
パンは幾つあるか マタイによる福音書15章29~39節 2025/02/02
聖書―マタイによる福音書15章29~39節
(はじめに)
イエスさまが、ティルスとシドンの地方を去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた時の出来事が、今日お読みした聖書に書いてありました。29節からお読みします。
15:29 イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。15:30 大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。15:31 群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。
30節に「大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえた」とあります。この群衆は、イエスさまが病の人を癒したことを聞いていたのでしょうか?多くの病にある人たちをイエスさまのところに連れて来た、というのです。その人たちを連れて来るというのは、大変な労力が必要であったと思います。けれども、この人をぜひ、イエスさまのもとに、という思いがそのことをさせたのでしょう。皆さんも、ご自分の家族や親しくしておられる方々を、ぜひ、イエスさまに出会ってほしい。そういう熱い思いを持って、祈っておられると思います。その祈りが実現して、やがて、自分が祈ってきたその人がイエスさまのもとへ。教会に行ってみよう。そう思われる日が来るように、ご一緒に祈りを合わせたいと思います。
(聖書から)
イエスさまは、連れて来られた病の人たちを癒されました。すると、「群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した」とあります。群衆は、神さまを賛美した、というのです。神さまを賛美する。私たちも、今、教会に集い、みんなで一緒に賛美しています。神さまを賛美しています。ここに書かれていた群衆は、自分たちが連れて来た病にあった人たちが癒されたこと、主が癒してくださったことを喜び、神さまを賛美しました。私たちも、神さまの救いのみわざを、神さまの恵みをおぼえて賛美しています。
さて、32節から、新共同訳聖書では、「四千人に食べ物を与える」という小見出しが付けられている内容です。この箇所の少し前にも、似たような内容の個所があったのでは?と思われた方があるかもしれません。マタイによる福音書14章13節からの内容です。そこには、「五千人に食べ物を与える」という小見出しが付けられています。
ある聖書注解者は、このことについて、イエスさまは、大勢の人たちに食べ物を与えた、という奇跡を何度もなさっておられたのだ、と言っています。その中の一つ、あるいは二つの記事が、聖書に書かれていると言っています。そうかもしれません。イエスさまの全生涯、一挙手一投足、そのすべてが聖書に書いてあるとは、私は思いません。例えば、聖書の中にこういう言葉があります(ヨハネ21章25節)。
21:25 イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。
ヨハネによる福音書の記者ヨハネはこのようなことを書いています。おそらく、他の福音書記者、マタイ、マルコ、ルカなども、同じ意見だと思います。福音書記者自身、イエスさまのことをすべて知っているわけではありません。私たちもイエスさまのすべてを知っているわけではない一人一人です。それなのに、イエスさまのことを分かったつもりになっているようなことはないでしょうか?もっともっと私たちはイエスさまを知りたいと思います。イエスさまの愛を、恵みを知ることに努めていきたいと思います。
今日の聖書に戻ります。32節をお読みします。
15:32 イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」
29節に、イエスさまが山に登って座っておられた、ということが書いてありましたが、ここでも、イエスさまは集まって来た群衆に福音を語っておられたのではないかと思います。この群衆について、イエスさまは、「群衆がかわいそうだ」と言っておられます。なぜ、かわいそうかというと、「食べ物がない」からだというのです。
イエスさまは、群衆の食事のことも心配しておられた、というのです。人々がイエスさまから、福音を、神さまの言葉を聴きに集まって来た。すると、イエスさまは、彼らに福音を語りました。しかし、イエスさまは、ご自分が福音を語ったら、そこで、その場でおしまいではなく、その後のことまで、心配された、というのです。一人一人の人生を、生活を心配しておられる、気にかけておられるのです。イエスさまが、群衆のことを「かわいそうだ」と書いてあるこの言葉は、別の訳では、「腸(はらわた)のちぎれる想いがする」(岩波訳)と訳されています。断腸の思いと言ったらいいでしょうか。
「群衆がかわいそうだ。・・・」。この言葉を聞いたイエスさまの弟子たちは、イエスさまにこのようなことを言っています。
15:33 弟子たちは言った。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」
弟子たちの言ったこと、それは、事実です、現状です。彼らはそのことを率直に言ったのです。「イエスさま、群衆がかわいそうだ、と言われても、こんな大勢の人たちに食べ物を食べさせることなど、できませんよ。もっと現実を見てください」と言っているように思えます。
続いてイエスさまは、弟子たちにこのようなことを言われました。
15:34 イエスが「パンは幾つあるか」と言われると、弟子たちは、「七つあります。それに、小さい魚が少しばかり」と答えた。
イエスさまは、弟子たちに「パンは幾つあるか」とお尋ねになりました。弟子たちは答えました。「七つあります。それに、小さな魚が少しばかり」。弟子たちの持っていた食べ物というのは、パンが七つ、小さい魚が少し、ということでした。イエスさまは、これを聞いて、どう思われたでしょうか?ここにいる大勢の群衆を食べさせるのに十分なものは何も持っていない・・・。現実の厳しさに頭を抱えてしまったのでしょうか?
