【礼拝説教】2021年5月30日「神がみ心に留めてくださった者」
聖書―詩編8編1~10節
(はじめに)
旧約聖書の詩編を読みました。詩編は全部で150編あります。この詩編から、私は祈りということを教えられます。祈りとは何でしょうか?ひと言で言うならば、祈りは神さまとの交わりです。神さまとお話しすることです。そして、お話しすることによって、神さまという方はどのような方であるか、神さまという方はどのようなことをお考えになっているかを知ります。
今日お読みしました詩編8編、その最初のところには、「指揮者によって。ギティトに/合わせて。賛歌。ダビデの詩」とありました。「指揮者」とか、「賛歌」ということから分かることは、詩編は賛美歌でもあった、ということです。私たちがこの礼拝で賛美歌を歌いましたが、詩編の言葉も賛美歌として歌われていました。「ダビデの詩」とありました。イスラエルの王さまであったダビデの信仰をこの詩編から教えられるということです。
(聖書から)
まず、2節をお読みします。
8:2 主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます
神さまを賛美しています。「あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう」。神さまは力強いお方と言っています。別の訳では「尊い」お方(口語訳)と訳されています。
3節も読んでみます。
8:3 幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き/報復する敵を絶ち滅ぼされます。
皆さんのお手もとに聖書をお持ちであれば、ご覧いただきますと、2節の最後の言葉と3節の最初の言葉は一緒に読んだ方が良さそうです。「天に輝くあなたの威光をたたえます 幼子、乳飲み子の口によって」(2、3節)。誰が神さまを賛美しているでしょうか?幼子、乳飲み子の口が神さまを賛美しているというのです。
「幼子、乳飲み子」というのは、小さく、弱い存在のことを意味します。小さく、弱い存在、私たちのことですね。それだけでなく、幼子、乳飲み子というのは、文字通り、理解しても良いでしょう。小さな子どもたち、赤ちゃんが神さまを賛美する。私たちのように、賛美歌を歌うということは難しいかもしれませんが、その存在そのものが神さまを賛美していると考えたらどうでしょうか?
イエス様は天の神さまのことをこのように呼びかけて祈りました。「アッバ、父よ」(マルコ14章36節)。赤ちゃんが初めて口にする言葉は、ママとか、パパだそうです。アッバというのは、それと同じです。赤ちゃんが親に呼びかける言葉です。イエス様は天の神さまの前で、子供のようになって、神さまに呼びかけ、祈ったのです。私たちの賛美も、私たちの祈りも、そのようなものでありたいと思うのです。
8:4 あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。
4節の言葉を読みました。神さまのことを「創造主」と言います。神さまはすべてのものを創造された、造られた方です。常盤台教会に栗山さんという方がおられました。今年、神さまのみもとに召されましたが、私が栗山さんに初めてお会いした時、おっしゃっていた言葉は忘れられません。「学生時代、教会に行ってすぐ、ある聖書の言葉に出会った。それは「初めに、神は天地を創造された」(創世記1章1節)という言葉だった。神さまがすべてのものを造られた、私を造られた。そのことを知って、すぐに神さまを信じた」というのです。そのお話を聞いて、何とシンプルな、素朴な信仰だろうと思いましたが、まさに幼子、乳飲み子のような信仰ですね。神さまが求めておられる信仰はそういう信仰だと思うのです。
「月も、星も、あなたが配置なさったもの」。神さまはこの地上のものを造られただけでなく、月や星も造られました。つまり、全宇宙を造られたというのです。神さまの創造のわざに感動し、感謝し、賛美する言葉がここに書かれているのです。
8:5 そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。
神さまの創造のわざを賛美する詩人は、さらにこのようなことを言っています。「そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは」。すべてのものを創造された神さまは、私たち人間をみ心に留めてくださった。私たち人間を顧みてくださった。
ある方が神さまを信じた時、神さまの前に自分がどんな存在であるか、どのような者であるか、そのことを証しされました。この方はこう言われました。「私は神さまに出会って、神さまの前には自分がどんなに小さな者であるかを知りました。神さまの大きな愛に比べるならば、自分は本当に小さな、小さな愛、いいえ、愛のないような者です。でも、そういう私を神さまが愛しておられることに感謝します」。
