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箱舟に入りなさい 創世記7章1~24節 2025年3月30日

箱舟に入りなさい 創世記7章1~24節 赤塚バプテスト教会(朝・夕)礼拝説教 石堂雅彦牧師

聖書―創世記7章1~24節
(はじめに)
 今日は創世記7章をお読みしました。先月に続いて、ノアの話が記されている聖書個所になります。6章では、ノアについてはこのようなことが書かれていました。「その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ」(6章9節)。さらに5章にはノアの名前の由来のことが記されていました。「彼は、「主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう」と言って、その子をノア(慰め)と名付けた」(5章29節)。ノアの父レメクは慰めを求めて、この名を名付けたことが記されています。

(聖書から)
 さて、創世記7章1~5節をお読みします。
7:1 主はノアに言われた。
「さあ、あなたとあなたの家族は皆、箱舟に入りなさい。この世代の中であなただけはわたしに従う人だと、わたしは認めている。7:2 あなたは清い動物をすべて七つがいずつ取り、また、清くない動物をすべて一つがいずつ取りなさい。7:3 空の鳥も七つがい取りなさい。全地の面に子孫が生き続けるように。7:4 七日の後、わたしは四十日四十夜地上に雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面からぬぐい去ることにした。」7:5 ノアは、すべて主が命じられたとおりにした。
 神さまは、ノアとその家族がみんな箱舟に入るように、と言われました。このことについて、「この世代の中であなただけはわたしに従う人だと、わたしは認めている」(1節)と言われています。ノアは、神さまに従う人であり、そのことのゆえにノア、そして、その家族は箱舟に入るように、と言われているように思えます。
 ところで、この時点では、まだ洪水は起こっていませんでした。6章には、神さまが、まもなく洪水が起きることをノアに話されましたが(13節)、果たしてそんなことが起きるのだろうか?神さまから、洪水の話を聞いても、それを信じて行動に出るかどうか。つまり、箱舟を造る作業を始めるかどうか。そして、箱舟に入るかどうか、ということについては、ノア自身の信仰に委ねられていたことでした。そういうノアについて、6章22節には「ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした」とありました。また今日お読みしました5節でも「ノアは、すべて主が命じられたとおりにした」とあります。ノアは決断したのです。ノアは神さまの言葉の一つ一つを信頼して、そのとおりにしたのです。
 ノアについては、1節には、神さまは、「わたしに従う人だと、わたしは認めている」と言われた、ということが書かれていました。口語訳聖書では「わたしの前に正しい人であるとわたしは認めたからである」となっていました。ノアは正しい人であった、というと、私たちが普通思い浮かべるのは、非の打ちどころのない、間違いを犯すことのない、完全な人、そういう人物像が浮かんでくるかもしれません。けれども、ここで言われている「正しさ」というのは、ノアが、神さまに対して正しく生きよう、神さまに従って生きようとしていた人ということではないでしょうか。そして、おそらく、そういうことから、新共同訳聖書は、神さまに従う人と訳したのだと思います。先ほど、6章9節の言葉を引用しました。そこでも、「ノアは神と共に歩んだ」とありました。ノアは神さまと共に歩もうとした人であったことが示されています。
 しかし、そのノアのことですが、私はおそらく箱舟造りのことなど考えると、孤独を感じていたのではないかと想像します。神さまの言葉を信じて、こつこつと箱舟造りの作業を始めた。しかし、周りの人たちからは、いったいそれが何の意味があることなのか?無駄なことをしているのではないか?冷たい視線、嘲笑といったものを浴びながら、それでも神さまの言葉に従い続けたのではないかと思うのです。それはまさに今の私たち、今の教会のことのように思えてなりません。私たちも、神さまを信じてどんな意味があるのか?どんな良いことがあるのか?と問われるようなことがあるかもしれません。
先ほどお読みした1節には、神さまがノアについて、「わたしに従う人だと、わたしは認めている」と言われたことが書かれていました。これは新改訳聖書では、「あなたがこの時代にあって、わたしの前に正しいのを、わたしが見たからである」と訳されています。神さまは、ノアを認めておられる、見ておられるというのです。そして今、神さまは、私たちを認めておられる、見ておられるのではないでしょうか。そのことを知る私たちは、それだから、つまり、神さまが認めておられるから、見ておられるから、神さまのまなざしに守られて、支えられて立って行くことができる。主に従い続けていくことができるのではないでしょうか。
 2節には箱舟に入れる動物について、清い動物も、清くない動物も、共に入れるようにと、神さまが指示しておられる様子が記されています。清いとか、清くないとありますが、私たち人間は、自分の基準で、動物だけではなく、人のことも区別してしまうようなことがあるのではないでしょうか。けれども、神さまはどうでしょうか。使徒言行録10章にはペトロが見た幻の中で主が語られた言葉がありました。そこには、このようなことが書かれています。「『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』と言う声がした。しかし、ペトロは言った。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。』すると、また声が聞こえてきた。『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。』こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた」(使徒10章13~16節)。これを受けて、ペトロはすべての者の救いへと目が開かれていきます。ペトロは、このように言います。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」(同10章34、35節)。
 神さまが、動物をつがいで箱舟に入れる理由について言われていることにも注意してみたいと思います。「全地の面に子孫が生き続けるように」(3節)とありました。ノアの洪水の出来事というのは人間の罪ゆえのことでしたが、神さまは決して滅ぼすことが目的ではなかったのです。「子孫が生き続けるように」。そして、この出来事を起こされた神さまご自身の悲しみがあったことも忘れてはなりません。創世記6章5~7節には、「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。『わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する』」。ここに「心を痛められた」とあります。この洪水の出来事の背後には神さまの悲しみ、神さまが心を痛められた、ということがあったことを忘れてはなりません。
7:11 ノアの生涯の第六百年、第二の月の十七日、この日、大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた。
 洪水が起こったことについて、このような表現がされています。「大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた」。この「裂け」という言葉は「破れ」(口語訳など)と訳すこともできる言葉です。裂ける、破れる、というと、私たちの生きているこの時代について考えさせられます。私たちの生きているこの時代とは、どのような時代なのでしょうか?決して楽観的に考えることはできないと思います。むしろ、破局に向かっているように思えてなりません。将来のことを考えれば考えるほど、不安に、心配になりますが、考えてみますと、人間の歴史というのは、どの時代も常に破局に向かっているようなものだったのではないでしょうか。しかし、その破局というのは、経済的なこと、政治的なことだけではないと思います。罪の問題としての破局です。罪の問題とは何かというと、神さまを神さまとしない生き方、あり方ということです。これはもっと具体的に言いますと、神さまが私たちに求めておられることに従わないことです。それは、神さまを愛すること、隣人を愛すること(マタイ22章37~40節)から離れた生き方、あり方、愛さないということです。これこそが、私たちを破局に向かわせる根本原因なのです。神さまは、ノアに語られたように、私たちにも語られます。それが「箱舟に入りなさい」(1節)ということです。これこそは、破局に向かっている私たちに対する神さまの救いの招きです。
 神さまは今、私たちすべてに対して「箱舟に入りなさい」と言われます。「箱舟に入りなさい」、それは神さまに立ち帰るように、神さまの求めておられることに従うように、ということです。これが、私たちに対する救いの招きです。しかし、16節には「主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた」とあります。神さまが戸を閉ざすその時が来るというのです。今は救いの時です。私たちは最善を尽くして、神さまの救いを宣べ伝えることに励みたいと思いますが、いつの日か、神さまの救いが閉ざされる時が来るということも忘れてはならないと思うのです。私たちはその日、その時が来るまで、福音を、救いを宣べ伝えるのです。それが、神さまが、私たち教会に託された、主を信じる者に託された大切な使命です。

