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【礼拝説教】2022年11月27日「主に遣わされた群れとして歩もう」

聖書―マタイによる福音書28章16~20節
(はじめに)
 イエスさまの弟子たちが復活されたイエスさまに会いに行く場面が書かれている聖書箇所をお読みしました。その少し前の聖書箇所には、イエスさまの弟子たちよりも先に女性
の弟子たちが復活のイエスさまに出会ったことが書かれていました。その時の様子がこのように書かれています。
28:9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。28:10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
 復活されたイエスさまが女性たちに何と言われたかというと、その第一声は「おはよう」でした。これはユダヤの日常の挨拶の言葉です。口語訳聖書では、「平安あれ」と訳されています。イエスさまに出会ったら、私たちは平安が与えられるのです。そういう意味では、「平安あれ」という訳はとても良い訳だと思います。「おはよう」。これも良い訳だと思います。イエスさまはいつもと変わりなく、女性たちに「おはよう」と挨拶してくださった。女性たちは、イエスさまは死なれたけれど、復活されて、以前と変わることなく、私たちと共におられる。そう思ったのではないでしょうか。
 復活されたイエスさまは女性たちにこのように言われました。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」。イエスさまは「恐れることはない」と言われました。イエスさまはご自分の弟子たちによく「恐れるな」と言われました。それはなぜかというと、イエスさまは弟子たちのことをよく知っておられたからです。恐れている弟子たちの心を知っておられたからです。
 ヨハネの手紙一には、恐れについて、このようなことが書かれています。
4:18 愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。
 恐れていたら愛せないのです。私たちにはいろいろな恐れがあります。人を恐れています。世の中を恐れています。将来のことを恐れています。恐れているときの私たちの状態、それはどんな状態でしょうか?この人にどんなことをされるのだろう?身構えてしまう。身構えるだけではありません。武器を持って、相手の攻撃から自分の身を守ろうとします。そこには愛は生まれてきません。
 イエスさまはそういう弟子たち、私たちのことを知っておられ、「恐れるな」と言われたのです。「私のことを怖がらなくてもいいよ。私はあなたたちを愛しているよ。だから、あなたたちに会いに来たのだよ」。そして、イエスさまは、「私はガリラヤに行っているよ。そこで私に会うことができるよ」とご自分の弟子たちに伝えるように言われました。けれども、イエスさまは弟子たちのことを弟子たちとは言わず、「わたしの兄弟たち」と言われました。イエスさまの弟子たちは、イエスさまにとって、私の兄弟なのです、私の姉妹なのです。私たちのことも、イエスさまは、私の兄弟、私の姉妹と言っておられるのです。イエスさまは私たちのことを、私の兄弟、姉妹と言われた。それほどに親しい、近しい関係。あなたがたは私の家族なのだ、と言われたのです。私たちは神さまの家族なのです。

(聖書から)
 今日の聖書の箇所を見てみましょう。16節をお読みします。
28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。
 ここに「十一人の弟子たち」とあります。イエスさまの身近にいた弟子たちというのは、十一人ではなかったはずです。十二人の弟子たち、十二使徒とも呼ばれます。それなのに、ここには、十一人の弟子たちとあります。十二人の弟子たちが、十一人の弟子たちとなっている。つまり、一人欠けているのです。聖書をよくご存じの皆さんは、その理由は分かると思います。もう一人の弟子がいたのですが、その弟子はもういないのです。イエスさまを裏切ったのだから、仕方がない、と言えば、それまでですが、他の十一人というのは、イエスさまを裏切らなかった弟子たちでしょうか?いいえ、そうではありません。他の十一人も、つまり、弟子たちみんなイエスさまを裏切ってしまったのです。イエスさまが捕らえられ、十字架におかかりになる時には逃げ出してしまったのです。
 でも、この箇所にありますように、十一人がいるのです。十一人はどうして、そこにいるのでしょうか。イエスさまの赦しを信じたから、そこにいるのです。残念ながら、そこにいない一人。その一人はイエスさまの赦しを信じることができなかったのです。その一人も、そして、他の十一人も同じ罪人です。でも赦しを信じるか、信じないか。その違いです。それは大きな違いです。
 イエスさまは、その一人のことをどう思っておられたのでしょうか?私は、イエスさまはその一人のことを愛しておられたと思います。だから、とても悲しんでおられたと思います。イエスさまの悲しみがあった。そこにいるはずの一人がいない悲しみ。私はイエスさまのたとえ話を思い起こします。ルカによる福音書15章のイエスさまのたとえ話です。三つのたとえ話があります。共通しているのは、失われた者を捜し求める神さまの姿です。この箇所の7節を読んでみます。
15:7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
 悔い改めるというのは、神さまのもとに帰るということです。一人の人がご自分のところに帰ってくるのを喜ばれる神さまのことが書かれています。私たちが福音を宣教するというのはこのためです。一人の人が神さまのもとに帰るように。私たちもその一人なのです。神さまに喜ばれている一人なのです。
28:17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
 イエスさまは弟子たちに「宣教命令」と言われる言葉を語られました。それを聞いた弟子たちの様子がここに書かれていましたが、ひれ伏す者がいて、疑う者もいた、ということです。復活のイエスさまにひれ伏す者、そして、疑う者がいた、というのです。イエスさまはひれ伏す者だけに、宣教命令を語られたのでしょうか?いいえ、ひれ伏す者だけでなく、疑う者にも宣教命令を語られました。私たちも、この疑う者の一人かもしれませんが、そういう私たちにも主は語られました。信仰というのは、疑うこともあるのです。しかし、イエスさまがそういう私たちにも語っておられるのです。それはありがたい、嬉しいことです。

(むすび)
28:18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
 ひれ伏したり、疑ったりの私たちです。そういう私たちにイエスさまは語られるとき、「近寄って来て言われた」とありますように、イエスさまの方から近寄って来てくださるのです。私たちは時に、自分の心がイエスさまから離れているように思えることがあるかもしれません。私たちの信仰はひれ伏したり、疑ったり、熱していることがあるかと思えば、冷めてしまっていることもあります。しかし、イエスさまはそういう私たちに自ら近寄って来られ、語りかけてくださるのです。イエスさまの最期の言葉、とても大事な言葉だと思います。この言葉をおぼえておきましょう。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。私と共におられるイエスさまはあなたと共におられます。このことを伝えていく、分かち合っていくのです。

祈り
恵み深い主なる神さま
 福音を宣べ伝えよ、と主は言われました。福音とは主の言葉、イエスさまご自身です。イエスさまに出会う方がありますように。またイエスさまのもとに帰る方がありますように。イエスさまは私たちと共におられます。新しい日々も、主が共におられることの喜びを人々と分かち合うことができますように、私たちをお遣わしください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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