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【礼拝説教】2021年1月17日「目標を目指して走る」

聖書―フィリピの信徒への手紙3章12~16節
(はじめに)
今日の説教題を「目標を目指して走る」としました。目標、皆さんは何か目標をお持ちでしょうか?もう新年が明けて半月が過ぎましたが、よく聞かれるのが新年の抱負ということです。抱負というのは計画とか決意のことです。新年の計画、決意、教会は今年、会堂の全面改修工事という計画を立てようとしています。どうぞ、このことのためにお祈りください。この板橋・赤塚の地において、みんなで神さまを礼拝する場として、イエスさまの福音を宣べ伝える拠点として、建物が整えられ、また私たち一人一人が教会ですから、私たち自身が霊的にも整えられることは大切なことです。祈りつつ、歩んでまいりましょう。

(聖書から)
お読みしました聖書の箇所はフィリピの信徒への手紙3章12~16節です。新共同訳聖書では、「目標を目指して」という小見出しが付いています。説教題もこのままでもよいと思いましたが、14節に「ひたすら走る」ということが書かれていました。ひたすら走る。目標を目指してひたすら走る。そういうことから、今日の説教題にしました。まず、12節をお読みします。
3:12 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。
ここに「完全な者」ということが言われていました。この手紙を書いたパウロは「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません」と言っています。私は既に完全な者となっているわけではない、というのです。この言葉の背景には、「私はもう既に完全な者となっている」、そのように言う人たちがいたことが考えられます。皆さんはいかがでしょうか?私はもう既に完全な者。そのように自分のことを言うことができる方はおられるでしょうか?
おそらく、そういうことを言う方は誰もいらっしゃらないと思います。でも、このように言われる方はあるかもしれません。私はもう十分に神さまのために働いてきた。誰かに比べたら、私の方が信仰生活は長いし、よく教会のことも、聖書のことも分かっている・・・。私は完全な者とは言わなくても、もう私は十分やっている、分かっている。そのように言われる方はあるかもしれません。
この手紙を書いたパウロは大変優れた伝道者であったと言われる人です。そのパウロ自身はこのように言っています。「既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めている」。パウロは、自分は完全な者ではない、と言っています。だからこそ、何とかして、捕らえようと努めているのだ、というのです。捕らえようと努めているというのは、もっともっと頑張らなければならないということでしょうか?完全な者というのは、完全無欠な者になろうということでしょうか?
私はこの完全な者ということについて、ある方が書いてあるものを読み、とても考えさせられました。それは旧約聖書の創世記6章9節にノアという人、この人は神さまの言われたことに従って、箱舟を作ったことで知られていますが、ノアのことをこのように書いています。「その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった」。ノアのことを「無垢な人」と書いています。これと同じように、ヨブについても、こう書かれています。「ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で」(ヨブ記1章1節)とあります。これが口語訳聖書では、ノアについては「ノアはその時代の人々の中で、正しく、かつ全きひとであった」とあります。ヨブについては「ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく」とあります。この「全き人、完全な人」、それがなぜ、新共同訳聖書では「無垢な人」と訳されたのだろうか?と思っていましたが、その方が言われるのは、言葉そのものは全き人、完全な人で正しいけれども、意味としては無垢な人という方が正しいのだ、と言われるのです。つまり、この完全さというのは、まったく間違い、欠点がないとか、非の打ち所がない、ということではなく、神さまに対して無垢であること、神さまに対する素直さと言ったらよいでしょうか。このことについては、いろいろな解釈、理解はあるでしょうが、私は、それはとてもよい解釈、理解であると思いました。
さて、今日の箇所に戻りますが、12節の最後の部分はとても印象的な言葉です。「自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」。自分がキリストに捕らえられている。私はこの言葉を読んで、イエスさまが言われたある言葉を思い出しました。それは「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」(ヨハネ15章16節)という言葉です。イエスさまを信じたとき、私がイエスさまという素晴らしい方を選び取った。そう思ったら、実は既にそれに先だって、イエスさまがこの私を選んでいてくださった、ということが言われています。パウロの言葉もこれと似ています。私が捕らえようとする前に、イエスさまがこの私を捕らえてくださっていた。イエスさまが私たちに先立って、私たちを選んでくださった、捕らえてくださった、そのことを私たちはしっかりと心に刻んでいたいと思うのです。
パウロは続いて、このように語ります。
3:13 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、3:14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。
先ほどの繰り返しのような言葉です。私は既にそれを得てはいない、既に完全な者にはなっていない、既に捕らえたとは思っていない。そういう私がなすべきことは何かというと、ただ一つのこと。それは「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ること」というのです。
後ろのものとは何でしょうか?ある先生は罪のことだ、と言われました。後ろを振り返ってはならない。それはもう罪に囚われてはならない、ということです。どうして、そう言えるのかというと、私たちはもう罪に支配されていないからです。イエスさまの十字架の救いによって、罪から解放されているのです。過去の罪を思い起こして心が沈むこともあるでしょう。今でも、罪の誘惑に翻弄されそうになることもあるでしょう。しかし、イエスさまが私を罪から救い出してくださった。守ってくださった。そのことを信じていくのです。
それでは前のものとは何でしょうか?それは神さまの方を向くということです。ヘブライ人への手紙12章1、2節にはこのようなことが書かれています。
12:1 こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、12:2 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。
ここに「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」とあります。前のもの、イエスさまを見つめながら、私たちは走るのです。イエスさまを見つめて、ひたすら走る。
さらに14節には「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞」とありました。ある先生は神さまが与えてくださるご褒美と言っています。神さまのご褒美というと思い出すことがあります。もう天に召された方ですが、その方は教会の働きをコツコツと担っておられた方でした。その方とお話ししたとき、ニコニコしながら、こう言われたことを思い出すのです。私はこの地上での生涯を終えたら、神さまの御国で「忠実な僕だ、よくやった」(マタイ25章21、23節参照)とお褒めの言葉にあずかりたいと思っています、というのです。先ほど、無垢な人ということをお話ししましたが、この方は本当に神さまに対して、無垢な人、素直な人だと思いました。完全な者、それはまさにこのようなことだと思います。

