAid(世界バプテスト連盟救援委員会)の働きのために、これからも福音が全世界に伝えられていくように祈りつつ、献げていきましょう。
国内伝道については、全国支援地域協働プロジェクトが実施されている北九州宣教センターの働きのために、さらに次のプロジェクトが起こされますようにお祈りください。今年度の連盟全体の献金目標額は4900万円、赤塚教会の献金目標額は80万円です。目標達成のプロセスに共に加わりましょう。
世界宣教とは、全世界、全国に出て行っての働きであり、それは私たちの家族、友人など、身近なところでも福音を伝えることです。主の宣教命令を受けて、神様の愛に押し出されて、全世界に目を向けながら、この働きに共に励みましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-11-13 06:00:00 (156 ヒット)

ある方は言いました。私たちは悔い改めということを言うけれども、それは自分が気づいている罪を悔い改めているだけだ。自分が気づいていない罪があることも知らなければならない。自分は、自分のすべての罪を悔い改めている気になっている。しかし、そうではない。本当に気づかなければならないことも気づいていない、と言うのです。
コリントの信徒への手紙一8章2、3節に「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです」とあります。「知らねばならぬことをまだ知らない」。これは無知の知ということです。一般的な知識、知恵というだけではありません。自分が何者であるのか、自分の罪を知らない、そういう自分であることを知る。そして、そこから、私たちの信仰は始まるのです。3節には「しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られている」とあります。神様のことも私たちはまだよく知らない、分かっていない。だからこそ、聖書を読み続けるのです。そういう私たちですが、「その人は神に知られている」。私たちも、神様に知られている者だということです。私という存在が知られている、覚えられている。そればかりか、罪深い、弱さを抱えたこの私が神様に愛されているということです。神様に愛されている、神様の憐れみに生かされている。このことを感謝して歩みたいと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-11-06 06:00:00 (175 ヒット)

「初めに、神は天地を創造された」(創世記1章1節)。この言葉から聖書は、そして、創世記は始まります。神様がすべてのものを造られた。神様はすべてのものの創造者であることがここに示されています。そして、2節には「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」とあります。何もない、秩序も何もない、そういう状態が表わされています。これに続いて、「闇が深淵の面にあり」とあります。そして、「神の霊が水の面を動いていた」とあります。混沌、闇、そのような地にあって、神の霊が水の面を動いていたことが記されています。何もなかった時、しかし、そこにすでに神の霊が動いていた、とあるように、神様は生きて働いておられたことが示されています。そして、いよいよ神様の創造のわざが始まります。
「神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である」(3〜5節)。聖書が示す神様の第一声、神様が語られた最初の言葉、それは「光あれ」ということでした。混沌とした、闇の中に神様は光を創造されました。その光を神様は見られ、それを良しとされた、ということです。良しとされた、というのは神様のみ心にかなった、ということです。4節の後半には神様が光と闇を分けられたことも記されています。混沌としていた、つまり、無秩序な状態であったところから、神様は光と闇を分けられた、区別されたことによって、秩序を与えられたということです。そして、5節にありますように、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれました。これは口語訳では「光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた」となっています。名付けるということ、それは神様に名付けられたものは神様が支配する権威を持っておられるということです。支配され、それぞれに役割を与えられるのです。光と闇、それぞれに昼としての役割、夜としての役割を与えられたのです。光と闇を区別されたことによって、それが交互に来るようにされました。それで5節の後半には「夕べがあり、朝があった」とあります。ゼカリヤ書14章7節に「夕べになっても光がある」という言葉があります。それは私たちの人生には夕べのような時が来る。しかし、神様の光は変わることなく、私たちに注がれているのです。「光あれ」と語られた神様は私たちをご自身の光で包んでいてくださる。私たちはそのことを喜びたいと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-10-30 06:00:00 (173 ヒット)

