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「イエスが歩まれたように歩もう」ヨハネの手紙Ⅰ 2章1~6節 2024/08/18 SUN.

「イエスが歩まれたように歩もう」ヨハネの手紙Ⅰ 2章1~6節 2024/08/18 SUN. 赤塚教会礼拝説教

聖書―ヨハネの手紙一2章1~6節
(はじめに)
 昨年から、召天者記念礼拝を再開しています。本日の礼拝では、召天者の方々のご家族、お知り合いの皆さまがご出席くださり、心から感謝いたします。
召天者記念礼拝の「召天者」というのは、「天に召された者」と書きます。天というのは、天国、天の国のことです。これは神の国とも言います。天の国、神の国、それは、私たち人間が、死んだら行くところ、死んだら入るところと考えがちですが、天の国、神の国とは、神さまが支配されているところということです。ですから、死んだ後で、ということではなく、私たちが神さまを受け入れたなら、今すぐに、私たちは、天の国、神の国にいる、ということです。「神の国はいつ来ますか?」とある人がイエスさまに尋ねたという聖書個所があります。この質問に対して、イエスさまは、「『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17章21節)とお答えになりました。神の国は、神さまを信じるあなたがたの間にある、と言われました。
 今日の礼拝の最後に、牧師が召天者の方々の名前を読み上げますので、ご家族の方々、関係者の方々は前にお進みくださり、お花を手向けていただきます。今年はオリンピックがありましたが、召天者の方々に、勝利のメダルを授与するような気持ちでお花を手向けていただけたらいかがでしょうか。聖書には、神さまを信じる者を競技者、アスリートに例えて書いている箇所があります。「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(ヘブライ12章1、2節)。召天者の方々は、この地上、この世で生きている間に、すでに、天の国にいる、天の国の住人でした。天の国の国籍と地上の国籍の両方を持っておられたのです。けれども、地上の国籍というのは、地上で生きている間だけのことです。一方、天の国の国籍、これは一時的なものではありません。永遠です。
 聖書のヘブライ人への手紙11章13節には、このような言葉が書かれています。
11:13 この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。11:14 このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。11:15 もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。11:16 ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。
 ここに、「信仰」とあります。ここで言われている「信仰」とは、「神さまを信じる信仰」ということです。それは、天の国のパスポートと言ってもよいでしょう。私たちにとって、地上というところは、永遠の住まいではありません。ですから、聖書は、私たちのことを、地上では、「よそ者」、「旅人」(口語訳、新改訳)であり、「仮住まいの者」だと言っています。そういう私たちに、神さまは、天の国、お読みした聖書の言葉で言えば、「天の故郷」を用意してくださっているのです。

