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「永遠の命を得た者」ヨハネの手紙一5章13~21節 2025年9月21日

永遠の命を得た者 ヨハネの手紙Ⅰ 5章13~21節 赤塚バプテスト教会(朝・夕)礼拝説教 石堂雅彦牧師

聖書―ヨハネの手紙一5章13~21節
(はじめに)
礼拝の説教では、ヨハネの手紙一から、月に一度、お話ししてきました。この手紙を書いたのは、ヨハネという人です。イエスさまの十二弟子の一人のヨハネであるとか、そのヨハネの信仰を受け継いだ人であるとか、長老ヨハネと呼ばれた人であるとか、ヨハネといってもどのヨハネであるのか、諸説あります。またこの手紙を読んでみて分かることは、ヨハネによる福音書と手紙の内容には、共通性が見られるということです。この手紙の書かれた目的について、1章4節には、このようなことが書かれていました。
1:4 わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。
「わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるため」。「わたしたちの喜び」とは何でしょうか?この節の前、ヨハネの手紙一1章1~3節には、「永遠の命」、「交わり」ということが書かれていました。私たちには、神さまとの交わりにあずかった喜び、神さまから命を与えられている、神さまに生かされている喜び、つまり、救いの喜びが与えられているのです。私たちは、この喜びに生きる人たちが新たに起こされますように、祈りつつ、この喜びを伝えてまいりましょう。