ある朝、一つの黙想書を読んだ時、このようなことが書かれていました。私たちの信仰生活というのは、自分の愛する人を神様とそのみ言葉に委ねることの日々練習なのだというのです。そればかりか、自分自身を神様とそのみ言葉に委ねることの練習だともいうのです。そして、神様とそのみ言葉に委ねる時、上からの平安、神様からの平安をいただくのだ、というのです。
 練習という言葉を読んで、最初は違和感を持ちましたが、その言葉を繰り返し読んでいく中で確かに練習だと思いました。あるいは訓練と言っても良いかもしれません。なぜなら、私たちは生まれてこれまで、神様とそのみ言葉に委ねるということをしないで生きてきたからです。神様とそのみ言葉に委ねることをしないというのはどういうことかと言いますと、自分自身の力だけを頼りに生きるということです。でも本当のことを言えば、私たちは、自分は自分の力だけを頼りに生きていくのだ、生きているのだ、と思っていても、実は様々な人たちの助け、支えによって生きている、これまでも生きてきたのです。そして、何よりも忘れてはならないことは神様の助け、支えによって生きてきた、いや、生かされてきた。そのことを自覚する、そのことに気づいていく。それはとても大切なことです。
「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです」(使徒言行録20章32節)。
 これはパウロがエフェソの教会の長老たちと別れる時に語った言葉です。そして、今、私たちにも語られている言葉として聴きたいと思います。神様とその恵みの言葉に自分を委ねていく、神様とその恵みの言葉に自分の愛する人たちを委ねていくのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-10-23 06:00:00 (164 ヒット)

「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」(33節)。
この言葉はイザヤ書28章16節の引用です。つまずきというと、教会の中で「あの人につまずいた」などと言いますが、ここでは何につまずいたかというと、神様につまずいた人たちのことが言われています。実は私たちの信仰の歩みも、神様につまずく歩みです。神様につまずくというと、変なことを言っているように思われますが、信仰とはこういうものだ!神様とはこういう方だ!そのように私たちは、私たちの信仰観、神様像を持つわけですが、神様の言葉を聴いて歩む中で引っくり返されるような経験をしていくのです。この30節以下では人は行いによって救われると考え、自分の正しさを追求していた人たちが、自分の行いや正しさを追求することが救いではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって救われる、ということを知らされていったのです。どんなに立派な行い、たくさんの良いわざを行なっても、それで人は救われるわけではない。イエス・キリストを信じる信仰だけが私たちを救う。そして、その救われた喜び、感謝から、恵みの応答として行いというものが起こってくるのです。神様を信じて生きる歩みはそのようにして、自分の思いも考えも、日々新しくされていく歩みです。今まで見えていなかったものが見えてくる、気づいていなかったものが気づかされる歩みです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-10-16 06:00:00 (164 ヒット)

9月の特別集会の朝礼拝で講師の堀肇先生はルカによる福音書24章のエマオ途上のイエス様と弟子たちの箇所からお話してくださいました。その話の中で繰り返し、堀先生は主客転倒ということを言われました。主客転倒、イエス様と弟子たちの間でその転倒、転換があったというのです。すなわち、弟子たちにとって、それまで人生の主体、主人は自分でした。それがイエス様に出会って、その主体、主人が変わった。自分ではない、イエス様に変わったのです。その時、どういうことが起こったでしょうか?「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(ルカ24章30、31節)。イエス様のお姿は見えなくなったけれども、そこにおられるのはイエス様だと分かった、というのです。
イエス様は私の時、つまり、神様が私に与えられた時、定められた時、神様の救いのご計画を優先されました。そして、ご自分は神様の御手の中にある。どこまでも、神様を主体として歩まれ、生きられました。そして、私たちもあの弟子たちが体験したように、イエス様を人生の主体、主人としていく時、主が共におられることを知るのです。イエス様と共にある人生がどんなに素晴らしいものであるのかを知らされていくのです。イエス様を人生の主体、主人としていく。それはイエス様に自分の人生のすべてをお任せしていくということです。この方を信頼して生きていくということです。イエス様は私の人生の主。この方の言葉に聴きながら歩んでいきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-10-09 06:00:00 (154 ヒット)

