【礼拝説教】2021年2月28日「私を強めてくださる方」
聖書―フィリピの信徒への手紙4章10~23節
(はじめに)
この礼拝の説教の聖書箇所として、フィリピの信徒への手紙から語ってきましたが、最後の箇所となりました。この聖書箇所は、パウロがフィリピの教会に書き送った手紙の最後のまとめの部分ということになります。新共同訳聖書の小見出しでは、10節以下が「贈り物への感謝」、そして、21節以下が「結びの言葉」となっています。つまり、この手紙は最後に感謝の言葉で結ばれています。
(聖書から)
パウロの感謝、それはどういうものだったのでしょうか?10節にはこのようなことが書かれています。
4:10 さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。
フィリピの教会の人たちがパウロへの心遣いを表してくれた、ということ、これは具体的には、フィリピの教会がパウロのために献金をささげてくれたことを言っているのです。それによって、パウロは助けられ、支えられました。パウロはそのことを「主において非常に喜びました」と書いています。先週お読みしました聖書の箇所にも、「主において」という言葉が出てきました。「主において同じ思いを抱きなさい」(2節)。「主において常に喜びなさい」(4節)。主が、対立している人たちを同じ思いを抱くことができるようにしてくださる。主が、私たちを常に喜ぶことができるようにしてくださる。そして、今日の箇所でも、パウロは「主において非常に喜びました」と言っています。
フィリピの教会の人たちが、パウロのために献金をささげてくれた。それは主が、フィリピの教会の人たちにパウロを助けよう、支えようと思う心を与え、献金をささげるようにしてくださったのです。もちろん、フィリピの教会の人たちの自分に対する心遣いは大変嬉しいことであり、感謝なことであるけれど、そのことをさせてくださったのは神さまなのだ。そのことをパウロは心から喜んでいるのです。
私はこの箇所を読み、考えさせられたことは、キリストの愛からキリストへの愛へと進む、ということです。キリストの愛というのは、神さまが私たちを罪から救うために、ご自分の愛する子であるイエス・キリストをお送りくださったこと。イエスさまが私たちのために十字架にかかってくださり、死んでくださったことです。キリストの愛、このことはイエスさまを救い主と信じる人は知っているし、信じています。けれども、そこから、キリストへの愛というところまではなかなか進まないでいる。これは自分自身のことでそう思っています。キリストが私を愛してくださっていることは知っているけれど、信じているけれど、キリストを愛するということができないでいる・・・。皆さんはどうでしょうか?
ヨハネの手紙一4章9~11節にこのような言葉が書かれています。
4:9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。4:11 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。
この箇所を読むと、私たち人間には神さまに対する愛がないことが分かります。そういう私たちですが、神さまが私たちを愛してくださった。そのことを知った私たちは互いに愛し合うのです。愛されていることを受け止めていくとき、私たちの中の愛が育っていき、愛することを求める、喜ぶようになるのです。ここに「神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」とありますが、この「互い」というのは、私たち人間同士ということで理解してよいと思いますが、私たちが愛し合う関係というのは、人間同士に留まりません。もう一つの愛し合う関係、それは神さまを愛するということです。私たちが神さまから愛されているように、私たちも神さまを愛するということです。この箇所の後のところには「神を愛する」(一ヨハネ4章20、21節、5章1~3節)ということが繰り返し、書かれています。
パウロとフィリピの教会の関係、それは互いが神さまに愛されていることを知り、愛されている喜びから、今度は神さまのために、と神さまを愛することへと生き方が変えられていった関係なのです。先ほどお読みしましたヨハネの手紙一4章の21節には「神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです」とありました。パウロがフィリピの教会を愛すること、フィリピの教会がパウロを愛すること、それは神さまを愛することを具体的に表しているのです。これに続いて、パウロはこのようなことを書いています。
4:11 物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。4:12 貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。4:13 わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。4:14 それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。
