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パン種に注意しなさい マタイによる福音書16章1~12節 2025/02/09
聖書―マタイによる福音書16章1~12節
(はじめに)
礼拝の説教の聖書個所は、月の前半は、このところ、マタイによる福音書からお話しています。教会学校の方も、『聖書教育』の聖書個所から学んでいますが、やはり、マタイによる福音書からの学びになっています。教会学校、礼拝で、それぞれマタイによる福音書の言葉から、神さまの語りかけを受けていけたらと思います。
礼拝では、マタイによる福音書16章1~12節をお読みしました。新共同訳聖書では、1~4節までを「人々はしるしを欲しがる」という小見出しを付けています。そして、それに続いて、5~12節までを「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種」という小見出しを付けていますが、お読みして分かるように、1~4節、5~12節のどちらも、ファリサイ派とサドカイ派の話になっています。
(聖書から)
ファリサイ派とサドカイ派とは、それぞれユダヤ教の一派でした。新共同訳聖書には、聖書の後ろの方に用語解説という付録が付いています。そこに簡単な説明が書いてありますので、ご一読くださるとよいかと思います。この両者は、仲が良かったわけではありません。けれども、1節には、このようなことが書かれています。
16:1 ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。
ファリサイ派とサドカイ派の人々が、一緒になってあることをしたのです。何をしたのか、というと、イエスさまを試そうとした、というのです。仲が良いわけではなかった、信仰理解とか、考えが一緒だったわけでもなかった。しかし、そういう両者が、イエスさまを試みようとすることでは、一致したのです。一緒になって、イエスさまを試みて、攻撃しようと考えたのです。
聖書の中に、一つになること、一致することを勧めている言葉があります。こういう言葉です(エフェソ4章1~6節)。
4:1 そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、4:2 一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、4:3 平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。4:4 体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。4:5 主は一人、信仰は一つ、洗礼(バプテスマ)は一つ、4:6 すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。
ここから分かることは、私たちは、何によって一致するか、ということです。ファリサイ派とサドカイ派は、イエスさまを攻撃することで一致しました。しかし、私たちは何によって一致するかというと、「霊による一致を保つように努めなさい」(エフェソ4章3節)とありました。聖霊による一致です。神さまのみ心を求め、神さまの働きに参与するための一致です。私たちが求めるべき一致、それは、聖霊による一致です。
ファリサイ派とサドカイ派の人々は、イエスさまに、天からのしるしを見せてほしい、と願いました。天からのしるし。それは何かというと、イエスさまが神さまの福音を伝えている。それならば、神さまが本当におられること、私たちが神さまを信じることができるように、その証拠となるしるしを見せてほしい。そう言っているのです。
私は、学生時代、ある友人から、こういうことを言われたことがあります。「君は、自分がクリスチャンだ、神を信じていると言うけれども、神はどこにいるのか?本当に神がいるのなら、見せてくれ。自分が信じることができるように、神がいる証拠を見せてくれ」。このように言われて、大変困ってしまったことがありました。皆さんも、何か厳しい問いかけ、質問を受けたことがあるかもしれません。見えない神さまを見せてみろ、と言われたら、私たちは、答えることができません。理路整然と、説得力を持って答えられたらいいのですが、そういうわけにはいかない。議論をして相手を負かせるとか、強い言葉で信じさせるとか、信仰とはそういうものではないからです。
イエスさまは、彼らにどう答えたでしょうか。2節からお読みします。
16:2 イエスはお答えになった。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、16:3 朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。16:4 よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」そして、イエスは彼らを後に残して立ち去られた。
イエスさまが言われたこと、それは、あなたがたは、空模様は見分けることができる。これは、天気予報のことです。明日の天気は晴れか、雨か、曇りか・・・。あなたがたは、そういうことは分かるのに、時代のしるしを見ることはできないと言われました。時代のしるしとは、何でしょうか?
