【礼拝説教】2023年8月6日「嵐を静める方」
聖書―マタイによる福音書8章23~27節
(はじめに)
今日の聖書個所は、このような言葉から始まります。
8:23 イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。
イエスさまが舟に乗り込まれた、ということが書かれています。少し前の聖書個所には、このようなことが書かれていました。
8:18 イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた。
イエスさまは、弟子たちに、向こう岸に行くように命じられました。この言葉から分かるのは、イエスさまと人々は湖のそばにいた、ということです。その湖というのは、ガリラヤ湖です。
イエスさまは舟に乗り込まれました。その舟というのは、教会を指している、また私たちの人生を指していると言われます。すると、教会に、私たちの人生にイエスさまはおいでになる。教会に、私たちの人生にイエスさまはおられる、ということになります。私たちは、このことを喜びたいと思うのです。イエスさまは私たちと一緒におられるからです。
(聖書から)
イエスさまは舟に乗り込まれました。その舟にイエスさまと一緒に乗り込んだ人たちがいました。「弟子たちも従った」と書いてあります。弟子たちというのは、イエスさまは私の主です、と信じる人たちです。イエスさまと弟子たちが乗っている舟はどうなったか、そのことが次の24節に書かれています。
8:24 そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。
ガリラヤ湖に激しい嵐が起こりました。そのために、舟は波に呑まれそうになった、というのです。先ほど、舟というのは、教会のこと、私たちの人生のことと言いました。イエスさまが一緒におられるならば、私たちは順風満帆の人生だろう、と思うかもしれません。けれども、イエスさまを信じても、私たちの人生にはいろいろなことが起こってきます。試練が起こってきます。イエスさまを信じたのにどうして?私たちは苦しみの中でどうしたらいいのか、と立ち尽くしてしまうかもしれません。この時の弟子たちも同じだったのではないでしょうか。
激しい嵐により、舟は波に吞まれそうになりました。イエスさまは、この時、どうしておられたのでしょう。このように書かれています。「イエスは眠っておられた」。一方、弟子たちはどうしていたのでしょう。25節をお読みします。
8:25 弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。
「弟子たちは近寄って起こし」とあります。弟子たちは眠っておられたイエスさまを起こしたのです。そして、イエスさまにこう言いました。「主よ、助けてください。おぼれそうです」。
舟が大変なことになっているのに、なぜ、イエスさまは眠っておられたのでしょう。とても不思議です。これについて、聖書の解説では、イエスさまは、日々の忙しさで大変疲れておられた。それで眠っておられた、とか、神さまに対する全面的な信頼のゆえにこの試練の中でも平安な心で休んでおられた、という説明がありました。
しかし、弟子たちは、平安どころか、不安で心がいっぱいでした。そして、イエスさまを起こして、こう言ったのです。「主よ、助けてください。おぼれそうです」。この言葉は別の訳では、このように訳されていました。「主よ、お救いを。私たちは滅んでしまいます」(岩波訳)。
「助けてください」が「救ってください」となっています。「おぼれそうです」が「滅んでしまいます」となっています。弟子たちは、大変深刻な様子であったことが分かります。
ある方は、この聖書個所について、弟子たちがイエスさまを眠りから起こしたのは、不信仰である、と言います。弟子たちは、イエスさまがどんな状況にあっても、眠っておられた。つまり、平安であったように、弟子たちもそのイエスさまに倣うべきであった、と言います。私もその考えには同意しますが、私がこの時の弟子だったらどうか、というと、やはり、舟の上でおろおろして、イエスさまを無理やり叩き起こしてしまうでしょう。助けてください!と叫んでしまうでしょう。頭ではこうだと思っていても、実際にはそうできない。本当に人間は弱い者です。
弟子たちに起こされたイエスさまはこの後、どうされたのでしょうか。26節をお読みします。
8:26 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。
イエスさまは弟子たちにこう言われました。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」。なぜ怖がるのか、とイエスさまは言われました。怖がる理由も併せて言われました。信仰が薄いからだというのです。別の訳では、「信仰の小さな者よ」(田川訳)となっています。怖がるのは、弟子たちの信仰が薄いから、小さいからだというのです。
