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「主イエスの家族」マタイによる福音書12章46~50節 2024/08/11 SUN.

「主イエスの家族」マタイによる福音書12章46~50節 2024/08/11 SUN. 赤塚教会礼拝説教

聖書―マタイによる福音書12章46~50節
(はじめに)
 私たちは、教会に集って、一緒に礼拝をしています。この場合の「教会」というのは、建物のことですが、聖書には、「教会」について、このように書いてあります。「教会はキリストの体」(エフェソ1章23節)。聖書で、「教会」という場合、建物のことではなく、キリストの体だというのです。
 もう一つ、聖書の言葉をお読みします。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(一コリント12章27節)。先ほど、「教会はキリストの体」と書いてある言葉を読みましたが、ここでは、「あなたがたはキリストの体」とあります。コリントの信徒への手紙を書いたパウロが、コリントの教会の人たちをこのように言ったのです。つまり、教会とは何かというと、教会に連なる一人一人のことだというのです。
 「一人一人はその部分です」ともありました。体は、手や足、目、鼻、口など、幾つもの器官があります。それと同じように、私たちも、それぞれ異なった、違いのある器官、部分であり、誰一人不必要な人はいない、かけがえのない存在として、キリストの体に属しているのです。
 さらに、聖書は、私たちのことを、神さまの家族と言っています。少し長い引用になりますが、そのことが書かれている聖書の言葉をお読みします。「あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです」(エフェソ2章19~22節)。

(聖書から)
 そういうわけで、今日は、神さまの家族、イエスさまの家族ということについて、与えられた聖書の言葉から聴いていきたいと思います。まず、マタイによる福音書12章46節をお読みします。
12:46 イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。
 イエスさまが群衆と話しておられた、とあります。イエスさまは、人々に神さまの福音を語っておられたのです。ここで注意したいのは、「イエスがなお群衆に話しておられるとき」とあることです。「なお」とあります。別の聖書の訳では、「まだ」とあります。なお話しておられた、まだ話しておられた。イエスさまは、ずっと福音を語っておられたのです。すると、イエスさまの言葉を聴いていて、長いなあ、まだ話しているのか・・・、と思っていた人たちがいたかもしれません。しかし、イエスさまは、絶えることなく、尽きることなく、福音を語り続けていたのです。私たちは、この時、イエスさまがどんな思いで福音を語っておられたのか、そのことを考えてみたいと思うのです。
 その時のことです。「その母と兄弟たち」とあります。これは、イエスさまの母とイエスさまの兄弟たちということです。イエスさまの母というと、皆さんはすぐにお分かりになると思います。マリアのことです。そして、イエスさまの兄弟です。
 イエスさまの兄弟。そのことについては、今日お読みした聖書個所の少し後、マタイによる福音書13章55、56節に、その名前が出てきます。その箇所を読んでみますと、「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか」とあります。イエスさまの兄弟の名前は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ。そして、姉妹たちもいたということです。
 今日の個所では、イエスさまの母マリアとイエスさまの兄弟たちのことが出ています。もう一度、その箇所を読んでみますと、「その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた」。ここで気になるのは、イエスさまの母と兄弟たちが、イエスさまに話したいことがあって来たのに、外に立っていた、ということです。
 この時、イエスさまは、誰かの家で、神さまの福音を伝えるための集会か何かを行っていたのかもしれません。その誰かの家の中にイエスさまの母と兄弟たちは入らないで、家の外にいたのでしょうか。そのことに気づいた人がいたようです。
12:47 そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。
 その人は、イエスさまにこのように言いました。「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」。イエスさまの家族が、イエスさまに話したいことがあって、やって来たのです。でも、家の中には入らないで、外で待っていたのでしょう。
この聖書の個所と共通の内容が書かれているルカによる福音書では、この場面について、このように書かれています。「さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために近づくことができなかった」(ルカ8章19節)。ルカによる福音書によれば、イエスさまの家族は、「群衆のために近づくことができなかった」ということです。大勢の人々がイエスさまのところに押し寄せていて、入ることができなかった、ということでしょうか。
イエスさまは、ご自分の家族が来ていること、お話しをしたがっていることを知りました。イエスさまは、ご自分の家族のところへ行ったのでしょうか?48節を見てみましょう。
12:48 しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」
 イエスさまの言葉について、考えてみると、驚くような言葉です。自分の家族が会いに来ているというのに、話したがっているというのに、何を言われたのか、というと、「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」ということでした。母のことなど、知りません!兄弟たちのことなど、知りません!そういうことを言われたのでしょうか?
 何とも不思議なイエスさまの言葉ですが、続いて、このように言われました。
12:49 そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
 「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」と言われたすぐ後に、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と言われました。しかし、ご自分の母と兄弟たちの方を指して言ったのではありませんでした。「弟子たちの方を指して言われた」とあります。ご自分の弟子たちのことを、イエスさまは、私の母、私の兄弟と言われたのです。
 ご自分の母、兄弟たち、すなわち、ご自分の家族を差し置いて、イエスさまは、ご自分の弟子たちのことを、私の母、私の兄弟、つまり、私の家族と言われたのです。ここまでの話だと、何が何だか分かりませんが、この後のイエスさまの言葉から、言われたことの意味が分かってきます。
12:50 だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」
 ここまで読むと、イエスさまは、ご自分の家族、母マリア、そして、兄弟たちを突き放した、とか、無視した、ということではないことが分かります。肉の家族のことではなく、霊の家族のことを言われたのです。肉の家族というのは、私たちそれぞれの家族のことです。一緒に生活してきた、生きてきた家族のことです。それでは、霊の家族とは何か、というと、ここには、「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が」とあります。「だれでも」とあります。イエスさまの家族、霊の家族、それは、「だれでも」なることができる、ということです。そして、続いて言われたのが、「わたしの天の父の御心を行う人」とあります。
 「わたしの天の父の御心を行う人」。ルカによる福音書の方では、このように書かれていました。「神の言葉を聞いて行う人たち」。ここまで、お読みして、皆さんは、私は、イエスさまから、私の母、私の兄弟、つまり、私の家族と呼ばれるのにふさわしい者だ!と受け止めて、安心されたでしょうか?おそらく、そういうふうに受け止められた方は、一人もおられないと思います。むしろ、「わたしの天の父の御心を行う人」。私は、それには当てはまらない。私は、神さまのみ心を行う人とは言えないから・・・。そのように思われたのではないでしょうか。私もその一人です。
 イエスさまは、ご自分の弟子たちを指して、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と言われました。イエスさまは、弟子の一人、ペトロについては、この人は、伝道に積極的だから、私の家族にふさわしい!と言って、ペトロの方を指したのでしょうか?ヨハネについては、この人は、すぐ怒る。怒りっぽいから、私の家族にふさわしくない!と言って、ヨハネの方を指すことはしなかったでしょうか?私は、イエスさまは、そのようなことはなさらなかったと思います。ご自分の弟子みんなを指して、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と言われたと思います。
 新しい日本語訳聖書の聖書協会共同訳では、「弟子たちの方を指して言われた」というところが、「弟子たちに手を差し伸べて言われた」となっています。これだと、「弟子たちの方を指して」とは、違った意味になります。「弟子たちに手を差し伸べて」。私のイメージとしては、イエスさまが、何か招いておられるような感じがします。あなたがたは、私の家族だよ。私の家族として歩んでいきましょう。少し前に、『家族になろうよ』という歌がありましたが、イエスさまは、ご自分のもとに来る人たちに向かって、私の家族になろうよ、と言われたのではないでしょうか。