(聖書から)
 今日、この礼拝の説教の聖書個所としてお読みしたのは、ヨハネの手紙一2章1~6節です。そして、説教題は、「イエスが歩まれたように歩もう」です。イエス、これは、イエス・キリストのことです。イエスさまが歩まれたように歩もう。クリスチャン、キリスト者とは何かというと、イエスさまが歩まれたように歩もうとする人のことです。
 私たちは、神さまによって造られた者です。神さまは、私たち人間を、神さまに似た者としてお造りになりました。神さまのかたちに似せてお造りになりました(創世記1章26、27節)。それは、どういうことかというと、神さまを表す存在として造られた、ということです。神さまとはどういう方でしょうか。次の聖書の言葉が示しています(一ヨハネ4章7、8節)。
4:7 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。4:8 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。 
 聖書というのは、キリスト教の経典、正典です。この聖書を、神さまを信じる人たちは、神さまの言葉と受け止めて、ここから聴いた言葉を自分たちの生活の中で実行していくことに努めます。けれども、実行しようと努めれば努めるほど、自分がいかに神さまの愛から遠い者であるか、愛の乏しい者であるか、気づかされるばかりです。
 お読みしたヨハネの手紙一4章7、8節の言葉、これは、この分厚い聖書の中の短い言葉ですが、聖書の中心的な内容と言ってもよい言葉です。「互いに愛し合いましょう」。これが、私たちに対する神さまの命令です。聖書には、たくさんの言葉が書かれていますが、神さまの命令、それはただ一つ、「互いに愛し合いましょう」、愛する、ということです。
 そのように言われてはいますが、私たちが、愛することを実行しようとしてもなかなかできない、愛せないのです。それは、なぜかというと、お読みした聖書に、こう書かれています。「愛は神から出るもの」、「神は愛」。これはどういうことかというと、私たちには愛がないということです。そして、愛というのは神さまから出るもの、神さまご自身が愛だということです。それでは私たちはどうしたらよいかというと、愛である神さまから愛をいただくのです。愛を受け取る。神さまはこの私を愛しておられる。私に向けられた、注がれた神さまの愛を知り、それを受け取っていく。神さまの愛が私たちを変えるのです。そして、そこから、愛する、という生き方が始まっていくのです。
 さて、今日お読みした聖書個所は、ヨハネの手紙一2章でした。この手紙の1節をお読みします。
2:1 わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。
 ヨハネの手紙を書いたヨハネという人が、手紙を書き送った人たちを「わたしの子たちよ」と呼んでいます。おそらく、この時、ヨハネは、高齢であったと考えられています。手紙を書き送った人たちのことを、まるで自分の子供のような、あるいは孫のような思いで「わたしの子たち」と呼びかけているのです。
 ところで、教会とは、別の言い方では、神さまの家族と言います。神さまが私たちの本当の親であり、私たちは神さまの子供です。この神さまの家族ということで、私たちの教会のメンバー、神さまの家族であった一人の方のことをお話ししたいと思います。この方は、ご家族のことでは大変苦労した方でした。お母さまはクリスチャンで、お母さまを通して、この赤塚教会においでになり、イエスさまを信じて、バプテスマを受け、この教会に加わりました、神さまの家族となりました。それから後、お母さまも亡くなり、身内の人は誰もいなくなりましたが、神さまの家族である教会の人たちが彼のことをずっと支えてくれました。住まいも生活も、教会の家族の愛によって備えられました。
 私は、ある時、その方が入所している施設を訪ねました。お体を悪くされ、酸素吸入器を付けておられましたが、一緒にお話をしているうちに、今までの自分の人生の歩みを振り返られたのでしょう。思い出しては、私に、こんな自分が神さまに赦されているのでしょうか?本当に救われるのでしょうか?と尋ねられました。
ただいまお読みした聖書に、このような言葉がありました。「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます」。ここに「罪を犯す」とあります。私たちは、「罪を犯す」というと、どういうことを考えるでしょうか?何か特別に悪いことをする、ということでしょうか?それも罪を犯す、ということでしょうが、それだけではありません。聖書が教える罪というのは、悪いことをする、というだけではありません。先ほど、「互いに愛し合いましょう」という言葉を読みましたが、愛さないということ、これも罪なのです。愛さない、とか、良いことをしない、ということも罪なのです。
この方が、私に話してくださった言葉の中に、自分はもっと神さまのために、教会のために、人のために、あれをすればよかった、これをすればよかった・・・。人から受けることばかり、してもらうことばかりで迷惑ばかりかけてきた・・・。そういう嘆きにも似た言葉が続きました。
私たちは、自分の過去を振り返ってみるなら、あれをしなかった、これをしなかった、愛さなかった、赦せなかった・・・。そういう嘆き、反省といったことが次々と出てくるのではないでしょうか?しかし、そういう私たちに、先ほどの聖書の言葉、「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます」。この言葉が語られているのです。この言葉が示しているのは、イエスさまがそういう私たちのことを弁護してくださった、ということです。イエスさまが私たちのために弁護してくださった。それは、ご自身が十字架にかかって、身を持って弁護してくださったということです。私たちは、自分で自分を責めてしまうようなことがあります。けれども、そういう私たちを神さまは赦しておられる。神さまは、そういう私たちのために、み子イエスさまを送ってくださって、イエスさまが、私たちのすべての罪を引き受けて、十字架にかかってくださったのです。
私は、その方に「あなたのすべての罪は赦されている。イエスさまがあなたのために十字架にかかって、あなたを罪から救ってくださった。そのことを忘れないでいましょう。そのことを信じ続けていましょう。あなたはイエスさまの赦しを信じて、イエスさま、ありがとう、とイエスさまに感謝して生きていけばいいのです。人から受けた愛や好意について、迷惑をかけてしまった、申し訳ないことをした、と嘆くのではなく、その一つ一つを、ありがとう、と感謝していきましょう。イエスさまの愛を、教会の家族の愛をいつもおぼえていましょう」と申し上げました。彼は、ホッとしたような顔をされました。彼は、それから少し経って、永遠の住まいである天の国、天の故郷に帰られました。地上での生涯では、大変苦労された方でしたから、天の国では、神さまからたっぷりと慰めをいただいていると私は信じています。

(むすび)
 ヨハネの手紙一2章5、6節をお読みします。
2:5 しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。2:6 神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。
 イエスさまは私たちを愛しておられます。イエスさまは私たちを罪から救うために十字架にかかってくださいました。私たちは、その愛をしっかりと受け止めていく。そして、その愛に応えて生きていく。それが、イエスさまが歩まれたように歩む、ということです。今日は召天者記念礼拝を行っていますが、召天者の方々は、この地上において天の国の住人として歩まれました。イエスさまが歩まれたように歩まれました。私たちはその歩みをおぼえたいと思います。私たちもその後に続いていきたいと思います。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
地上での生涯を完走した一人一人のことをおぼえて、今、私たちは礼拝を行っています。神さまは、私たちに帰るべき天の故郷、天の都を用意しておられます。やがて、私たちも、先に召された方々と顔と顔を会わせる日が来るでしょう。その日まで、私たちを、私たちを造られ、私たちを愛しておられる神さまを伝えていく者としてください。神さまは愛。このことを新たに知る人がありますように。
 私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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