私たち人間は、自分が何か偉い者であるかのように、大きな者であるかのように考えてしまうことがあります。自分と人を比較して、私の方が勝った!私の方が強い、頭が良い・・・。でも、神さまの前には、みんな小さな存在、弱い存在です。使徒パウロは私たち人間が「土の器」であると言い表しました(二コリント4章7節)。
4:7 ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。
土の器というのは、もろく、崩れやすいものです。私たち人間はそういうものですが、その土の器の中に宝を納めているというのです。その宝とは何かというと、「並外れて偉大な力」、福音です、イエスさまご自身です。小さな、弱い私たちですが、福音に、イエスさまに支えられて、生かされて、立っていくことができる、生きていくことができるのです。
そういう私たちに、神さまは大切な使命を与えてくださいました。そのことが6節以下に書かれています。
8:6 神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ
8:7 御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。
8:8 羊も牛も、野の獣も
8:9 空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。
まず、人間はどのようなものとして造られたか、このように書かれています。「神に僅かに劣るものとして人を造り」。神さまに僅かに劣るもの。どういうことでしょうか?このことを理解するために、創世記1章26、27節を読んでみましょう。
1:26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
神さまはご自分にかたどり、ご自分に似せて、人間を造られました。神さまに僅かに劣るもの、というのは、そういう意味です。神さまというと、何か神話などでは、真っ白なお髭で杖を持っているような風貌ですが、そういうことが言われているのではありません。神さまにかたどりとか、似せて、というのは、人間は、神さまの心、思い、意志を表す存在として造られた、ということです。
そういう私たち人間に神さまが与えられた使命、それは「御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました」(7節)とありますが、「治める」ということです。「治める」、お読みしました創世記の言葉では「支配する」とありますが、人間が自分の好き勝手に、神さまの造られたものを治める、支配するということではありません。神さまのみ心に従って、正しく管理するように、ということが言われているのです。ある注解書には「命の管理」とありました。私たちは神さまのみ心に従って、正しく管理しているでしょうか?神さまから与えられた命、自分の命、お互いの命、そして、動物や植物の命を正しく、大切に管理していくのです。管理する、ということを言い換えるならば、愛する、と言っても良いでしょう。そのために神さまのみ心を知る。神さまのみ心が示されている聖書から神さまの言葉を聴き、それに従っていくことが求められているのです。
(むすび)
今日の説教題は「神がみ心に留めてくださった者」としました。神さまがみ心に留めてくださる人とはどういう人でしょうか?優れた能力のある人でしょうか?熱心な信仰の人でしょうか?いいえ、神さまに造られた私たちすべての者を神さまはみ心に留めてくださっているのです。「天に輝くあなたの威光をたたえます 幼子、乳飲み子の口によって」とありました。幼子、乳飲み子が親を慕い求めるように、私たちも神さまに祈り、賛美し、神さまが与えてくださった使命に生きる者でありたいと思います。
祈り
恵み深い主なる神さま
私たちは自分が神さまのみ心にかなった歩みをしているか、不安になります。神さまのことを忘れ、自分の思いのままに歩んでしまっていることの多い者です。
そういう私たちを神さまはみ心に留めてくださっている、顧みてくださっている、と今日の詩編の言葉に語られていました。私たちは神さまの一方的な愛、憐れみによって生かされていることを感謝します。
神さまが与えてくださった使命、それは命の管理ということ、互いに愛し合うということです。けれども、私たちには、愛するということが分かりません。自分勝手な愛に留まってしまうことばかりです。主の言葉から本当の愛を教えてください。そして、神さまの愛に生きる者としてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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