時代のしるし、時のしるしというと、鋭い視点を持って、今の時代について分析される方がいます。歴史家であるとか、経済の専門家であるとか、そういう人たちの言葉、書いたものなどは、今の時代がどういう時代なのか、何に気をつけなければいけないのか、いろいろと教えられる、考えさせられるわけですが、ここでイエスさまが言われた時代のしるし、時のしるしというのは、ファリサイ派とサドカイ派の人々の質問を受けての答えです。天からのしるし、つまり、神さまに関するしるしについて、言われているのです。
「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」とイエスさまは言われました。イエスさまは、天からのしるし、神さまに関するしるしについて、ヨナのしるしの他には、しるしは与えられない、と言われました。ヨナのしるしについては、このマタイによる福音書では、12章に、イエスさまが語られたことが書かれています。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」(12章39、40節)。
旧約聖書に出てくる人物にヨナという人がいます。この人は、預言者、神さまの言葉を人々に伝える働きをする人でした。神さまは、ヨナに向かって、こう言われました。ニネベという大都会に行って、そこで神さまのことを伝えなさい。ヨナはその命令を嫌がりました。なぜなら、ニネベの人たちというのは、誰も神さまの話など、聴くはずがない、と思ったからです。そこで、ヨナはニネベには行かないで、タルシシュという町に行こうと考え、タルシシュ行きの船に乗りました。ところが、海は大荒れになって、船は難破しそうになりました。船に乗っていた人たちは、誰のせいでこんなことになったのか、と犯人捜しを始め、くじ引きでその原因となったのは誰かを決めようとしました。すると、そのくじはヨナに当たってしまいました。ヨナは自分が神さまの言うことを聞かなかったことでみんなを大変な目に遭わせてしまった、と思ったのでしょう。自分を海に放り込んでくれ。そうしたら、海は静まると言いました。それで、ヨナは海に放り込まれることになりました。海に放り込まれたヨナでしたが、神さまは、ヨナを大きな魚に呑み込ませられ、ヨナは魚の腹の中で三日三晩過ごすことになります。その間、ヨナはどうやって過ごしたかというと、神さまにお祈りをしたのです。ヨナは、魚の腹の中で、自分が神さまに逆らったこと、自分勝手に生きてきたことを悔い改めます。三日後に、神さまはヨナを助け出し、ヨナは、今度は神さまの言われたとおりにニネベに行き、神さまのことを伝えるという話です。
ヨナのしるし、それは、ヨナが魚の腹の中に三日三晩過ごした、ということから、イエスさまが十字架にかかって死なれて三日の間、墓の中を過ごされた、ということで、イエスさまの十字架の死と復活を意味すると理解されてきました。ヨナのしるしとは、イエスさまの十字架と復活、救いを示しているというのです。それはそれとして、大事な聖書の理解だと思いますが、改めて、このヨナの話から教えられることは、ヨナは、最初は神さまに逆らったのです、神さまの言われることを聞かなかったのです。しかし、神さまは、ヨナに大切な時を与えてくださいました。魚の腹の中、そこは、ヨナが一人になるところ、神さまの前に一人立たされるところだったのです。ヨナは、神さまに向き合い、祈りました。祈りの中で、ヨナは悔い改めへと導かれ、神さまに従う決心へと導かれたのです。
私たちも、ヨナのような者ではないでしょうか。神さまを信じていると言いながら、なかなか神さまに従うことをしない。いつまでも、自分が主になっている、自分が中心になっている。しかし、私たちも、あのヨナが魚の腹の中に置かれたようなことになったら、自分を本当に顧みるような時、機会が与えられたら、祈らされるのではないでしょうか。そこで初めて、そこで本当に、神さまに向き合わされることになる。そこから、天のしるしについて、つまり、神さまが本当におられること、神さまがこの私を愛し、共におられることに気づかされていくのではないでしょうか。イエスさまが、ファリサイ派とサドカイ派の人々に、ヨナのしるしについて言われたのは、真に神さまに立ち返るように、悔い改めるように。そうするなら、あなたがたは天のしるしを知る、神さまを本当に知る。そのことを言われたのではないでしょうか。
(むすび)
5節以下に書かれていること、それは、ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意するように、ということでした。12節には、そのパン種というのは、「ファリサイ派とサドカイ派の人々の教え」とあります。すると、私たちは、イエスさまは弟子たちに、イエスさまに反対したファリサイ派、サドカイ派の人々のパン種、パン種そのものについて言うと、イースト菌のことです。それは本当に小さなものです。その小さなイースト菌が膨らんでパンになるわけですが、小さく思えるような、そのパン種、教えに気をつけよ、と言われた。私たちも、今の時代にあって、あの人の、この人のパン種、教えには気をつけよう、と理解するかもしれません。しかし、ここでイエスさまが言われていることは、ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種というのは、この私にもあることなのだ。私の中にも、パン種がある。それは、神さまを信じていると言いながら、違う方向に向かっている部分と言ったらいいでしょうか、罪がある。自分で見ると、パン種のように小さく見えるかもしれない。けれども、それは膨らんで大きくなるのです。小さいから大丈夫、いいえ、その小さな罪が私たちを神さまから引き離してしまう。神さまを見えなくしてしまう。だから、どんな小さな罪でも甘く見てはいけない。罪から守られるように、主の守りを祈る者でありたいと思うのです。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
ファリサイ派とサドカイ派のパン種、教え、罪、それは、私たちの中にもあるものです。自分では、小さく見えるかもしれません。いや気づいていないかもしれません。ヨナが、魚の腹の中に置かれ、そこで神さまに向き合わされ、祈り、悔い改めたように、私たちも、神さまに向き合い、祈り、悔い改める歩みを導いてください。そして、そこで天のしるし、神さまの救いの恵みを知る者にしてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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