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【礼拝説教】2021年10月31日「私の幸いは何か」

聖書―詩編16編1~11節
(はじめに)
 今日は10月31日です。この日はプロテスタント教会にとっては記念すべき日です。1517年、今から504年前に、マルティン・ルターが宗教改革を始めました。これによって、プロテスタントの教会が始まりました。この改革はカトリック教会に対するものでしたが、今を生きる私たちが改革ということを考える場合、それは自分自身に対する改革ということだと思います。新約聖書・コリントの信徒への手紙二5章17節には、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」という言葉があります。イエス・キリストと結ばれた人は、誰でも新しく創造された者とあります。古いものというのは、罪に支配され、自分を中心に生きてきた者ということです。それが過ぎ去り、新しいもの、キリストに支配され、神さまを中心に生きる者。それが今の私たちです。日々、主によって改革されていくように、新しくされていくように、祈り求めていきましょう。

(聖書から)
 お読みしました聖書の言葉は詩編16編です。毎週水曜日に行われています祈祷会の中でも10月から詩編を学んでいます。詩編の詩人はこのように語ります。
16:1 【ミクタム。ダビデの詩。】
神よ、守ってください/あなたを避けどころとするわたしを。
 冒頭には、「ミクタム。ダビデの詩」とあります。キリスト教関係の音楽会社にミクタムレコードという会社があります。おそらく、ここから取ったのだろうと思います。ミクタムというのは、罪を覆う、とか、贖う、という意味があると言われます。この詩編は、ダビデの詩とありますが、イスラエルの王であったダビデの詩であるとか、ダビデにささげられた詩であると言われています。
 「神よ、守ってください/あなたを避けどころとするわたしを」とあります。神さまこそは私を守ってくださる方、私の避けどころ、と言っています。私たちも、このような言葉で祈ることがあると思います。苦しみ、試練の中にある時、神さまが守ってくださるように、と祈ります。ダビデでしょうか、またある無名の詩人でしょうか、その人も神さまの守りを祈っているのです。
 教会に、十字架のアクセサリーを買い求めに来られた方がいました。その方は大きな事故に遭い、死ぬような思いをしたのだそうです。それで、神さまに守ってほしい、と願い、教会に来ました。その方は、「十字架のアクセサリーはありませんか?それをお守りにしたい」と言われました。私はその方にこのようにお答えしました。「十字架のアクセサリーはアクセサリーに過ぎず、それがあなたを守ることはできませんが、神さまがあなたを守ってくださいます。神さまはあなたを愛しておられ、あなたと共におられるお方です。その神さまが守ってくださると信じて祈ってみてください。私も一緒に祈ります」と言って、祈りました。
 イエス様がご自分の弟子たちに教えられたお祈り、主の祈りの中には、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」(マタイ6章13節)という祈りがあります。私たちも神さまの守りを信じて、祈っていきましょう。
 2節をお読みします。
16:2 主に申します。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」
 詩人は、神さまにこのように申し上げた、というのです。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません」。「私の主」と言っています。私の主人ということです。神さまを信じる時、私たちは信仰告白をします。それは神さまを信じます、という告白です。では、神さまを信じるとはどういうことかというと、神さまという方がおられる、神さまの存在を認める、ということに留まりません。大事なことは、神さまを「私の主」と言うこと、宣言することです。神さまを信じる前の私たちの主、主人は、自分でした。けれども、神さまを信じる時、その主が、主人が替わるのです。私が主、私が主人、いいえ、神さまが私の主、私の主人なのです。
 この詩人は、神さまを自分の主とした時、気づいたことがあります。そのことがここに言われています。「あなたのほかにわたしの幸いはありません」。神さまを自分の主とした時、それが幸い、幸せなのだ、ということに気づいたのです。
 ダビデの息子ソロモンが書いたと言われる聖書のコヘレトの言葉、ソロモンはダビデの後継者として、イスラエルの王となり、お金も、モノも、すべてを得たような人でした。ところが、そのソロモンがコヘレトの言葉の最初のところで、こう書いています。「なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい」(コヘレト1章2節)。
 虚無感でしょうか?すべてのものを得たことで、幸せになったかというと、そうではなかったというのです。そのソロモンが最後の結論として言っていることは「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ』。これこそ、人間のすべて」(コヘレト12章13節)。神さまを信じ、その語られる言葉に生きること、これこそが人間のすべて、本当の幸いと言っているのです。
 5、6節をお読みします。
16:5 主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。
16:6 測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。
 ここに「主はわたしに与えられた分」とあります。神さまご自身が私に与えてくださった恵みということです。これを読んで、不思議に思われた方があるかもしれません。と言いますのは、神さまという方は、私たちに、こういう恵みを、ああいう恵みを与えてくださる方であって、神さまご自身が、神さまそのものが私に与えられた恵みというのは、どういうことだろうか?
 この言葉の背景には、イスラエルのレビ人のことがあるそうです。イスラエルの十二部族の一つがレビ族、レビ人です。他の部族はそれぞれイスラエルの土地を与えられました。ところが、レビ人は与えられませんでした。そのことについて、聖書の言葉を読んでみます。「モーセはレビ族に対しては嗣業の土地を与えなかった。主の約束されたとおり、彼らの嗣業はイスラエルの神、主御自身である」(ヨシュア記13章33節)。ここに「彼らの嗣業はイスラエルの神、主御自身である」とありますが、レビ人は、祭司という神さまに直接お仕えする働きが与えられ、神さまから生活の糧、生きるために必要なものをいただくことになったのです。
 そして、「主はわたしに与えられた分」、神さまご自身が私たちに与えられた恵み。このことについて、私たちはもう一つのことを考えたいと思います。間もなく秋が過ぎると、クリスマスを迎えます。クリスマスとは、何でしょうか?クリスマスとは、神さまが私たちに最高のプレゼントを贈ってくださった出来事です。その最高のプレゼントとはもうお分かりだと思います。イエス・キリストです。ルカによる福音書には、そのことがこのように書かれています。「天使は言った。 『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである』」(ルカ2章10、11節)。イエス・キリスト、この方はすべての人に与えられる大きな喜びなのです。

(むすび)
 7、8節をお読みします。
16:7 わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。
16:8 わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。
 「わたしの心を夜ごと諭してくださいます」とあります。また「わたしは絶えず主に相対しています」とあります。この詩人は、神さまの前に相対する時を夜ごと、持っていたのでしょう。神さまの前に立つ時、これは大事な時です。この礼拝もそういう時でしょう。また皆さんそれぞれに主の前に一人、立ち、主の言葉を聴き、主に祈る時をお持ちになっているでしょう。11節には、このようなことが書かれています。
16:11 命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。
 神さまの言葉、それはこの詩人が「命の道を教えてくださいます」と言っているように、神さまは私たちが生きるために必要な命の言葉を与え、励まし、慰め、生かしてくださいます。「永遠の喜び」、それは永遠の命を約束された者の喜びです。
 今日も、この命の道、永遠の喜びを一緒におぼえ、分かち合うことができましたことを感謝します。さらに、この恵みが私たちを通して、私たちの出会う人たちに拡がっていきますように祈り、伝えていきましょう。お祈りします。

祈り
恵み深い主なる神さま
 詩編16編を分かち合いました。詩人はこのように語ります。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません」。
 神さまご自身が私の幸いと言っています。私たちも今、礼拝に集い、あなたを私の主と告白し、あなたこそは私の幸いと賛美しています。
 この礼拝から始まる新しい週の歩みの中でも、この告白、賛美を続けていく者にしてください。また新たに主に出会う人がありますように、私たちをお用いください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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