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投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-07-31 06:00:00 (173 ヒット)

ルカ23章26節にキレネ人シモンの記事があります。この人について、「人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出てきたシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた」とあります。これは主イエスが十字架を背負い、ゴルゴタの丘へ進む場面です。そこにたまたま居合わせたのがキレネ人シモンでした。「田舎から出てきた」とあります。彼は主イエスの十字架を背負うためにそこにいたのではありませんでした。別の福音書(マタイとマルコ)では兵士たちによって、「イエスの十字架を無理に担がせた」とあり、無理に担がされたことが分かります。何と割に合わないことだろうか、ということが私たちの人生にもあります。こんな大きな重荷をなぜ負わなければならないのだろうか?私には負いきれない、ということが度々あります。無理やり十字架を背負わされたキレネ人シモン。マルコ15章21節にはキレネ人シモンのことを「アレクサンドロとルフォスの父」と記しています。この二人は当時の教会のメンバーと言われています。シモンはその時には十字架を仕方なく担いだかもしれません。しかし、後になって、主の十字架の意味を知り、それが彼の子供たちにも伝わっていったのではないでしょうか。主の十字架、それは私たちの罪の救いのためです。そして、主が私たちと苦しみを共に受けられたことを示します。私たちは割に合わない、不条理と思えるような重荷を負わせられる時、自分の人生において大事なことであることをおぼえたいのです。それが主が共に担っておられる十字架であることを。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-07-24 06:00:00 (178 ヒット)

私たちは神様の子供、神様の相続人、世継ぎです。その人は神様から財産を受けます。それは神様がお与えになる永遠の命です。そういう私たちですが、ローマ8章17節にはこのように書いてあります。「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」。キリストと共に苦しむ。イエス・キリストを救い主と信じる人はこの世にあっては、キリストと共に苦しむのです。私はキリストと共に苦しむ、と言う時、いつも思い出す聖書の言葉があります。フィリピの信徒への手紙1章29節の言葉です。「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」。
 ここには「キリストのために苦しむ」とあり、それが「恵みとして与えられている」というのです。イエス・キリストを信じて、従って生きる。それは確かに素晴らしい人生ですが、世にあっては苦しみを受けるようなことも度々起こってきます。それが恵みとして与えられているというのです。伝道する。それは素晴らしいことですが、世にあってはイエス様を人々に宣べ伝える時、苦しみを受けるようなことも度々起こってきます。しかし、それが恵みとして与えられているというのです。イエス様を宣べ伝えていきましょう。
詩編126編5、6節の言葉です。「涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる」。キリストと共に苦しむ人はキリストの恵みも知るのです。新たに救い主イエス・キリストに出会う方がありますように。祈りつつ、主を宣べ伝えていきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-07-17 06:00:00 (163 ヒット)

7月9日から、私たちの教会は東京基督教大学(TCU)の七名の学生たちを迎えて、夏期伝道を行なっています。今回、学生たちを私たちの教会に送り出してくださった東京基督教大学に感謝したいと思います。夏期伝道というと、思い出すことがあります。私の母校(福岡・西南学院)でも、毎年、神学生が夏休み期間を使って、夏期伝道に出かけるのですが、私も在学中、鹿児島の伊集院教会、愛知の南名古屋教会に夏期伝道で出かけました。それは今も私にとって大きな財産となっています。証し、宣教、チラシ配布、いろいろな働きをさせていただきました。そして、一緒に出かけた神学生たちと、また教会の牧師先生、信徒の方々と共に主のために働くこと、主を宣べ伝えること、その喜びや苦労を分かち合う経験をさせていただきました。
赤塚教会においての夏期伝道。当初、私はTCUの学生たちの夏期伝道という理解でいましたが、準備をしているうちに、一緒にプログラムを行なっているうちに、これは私たち赤塚教会自身の夏期伝道でもあるのだ、という理解に変わっていきました。福音を宣べ伝えること、それはあの人が、この人がやればいい、というものではありません。いいえ、それでは福音の喜びを味わうことができないのです。福音宣教を他人ごとにしてしまったら、自分が恵みを味わうことができないのです。明日は夏期伝道最終日となります。学生たちのこれからの歩みをおぼえて祈りましょう。TCUの学生たちによる夏期伝道。それは学生たちと私たちが共に担う夏期伝道となったと私は信じています。主に感謝。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-07-10 06:00:00 (157 ヒット)