パウロはフィリピの教会の人たちの心遣いを喜び、感謝しました。その話の中で、自分のこれまでの歩み、生き方についての証しをしています。11節の「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えた」という言葉は印象的です。自分の置かれた境遇。それは人それぞれでしょう。少し前にカトリックのシスターの渡辺和子さんが『置かれた場所で咲きなさい』という本をお書きになりました。この本の題名とパウロの言葉は似ていると思います。しかし、このパウロの言葉、渡辺和子さんの言葉を聞いて、そこで満足するとか、そこで咲くと言っても、置かれた境遇、置かれた場所によるのではないか?そんなことはなかなかできるわけがない!と言われる方があるかもしれません。
パウロのこの後の言葉を読んでみますと、貧しさにある時、豊かさにある時、という話が続けられ、パウロの置かれた境遇も様々であったことが言われています。しかし、その様々な置かれた境遇の中でも満足することができた、と言うのです。「自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えた」とあります。習い覚える。パウロは自分の置かれた境遇に満足することがすぐにできた、というのではなかったかもしれません。貧しさや苦しみの中で、満足どころか、不平不満ということもあったかもしれません。それが習い覚えさせられたのです。12節の後半からもう一度読んでみますと、「いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」(12、13節)。私を強めてくださる方のお陰で、自分の置かれた境遇に満足することができるようになったというのです。
パウロが自分の置かれた境遇に満足することができるようになったのは、渡辺和子さんが自分の置かれた場所で咲くことができるようになったのは、自分が一生懸命、努力して、忍耐して、ということが言われているのではありません。私を強めてくださる方によって、自分の置かれた満足することができるようになった、自分の置かれた場所で咲くことができるようになった、ということが言われているのです。そして、私を強めてくださる方、私を強めてくださる神さまというのは、どんな時も、どんな状況、場所でも、そこでも主は私と共にいてくださる、生きて働いておられる。その信仰によって、パウロは強められたのです。
17節をお読みします。
4:17 贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。
パウロはフィリピの教会からの贈り物を心から感謝しました。フィリピの教会の人たちへの感謝、そして、フィリピの教会の人たちに愛を与えてくださった神さまに感謝しました。そして、パウロはフィリピの教会の人たちにこのように言います。「あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです」。パウロの心からの望み、それはフィリピの教会が豊かな実を結ぶことでした。信仰の実りということです。フィリピの教会がパウロのために贈り物、献金をささげたことは、フィリピの教会が信仰において豊かにされた、成長したことの表れ、証しなのです。パウロが神さまのために働きをしている。福音宣教に励んでいる。そのことを知るフィリピの教会はパウロがさらに神さまのために働くことができるように、とパウロを助け、支えた。パウロとそのような形で働きを共にした、ということなのです。このことについて、パウロはこう書いています。「それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました」(14節)。
(むすび)
19節をお読みします。
4:19 わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。
ここで注目していただきたいのは、神さまはご自分の栄光の富に応じて、と書いてあることです。私たちはもしかすると、自分がこれだけささげたら、そのささげた分に応じて、神さまは私に必要なものを満たしてくださる、と考えるかもしれません。しかし、ここに書かれているのは、神さまはご自分の栄光の富に応じて、キリストによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださるということです。これはどういうことでしょうか。神さまは私たちがささげた分に応じて、というのではなく、ご自分の栄光の富に応じて、それは私たちがささげた分以上に、はるかに超えて、私たちに必要なものをすべて満たしてくださるということです。神さまは私たち以上に、私たちが必要なものを本当にご存じの方です。その神さまを信頼し、神さまに祈り求め、神さまに従って歩んでいきましょう。
祈り
恵み深い主なる神さま
使徒パウロはフィリピの教会の愛に感謝しました。またフィリピの教会に愛を与えてくださった神さまに感謝しました。今日の聖書箇所にも「主において」という言葉が語られていました。フィリピの信徒への手紙は「喜びの手紙」とも言われています。人間的に考えるなら、喜べるような状況ではなかったにもかかわらず、パウロは喜びを語り、喜びに生きる者となりました。それは喜びの源であるイエスさまが共におられることを信じていたからでした。私たちも「私を強くしてくださる方」、イエスさまが共におられることを信じて歩む者とさせてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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