35節からお読みします。
15:35 そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、15:36 七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。
イエスさまは、パンも、魚も、わずかしかないことを知られました。そのことを知ったイエスさまはどうされたか、というと、地面に座るように群衆にお命じになりました。そして、「七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えて・・・」とあります。イエスさまは、そのわずかなパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えられた、というのです。イエスさまは、神さまに感謝をささげられた、というのです。
「神さま、パンも、魚も、わずかしかありません。どうか、助けてください、何とかしてください」。私なら、そういう祈りをすると思います。でも、イエスさまは、感謝をささげられた、というのです。私は、この聖書個所をこれまでも何度も読んできましたが、改めて読んでみて、イエスさまがなぜ、感謝されたのだろうか?と不思議に思いました。
感謝する、ということについて考えてみますと、私たちは、自分にとって何か喜ばしいことがあった時、嬉しいことがあった時、そういう時には、神さまに感謝をささげると思います。けれども、あれが足りない、これが不足している・・・。まさに、今日の聖書の話です。こういう場面に直面したらどうでしょうか?感謝することができるでしょうか?私なら、感謝よりも、嘆きや愚痴が口から溢れて出て来そうです。
イエスさまは、弟子たちからこういう声を聞きました。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか」。イエスさまが「パンは幾つあるか」と尋ねると、「七つあります。それに、小さい魚が少しばかり」という答えでした。しかし、主は、神さまに感謝をささげられました。感謝できるようなことが何かあったのでしょうか?
私はこう思うのです。イエスさまは、神さまに感謝をささげられた。それは、神さまがご自分に弟子たちを与えてくださったことを感謝されたのです。弟子たちの持っているものは、パンが七つ、それに小さな魚が少しだけでした。この弟子たちは、パンと魚をわずかしか持たない人たちでした。それだけではありません。イエスさまが、群衆に食べ物を与えたい、と言っても、それは現実的ではありません。無理なことです、と言ってしまうような人たちでした。信仰があるかないか分からないような人たちでした。しかし、そういう弟子たちを神さまが与えてくださった。そのことを主は感謝されたのです。
もう一度、36節をお読みします。「七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った」。主は、信仰があるかないか分からないような弟子たちに、パンと魚をお渡しになりました。信仰があるかないか分からないような弟子たちと言いましたが、私は、復活されたイエスさまがガリラヤで弟子たちと再会された場面を思い出します(28章16、17節)。
28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。28:17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
この時には、イスカリオテのユダがいませんでしたから、十二人ではなく、十一人の弟子でした。復活の主に出会った弟子たちのことがこのように書かれています。「そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」。イエスさまにひれ伏す弟子、そして、イエスさまを疑う弟子。しかし、イエスさまは、どちらにも語られたのです。宣教命令(28章18~20節)と言われる言葉を語られたのです。
(むすび)
信仰があるかないか分からないような弟子たち。しかし、その弟子たちに主はパンと魚を渡されたのです。福音を委ねられた、福音を託されたのです。弟子たちは、それを配りました。信仰があるかないか分からないような弟子たちが人々にそれを配ったのです。すると、どういうことが起こったか。それが37節以下に書かれていることです。
15:37 人々は皆、食べて満腹した。残ったパンの屑を集めると、七つの籠いっぱいになった。15:38 食べた人は、女と子供を別にして、男が四千人であった。
「人々は皆、食べて満腹した」とあります。「残ったパンの屑を集めると、七つの籠いっぱいになった」とあります。わずかなものしか持たない弟子たち、わずかな信仰しかない弟子たち。しかし、その弟子たちが神さまに用いられて、人々を満たしたのです。ここに神さまのみわざが、奇跡が起こったのです。
私たちもこの弟子たちのようなものです。信仰が足りない。あれがない、これができない・・・。そういう私たちです。口を開けば、嘆きや愚痴が出てきてしまう。そういう私たちですが、主は、そういう私たちのことを神さまに祈られるのです。この私のことを、あなたのことを、主は、神さまに感謝して祈られるのです。そして、主は、私たち一人一人にこのように言われていると思います。「あなたは、神さまが私に与えてくださった愛する弟子なのだ」。何と嬉しいこと、何とありがたいことでしょう。そして、主は私たちにもパンと魚を渡される、福音を渡されるのです。私たちがすることは何でしょうか?私たちは主が渡してくださったものを配るのです。福音を配るのです。私たちは、主がこの私を神さまのお働きのために用いてくださる。そのことを喜びたいと思います。感謝したいと思います。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
主は、ご自分の弟子たちにわずかなパンと魚を渡されました。信仰があるかないか分からないような弟子たちでした。しかし、主はその弟子たちを用いて、人々を満たすみわざを行われました。
私たちもこの弟子たちのような者です。主は、今も私たちに福音を渡されます。しかし、私たち自身がこの福音が、イエスさまが、人々を本当に満たすものであるということをまだよく分かっていないかもしれません。私たち自身が福音の力を、イエスさまの恵みを本当に知る者にしてください。喜びを持って、福音を、イエスさまをお伝えしていく者にしてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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