「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」(ヨハネ6章37〜40節)。
 イエス様は私たちのことをどのように見ておられるのか、お読みした言葉から分かります。「父がわたしにお与えになる人」(37節)、「わたしに与えてくださった人」(38節)。イエス様は私たちのことを神様が私に与えてくださった人と言われるのです。そして、その人たちのことをこうもおっしゃっています。「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」(37節)、「わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させること」(38節)。主はこう言われるのです。私に与えてくださった人を私は追い出さない。私は一人も失いたくない。みんな永遠の命を受けてほしい!これがイエス様の願いであり、イエス様をお遣わしになった父なる神様のみ心、思いです。そして、私たちも、私に与えてくださった人。それは私の家族であり、私の友であり、私が出会うあの人、この人・・・。その一人一人に永遠の命をお与えになるイエス様をお伝えするのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-07-03 06:00:00 (204 ヒット)

「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです」(7章24、25節)。
 パウロは自分の罪深さ、肉の弱さを知り、嘆きます。「だれがわたしを救ってくれるでしょうか」という言葉から、自分で自分を救うことはできないことを知らされます。み言葉に従おうとする、生きようとする。それは自分の力ではできないことを知らされます。でも、嘆きに終わりません。この後、パウロは何と言っているでしょうか?「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」。私を救ってくださるのはただお一人、それはイエス様と言っているのです。主が私たちと共におられ、歩んでくださる。聖霊の導きによって、神様ご自身の力によって歩ませてくださる。そのことを喜びあふれて語るのです。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」。私を救ってくださったイエス様、感謝します。この救い主を送ってくださった神様、感謝します。私たちもパウロと同じ嘆きがあります。しかし、パウロと同じ喜び、感謝があるはずです。共に心から神様への感謝を表しながら歩んでまいりましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-06-26 06:00:00 (192 ヒット)

ノアという名前には「慰め」という意味があります。創世記5章28、29節にこのようなことが記されています。「レメクは百八十二歳になったとき、男の子をもうけた。5:29 彼は、『主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう』と言って、その子をノア(慰め)と名付けた」。ノアの父レメクはその子の名前を名付ける時、こう言った、とあります。「主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう」。そして、8章20、21節には「ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。『人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい』」とありました。レメクが願ったこと、本当の慰めがここに実現しました。ノアは祭壇に焼き尽くす献げ物をささげました。それは神様への礼拝です。そして、神様に対する罪の償い、贖いです。「主は宥めの香りをかいで、御心に言われた」というのはそれを神様は顧みられた、ということです。今、私たちはイエス様が罪の償い、贖いの献げ物となられたことを知っています、信じています。イエス様の十字架の救いを信じて生きる、そこに本当の慰めがある。呪いではなく、祝福、滅びではなく、命がある。そのことを今日の聖書の言葉を通しておぼえたいと思います。そして、神様が与えてくださる本当の慰めを、祝福を、命を人々と分かち合っていきたいと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-06-19 06:00:00 (195 ヒット)

