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「宝と真珠」マタイによる福音書13章44~52節 2024/10/06

「宝と真珠」マタイによる福音書13章44~52節 2024/10/06 赤塚教会礼拝説教

聖書―マタイによる福音書13章44~52節
(はじめに)
 お読みした聖書の個所、マタイによる福音書13章には、イエスさまの七つのたとえ話が書かれています。そのうちの四つのたとえ話については、すでに以前の説教でお話ししました。種を蒔く人のたとえ話(3~8、18~23節)、毒麦のたとえ話(24~30、36~43節)。からし種のたとえ話(31、32節)、パン種のたとえ話(33節)です。
 そして、今日お読みしたのは、七つのたとえ話のうちの三つのたとえ話でした。これら三つのたとえ話を見てみますと、「天の国は・・・」という言葉から始まっています。それで、新共同訳聖書の小見出しは、「『天の国』のたとえ」と付けられています。天の国とは、神の国とも言います。また、国と訳されている言葉は、支配という意味があります。天の支配、神さまの支配、それは、イエスさまがおいでになったことで、始まったのです。「悔い改めよ。天の国は近づいた」(4章17節)。これは、イエスさまが、神さまの福音を宣べ伝えられる時、言われた言葉ですが、イエスさまがおいでになって、天の国は近づいた。天の支配、神さまの支配は始まった、と言っておられるのです。イエスさまは、ご自分の弟子たちに、このように祈ることを教えられました。これは、主の祈りで知られている言葉の一節です。「御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも」(6章9、10節)。私たちの教会では、毎月の主の晩餐式で、この主の祈りを祈ります。皆さんの中には、それぞれの生活の中でも、この祈りを祈っておられる方もおられるでしょう。神さまの国、神さまの支配が来ますように。それは、神さまの愛と平和が来ますように、ということでもあるのです。私たちがイエス・キリストを神さまと信じて生きるというのは、神さまの愛と平和が、この地の上にも、つまり、私たちの生きているこの世界においても実現することを祈り、願い、生きるということなのです。

