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2020年10月11日 主日礼拝(朝・夕拝)説教 「主に従うということ」

聖書―マルコによる福音書8章31~38節
(はじめに)
 イエスさまはご自分の弟子たちに、「あなたがたは私のことを何者だと言いますか?」とお尋ねになりました。すると、弟子の一人であるペトロが答えました。「あなたはメシア、救い主です」。これが先週お読みしました聖書の箇所に書かれていたことでした。今、イエスさまは私たちにもお尋ねになっていると思います。「あなたがたは私のことを何者だと言いますか?」。皆さんは何と答えるでしょうか?


(聖書から)
 今日の聖書の箇所は、そのペトロの信仰告白を受けて、それに続いての内容です。31節をお読みします。
8:31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
 イエスさまが弟子たちにお話しされたことをお読みしました。「人の子」というのは、イエスさまご自身のことです。イエスさまは神の子、救い主であると、聖書は教えますが、イエスさまはご自分のことを「人の子」と言われました。それは神の子、救い主である方なのに、人間としてこの世に、私たちのところにおいでになった、ということです。このことについてフィリピの信徒ヘの手紙2章6~8節にはこう書かれています。
2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
 今日お読みしましたイエスさまの言葉の中に「多くの苦しみを受け」、「殺され」とあります。それはイエスさまが十字架にかかって死なれることを示しているのです。それは私たち人間を罪から救うためでした。
 ところで、このことをイエスさまが話されたことについて、「弟子たちに教え始められた」とあります。教え始める。ペトロは信仰告白をしました。イエスさまはメシア、私の救い主です、という信仰告白でした。他の弟子たちもペトロの後に続いて、信仰告白をしたのではないか、と私は想像しています。そして、イエスさまはご自分の弟子たちが信仰告白をしたことを受けて、教え始められたのです。
 ここにおられる方の中にも、イエスさまは私の救い主です、と信仰告白された方がおられます。イエスさまを信じた。よかった、よかった。でも、それはゴールではないのです。スタートです。信仰告白をしたというのはイエスさまを信じて生きるスタートラインに立った、ということです。まだはっきりとはイエスさまのことは分からない。これでいいのだろうか?皆さんの中にもそういう思いをお持ちになった方がおられるかもしれません。それでいいのです。まずはスタートラインに立つことが大事です。
 それをご覧になって、イエスさまは教え始められるのです。さあ、これから私と一緒に歩み出そう!と言われるのです。その最初の言葉、第一声が十字架と復活でした。記念すべき第一声、ところが次の32節にはこのようなことが書かれています。
8:32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
 イエスさまは十字架と復活、イエスさまが十字架にかかって死なれ、三日目に復活されるということをはっきりとお話しになりました。この「はっきりと」というのは、「公然と」(田川建三訳)と訳すことができる言葉です。ただ言葉として明確に、はっきりと、というだけの意味ではなく、十字架と復活について、公然と、つまり、おおやけにお話しされた、ということです。
 それを聞いたペトロはイエスさまをわきへお連れして、いさめ始めた、というのです。イエスさまを弟子のペトロが叱った、というのです。おそらく、ペトロは私の救い主であるイエスさまがそんなことになるはずはない!イエスさまを敬愛するからこそ、イエスさまを叱ったのでしょう。これに対して、イエスさまはどうされたでしょうか。そのことが33節に書かれています。
8:33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
 今度はイエスさまがペトロを叱っています。それもかなり強烈な言葉です。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」。まるでペトロをサタン呼ばわりしているような言葉です。確かにイエスさまはペトロに向かって言われましたから、ペトロをサタンと呼んだように思えますが、私は二つの意味でイエスさまはこのことを言われたのではないか、と思います。
 一つは、イエスさまはペトロを誘惑するサタンに対して、「サタン、引き下がれ」と言われたのです。サタンよ、私の愛するペトロを誘惑してはならない!と叱りつけたのです。イエスさまご自身、サタンの誘惑を受けたことがあります。今日読んでいるマルコによる福音書では1章12、13節に書かれていますが、これよりももっと詳しい内容が、マタイによる福音書4章1節から書かれています。イエスさまはサタンの誘惑に対して、神さまの言葉によって退けられました。そして、今日の箇所でも主は「サタン、引き下がれ」と言われ、ペトロを誘惑から守ったのです。
 もう一つの意味はペトロ自身に対してです。ペトロよ、サタンの誘惑に陥ってはならない。人間の思い、自分の思い、それ以上に、神さまの思いを優先させなさい、と言われたのです。サタンは私たちが人間の思い、自分の思いを優先させようとする時、それにつけ込んできて、私たちを神さまから引き離そうとさせるのです。
 ところで、「サタン、引き下がれ」という言葉ですが、直訳的には、「サタンよ、私の後ろに失せろ」(岩波訳)ということです。イエスさまの後ろに行ってしまいなさい、ということです。ところがイエスさまの後ろではなく、前に行こうとするなら、それはイエスさまを主としていないことになります。自分が前にいて、イエスさまを従わせようとする。それはイエスさまの弟子の生き方ではありません。イエスさまを主と信じる人はイエスさまの後に従うのです。
 ペトロは弟子たちの中で率先して信仰告白をしました。信仰告白をさせたのは神さまのお働きによることです(マタイ16章17節)。それなのに、ペトロは自分の悟りや力で決心し、信仰を告白したのだ!と考えてしまったのかもしれません。それでイエスさまの後ろではなく、前に出てしまったのです。イエスさまが語られた十字架と復活、救いのみわざを否定してしまったのです。それでイエスさまはペトロをお叱りになりました。
 私たちもこのペトロのように、主と共に歩んでいながらも、イエスさまの言われることから離れてしまう。イエスさまの後ではなく、前に進んでしまうことがあるかもしれません。その時、イエスさまのこの厳しい言葉を思い起こしたいと思います。「サタン、引き下がれ」。イエスさまの後ろに行きなさい!イエスさまの後に従っていきましょう。この後、イエスさまは弟子たちだけでなく、群衆にも語ります。
8:34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。8:35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。8:36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。8:37 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
 イエスさまの招きは弟子たちだけでなく、群衆にもあることが分かります。弟子たちのように明確な確信、信仰を持った人たちだけでなく、群衆にも、つまり、誰にでも、主は呼びかけておられるのです。教会に初めて来られた方、今まで聖書も知らない、キリストのことも知らない・・・。そういう方にも、イエスさまは語りかけておられるのです。私たちはイエスさまの招きはすべての人にあることをおぼえ、人々にイエスさまを伝えていきましょう。