(むすび)
 23節にはこのようなことが記されています。
 7:23 地の面にいた生き物はすべて、人をはじめ、家畜、這うもの、空の鳥に至るまでぬぐい去られた。彼らは大地からぬぐい去られ、ノアと、彼と共に箱舟にいたものだけが残った。
 厳しい内容が書かれていました。「ぬぐい去られた」ということ、そして、「ノアと、彼と共に箱舟にいたものだけが残った」とあります。これは神さまに従った人、神さまに従った家族は生き残った、ということでしょうか。いいえ、それだけの話ではありません。「残った」とありましたが、実はここからが新しい出発、新しい始まりということが言われているのです。ここから、神さまは新しいことを起こされる。残りの者、残りの民を用いて、残りの者、残りの民を通して、神さまはこれから新しいみわざを起こされるのです。私たちは、私は神さまを信じて良かった!私は救われて良かった!そこで留まるのではありません。神さまを信じるあなたから、神さまの救いにあずかったあなたから、神さまはみわざをなさる、救いのみわざをなさる。そのことをおぼえて、私たちに与えられた神さまの救いを伝えていきたいと思います。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
 ノアは、神さまの言われたことに従っていきました。しかし、それは時に孤独を感じるようなこともあったでしょう。私たちも主に従って歩もうとする時、孤独を感じるようなことがあるかもしれません。しかし、主は、そういう私たちのことを見ておられます。そういう私たちと共に歩んでおられます。そのことを思って、主の心を思って、歩み続けていくことができますように。新しい年度も、私たち教会が救いを伝える群れとして、主が用いてください。そして、主のみわざを行ってください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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