(聖書から)
 三つのたとえ話の一つ目のたとえ話をお読みします。
13:44 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
畑に宝が隠されている、とあります。隠されていた宝を見つけた人は、どうするかというと、宝を得るために、持ち物をすっかり売り払って、畑を買う、というのです。その人は、畑の所有者となりますから、畑に隠されていた宝は自分のものになります。この話で印象的なのは、宝を得るために、自分の持ち物をすっかり売り払った、ということです。それは、どれほど価値のあるものなのでしょうか。
続いて、もう一つのたとえ話をお読みします。
13:45 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。13:46 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
 良い真珠を探していた商人が、高価な真珠を一つ見つけました。すると、この人は、自分の持ち物をすっかり売り払って、その真珠を買った、ということです。ここでも、自分の持ち物をすっかり売り払っても、真珠を買った、ということから、その真珠はどれほど価値のあるものなのか、ということを考えさせられます。
 以上、二つのたとえ話についてお話ししましたが、宝、真珠、それは、自分の持ち物をすっかり売り払っても得たいと思うようなものだというのです。それでは、それほどに価値のあるという宝、真珠とは、何のことなのでしょうか?この二つのたとえ話の冒頭には、それぞれ「天の国は次のようにたとえられる」とありました。ここで言われている宝、真珠とは、天の国のことと考えられます。ですから、天の国というのは、自分の持ち物をすっかり売り払っても得たいと思うほどに価値のあるものだということです。
 イエスさまは、このように言われましたが、これを聞く私たちはどうでしょうか?イエスさまを信じて歩んできた。でも、天の国のこと、あるいは、救いのことであるとか、信仰をもって生きるとか、そういったことが、自分の持ち物をすっかり売り払っても得たいと思うほどのことには思えない・・・。
 私たちは、神さまを信じて生きるということ、神さまのこと、教会のことについては、正直なところ、あまり価値のあることとは思っていないかもしれません。けれども、聖書から知らされることは、繰り返しますが、自分の持ち物をすっかり売り払っても得たいと思うほどに価値のあるものだというのです。宝についてのたとえ話では、宝を「見つけた人は、・・・喜びながら帰り・・・」とありました。喜びながら、とあるように、喜びがある、というのです。真珠についてのたとえ話では、「商人が良い真珠を探している」とありました。探している、探し求める、というのです。
 イエスさまは、このたとえ話を語ることによって、天の国は、救いは、信仰をもって生きるとは、どんなに素晴らしいものなのか、ということを教えてくださったのではないでしょうか。しかし、もしも、私たちが、喜びも、探し求める思いもないというならば、そういう自分の信仰を見つめ直してみてはいかがでしょうか。自分の信仰の点検をしてみてはいかがでしょうか。信仰の友と一緒に聖書を読んでみるとか、祈ってみるとか、そういう時間や場を設けることは大事なことだと思うのです。悩んだり、迷ったりすることはいけないことだ、不信仰だ、と考える方があるかもしれません。しかし、イエスさまも悩んだり、迷われたりしたことがあったと思います。イエスさまがゲツセマネの園で祈られた場面を見てみたいと思います(26章36~39節)。
26:36 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。26:37 ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。26:38 そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」26:39 少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
 イエスさまは、ご自分がまもなく捕らえられ、十字架におかかりになることを知っておられました。そこで信頼している弟子たちを伴って、祈りの時を持ちました。その時のイエスさまの様子について、「悲しみもだえ始められた」とありました。イエスさまは、弟子たちにこのように言われました。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」。一緒にいてほしい。祈ってほしい、ということでしょうか。また、イエスさまはこのような祈りをされました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」。ここで主が祈られた「この杯」というのは、十字架の苦しみのことだと思います。その苦しみを過ぎ去らせてください、と祈られたのです。けれども、その後には、「しかし、わたしの願いどおりではなく・・・」と祈られ、十字架の苦しみを受け止められました。この「苦しみを過ぎ去らせてください」という言葉と、「しかし、私の願いどおりではなく」という言葉の間には、どれだけの時間があったか分かりませんが、私は、とても長い時間を費やされたと思っています。神さまの救いのご計画としての十字架、このことを受け止めるまで、受け入れるまで、大変長い時間を費やされたと思うのです。私たちの信仰の歩みも、悩んだり、迷ったり、分からなくなったり、回り道をしたり、多くの時間を費やしたり、ということがあるかもしれませんが、イエスさまはそういう私たちのことをご存じで、そういう私たちのために祈ってくださっていることをおぼえたいと思うのです。
 続いて、三つ目のたとえ話をお読みします。
13:47 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。13:48 網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。13:49 世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、13:50 燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
 このたとえ話から考えられるのは、網とか、魚ということからすると、漁師の話をなさっているようです。漁師が、湖に網を投げ降ろして、魚を獲る場面です。イエスさまの弟子たちの中にも漁師がいましたから、自分の仕事の様子を思い起こして聞いていた者もいたでしょう。いろいろな魚が獲れました。しかし、それで終わりではありません。「良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる」とあります。食べられる魚は器に入れて、食べられない魚は投げ捨てたのでしょうか。このように、獲れた魚の選別をした、ということです。そして、それに続いて、イエスさまはこのように語られました。「世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」。
 このたとえ話では、世の終わりのことが語られています。イエスさまは、このように語っておられます。「正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け」。世の終わりには、良いものと悪いものの選別が行われるというのですが、ここで注意したいことは、正しい人々の中から悪い者をより分けるのは誰か、ということです。ここには、「天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け」とあります。より分けること、選別することは、天使たちの役目だということです。それは、弟子たちの役目ではないということ、私たちの役目でもないということが言われているのではないでしょうか。誰が正しくないか、悪いか、そのことをより分ける、選別するのは、私たち人間の役目ではない。天使たちの役目、つまり、神さまのみ手にあるということではないでしょうか。
 網を投げ降ろすこと。これを、福音宣教のことだ、と説明される方がいます。福音を宣べ伝える。すると、いろいろな人が、神さまの救いにあずかる、神さまのもとに集められる。しかし、終わりの日には、私たちは、より分けられる、選別される。けれども、より分けること、選別すること、裁くこと、それは私たちの役目ではありません。私たちの役目、私たちがすること、それは福音を宣べ伝えることです。そして、後のことは、神さまに委ねていくのです。

(むすび)
 イエスさまは、これらのたとえ話を語り終えられ、弟子たちに尋ねます。そして、言われたことは、このようなことでした。
13:51 「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。13:52 そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」
 「天の国のことを学んだ学者」とあります。弟子たちのことをこのように言われたのでしょうか?これは、決して否定的な意味で言われたのではないと思います。あなたがたは、私の言葉を聞いた。天の国のことを聞いた、学んだ。だから、あなたがたは、自分の倉、自分の心に神さまの言葉がある。それを取り出して、人々に語りなさい。主は、弟子たちを、期待を込めて、祈りを持って、送り出されたのです、遣わされたのです。そして、今、主は、私たちにも、あなたがたは私の言葉を語りなさい、と送り出してくださる、遣わしてくださるのではないでしょうか。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
天の国、救い、神さまの支配に生きること、そのことについて、宝や真珠を見つけた人の喜びのようだ、とイエスさまはたとえられました。しかし、私たちはどうでしょうか?私たちの心の目が閉じられていて、喜びを見失っているようなことはないでしょうか。
 どうか、私たちの心の目が開かれて、見える目を与えてください。そして、私たちに、天の国の喜び、イエスさまの救いの喜びがどれほどのものであるかを教えてください。
 私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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