「放蕩息子と恵み深い父親」ルカによる福音書15章1~32節 2024/07/07 SUN.
ルカによる福音書15章1~32節
みなさん、こんにちは!この説教を分かち合うことができて神様に感謝します。福音を伝える大切なポイントは、「神様は恵み深い方」ということです。ですから、今日、みなさんに分かち合いたい言葉は神様が私たちを愛される恵み深い父親のことです。
私たちはみんな、この譬え話を通して迷っている息子または娘です。このメッセージを一つの譬え話だけで済ませようとは思いません。実はメインの話は、三つの話を一致してポイントとして紹介したいのです。なので、このメッセージを三つの譬え話を使って説明させていただきます。お祈りします。
では、これから説明いたします。
ファリサイ人たちはイエス様のところに行った時、イエス様は罪人と言われる人たちと交わりをしていたので、イエス様のことをとても批判し、怒り、罪人の友と呼びました。けれども、イエス様は彼らの批判に対して、お答えになるために、一つでなく、三つの譬え話を使って、お答えになりました。
最初の譬え話は迷っている羊のことです。百匹の羊が羊飼いと一緒の場所にいましたが、そのうちの一匹が迷ってしまいました。そこで羊飼いはその迷った一匹の羊を探しました。その羊が見つかった時、大きな喜びとなりました。イエス様は、この話を一人の罪人の悔い改めの話としてなさいました。一人の罪人の悔い改めは、悔い改める必要のない九十九人にまさる喜びが天にあると言われたのです。
次は無くした銀貨のことです。一人の女性が十枚の銀貨を持っていましたが、一枚を無くしてしまったので、その銀貨を見つけるまでずっと探しました。無くした銀貨が見つかって、自分のもとに戻ったら、友だちと一緒に喜びました。イエス様は、この話も一人の罪人の悔い改めの話としてなさいました。一人の罪人の悔い改めを、神様の天使も喜んでいると言われたのです。
そして、三つ目の話は、いなくなった息子(迷っている息子)のことです。その息子のことは先ほどの二つの話とは、少し違っています。
この話は、父親が二人の息子を育てていたという話です。先ほど読んだように、父は財産の半分を弟にあげたのですが、弟は東京のような大きな街に引っ越し、自分のお金をカジノやパチンコで全部のお金を使い果たし、まるでこの世の天国のように楽しめる「イージーライフ」というような人生を過ごしました。英語で言う「よっぱらっている水兵さん」のような生活を過ごしていたのです。つまり、責任を持って自分の財産を管理するようなことはしなかったのです。毎日パーティーばかりでしたから。
ところが、ある日、お金がなくなってしまい、貧しくなり、食べるものもなくなってしまいました。そこで、豚の畑で豚のお世話をする仕事を見つけました。これは、多分この話を聞いた人たち(ユダヤ人)にとって、これは大変酷い仕事でした。なぜなら、ユダヤ人にとっては、豚は汚(けが)れた動物でしたから。そこで、弟は生き残るために、その汚(けが)れた動物の畑で働くことになりました。けれども、食べるものは何も与えられませんでした。豚の豆や食べ物を食べるしかなかったのです。
そこで思い出したのは、自分の父親のことでした。父親の召し使いたちはこれよりも良い食べ物を食べているのを知っていましたから、弟は父のところに戻ると決め、息子として認められなくても、召し使いの一人として雇って欲しいという決心をしました。なぜなら、天に対して、父に対して、罪を犯してしまった、と思ったからでした。貧しい、哀れな息子として父のところに戻った時、父はすぐに息子に駆け寄り、大喜びで歓迎し、抱いたり、キスをしたりしました。息子は父親に謝り、息子としてではなく召し使いとして雇って欲しいという話をしようとすると、父親は自分の召し使いたちに息子の歓迎の準備をしていたのでした。それからウエルカムホームの「お帰りなさい」のパーティーをしました!
