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「幸いな人」詩編32編1~11節 2024/09/29

「幸いな人」詩編32編1~11節 2024/09/29 赤塚教会礼拝説教

聖書―詩編32編1~11節
(はじめに)
説教題を「幸いな人」と付けました。幸いな人、幸せな人と言ってもよいでしょう。皆さんは、どんな時、自分が幸いだ、幸せだ、と思うでしょうか。自分の願っていることがかなえられる、自分の思いどおりになっていく、その時、自分は幸いだ、幸せだ、と思うのでしょうか。聖書の中に出てくる幸いについて、よく知られているのは、イエスさまが語られた幸いの言葉です。その一部を読んでみます(マタイ5章3節)。
5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
「心の貧しい人々」、どういう意味でしょうか。自分の心が貧しい。愛がない、思いやりがない・・・。そういうことが言われているのでしょうか。イエスさまは、その人のことを幸いだ、と言われます。不思議な言葉です。愛の豊かな、思いやりに満ちた、そういう人なら、あなたは、幸いだ、と言われても当然のように思います。けれども、イエスさまは、心の貧しい人々は、幸いと言われるのです。
さらに、このようにも言われます。「天の国はその人たちのものである」。愛がないとか、思いやりがないとか、そういう人は、天の国からは遠い人のように思えます。それなのに、イエスさまは、天の国は、そういう人たちのもの、というのです。
この聖書の言葉はどのように理解したらよいのでしょう。愛に不足した、人を思いやる気持ちも乏しい自分。そのことに気づいた人は幸いだ、と言われているのではないでしょうか。なぜなら、自分の貧しさに気づいたなら、その人は、私に愛を与えてください、人を思いやる気持ちを与えてください、と神さまに願い求めるのではないかと思うのです。
聖書の言葉を聞いて、自分はどうなのだろうか、自分はどのように生きていったらよいのだろうか・・・。そういうことを考えることができたなら、幸いなことだと思います。そして、それこそは神さまが言われる幸いに生きる道への始まりなのではないでしょうか。

(聖書から)
今日は、旧約聖書・詩編32編から、一緒に聴いていきたいと思います。この詩編の冒頭には、「ダビデの詩。マスキール」とあります。ダビデの詩とありますから、イスラエルの王であったダビデの詩ということは分かりますが、マスキールとは何でしょうか。これは教訓の詩、知恵の詩という意味だそうです。
1節には、「いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は」とありました。幸いな人とは、背きを赦され、罪を覆っていただいた者というのです。罪を赦された者、罪を覆っていただいた者、その人は幸いだ、というのです。罪を覆う、という表現は、とても印象的です。私は、覆う、という言葉を聞くと、創世記のノアの物語を思い出します。この物語は、ノアという人が、神さまから箱舟を造るように命じられ、神さまの言われるとおりに従って箱舟を造り、そのことによって洪水から守られた、ということでよく知られていますが、その中のある一つの話です。ノアがある時、ぶどう酒を飲んで酔っ払い、天幕の中で、裸のまま眠りこけてしまいました。すると、ノアの息子たちの中の一人がそのことを他の二人の息子たちに告げました。それを聞いた二人の息子たちはどうしたかというと、後ろ向きのまま、つまり、父の裸を見ないまま、その体を着物で覆った(創世記9章23節)というのです。ノアの裸のことを告げた息子は、父の恥、失態を告げ口した、言いふらしたのです。一方、それを聞いた二人の息子たちは、父の恥、失態を馬鹿にしたり、中傷したりはせずに、そう言う父親のことをまるごと受け止めたのです。私は、このノアと息子たちの個所から、愛とは、人の弱さを受け止めることだということを学びました。
「罪を覆っていただいた者」。詩編の詩人がこのように言ったのは、自分は、神さまによって罪を覆っていただいた。神さまはこんな私のことを、見捨てずに、まるごと受け止めてくださった、引き受けてくださった。その喜び、感謝を言い表しているように思えます。
続いて、詩編の詩人は、このように歌います。「いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は」(2節)。ここでも繰り返し、幸いと言っています。「主に咎を数えられず、心に欺きのない人は」。何が幸いかというと、神さまに罪を数えられず、その心に罪のない人というのです。でも考えてみますと、そういう人は誰もいないと思います。神さまの前に、何も罪がない。どうしてこのようなことを言えたのでしょう。3節以下をお読みします。
32:3 わたしは黙し続けて/絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。
32:4 御手は昼も夜もわたしの上に重く/わたしの力は/夏の日照りにあって衰え果てました。〔セラ
32:5 わたしは罪をあなたに示し/咎を隠しませんでした。わたしは言いました/「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを/赦してくださいました。〔セラ
3、4節には、「骨まで朽ち果てました」、「わたしの力は・・・衰え果てました」とあります。これは、罪に悩む心の叫びが表されていると思います。これらの言葉からは、罪を抱えて生きることが、どんなに辛いことであるかが分かります。こんなにまで、罪に悩むとは、どういうことなのだろう?どれほど、大きな罪を犯したのだろうか?私は、この言葉を読み、そのようなことを考えさせられたのですが、新約聖書のある言葉を思い起こしました。ヘブライ人への手紙12章の言葉です(ヘブライ12章4節)。
12:4 あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。
ここでは、罪との戦いのことが言われていますが、罪と戦って血を流すまで抵抗する。それほどまでに、罪を深刻なものと考えていることに驚かされます。しかし、そのように思ってしまう自分自身が、罪とはどれほどのものか、あまり考えたことがなかった、分かっていなかったということに気づかされます。このように信仰生活というのは、すべてのことが分かって始まるものではありません。むしろ、何も分かっていない、罪も、救いも、言葉としての意味は分かっていても、本当には分かっていなかった・・・。そういうことの繰り返しだと思うのです。そして、人生の歩みの中で本当に分かっていくものだと思うのです。
先ほどお読みした2節には「主に咎を数えられず、心に欺きのない人」とありましたが、これも、私たちの人生の歩みの中で、「ああ、自分は罪から守られているなあ。心の中の考えや思いが変えられてきたなあ」と気づかされることがあるのではないでしょうか。そのようなことを考えますと、これは、将来的な希望が言われているのかもしれません。神さまは、私たちを罪から救い出してくださる、罪のない者にしてくださる。神さまの救いを信じた詩人の希望の言葉が語られているのではないでしょうか。そして、新約の時代を生きる私たちは、このことを実現してくださる方のことを知っています。イエスさまが私たちを罪の支配から救い出し、新しく生きるようにしてくださるのです。
さて、罪に悩んでいた詩人は、このようなことを告白しています。「わたしは罪をあなたに示し/咎を隠しませんでした。わたしは言いました/「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを/赦してくださいました」(5節)。この人は、自分の罪を神さまに告白したのです。そして、そこで知ったこと、それは、神さまはこの私の罪を赦してくださった、ということです。
初めに、皆さんにお尋ねしました。何が自分にとっての幸いか、幸せか。この詩人にとっての幸い、幸せは何かというと、今お読みしたように、罪を赦されたこと、それが、この詩人にとっての幸い、幸せだというのです。
6節をお読みします。
32:6 あなたの慈しみに生きる人は皆/あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。大水が溢れ流れるときにも/その人に及ぶことは決してありません。
神さまに罪を赦された幸い。そのことを知る詩人は、自分のことをこう言っているのではないでしょうか。「あなたの慈しみに生きる人」。あなたの、つまり、神さまの慈しみに生きる人です。罪を赦された喜び、幸いを知ったこの詩人は、さらにこのように言います。「あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります」。「あなたを見いだしうる間」と言っています。イザヤ書55章6節にも、これと似た言葉があります。
55:6 主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。
神さまを見出すことのできる間、時、それは、限定的なもの、限られているということです。私たちにとっては、私たちがこの地上で生きている間、時です。すでに神さまを見出すことのできた方は、幸いです。しかし、自分だけの幸いに留めてはなりません。新たに神さまを見出す方、出会う方があるように祈っていきたい、神さまを伝えていきたいと思うのです。私たちに与えられているこの地上の生涯というのは、神さまを見出すことができる、神さまに出会うことのできる大切な時なのです。そして、実は、私たちというのは、私たちが神さまを見出す前に、神さまから見出された一人一人であるということをおぼえたいと思います。イエスさまはこのように語っておられます。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15章16節)。

