【礼拝説教】2021年11月14日「ナルドの香油」
聖書―マルコによる福音書14章1~9節
(はじめに)
礼拝でお読みしてきましたマルコによる福音書も14章となり、大詰めとなりました。1、2節にはこのようなことが書かれています。
14:1 さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。14:2 彼らは、「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。
ここに「イエスを捕らえて殺そうと考えていた」とありますが、イエスさまは間もなく捕らえられ、十字架にかかることになります。イエスさまはいつもご自分と行動を共にした十二弟子と言われる人たちには、ご自分が十字架にかかること、死んで復活することはお話しされていました(マルコによる福音書では、8章31節、9章9、10節、10章33、34節)。しかし、それを聞いた弟子たちはその時にはよく分かっていませんでした。
私たちの信仰生活も、イエスさまの言葉を聞いても、理解できなかったイエスさまの弟子たちのようではないでしょうか。聖書を読んでも、その時には分からないでいる。しかし、後になって、語られている意味が分かってくる。そういうことが度々あると思います。
(聖書から)
さて、3節からは、イエスさまが重い皮膚病の人シモンの家に行った時の出来事が書かれています。私たちの教会で使用している新共同訳聖書で「重い皮膚病」となっている言葉は、古い聖書では「らい病」となっていました。らい病というのは、ハンセン病とも言われる皮膚と神経を侵す慢性の感染症ですが、最近の研究により、聖書で「らい病」と訳されていた病はそれとは違うことが分かり、最近の訳では、「重い皮膚病」、また「規定の病」(聖書協会共同訳)と訳されるようになりました。しかし、当時、この病の人たちが日本のハンセン病患者の人たちが受けていたような差別、苦しみを受けていたことは忘れてはならないことだと思います。また当時、その病のゆえに差別を受けていた人の家にイエスさまがおいでになった、ということは、イエスさまを信じる私たちに大切なこと、イエスさまの視点、イエスさまの関わりを教えていると思います。
3~5節をお読みします。
14:3 イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。14:4 そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。14:5 この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。
イエスさまがシモンの家で食事の席に着いておられた時、一人の女性が純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持ってきて、それを壊し、その中の香油をイエスさまの頭に注ぎかけた、ということです。このナルドの香油というのは、インドが原産の高級な香油でした。それがどれだけの価値があるかというと、5節に「この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」とありますように、三百デナリオン以上の価値があった、ということです。一デナリオンが当時の一日の労働賃金ということですから、約一年分の労働賃金に相当するということになります。
この一人の女性が行なったことについて、そこにいた何人かの人たちが憤慨した、ということです。この聖書の記事と似た内容の記事がヨハネによる福音書(ヨハネ12章1~8節)になりますが、それを参照すると、憤慨した人たちというのは、イエスさまの弟子たちだったようです。そして、彼らが言っていたことはこういうことでした。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」。この女性は香油を無駄遣いした、と言っています。こんな高価な香油ならば、三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施しができたのに。これは素晴らしい考えだと思います。正論とも言えます。
しかし、ここで気になることが二つあります。一つは、この女性はイエスさまの頭に香油を注ぎました。つまり、イエスさまのために香油を使ったのです。それが無駄遣いだというのです。それも、イエスさまの弟子たちが言っているとするなら、首を傾げたくなる発言です。私たちがイエスさまのために、教会のためにささげること、行なうことについて、もしかすると、私たちの周りの人たち、世の中の人たちは無駄遣いをしている、愚かなことをしていると思われるかもしれません。しかし、私たちは、イエスさまが私たちを罪から救うために十字架にかかって死んでくださったこと、三日目に復活してくださり、今、私たちと人生を一緒に歩んでくださっていることを信じていますから、イエスさまのためにささげること、行なうことというのは決して無駄遣いではなく、むしろ、神さまの恵みに対する感謝、喜びの表れです。
もう一つ気になることは、この女性がしたことを憤慨した人たちは、三百デナリオン以上の施しをしたのでしょうか?あの人はあれだけのものを持っているのだから、施せばよかったのに、と他人には要求していながら、自分自身はどうだったか?というと、そんな施しはしていなかったかもしれません。私たちはどんなに正しいことを言っても、正論を言っても、自分自身がそのように生きているのか?他人に要求するだけなら、それは真実な生き方ではないと思うのです。
イエスさまの弟子の一人ペトロがある時、イエスさまとこのようなやり取りをしました。その箇所を読んでみます(ヨハネ21章20~22節)。
21:20 ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。21:21 ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。21:22 イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」
ペトロは、この人はどうですか?この人はあなたに従う人ですか?それとも裏切る人ですか?とイエスさまに尋ねています。これは自分のことは棚上げにして、人のことを批判や批評している姿です。それに対して、イエスさまは「あなたは、わたしに従いなさい」とお答えになりました。あなたは、あの人、この人の批判や批評をする必要はありません。それよりも、あなた自身はどうしますか?あなたは私に従いますか?イエスさまはそのようにして、私たち一人一人に問うておられるのです。
今日の聖書の言葉に戻ります。イエスさまはご自分に香油を注いだ女性について、このように言われました。
14:6 イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。14:7 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。14:8 この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。14:9 はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
イエスさまは彼女のしたことを批判しませんでした。むしろ、このように言っておられます。「わたしに良いことをしてくれた」。「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」。
イエスさまはすでに何度か、ご自分が十字架にかかって死なれることを弟子たちに話していました。もしかすると、この女性はそのことを聞いていたかもしれません。ナルドの香油というのは、葬りの時に用いられたそうですから、この女性はイエスさまが死なれる時に備えて、香油を注いだ、ということも考えられます。また、油を注ぐ、というのは、王さまの任職を意味します。この女性はイエスさまこそは私の王であるということをこの行為によって表したのかもしれません。いずれにしても、はっきりしたことは分かりませんが、イエスさまご自身は「前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」とご自分の死を意識した言葉を語っておられます。この女性は自分では気づかないで、意識しないでしたことであったかもしれませんが、イエスさまは、私のために埋葬の準備をしてくれたのだ、と言われました。イエスさまは彼女の行なったことを通して、十字架の死、つまり、私たちを罪から救うみわざを示されたのでした。
(むすび)
イエスさまの頭に香油を注いだ女性。イエスさまは私のためにしてくれた良いこととして、このことを受け止めてくださいました。私はこの聖書の言葉を読みながら、私たちの教会の兄弟姉妹が主のために、教会のために、とささげ、行なっている一つ一つのことも、イエスさまは私のためにしてくれた良いことと受け止めてくださり、喜んでくださっていると思うのです。もしかして、自分では、自分のしていることは、誰かに比べたら、こんな小さなこと、たいしたことでもないのに・・・、と思っているかもしれませんが、どんなことでも、主はご存じであり、喜んでくださっているのではないでしょうか。私に良いことをしてくれた、自分のできることをしてくれた・・・。このイエスさまの私たちに向けられた愛のまなざし、喜びのまなざしをおぼえて、これからも主のために励みたいと思います。
祈り
恵み深い主なる神さま
ナルドの香油を主の頭に注いだ一人の女性の聖書の箇所を読みました。彼女がどのような思いから、動機から、このようなことをしたのかは分かりませんが、主は私のために埋葬の準備をしてくれた、と言われ、まもなくご自分が十字架におかかりになることをお示しになりました。
私たちが主のために行なうこと、それは自分では小さなこと、意味があるのだろうかと思えるかもしれませんが、主はすべてをご存じであり、主が喜んでくださっていることをおぼえて、私たちも主に従うことを喜び、生きる者にしてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
この記事へのコメントはありません。