「あなたは年を重ねて、老人となったが、占領すべき土地はまだたくさん残っている」(1節)。神様がヨシュアにこのように語られた時、ヨシュアは何歳だったでしょうか?24章29節を見ますと、ヨシュアは百十歳の生涯だったことが分かります。注解書などを見てみますと、百歳近くになっていたのではないか、と書いてあるものもありました。正確な歳は分からないのですが、ヨシュアはもう人生の終わりを迎える、その直前に神様がこんなことを語られた「占領すべき土地はまだたくさん残っている」というのは何とも酷な話ではないかと思うのです。むしろ、「ヨシュアよ、お前はよくやった。もう後はゆっくりのんびりと残りの人生をお暮しなさい」というのが愛ではないかと思うのですが、神様はそうはおっしゃらないのです。
私はこの神様の言葉を読んでみて、二つのことをここから教えられるのです。一つは、私たち人間というのは幾つになっても完成は無い、ということです。「まだたくさん残っている」。生涯、発展途上なのです。十分ではない。まだ完成していない。そういう私たちです。そして、完成はいつか、というと、天の国に行った時ではないでしょうか?そして、もう一つ、「まだたくさん残っている」というのは、神様からの大きな励ましです。「もうあなたは年を取りすぎたので何もやることはないよ。もうあなたは必要ないよ」。いいえ、それとはまったく違うのです。「まだたくさん残っている」。神様はまだまだあなたのことを必要なのです。自分で自分はもう必要ない、無理だ、と決めてはならないのです。私たちは地上にいる間、最期まで、神様の大切な、必要な器として用いられるのです。それがたとえ体が動かなくても、言葉が話せなくても、あなたはいるだけで良い。それが神様からのヨシュアへのメッセージであり、私たちへのメッセージ、そう受け止めたいと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-06-12 06:00:00 (216 ヒット)

舟の上の弟子たちの様子がこのように記されています。「そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした」(21節)。弟子たちはイエス様を舟に迎え入れようとした、というのです。「わたしだ。恐れることはない」(20節)。この声を聞いた弟子たちはその声の主がイエス様であるということが分かったのです。
 私たちはイエス様を信じていると言いますが、イエス様をこの目で見たわけではありません。しかし、イエス様の声を聴いています。もちろん、その声が音となって聞こえているわけではありません。しかし、私たちは聖書から、イエス様の声を、言葉を聴いています。私たちも今、この聖書から、「わたしだ。恐れることはない」、イエス様の声を、言葉を聴き、主がおられることを知ります、主がおられることを信じます。
 「彼らはイエスを舟に迎え入れようとした」。主の声を聞いた彼らはイエス様を舟に迎え入れようとします。それは彼らの人生にイエス様を迎え入れようとした、ということです。そうしたところ、「すると間もなく、舟は目指す地に着いた」というのです。私たちはどうでしょうか?イエス様を自分の人生にお迎えしませんか?
イエス様を私の人生にお迎えする。それはイエス様を自分の人生のアクセサリーのようにすることではありません。お守りのようにすることではありません。むしろ、自分がイエス様の中に飛び込んでいくのです。自分の人生をお任せしていく、お委ねしていくのです。そうするならば、「舟は目指す地に着いた」とありましたように、イエス様は私たちに私たちが本当に目指すべきところへ導いてくださいます。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-06-05 06:00:00 (200 ヒット)

「“霊”に従う新しい生き方」(ローマ7章6節)。それは聖霊に従う新しい生き方、聖霊による新しい生き方です。パウロ自身、神様を信じていると言いながら、自分の力、自分の知恵によって生きてきました。そして、多くの人々を、いいえ、イエス様ご自身を傷つけ、悲しませてきました。
 ある牧師先生はパウロや律法によって救われると考えていた人たちというのは、自分たちが他の人たちよりも高いところにいると考えていた、と言います。自分たちは神様の律法を忠実に守って生きている。あの人やこの人よりも正しい、上にいる存在。そのように自負していたというのです。しかし、パウロはイエス様に出会った時にそういう生き方は間違いであったことに気づくのです。自分は高ぶっていた、自分は高みに立っていた、そのことに気づくのです。
 6節の最後のところにはこのようなことが記されていました。「“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです」。「仕える」とありました。高いところではないのです。高みに立つのではないのです。むしろ、仕える生き方です。高みではなく、低みに下るのです。そして、イエス様ご自身がそのように歩まれた、生きられた方でした。私たちもイエス様の後に続くのです。仕える者として生きる、低みに下って生きる。それが「“霊”に従う新しい生き方」です。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-05-29 06:00:00 (197 ヒット)

「そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた」(ヨハネ6章14、15節)。
イエス様を自分たちの王にしようとした人たちがいたことが記されています。イエス様を自分たちの王様にする。良いことではないですか!そう思うかもしれませんが、イエス様はそれを避けて山に退かれた、というのです。つまり、このことはイエス様のお考えとは異なることだったのです。イエス様を自分たちの王様にしようとした人たち。それは実のところ、イエス様を自分たちの王様にするのではなく、自分たちにとって都合の良い、自分たちの利益のためになる、そういう存在にしたかったのです。むしろ、イエス様を自分たちの王様でなく、僕にしようとしたのです。
こういう信仰、信心は私たちの身近にもあるのではないでしょうか。お詣りに行って、自分の願いを申し上げに行く。自分の願望、願いを聞いてもらうだけ、自分の言うことを聞く神、自分のための神、信心。もちろん、私たちも神様にお願いしたりしますし、それは何も悪いことでも間違いでもないでしょう。けれども、私たちに神様が教えられた信仰、聖書が教える信仰はお願いするためだけの神様ではありません。私たちが神様に従う信仰です。神様を私たちに従わせる信仰ではないのです。
「自分を王にするために連れて行こうとしている」とありました。口語訳は「自分をとらえて王にしようとしている」となっています。私たちの信仰はこれとは逆です。捕らえられるべきは私たちなのです。私たちが神様に捕らえられて、神様のご用のために用いられていくのです。私たちはみんな、神様のご計画の中にある、神様の御手の中にある。その神様に自分の人生を、自分自身を委ねて、お任せして生きる。そこに本当の喜び、幸い、平安がある。それが聖書が私たちに伝えていることです。イエス様を信じて歩みましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-05-22 06:00:00 (183 ヒット)

「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」(ローマ6章23節)。
「神の賜物」、ローマの信徒への手紙6章23節にはそのことについて記されています。神様が私たちに贈ってくださった素晴らしい贈り物、それは「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」とあります。罪の奴隷から義の奴隷へ。罪から解放される、自由にされる。それは自分の力ではなく、神様からの贈り物、イエス・キリストによって実現可能なのです。この贈り物を受け取って、この方と共に生きていくならば、私たちは義の奴隷、罪からの解放、自由に生きることができるのです。そして、それこそが「永遠の命」に生きるということなのです。
私たちはこの素晴らしい贈り物をいただきました。それをまだ受け取っていないかのように、その価値を知らないかのようにして過ごしていることはないでしょうか?この賜物、贈り物、「わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命」をいただいたことを感謝し、喜び、それに応えて生きるのが私たちの新しい生き方です。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-05-15 06:00:00 (200 ヒット)

本日はペンテコステです。ペンテコステは聖霊降臨日とも言われます。またペンテコステはキリスト教会にとっては、クリスマス(イエス様のお生まれになったことを記念する日)、イースター(イエス様が十字架におかかりになり死なれ、三日目に復活されたことを記念する日)と共に記念される日です。使徒言行録2章1節には「五旬祭の日」と記されていますが、ペンテコステはギリシャ語で「五十」という意味で、訳して五旬祭、あるいは五旬節と呼ばれ、元々はユダヤの三大祭りの一つの刈り入れの祭りです。それが過ぎ越しの祭りから五十日目ということで、五旬祭と呼ばれ、七週目ということで七週祭とも呼ばれたそうです。私たちキリスト教会にとっては、この五旬祭、ペンテコステは教会の誕生記念日としています。それはこの日に、約束の聖霊が弟子たちに臨み、それから教会が建て上げられていったからです。このペンテコステの時、いろいろな国の言葉で福音が語られたという出来事がありました。そして、確かに主の言葉(1章8節)は実現し、福音はユダヤから他の国々へと伝えられていき、全世界に拡がっていきました。教会には様々な異なった背景をもった人たちがいます。しかし、それぞれに違いがありながらも、主にあって一つにされ、共に歩んでいます。これこそは聖霊による一致です。二千年ほど前、約束の聖霊を信じて待ち望んだ人たちに聖霊、神様の力が与えられ、神様の偉大な業を語り、行う者となり、福音は全世界に伝えられていきました。そして、今も聖霊は私たちの教会に臨み、福音を伝えるように導いているのです。私たちもこの力を信じて、「神の偉大な業」(11節)、福音を宣べ伝えていきましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-05-08 06:00:00 (189 ヒット)