(むすび)
 イエスさまの肉の家族である母マリアと兄弟たちについて、今日の聖書個所では、「外に立っていた」とありました。私は、この「外に立っていた」ということが気になると言いました。なぜなら、家族なのですから、家の中に入ったらよかったのではないでしょうか?群衆があまりにも多くて遠慮したのでしょうか?私は、母マリアや兄弟たちは、イエスさまのなさっていることに対して、「外に立っていた」。距離を置いていた、というふうに思えます。
 イエスさまが求めておられること、願っておられること、それは、ご自分のもとに来てほしい、ということです。ご自分が語る神さまの福音を聴いてほしい、ということです。だから、イエスさまは、ご自分のもとに来る人たちに手を差し伸べられたのです。「わたしの天の父の御心を行う人」。神さまのみ心を行う。その第一歩は、イエスさまのもとへ行くということです。そして、イエスさまと共に歩むのです。そこから、神さまのみ心を行う歩みが始まります。お祈りいたしましょう。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
イエスさまは、ご自分の家族についてお話しされました。誰がイエスさまの家族にふさわしいのでしょうか?いいえ、ふさわしいと思える人は誰もいません。イエスさまが私たちに求めておられること、願っておられること、それは、イエスさまが、私たちに手を差し伸べておられることを知り、イエスさまのもとへ行くことです。イエスさまの招きを受けて、新たにイエスさまの家族として歩む方がありますように。
 私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

ゲキ暑の中にも秋の気配が??
またどうぞよろしく

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