「小さな者の一人として」 マタイによる福音書10章40~42節 2024/ 3/10 SUN.
聖書―マタイによる福音書10章40~42節
(震災被災者と被災地の復興をおぼえて)
2011年3月11日、東日本大震災から、13年が経ちました。私たちは毎年、この日をおぼえて、主を礼拝しています。今年も復興支援の祈りと献金をささげたいと思います。東日本大震災の後も、今年の能登半島地震など、日本の各地で大きな地震が続いています。被災された方々のために、被災地の復興のために祈りを合わせてまいりましょう。
祈り
主なる神さま
13年前に起こった東日本大震災では、多くの命が失われ、また多くの被災者の方々が苦しみと悲しみの中に置かれました。今も不安と恐れの中にある方々のうえに主の慰めと平安がありますように。そして、主の言葉をもって、私たちを励ましてくださり、主にある新しい歩みを進ませてくださいますようにお願いします。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
(はじめに)
3月は、卒業式のシーズンです。先週は、姪の卒業式の様子がメールで送られてきました。つい先日、入学したと思ったら、もう卒業ということで、学生生活というのはあっという間だなあ、と思いました。コロナ禍にあって、登校することのできない期間も多くあったようですが、卒業式の連絡を受けながら、自分の卒業の時のことを思い起こしました。皆さんの卒業の時というのは、どうだったでしょうか?もうだいぶ前の話になるから覚えていない、と言われる方があるかもしれませんが、それぞれ、学校の先生や職場の上司、仲間、また家族から、はなむけの言葉を贈られたのではないでしょうか。
はなむけの言葉と言いましたが、卒業する人たち、あるいは退職する人たちを言葉で励まし送り出すこと、それがはなむけの言葉です。実は、今日お読みした聖書の個所にも、はなむけの言葉があるのです。イエスさまが、これから、この世に送り出す弟子たちに語ったはなむけの言葉、それが、マタイによる福音書10章5節からの言葉なのです。
(聖書から)
イエスさまのはなむけの言葉は、マタイによる福音書10章5節から始まって、42節までとなっています。その最後の言葉を読んでいきたいと思います。まず、40節をお読みします。
10:40 「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。
「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ」とあります。ここで「あなたがた」というのは、イエスさまの弟子たちのことです。イエスさまの弟子たちを受け入れる人は、私を、つまり、イエスさまを受け入れるのだ、とイエスさまは言われたのです。ここで「あなたがた」というのは、イエスさまの十二弟子のことです。彼らはイエスさまによって選び出され、派遣されようとしている。その時に、主が語られた言葉です。私たちが学校を卒業する時、また新しい学校に、新しい仕事に、新しい土地に旅立つ時、夢を抱いて、ということばかりではないと思います。先のことは分かりませんから、心細い思いを持つこともあると思います。弟子たちも、イエスさまから派遣されるということで、意気揚々というだけではなく、これから自分たちはどうなるのだろうか?と不安、心配で胸がいっぱいだったのではないかと思います。そういう弟子たちに、主は言われるのです。あなたがたを受け入れる人は、私を受け入れるのだ、と。
私たちもイエスさまを信じる者、イエスさまの弟子ですから、この言葉を自分に向けられた言葉として受け止めて、聞いてみたいと思います。この私を受け入れる人は、イエスさまを受け入れる。いったい、どういうことでしょうか?それは、弟子たちとイエスさま、私たちとイエスさまは一つなのだ、ということです。前に、こういうお話をしました。イエスさまの弟子というのは、小さなキリストであるということです。私たちも小さなキリストです。それはどういうことかというと、世の人たちは、弟子たちを通して、イエスさまを知るということです。世の人たちは、私たちを通して、イエスさまを知るということです。
イエスさまは、山上の説教の中で、このようなことを語られました。「あなたがたは地の塩である。・・・あなたがたは世の光である」(5章13、14節)。このイエスさまの言葉について、よくこのような説明がされます。イエスさまは、あなたがたは地の塩になりなさい、世の光になりなさい、と言っておられるのではなくて、あなたがたという存在はもうすでに、今、地の塩なのであり、世の光なのだ、ということです。
先ほどの、私たちは、小さなキリストという言葉と同じく、このような言葉を聞いたら、私たちは困惑してしまうかもしれません。イエスさま、そう言われても、現実には、私は、小さなキリストにはなっていません。私は、地の塩、世の光として生きてもいません。その正反対のような者です。反省ばかり、悔い改めばかりになってしまうかもしれません。
しかし、自分では、小さなキリストのような生き方、地の塩、世の光のような生き方をしていないように思えても、イエスさまが、私たちをそういう者としてお立てくださったことを信じていきたいと思うのです。そして、小さなキリスト、地の塩、世の光としてくださったイエスさまに、自分を委ねていくのです。信仰とは、自分の力や行いを信じることではありません。私たちを愛し、救ってくださった方を信じることです。主が私たちを用いてくださるのです。私たちは、自分ではなく、主を希望として、この私をどうぞお用いください、と祈っていくのです。
40節の後半の言葉を振り返りたいと思います。「わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」。イエスさまを受け入れる人は、イエスさまを遣わされた方、神さまを受け入れる、というのです。私たちを通して、イエスさまと出会い、イエスさまを通して、神さまと出会う、ということが言われています。私はこの主の言葉を聞いて、このような祈りに導かれます。私を通して、イエスさまが表されますように。私を通して、神さまが表されますように。
次にイエスさまは、このようなことを言われました。
10:41 預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。