ある牧師先生は神様からの誉れについて、こう言われました。「神に見られている。神から尊ばれている。神のまなざしの中で、自分がどのように見えているか、そのことを、まず何よりも大切にする思い」。神様からの誉れを求める、受けるとはこういうことなのだ、というのです。私はこの言葉を印象深く聴きました。私たちは神様から愛されている。神様から大切な者とされている。その神様のまなざしをいつも心に覚えていたいと思います。ヨハネ5章42節に「あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている」(42節)とありました。これはハッとさせられる言葉です。神様への愛がない。私たちの教会の今年度の聖句は「主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う」(詩編18編2節)です。口語訳聖書では「わが力なる主よ、わたしはあなたを愛します」(口語訳は詩編18編1節)となっていました。「わたしはあなたを愛します」。神様を愛します、というのです。神様からの誉れ、神様の私たちに対する愛、そのことを知った時、愛に対する愛の応答が始まるのです。信仰生活は私たちに対する神様からの誉れ、神様からの愛に気づかされていく歩み、生活です。そして、そのことに気づく時、そのことを知らされる時、神様のために、神様の愛するお互いのために、そういう愛の応答が始まるのです。イエス様を証ししよう!イエス様を伝えよう!それは大事なことですが、まず、私たち自身が神様からの誉れを誉れとして受けていく。神様からの愛を愛として受けていく。そこから、イエス様を証しする、イエス様を伝える。神様の愛に対する応答がなされていきます。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-05-01 06:00:00 (173 ヒット)

「また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい」(13節)。「五体」というのは、私たちの体のことであり、全存在を指します。私たちは神様のもの、神様に立ち帰らされた者です。そういう私たちは「義のための道具」とされました。
ある牧師先生は「五体を義のための道具として神に献げなさい」と言われていることが大事だと言われます。自分を義のための道具として生きよ、と言われているのでなく、自分を義の道具として神様に献げよ、と言われている。これは大きな違いだというのです。ここで言われていることは私たちがまず、すべきことは何かということです。それは、自分を神様に献げることだというのです。自分を神様に献げる時に、神様は私たちを義のための道具、神様の御用のために用いてくださるのだ、というのです。神様に自分を献げる。神様に自分の人生をお任せしていく、お委ねしていくのです。
私たちの信仰生活は自己流や自分勝手なものではなく、神様の言葉を聴きながらの歩みでありたいと思います。イエス様を信じていると言いながら、なかなか信頼することをしないで、自分でああだ、こうだ、ともがきながら生きてしまっている私たち。そういう自分を神様にお任せしていきましょう、お委ねしていきましょう。そこでこそ、神様の恵みを知らされていく、神様の恵みに生きる者とされていくのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-04-24 06:00:00 (273 ヒット)

神様がご自分の子であるイエス様にお与えになった権威、それは命と裁きです。このことについて、イエス様はこのように語っておられます。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」(ヨハネ5章24、25節)。
 「はっきり言っておく」。これはイエス様が本当に聞いてほしい、そういう思いを込めて語られた言葉です。もっと直訳調に訳すならば、「アーメン、アーメン、あなたがたに言う」(岩波訳)です。私たちはお祈りの最後に「アーメン」と言います。これは「真実です」、「その通りです」という意味です。アーメン、アーメン、そう言われて語られたこと、本当に皆さんに聞いてほしいこと、それはどういうことかと言いますと、「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」、「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」ということでした。
 「わたしの言葉」、「神の子の声」、これはイエス様の言葉のことです。これを聞いて信じる者は永遠の命を得るというのです。裁かれることなく、死から命へと移っているというのです。天国、永遠の命というと、もしかして私たちはずっと先のことと考えているかもしれません。死んだ後に与えられるものと考えているかもしれません。しかし、このようにイエス様は語られました。「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」。「死んだ者」、それは私たちのことです。神様を神様としない。罪に支配されている私たち。それは生きながらも死んでいる状態、死んだ者なのです。そういう私たちが「神の子の声を聞く」。主イエスの声を、主イエスの言葉を聴く。「その声を聞いた者は生きる」というのです。私たちは主の言葉を聴きましょう。主の言葉を伝えましょう。


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