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2020年8月23日 主日礼拝(朝・夕拝)説教 「共に恵みにあずかる者」

2020年 8月23日(朝・夕)礼拝説教「共に恵みにあずかる者」フィリピの信徒への手紙 1章1~11節

聖書―フィリピの信徒への手紙1章1~11節
(はじめに)
 今日お読みしましたフィリピの信徒への手紙は先週までお話ししてきましたエフェソの信徒への手紙と同じく、獄中書簡と言われます。キリストの使徒パウロがローマの獄中でフィリピの教会の人たちに宛てて書いた手紙です。その最初の挨拶の言葉を読んでみましょう。
1:1 キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。1:2 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
 「キリスト・イエスの僕」とあります。パウロはイエスさまの僕でした。またここにはパウロの弟子であったテモテの名前もあります。パウロも、テモテも、イエスさまの僕でした。そして、イエスさまが主人でした。私たちはどうでしょうか。自分がイエスさまを信じているというのなら、パウロやテモテと同じです。イエスさまを信じる人というのは、イエスさまの僕ということです。そして、イエスさまが私の人生の主人ということです。

(聖書から)
 3節からお読みします。
1:3 わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、1:4 あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。1:5 それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。
 最初にお話ししましたように、この手紙は獄中書簡、パウロが囚われの身にあって書いた手紙です。イエスさまの福音を人々に宣べ伝えることによって、パウロは捕らえられました。今の時代、この日本においてそういうことはありません。それがどんなに大変なことだったのだろうか、私たちには想像することはできないかもしれません。パウロは命がけでイエスさまの福音を人々に宣べ伝えていたでしょう。そのような厳しい状況の中でしたが、お読みしました言葉の中には「感謝」とか、「喜び」という言葉が出てきます。神さまに感謝し、神さまを喜んでいるというのです。このフィリピの信徒への手紙は「喜び」という言葉が多く出て来るため、「喜びの手紙」とも言われます。私たちは自分が大変な状況にある時、神さまに感謝するとか、神さまを喜ぶことができるでしょうか。
 パウロが神さまに感謝し、神さまを喜ぶことができた理由が、5節に書かれています。「あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているから」ということです。神さまはあなたがた、ここであなたがたというのは、フィリピの教会の人たちのことです。あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっている、イエスさまの救いを受け入れて、イエスさまと共に歩んでいるから。それが私にとっては感謝すべきこと、喜びなのだ、というのです。
 パウロはこのフィリピに福音宣教に訪れ(使徒16章)、この地に教会が建ちました。パウロはフィリピの教会の人たちのことを思い起こし、神さまがフィリピの人たちに出会ってくださり、救いを与えてくださったことを感謝し、喜んだのです。私はこのパウロの言葉を読んで、教えられました。それはどんなことを教えられたのかと言いますと、イエスさまを信じる人たちが新しく起こされることは、もちろん、感謝であり、喜びですが、パウロのように、今まで、イエスさまの救いにあずかった人たちのことを思い起こし、神さまに感謝し、喜ぶということも大事なことだと思うのです。すなわち、神さまが私たちになさった現在の出来事だけでなく、過去の出来事も感謝し、喜ぶということです。
 さて、今、私は神さまのなさった出来事について、現在と過去のことについてお話ししましたが、これから神さまのなさる未来の出来事、そのことが6節に書かれています。
1:6 あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。
 パウロはフィリピの教会の様子を伝え聞いていたのでしょう。「あなたがたの中で善い業を始められた方」。神さまのことをこのように言っています。フィリピの教会の人たちの中で善い業を始められた神さま。私たちの教会については、赤塚教会の人たちの中で善い業を始められた神さま、このように言うことができます。私たちがイエスさまのことを宣べ伝える。神さまの教会のための様々な働きをする。それらは、私たちの中で善い業を始められた神さまによるものです。ですから、私たちは自分を誇ることはできないのです。神さまがこの私をご自分の善い業のために用いてくださっている。そのことを感謝し、喜び、神さまを誉め讃えるのです。
 それに続いて、このようなことが書かれていました。「キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださる」。「キリスト・イエスの日」とありました。これはどんな日でしょうか。イエスさまが再びおいでになる日、再臨の日のことです。その日までに、成し遂げてくださる。完成させてくださる(聖書協会共同訳、新改訳2017)というのです。