ここで言われている「預言者」、そして、「正しい者」というのは、旧約聖書に出てくる信仰者たちのことと考えてよいと思います。それだけでなく、イエスさまは、弟子たちに、あなたがたは旧約聖書に出てくる信仰者たちと同じような存在なのだ、と言われたのかもしれません。それは、私たちが、聖書に出てくる人物、パウロとか、モーセとか、そういう人たちとあなたがたも同じような者だ、と言われているようなことです。弟子たちは、この言葉から、とても大きな励ましを受けたことでしょう。
「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け」る。「正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける」。報いとは何でしょうか?それは神さまからの恵みのことです。イエスさまの弟子たちは、神さまからの恵みを受けていると信じていました。私たちもイエスさまの弟子ですから、神さまからの恵みを受けていることを信じていきましょう。私たちは、罪と死の滅びから救い出され、永遠の命に生きる者とされました。この恵みを信じているから、私たちには、いろいろなことが人生の中で起こってきますが、イエスさまに支えられて、助けられて、これまで歩んでこられたのです。そして、世の人たちも、私たちを通して、私たちと出会って、そのことを知るのです、私たちと同じ報い、神さまからの恵みを受けるのです。41節のこの言葉が、今、私たちを通して、私たちを主が用いて、実現するように祈っていきましょう。
42節の言葉を読みます。
10:42 はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」
イエスさまは、ご自分の弟子たちのことを、このように言われました。「わたしの弟子」。そして、「小さな者」。あなたは私の弟子だ。私たちにもイエスさまはそう言ってくださっています。あなたは私の弟子。そういう私たちのことをイエスさまは「小さな者」と言われました。
私たちは、小さな者と言われることは、あまり面白くないかもしれません。なぜなら、人と比較して、少しでも、他の人よりも、上になりたいと思うからです。他の人よりも、大きな者になりたい、大きな者と見られたいのです。でも、イエスさまは、私たちのことを「小さな者」と言われました。私たちは、大きな者になることを目指していたかもしれません。でも、イエスさまは、私たちのことを大きな者になりなさい、とは言われません。「小さな者」と言われたのです。
「この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は・・・」とありました。イエスさまが言われた「小さな者」というのは、冷たい水一杯をさえ、飲ませてもらえるか、分からないほどに、世にあっては、小さく無価値な者ということです。けれども、神さまは、私たちをどのような者として見ておられるでしょうか。神さまにとっては、私たちは、小さくても、弱くても、価値のある、大切な存在です。この神さまの目、神さまのまなざしを私たちは見つめて歩むのです。
(むすび)
冷たい水一杯を飲ませるということが言われていました。聖書の舞台のイスラエル、パレスチナの地域は、水の乏しい地域ですから、水を飲ませるということは、当然行うべきことでした。これは決して、大きな働き、慈善というものではありませんでした。しかし、イエスさまは、その小さな働き、慈善に目を向けて言われたのです。そして、「冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」。それは、どんな小さな働き、慈善であっても、報いがある、神さまからの恵みがある、ということです。
小さな働き、小さな慈善。このことから、私はイエスさまが言われた「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」(ルカ16章10節)という言葉を思い起こしました。主の目は、私たちの小さな、目立たないと思うようなことにも、注がれているのです。そして、主はその小さなことを喜ばれるのです。
教会ではいろいろな働きがあります。もしかすると、私たちは、自分が行っていることを小さなこと、つまらないことと考えてしまうかもしれません。けれども、主は私たちにとっては、小さく、つまらなく思えるその働きを見ておられ、知っておられます。主の目を、主のまなざしを忘れてはなりません。私たちはどんなことでも、心を込めて、最善の気持ちで行っていこうではありませんか。
「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」(25章21、23節)。私の尊敬する今は天に召された一人の方は、この言葉をよりどころに主の教会に仕えておられました。人の評価ではなく、人の注目を求めるのではなく、神さまに喜ばれることは何か、そのことを求めて歩まれました。私は、その姿を通して、イエスさまを信じるとはどういうことか教えられました。
イエスさまは、ご自分の弟子たちのことを「小さな者」と言われました。そして、主ご自身、世にあって、「小さな者」として歩まれました。主は「仕えられるためではなく仕えるために」(20章28節)、この世においでになりました。イエスさまを信じるとは、イエスさまに従うことです。「小さな者」として歩まれた、「仕えるために」おいでになったイエスさまの後に従うことです。お祈りします。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
主は、弟子たちを「小さな者」と言われました。それは卑下して言われたのではありません。世のただ中にあっては、主に従って生きることは、小さな者、弱い、無価値な者と見なされるようなことだからです。
主ご自身が、この世においでになり、「小さな者」として、「仕える者」として歩まれました。主の弟子である私たちは、イエスさまの歩みに倣って生きる者でありますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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