【礼拝説教】2021年11月7日「神の言葉は滅びない」
聖書―マルコによる福音書13章28~37節
(はじめに)
イエス様は弟子たちにこのように語られました。
13:28 「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。
この聖書の箇所は、小見出しにあるように「いちじくの木の教え」と言われる箇所です。イエスさまは人々に神さまの福音をお伝えしましたが、それは、例えば、今日の箇所でいちじくの木のことが例えられていますように、人々にとって、身近なものを使って、語られました。それは神さまの福音がみんなに分かるように、イエスさまは工夫されたのだと思います。人々に何かを伝えるとき、伝わるためにはどうしたらよいだろうか?創意工夫が大切です。私たちもイエスさまに倣って、神さまの福音を伝えることに励んでいきましょう。
(聖書から)
さて、まず1節の言葉をお読みしましたが、ここでイエスさまは「~学びなさい」とも言われました。学ぶということ。私たちの人生というのは、常に学ぶというものではないでしょうか。学ぶというのは、幼稚園、保育園、小学校、中学校・・・。学生時代だけではありません。仕事のことでも、家庭のことでも、学び続けることが大事です。イエスさまが言われた「~学びなさい」ということ、それは神さまの福音を学ぶということですが、それは同時に、人生を学ぶ、生きることを学ぶということでもあると思います。学ぶためには、聞くということが必要です。イエスさまは「聞く耳のある者は聞きなさい」(4章9節など)とも言われました。これは学びなさい、という意味でもあると思います。聞いて学びなさい。私たちはイエスさまの言葉を聞いて、学ぶ者でありたいと思います。
イエスさまはいちじくの木の話をされました。いちじくの木が新しい葉や新しい芽を出す頃というのは、冬の終わりを示します。私たちは春夏秋冬、季節の豊かな地域に住んでいます。冬が終わるというと、春が来て、そして、夏、秋となっていくわけですが、イエスさまは、いちじくの木について、「枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる」と言われました。これは冬の季節から春を飛び越えて、夏がやって来る、と言われているのです。そして、夏というのは実りの季節、嬉しい、喜ばしい季節です。
これに続いて、イエスさまはこのように言われました。
13:29 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。
「これらのこと」とは何でしょうか?今日お読みしました聖書の箇所の少し前のところには、終末、終わりの日がやがて来る、その前にその前兆、前触れがあるということが書かれていました(5~23節参照)。偽の救い主が現われ、戦争、地震、飢饉、迫害などが起こるということでした。それらのことは驚くべきことであり、恐れるようなことですが、イエスさまはこのように言われました。「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」。「人の子」というのは、イエスさまのことです。イエスさまが戸口に近づいている。イエスさまが再びおいでになるということです。その日が近づいていると悟りなさい、というのです。
イエスさまがこの言葉を語られた時、イエスさまの弟子たち、また人々はもうすでにいろいろな試練、苦しみに遭うようなことがありました。そういう彼らにとって、それらの出来事があったら、それはイエスさまが再びおいでになる日が近いということなのだ、ということを聞いて、励ましを受け、慰めを受けたのです。そのようにして、この二千年、繰り返し、繰り返し、この聖書の言葉が読まれ、これを聴いた人たちはイエスさまを待ち望み、イエスさまを希望として、生きてきたのです。そして、今を生きる私たちも同じように、この聖書の言葉を希望としていきたいと思うのです。
世界のあちらこちらで、偽の救い主、真の神さまではない者が神さまであるかのように現れたり、戦争が起きたり、地震や飢饉、迫害、そして、今は疫病も流行しています。そういう不安、心配の中で、私たちもイエスさまが言われた「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」、この言葉を私たちに語られた言葉として聴いていきたいと思うのです。
30節をお読みします。
13:30 はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。
イエスさまは「これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない」と言われました。イエスさまは私たちに「決して滅びない」と約束してくださっているのです。どうして、そのように言えるのかというと、次の言葉がその理由を示しています。
13:31 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
「わたしの言葉」、それは神さまの言葉ということです。神さまの言葉は決して滅びない。神さまの言葉を信頼して生きる者は決して滅びない、ということです。
ところで教会とは何でしょうか?教会とは、神さまの言葉に生きる群れです。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」、この言葉を信じる群れです。神さまにあっては、私たちは決して滅びることはない。永遠の命に生きる。このことを信じて歩んでいくのです。
これまで毎月二週ずつ、マルコによる福音書からお話ししてきました。この福音書を振り返ってみますと、イエスさまが福音宣教を開始された時のことがこのように書かれていました(1章14、15節)。
1:14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、1:15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
イエスさまはガリラヤで福音宣教を始められました。その第一声が「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」ということでした。この「神の国」というのは、「天の国」、あるいは「天国」と同じことです。私たちは、天国というと、死んだ後に行くところと考えるかもしれません。日本では一般的に、天国というと、そういう理解があります。しかし、この聖書の言葉を読むと、「時は満ち、神の国は近づいた」とあります。神の国、天の国は近づいた、というのです。これはどういうことかというと、イエスさまが私たちのところにおいでになったということです。イエスさまがおいでになって、この方を受け入れた者は神の国に、すなわち、永遠の命に生きる者とされたのです。
もう一つ、神の国について、今度はルカによる福音書17章20、21節から、聴いてみましょう。
17:20 ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。17:21 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
神の国はいつ来るのですか?という問いに対して、イエスさまはこのようにお答えになりました。「神の国は、見える形では来ない」。これを別の訳で見てみますと、「見える形では来ない」というところが「観察できるようなしかたでは来ない」(聖書協会共同訳)となっています。観察する、というのは、どういうことでしょうか?傍観者、ただ眺めているだけということです。聖書の言葉がどれだけ私たちにとって力であるかというと、眺めているだけでは分かりません、信じてみなければ分かりません。もしも、「まだ信じたくないけど・・・」という方がおられるなら、無理に信じなさい!とは言いませんが、実際にイエスさまを信じて、聖書の言葉に生きる歩みをしている方から聞いてみたらよいと思います。「実に、神の国はあなたがたの間にある」。神の国は、信じるあなたがたの間に、あなたがたの中にすでにあるというのです。なぜ、このようなことが言えるのかというと、信じる人たちの人生のただ中に、イエスさまはおられるからです。
(むすび)
神の国は信じる者たちのただ中ですでに始まっている。けれども、まだ完成していないのです。完成するのはいつの日か、というと、イエスさまが再び来られる時なのだ、と聖書は教えます。それまで、私たちはイエスさまが来られるのを待っていなければなりません。では、どのようにして待てばよいのでしょうか。33節以下に繰り返し語られている言葉があります。「目を覚ましていなさい」ということです。目を覚ましている、というのは、神さまの言葉を聴き、それに生きるということです。主は再び来られ、神の国の完成、救いの完成の日が来ることを待ち望みながら、神さまの言葉に聴き従っていきましょう。
祈り
恵み深い主なる神さま
主は再び来られます。主の教会は二千年もの間、その日を待ち望み、歩んできました。そして、今を生きる私たちも待ち望みます。
偽の救い主が現れたり、戦争、地震、飢饉、迫害、疫病などが世界中で起こっています。すると、私たちは世も終わりではないかと恐れおののきますが、主は、主の言葉に信頼して生きるなら決して滅びないと語っておられます。
その日を待ち望みながら、私たちは一日一日、主の言葉に聴き、主が求めておられることに励み、生きる者としてください。わたしたちを通して、新たに主に出会い、この方を受け入れ、神の国に生きる人がありますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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