(むすび)
 「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」。このイエスさまの言葉は分かりそうで、分かりにくい言葉かもしれません。ある方はこのようにこの言葉を解説しています。
「自分の命を自分のものだと思い込んでそれにしがみつく人が、皮肉なことに、最終的には命を失うのに対し、イエスからヒントを得て、イエスから受けた感動で、この命はもう自分の所有とは考えられなくなった人が、かえって本当の意味での命を全うすることになる。イエスのため、またイエスの救いを人に受けてもらうためには、この命は手放して、お委ねして使っていただこうと、進んで「命を失う」ことを申し出る人が、結果としては、「命を救う」」(織田昭)。
命は誰のものでしょうか?自分の命は自分のもの!そう答えるでしょうか。命は神さまが与えてくださったものです。先日の祈祷会でも、「使命」という言葉について触れました。使命という字は「命を使う」ということです。私に与えられた命を何に使うか。先ほどのイエスさまの言葉の中に、私のため、福音のために命を失う、ということが言われていましたが、言い換えるなら、イエスさまのため、福音のために命を使うということです。そのような生き方、人生こそは救いを得た生き方、人生なのです。

祈り
恵み深い主なる神さま
 主はすべての人を招いておられます。ご自分と一緒に人生を歩まれることを願っておられます。そのことを知る私たちは一人でも多くの人々にこのイエスさまの招きをお知らせしていくことができますように。
 主は私たちに命を与えてくださいました。しかし、そのことを忘れ、命を与えてくださった方のことを無視して、自分の思いのままに、欲望のままにこの命を使おうとしてしまう私たちです。
 「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」という聖書の言葉を聴きました。この命をイエスさまのため、福音のために使う時、私たちの命は救われた命となるという主の言葉を聴きました。
主のために、誰かのために、という生き方を示されます。イエスさまこそは私たちのために生きられた方、私たちを愛し抜かれた方でした。イエスさまの後に続く者とさせてください。~ために、という生き方、愛するという生き方へ、そして、そこから、生きること、生かされていることの本当の喜びを教えてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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