復活されたイエス様とペトロの会話、この会話の中で印象的なのはペトロの言葉です。「主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」(15、16節)、「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」(17節)。イエス様がご自分を愛しているか?という問いに対して、はい、愛しています!と力強く、自信に溢れて答えてはいません。あなたがご存じです、あなたが知っています、と答えています。
以前のペトロは、自分はどんなことがあってもイエス様から離れない、イエス様を否定しない。そういう自信に溢れた信仰だったわけですが、イエス様が捕らえられ、十字架におかかりになった時にはイエス様から離れ、否定してしまいました。そういう本当の自分の姿を知った時、はい、私はあなたを愛しています!ではなくて、あなたがご存じです、あなたが知っています、と答えるほかなかったのでしょう。このペトロの言葉は何か自分のことをはっきり表さないような、あいまいな言葉に感じるかもしれませんが、これはペトロが自分の弱さもすべても主に委ねた言葉と言えるのではないかと思うのです。そして、そういうペトロに主はこう言われたのでした。「わたしの羊を飼いなさい」(17節)。
魂への配慮、羊飼いとして生きる。それは神様の前に自分の本当の姿を知った時、自分の罪深さ、弱さ、そういうものに気づかされた時、主がそのような者と共に生きて働いてなされていくものだと思います。そして、私たちが何よりも忘れてはならないのは、まず、この私に主がかかわってくださった。私の魂を配慮され、愛された。主が私の羊飼いとして、この罪深い、弱い羊である私を養ってくださっていることをいつも心に留めておくことです。福音宣教、それは私たちの本当の羊飼い、私たちに命を与え、愛し、人生を導かれる方をお知らせすることです。これからもこのことに励んでいきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-10-02 06:00:00 (162 ヒット)

以前、私の友人が「親父を超えていきたい」と言っていたことが今も心に残っています。私の親父、父も亡くなって四年が経ちました。改めて、「親父を超える」ということ、あるいは「親(父や母)を超える」ということを考えさせられています。先月の夕礼拝で創世記9章18〜29節の聖書から御言葉の取り次ぎをさせていただきました。神様と共に歩んだというノア(創世記6章9節)でしたが、ぶどう園を作り、ぶどう酒を飲んで天幕の中で裸で酔っ払っていた、というのです。父の醜態を見た息子たちの対照的な二つの態度が記されていました。一つは父の恥を告発したという息子ハムの態度です。もう一つは他の息子たち、セムとヤフェトの態度です。父の恥を見ないようにして、それを覆った、というのです。これは恥を見ないふりをしたとか、うやむやにしたという意味ではないと思います。「父の裸を覆った」(23節)というのは、父を赦した、ということではないかと思うのです。なぜ、そうできたのか?セムとヤフェトは自分たちが赦されて生きてきたことを知っていたからです。父に愛され、赦されてきた・・・。愛と赦しを受けてきたことを知る人は他者を愛し、赦すことに努めるのです。さて、話は戻ります。「親父超え」、それは親よりも優れた人生を生きるとか、上に立つという意味で一般的には考えられるでしょうが、信仰の視点から言うならば、セムとヤフェトこそ、「親父超え」をした人たちでしょう。父ノアの恥、それは人間的な弱さと言えるものかもしれません。彼らはそういう父を愛し、赦し、受け入れたのです。言い換えるならば、一人の対等な人間として受け入れたということです。私たちの生涯においての課題は愛と赦しに生きるということです。そしてそれは私たち自身が真の親父、つまり、父なる神に愛され、赦された者だからこそ、そのように生きることに導かれているのです。主の十字架を見上げて歩みましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-09-25 06:00:00 (191 ヒット)

「ヤコブは眠りから覚めて言った。『まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった』」(創世記28章16節)。
ヤコブは人生に行き詰まっていた時でした。家族との関係に失敗し、逃亡し、先が見えない。そういうヤコブが見た夢が記されています(同11〜15節)。「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた」(同12節)とありますが、天と地を神様の御使いが上ったり下ったりしていた、というのは、天の神様がこの地上の私たちのところにもおいでになって、かかわっておられることを示しています。そして、アブラハムに約束した言葉をヤコブにも語ります。「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」(同15節)。行き詰まり、孤独に苦しむヤコブでしたが、神様の言葉を聴き、そこでこう言います。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」(同16節)。ああ、神様はここにもおられた。私と共におられた。このことを知らされ、気づかされ、ヤコブは立ち直るのです。いいえ、神様の愛によって、恵みによって立ち上がらされていくのです。ヤコブ、この人の別名はイスラエルでした。このヤコブの子孫がイスラエルの民なのです。イスラエルの民とは神様の憐れみによる民なのです。
 「まことに主がこの場所におられるのに・・・」。「この場所」とはどこでしょうか?人生、様々なことが起こってきます。けれども、どこにおいても、どんな状況にあっても、そこに主がおられる。主はあなたと共におられる。このことを忘れないでいたいと思うのです。そして、神様の憐れみを感謝して生きる。それがキリストを信じる者の生き方です。


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