(むすび)
7節以下の言葉をお読みします。
32:7 あなたはわたしの隠れが。苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもって/わたしを囲んでくださる方。〔セラ
32:8 わたしはあなたを目覚めさせ/行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。
32:9 分別のない馬やらばのようにふるまうな。それはくつわと手綱で動きを抑えねばならない。そのようなものをあなたに近づけるな。
32:10 神に逆らう者は悩みが多く/主に信頼する者は慈しみに囲まれる。
32:11 神に従う人よ、主によって喜び躍れ。すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。
お読みした個所には、「囲んでくださる」、「囲まれる」という言葉が出ています。何に囲まれているのでしょうか。7節では、救いの喜びに囲まれているとあり、10節では、慈しみに囲まれているとあります。8節には、「行くべき道を教え」る、「勧めを与え」るとありますが、行くべき道、勧めというのは、神さまの言葉を示していると思います。神さまの言葉は、私たちの歩む道を教え導く言葉です。
それに対して、9節には、「分別のない馬やらばのようにふるまうな。それはくつわと手綱で動きを抑えねばならない」とありました。分別のない馬やらばとは、行くべき道を知らない、勧めを聞かない人たちのことでしょう。10節の言葉で言えば、「神に逆らう者」のことです。私たちには、二つの道があること、神さまに従う道があり、神さまに逆らう道があることを知らされます。私たちは、どちらの道を選び取っていくでしょうか。もう一度、10、11節をお読みして終わります。「神に逆らう者は悩みが多く/主に信頼する者は慈しみに囲まれる。神に従う人よ、主によって喜び躍れ。すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ」。お祈りします。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
幸いな人とは、誰のことでしょうか。幸いな人とは、どんな人のことでしょうか。私たちは、あそこに幸いがある、ここに幸せがあると、探し求める必要はありません。神さまに出会い、神さまと共に生きるなら、その人は幸いな人だと聖書は語ります。
「神に従う人よ、主によって喜び躍れ。すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ」と語られていました。神さまに罪を告白し、自分を委ねて生きる時、神さまは、私たちを神さまに従う人、すべて心の正しい人として歩ませてくださいます。私たちを神さまへの感謝と喜びをもって生きる者と導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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