 私たちは教会の歩みの中のある時代を生きて、働きを担っている者です。私たちの地上での命は限られていますから、いつの日か、次の世代にバトンタッチしていくことになります。教会の未来のことは気になりますが、イエスさまがすべてを完成させてくださると信じて、私たちは自分の時代に最善を尽くして、その後の世代に委ね、イエスさまに委ねていくのです。パウロは「キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」と言っています。
 パウロはフィリピの教会の人たちのことをこのようにも言っています。「あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めている」(7節)。今日の説教題はここから取りました。「共に恵みにあずかる者」。共に恵みにあずかる者とは何でしょうか。イエスさまの救いを共にあずかる者です。そして、イエスさまの福音を共に宣べ伝える者であり、イエスさまの教会の働きを共に担う者ということです。パウロはフィリピの教会の人たち、そして、キリストの教会に連なる人たちをそのように見ていました。私たちもお互いのことを共に恵みにあずかる者として認め、互いに励まし合い、歩んでまいりましょう。
 8節以下をお読みします。
1:8 わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。1:9 わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、1:10 本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、1:11 イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。
 「キリスト・イエスの愛の心」とあります。パウロは「私の愛の心」とは言っていません。「キリストの愛の心」と言っているのです。私たちは神さまに出会うと、自分の愛というものがどのようなものであるか知らされていきます。自分の愛がどんなに小さく貧しいものであるか知らされます。神さまの前に立つと、自分の愛というのは愛とは言えないようなものであることに気づかされます。パウロはそのことをよく知っていました。だから、「キリストの愛の心」と言ったのです。私はキリストに出会って、本当の愛を知った。私たちを罪と死の滅びから救うためにご自分の命をささげてくださった愛、その愛を私もいただいて愛する。9節に「あなたがたの愛がますます豊かになり」とあります。私たちが神さまの愛を知り、その愛に生きようとするとき、私たちの愛は豊かにされる、成長するのです。
 ところで興味深いのは、9、10節に「知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように」とありました。知る力、見抜く力、本当に重要なことが見分けられるように。このことの間に愛について言われているのです。これはどういうことかというと、神さまの愛、聖書が示す本当の愛というのは、正義、真理、これらと表裏一体ということなのです。
(むすび)
 神さまの愛について、ヨハネの手紙一5章3節から聴いてみましょう。
5:3 神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。
 私たちは神さまから愛されています。聖書全巻がそのことを示しています。その私たちに求められていることは、神さまを愛することです。神さまを愛する。それはどういうことでしょうか。ただいまお読みしました聖書の言葉にありました。神さまを愛するとは、神さまの掟を守ること。私たちは自分が愛している人の言うことには一生懸命、耳を傾けます。相手の心、思いを知ろうと努めます。神さまを愛するというのも同じです。神さまの掟を守るというのは、神さまの言われることに耳を傾ける、それを私に向けられた大切な言葉として聴く、ということです。神さまは私たちを愛しておられますから、私たちが生きていくために本当に大切なことを語られます。何が善いことで、何がそうでないことか。正しいこと、真実なことを教えてくださいます。そのことによって、私たちは知る力、見抜く力が与えられ、本当に重要なことを見分けることができるようになります。あなたがたの愛が豊かにされる、とありましたが、神さまが示された本当の愛をもっともっと知ることができるようになります。10節には「キリストの日に備えて」とありました。私たちは主が再び来られる日に備えて生きるのです。備えて生きるとは、日々、神さまから託された善い業に励みながら主が再び来られる日を待ち望むということです。祈りましょう。

祈り
主なる神さま、
 今日も私たちは週の初めの日に主を礼拝しています。
 使徒パウロは獄中書簡の一つと言われるフィリピの信徒への手紙を書きました。そこに記されていることは、主に対する感謝、喜びでした。パウロはフィリピの教会が神さまによって成長し、主のみわざに励んでいる様子を心から神さまに感謝し、喜びを表しました。主が共におられる時、どのような状況にあっても、感謝、喜びがあることを知らされます。
 私たちの人生の歩みの中では、いろいろなことが起こってきますが、主はパウロと共におられたように、私たちと共におられます。そのことをおぼえ、私たちの心に神さまへの信頼、そして、平安を与えてください。キリスト・イエスの日に備えて、善き歩みができますように導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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