(むすび)
今日の箇所の16節に「わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです」とありました。「到達したところ」、これはどういう意味でしょうか。「それぞれが自分の分を知る」とか、「自分の本当の姿を知る」ということでも考えられると思います。ある先生は「神さまがお決めになったところ」と言われます。私は12節にありました「キリストに捕らえられている私」ということで考えるとよいのではないかと思います。到達しているところに基づいて、それは、イエスさまに捕らえられている私というところから、すべてを始めていくということです。イエスさまに捕らえられている私。言い換えますと、イエスさまに愛されている私、イエスさまはこの私を愛するがゆえに決して離さない。ヨハネによる福音書10章28節には「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」とあります。イエスさまに捕らえられている私、イエスさまに愛されている私。このことを知るからこそ、私たちはイエスさまの愛に応えていきたい、イエスさまと共に歩みたいと思うのではないでしょうか。お祈りいたします。

祈り
恵み深い主なる神さま
私たちは今日もあなたを礼拝するために教会に集いました。新型コロナ感染拡大が続く中にあります。この会堂に集まった人たち、またご家庭を礼拝の場として、オンラインを通して集まった人たち、どうぞ、そのお一人お一人に主が語りかけ、主の恵みをお与えください。
パウロは捕らえようと努めていると言いましたが、それに先だって、自分を捕らえてくださった主の恵みをも語りました。私たちも自分が既に主に捕らえられていることをおぼえる者でありますように。私たち自身は人間的な弱さのゆえに主から離れそうになりますが、主は私たちをしっかりと捕らえてくださり、離さないでいることを忘れることがありませんように。主なるイエスさまを見つめて歩ませてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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