神の言葉を無にしない マタイによる福音書15章1~20節 2025/ 1/ 5
聖書―マタイによる福音書15章1~20節
(はじめに)
2025年、新しい年が明けました。この年も神さまの言葉を頼りに、主の平和が来ますように、神さまのみ心が行われますように、祈りつつ歩んでまいりましょう。お読みしました聖書の個所は、マタイによる福音書15章1~20節です。
(聖書から)
お読みした聖書個所では、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、イエスさまに次のような質問をしています。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません」(2節)。
彼らは、イエスさまの弟子たちのことを話しています。イエスさまの弟子たちが、昔の人の言い伝えを破っているというのです。その言い伝えというのは、食事の前に手を洗わない、ということです。食事の前に手を洗う、というと、私たちにとっては、もう子供の時から聞いてきたことだと思います。手を洗わないで汚れたままで食事をすると、手に付着しているばい菌などによって病気になってしまう。だから、手を清潔にしておくように、ということだったと思います。
しかし、ここで、手を洗う、というのは、それとは意味が違います。私たちが食事の時に手を洗うというのは、衛生上の理由ですが、言い伝えとして言われてきたこと、それは、宗教上の理由でした。聖書の舞台は、ユダヤです。ユダヤの人たちというのは、とても宗教的な人たちですが、神さまから離れていたとみなされていた人たち、例えば、異邦人などもいます。すると、そういう人たちに触れること、接することによって、自分たちが汚れてしまう。だから、その汚れを清めることが必要だ。そこで食事の前には手を洗うように、と言われてきたのです。
しかし、その言い伝えについて、イエスさまは、正しいことだとは思っていませんでした。ですから、この後、3節から、その言い伝えについて、このようなことを言っておられます。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている」(3~6節)。
イエスさまの言われた言葉を途中まで読みましたが、イエスさまは、「昔の人の言い伝え」ということを、「自分の言い伝え」、つまり、ファリサイ派の人々と律法学者たちの言い伝えと言い換えておられます。さらに、「神の掟を破っている」とも言われます。ファリサイ派の人々と律法学者たちは、「昔の人の言い伝え」、昔の人が、神さまの掟として、忠実に守ってきたことなのだから、あなたがたもこれを守るように、と言ってきたのですが、イエスさまは、そうではない、と言われるのです。それは、神さまの掟でも何でもない、「自分の言い伝え」、あなたがたが、自分勝手に、神さまの掟でもないものを、神さまの掟だと言って、守らせようとしているだけなのだ、と言われるのです。
そして、一つの事例として、4~6節に挙げられている話をされました。4節には、「父と母を敬え」、「父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである」という言葉を引用しておられます。「父と母を敬え」というのは、皆さんもご存じの十戒の戒めの中の一つですが、このような戒めがあるのに、5、6節にあるように、それとは矛盾することを教えている、と言われます。
その矛盾する教えというのは、「父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、父を敬わなくてもよい」ということです。これは、どういうことを言っているのかというと、両親のお世話をするために必要なお金を、これは、神さまへの供え物です、献げ物です、と言ってしまえば、両親のお世話をしなくてもよい、という教えです。本来は、父と母を敬うように、父と母を大切にしてお世話するように、という教えなのに、後になって、自分たちの都合に合わせて作った教えが加えられてしまったのです。そこでイエスさまは、「あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている」と言われました。あなたたちは、自分たちの都合に合わせて、神さまの掟をひっくり返すような、無にするようなことをしてきたのだ、と言っているのです。
これは、ファリサイ派の人々と律法学者たちだけの問題ではないと思います。私たちも、神さまの言葉を自分たちの都合の良いように、解釈したり、曲げてしまったりすることはないでしょうか。神さまを信じる、神さまの言葉を聴く、というのは、神さまに従うということです。それなのに、神さまに従うどころか、自分の都合の方が最優先されてしまう。それは、神さまの言葉を無にしてしまうことなのです。
イエスさまは、そういうファリサイ派の人々と律法学者たちについて、聖書の言葉を引用しています。「この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。
人間の戒めを教えとして教え、/むなしくわたしをあがめている」(8、9節)。
これは、イザヤ書29章13節の引用です。さらに、イエスさまは、このように語られました。
15:10 それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。15:11 口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」
「口に入るもの」。それは、具体的には食物のことです。律法の中には、食物についての細かい教えが書かれています。何が、汚れた食物なのか、そうでないのか、当時の人々は、その教えを守っていましたが、イエスさまは、食物が人を汚すわけではないと言われ、「口から出て来るものが人を汚す」と言われました。私たちの外側にあるもの、例えば、食物であるとか、人であるとか、そういうものが私たちを汚すのではない。「口から出て来るもの」、私たちの内側、心にあるもの、それが言葉として出てきて、自分自身を、また人を汚すのだ、というのです。
18節以下には、そのことがさらに具体的に語られています。
15:18 しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。15:19 悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。15:20 これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」
「口から出て来るもの」。それは、言葉によって、その人の心にあるものが明らかにされます。私たちの心にあるもの、使徒パウロはこのことで悩み、戦う日々であったことを次の言葉から表しています。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(ローマ7章15節)。「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(ローマ7章19、20節)。
私たちの心にあるものとは、私たちの心の中に住んでいる罪のことです。私は、このパウロの言葉を読むたびに励まされます。罪に悩み、罪と戦うということ、それは、自分だけのことではないということを知るからです。パウロも自分の中にある罪に悩み、罪と戦っていたのです。私たちは、生涯、この悩み、戦いを続けていかなければなりません。しかし、それは自分だけの孤独な悩み、戦いではありません。そういう私たちのために、イエスさまはおいでくださいました。イエスさまが私たちを助けてくださり、罪から勝利させてくださるのです。
(むすび)
私たちの口から出て来るもの。そのことについて、ヤコブの手紙3章にも書かれています。その中の一か所、お読みします(ヤコブ3章9~11節)。
3:9 わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。3:10 同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。3:11 泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。
私たちは、同じ口から、ある時は、神さまを賛美する言葉が出てきます。そして、ある時は、人を呪う言葉が出てきます。このことについて、人間とは、何と矛盾した存在なのだろうか、と嘆くだけではすまされません。もう一度、ヤコブの手紙の言葉をお読みしますと、「わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか」と語られています。このようなことがあってはならない、というのです。泉の同じ穴から、甘い水と苦い水が一緒に湧き出ることはない、とありました。私たちは、神さまの子どもです。私たちの口から出る言葉、それは、賛美と呪いが一緒に出て来るようであってはならない。神さまを賛美する言葉、人を祝福する言葉でなければならないというのです。
それでは、どうしたら、私たちは神さまを賛美し、人を祝福することができるのでしょうか?今日の説教題は、「神の言葉を無にしない」としました。神さまの言葉を無にしない。言い換えますと、神さまの言葉が私たちの心に宿るように、神さまの言葉が私たちの心を支配するように、ということです。コロサイの信徒への手紙3章12節からお読みします。
3:12 あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。3:13 互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。3:14 これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。3:15 また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。3:16 キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。3:17 そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。
お読みした言葉を私たちの祈りの言葉としていきたいと思います。お祈りいたしましょう。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
新しい年が始まりました。この一年も、私たちは神さまの言葉によって、日々、新しく歩む者としてください。私たちの語ること、行なうことが、神さまを賛美するもの、人々を祝福するものでありますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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