これで話は終わりになりそうですが、そうではありません。話は続きます。
兄である一人の息子は畑で働いていて、そのパーティーには、気づいていませんでした。弟が帰って来たニュースを聞いた時、とても腹を立て、パーティーに参加しなかったのです。父親は兄息子にもパーティーに参加してほしかったのでしたが、兄息子は怒りのあまり、興奮していました。兄息子は、自分は父に喜ばれるために、いろいろな良い行いを行ってきた。けれどもあなたは、自分のことを全然喜んでいないと感じていた、と言い、自分とは正反対の生き方をしてきた弟息子が帰ってきたら、「お帰りなさい」のパーティーをしているというので、兄息子はとても腹を立てたのです。
それを聞いた父親は、こう答えました。息子よ、私のものは全て、あなたのものなのだ。だから、あなたは、自分の弟が帰ってきたことを歓迎して欲しい、と言いました。なぜなら、あなたの弟は、死んでいたのに生き返ったのだ。これは、喜びなのだ、と言ったのです。この譬え話が、先ほどの二つの譬え話と違っているのは、いなくなった息子(迷っている息子)は一人ではなく、弟と兄、つまり、二人だということです。
簡単な日本語で説明すると、弟息子が迷ってしまったのは、この世のパーティーライフスタイル(今日楽しければ、それでよいという生活)に溺れてしまったからでした。この世の多くの「罪人」と言われる人たちはそのような生活を過ごしていました。キリスト様が憐れまれた罪人たちと徴税人たちもそうでした。彼らは、生き方が定まらず、迷っていましたが、キリスト様は、その人たちにこそ、神様の救いが必要だと言われたのです。
一方、兄息子は、ファリサイ人のような生活をしていたのです。つまり、宗教的には、とても良い行いを行っているが、神の恵みを喜んで生きていたのではなく、自分を神様に認めてもらうために、喜びもなく、ただ一所懸命働いているような人でした。その生き方は律法的な生き方で、神様に従わない人を裁いていました。ルカによる福音書18章にファリサイ人の祈りと徴税人の祈りの話があります。それは、この話についてのとてもよい説明と言えます。
この譬え話の父親は、神様のことです。神様を、父親で表される理由は二人の息子たちをどちらも愛されるからです。先の二つの譬え話のように救われる人、神さまのもとに戻ってくる人は誰でも神様は喜ばれます。神様は私たち人間が救われることを待ち望んでおられますが、人間の方は、いろいろな考えを持っていて、神さまから救われる必要がないと考えている人たちがいます。律法的な人たちというのはそのような人たちです。自分の力、自分の行う良い行いによって自分を救うことができると考えていますから。
もう一つの譬え話を説明いたします。それは、「(ルカ18章9−14を読んでください)」この譬え話は先の譬え話と同じ説明があります。兄である息子はファリサイ人のような祈りをしていること、弟息子は、徴税人のような祈りをしていることがわかります。どちらも迷っている息子たちですが、一人(弟息子、徴税人)は自分の罪を認めたが、もう一人(兄息子、ファリサイ人)は認めようとはしなかったのです。ですから、イエス様は罪人である迷っている息子たち、どちらにも福音を伝えたのです。しかし、義とされ、救われたのは、自分の罪を認め、福音を受け入れた徴税人であり、弟息子でした。
なぜ、この三つのルカ15章の譬え話は同じポイントを示しているのでしょうか。キリスト様がお示しになられたポイント、それは、神様は迷っている人たちを救うために来られたということです(ルカ19:10)。迷っている羊と無くした銀貨といなくなった息子の話が教えている大事なところは、キリスト様が人間を愛しておられるということです。
福音のメッセージを伝えさせていただいていますが、誰もがキリスト様の愛と救いの言葉を知る必要があるというのは、私たちはみんな罪人だからです。罪人は、神様の正しい罪の裁きのもとにいます。その人は神様の裁きによって、正しく裁かれ、罪のために地獄に入ってしまいます。どんな良い行いをしても、自分で自分を救うことはできないのです。それは兄である息子の罪の姿です。弟息子も罪のままでは神様に裁かれてしまいますが、けれども、恵み深い神様はイエス・キリストというお方をこの世界に遣わされ、イエス・キリストはその人たちを罪から救うために聖(きよ)いパーフェクトな人生を成し遂げられました。ご自分の聖(きよ)い血を十字架で支払い、三日目に復活されました。ですから、私たちはキリスト様に救っていただくことによって、神様と父と子としての関係を持つことができ、新しい人になることを聖書は約束しているのです。聖書にこう書いてあります。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造されたものなのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(2コリント人への手紙5:17)
私たちはこの恵みが与えられていますので、この素晴らしい福音のメッセージを伝え合いましょう。お祈りします。
(スティーブン・クンケル)
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