私たちは、この時の弟子たちのことを他人事のようには言えません。おそらく、私たちもこの弟子たちと同じようなことになるでしょう。そして、イエスさまに同じことを言われるでしょう。信仰の薄い者、小さな者と。
これまでも、弟子たちはイエスさまと一緒に歩んできました。イエスさまが語られる神さまの言葉を聴き、イエスさまがなされた多くの救いのみわざを見てきました。私たちはイエスさまのことはよく知っている!私たちの信仰はそれで確かなものとなったはずだ。そのように自負した弟子たちもいたことでしょう。
イエスさまが舟に乗り込まれると、弟子たちもイエスさまに従います!どこまでも従います!と一緒に舟に乗り込んだのです。ところが、激しい嵐が起こった時、彼らはどうなったか?彼らの信仰はどうなったか?イエスさまから、信仰の薄い者、小さな者と言われるような結果であったのです。
激しい嵐。私たちの人生にも時に激しい嵐が吹き荒れることがあります。私たちも残念ながら、イエスさまのように平安の心で眠っているようなことはできません。イエスさまを起こして、叫ぶのです。「主よ、助けてください。おぼれそうです」と。
私は、この弟子たちの叫びの言葉を何度か繰り返し読んでいました。そして、弟子たちの生きることへの本気度を感じたのです。教会の印刷物の中に、教会員の証しが書いてあります。それを読みますと、やはり生きることへの本気度を感じます。この弟子たちの叫びと重なります。「主よ、助けてください。おぼれそうです」。皆さん、それぞれが激しい嵐に遭遇し苦しんでいる。痛んでいる。悩んでいる。けれども、イエスさまは弟子たち、そして、そういう私たちのことを信仰の薄い者よ、と言われ、厳しくりつけておられるのでしょうか?
そうではないと思うのです。イエスさまが信仰の薄い者よ、と言われた後、「起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった」とあります。信仰の薄い者よ。それは、イエスさまが弟子たちを叱った、というよりも、私を信頼しなさい、という意味を込めた言葉だったのではないでしょうか。そして、私はあなたがたの苦しみ、痛み、悩みを知っている。私はあなたがたを守り、助ける。そのことを示されたのではないでしょうか。
(むすび)
8:27 人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。
お読みしました聖書個所の最後の言葉はこのようなことが書かれていました。「人々は驚いて」とあります。そして、人々は「いったい、この方はどういう方なのだろう」と言いました。これはイエスさまと弟子たちの様子を見ていた人たちの言葉でしょうか。いいえ、弟子たちの言葉でもあったと思います。このように、私たちは、イエスさまと一緒に歩んでいく中で、イエスさまから驚かされていくのです。私たちには、まだまだイエスさまのことは知らないことだらけなのです。信仰生活というのは、イエスさまのこと、神さまのことを新発見、再発見していく歩みです。私たちは自分の考えや知識、経験のワクの中だけで留まってしまいがちですが、イエスさまによって、日々、新たに目が開かれていく体験をしていくのです。
最後に、「主よ、助けてください。おぼれそうです」という弟子たちの叫びについて、もう一度触れて終わりたいと思いますが、イエスさまは、この叫びを叱ったわけではないと思います。むしろ、このように主に向かって、叫ぶこと、いや祈ることと言ってもよいでしょう。このことが許されているのです。私はイエスさまを信じて本当によかったと思っています。イエスさまに、私の心の苦しみ、痛み、悩みを打ち明けることができる、この心の叫びをぶつけることができるからです。そして、イエスさまはそういう私たちの叫びを受け止めていてくださっている。本当にありがたいことです。私たちは、イエスさまと心のキャッチボールをしながら歩んでいるのです。そのようにして、私たちは、イエスさまと一緒に人生の歩みを続けていくのです。嵐の中でも、試練の中でも、イエスさまは私たちと一緒におられます。お祈りします。
祈り
恵み深い主なる神さま
嵐の中でも、イエスさまは弟子たちと一緒にいてくださいました。けれども、イエスさまが一緒にいても、弟子たちは動揺し、うろたえてしまいました。その姿はまるで私たちのようです。
「主よ、助けてください。おぼれそうです」と弟子たちは叫びました。私たちも同じように叫びます。主は私たちのすべてをご存じです。主は、苦しむ私たちを遠くから眺めているのではなく、一緒の舟に、教会に、私たちの人生におられます。主の守り、助けを信じて歩ませてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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