(聖書から)
今日お読みした聖書の言葉の中にも、この手紙を書いた目的が書かれていました。
5:13 神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。
「永遠の命を得ていることを悟らせたいから」とありました。イエス・キリストを信じているあなたがたは、永遠の命を得ている。ところが、そのことが分からなくなってしまった人たちがいたのでしょう。私たちの人生の歩みというのは、それぞれ大変なこと、苦労があります。日々の生活、生きることの大変さ、苦労で頭がいっぱいになって、自分が神さまから造られた者、愛されている者であること、永遠の命を与えあれ、救いにあずからせていただいたことが見えなくなり、すっかり忘れてしまうということがあります。ヨハネは、この手紙を書き送ることで、あなたがたは永遠の命を得ている。このことを思い起こしてほしい、と言っているのです。私たちもこの手紙、また聖書全体を読むことで、私たちも神さまから永遠の命をいただいた。このことを思い起こして、救いの喜びに生きる歩みを続けていきたいと思うのです。
続いて、ヨハネは、このようなことを書いています。
5:14 何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。5:15 わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。
ここには、私たちが何を願うのか、祈るのか、ということについて、大事なことが語られています。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる」。私たちが願うこと、祈ることで大事なこと、それは、「何事でも神の御心に適うこと」です。神さまのみ心、それは、神さまのお考え、神さまの思いということです。そのことから離れた願い、祈りではなく、神さまのお考え、思いにそった願い、祈りをするのです。そのために私たちはどうしたらよいのかというと、普段から、神さまのお考えは何だろうか?神さまの思いは何だろうか?そのことを聴くこと、尋ねることです。神さまとの交わりを親密にする、深くするということです。
アルプスの少女ハイジというスイスを舞台にした物語があります。ヨハンナ・シュピリというスイスの人が書いた文学作品です。私は子供の頃、アニメで観ていました。主人公は、ハイジという天真爛漫な女の子です。友人のクララはくる病を患っていて、車いすの生活をしていましたが、治療の甲斐あって癒されます。クララの病気が癒された後、ハイジとクララが語り合う場面があります。それは神さまに祈るということについての話です。クララは、神さまという方は私たちのことを何でもご存じなのだから、わざわざ祈る必要はないのではないか?と言います。すると、ハイジはこのように答えます。
「でも、人間は毎日、何でも神さまにお祈りしなくちゃいけないんだよ。すべてを神さまからいただいたってことをわたしたちが忘れないように、わたしたちのお祈りを聞いてもらわなくちゃいけないんだ。もしわたしたちが神さまを忘れたら、神さまもわたしたちを忘れちゃうよ。おばあさまが、そう言ってたの・・・」(『アルプスの少女ハイジ』 ヨハンナ・シュピリ著 松永美穂訳 角川文庫 382、383ページ)。
このハイジの言葉を読んで、改めて祈りの意味を考えさせられました。祈りとは、神さまとの交わりです。ハイジの言葉にあったように、私たちが神さまを忘れないように、神さまの恵みを忘れないように、私たちはいつも祈るのです。
14節と15節を一緒に読みました。もしもこれを別々に読んだら、15節の「願い事は何でも聞き入れてくださる」という言葉の意味が誤って受け取られてしまう可能性があるからです。私たちの願うこと、祈ること、それは、神さまのみ心に適うことを願うように、祈るように、私たちは努めていくのです。どのようにしたら、神さまのみ心が分かるようになるかというと、神さまとの交わりの中で分かるようになっていくのです。私たちは、家族や友の心、気持ちが分かるようになるために、家族との交わり、友との交わりを大切にしていると思いますが、神さまとの交わりも大切したいと思います。
16、17節をお読みします。
5:16 死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。これは、死に至らない罪を犯している人々の場合です。死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません。5:17 不義はすべて罪です。しかし、死に至らない罪もあります。
罪ということについて、「死に至らない罪」と「死に至る罪」ということが言われています。私たちが気になるのは、「死に至る罪」ということです。これはどんな罪なのでしょうか?このことを考えるために、幾つかの聖書の言葉を読んでみます。まず、ヘブライ人への手紙6章4~6節です。
6:4 一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、6:5 神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、6:6 その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。
もう一か所はマルコによる福音書3章28、29節です。
3:28 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。3:29 しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」
これらの言葉から考えられるのは、イエスさまの十字架の救いをないがしろにする、神さまの赦しを赦しとして受け入れないということです。例えば、私たちが罪を犯した時、ああ、もう自分は赦されないのだ、」と自分のことを自分であきらめてしまう。イエスさまの十字架の救いも意味がないのだ、と言って、十字架の救い、神さまの赦しを受け入れない。救いも赦しも否定してしまう。それが十字架の救いを侮辱し、聖霊の働きを冒涜することです。しかし、私たちは、神さまの絶対的な救い、赦しを信じてまいりましょう。
「死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい」。先ほど、祈りとは、神さまとの交わりと言いましたが、ここでは、祈りとは、執り成しということでもあることを教えています。罪を犯した人が神さまの前に悔い改め、神さまに立ち帰るように祈りましょう。
18節をお読みします。
5:18 わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。
「すべて神から生まれた者は罪を犯しません」。ここで「神から生まれた者」というのが、神さまを信じる私たちのことであるなら、罪を犯しません、ということは断言できないと思います。むしろ、私たちは、日々、神さまの前に罪を犯してしまう者です。愛せない、赦せない・・・。そういうことの繰り返しです。なぜ、このようなことが言えるのでしょうか?
すぐ後には、このような言葉が続いています。「神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません」。ここで「神からお生まれになった方」というのは、イエスさまのことを言っていると思います。イエスさまが、神さまを信じる私たちを罪から守ってくださるということです。だから、私たちは、すぐに罪に陥ってしまうような弱い者であるけれども、イエスさまが、私たちを罪から守ってくださる。そのことを信じていきましょう。そういう励ましのメッセージが語られているのではないでしょうか。これに続いて、このような言葉があります。
5:19 わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。5:20 わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。
「わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです」。私たちは、真実な方の内にいる。私たちは、み子イエス・キリストの内にいる。神さまの守りがあることを信じて、歩んでまいりましょう。

(むすび)
5:21 子たちよ、偶像を避けなさい。
ヨハネの手紙一は、この言葉で終わります。「偶像を避けなさい」とありました。これは、「偶像から身を守りなさい」(聖書協会共同訳)とも訳されます。「偶像を避けなさい」、「偶像から身を守りなさい」。偶像を神とする、偶像礼拝する。それは、人を神とすることです。また、モノを神のように扱ってしまうこともあります。自分自身が神のようになってしまうこともあります。そのようにして、私たちは知らず知らずのうちに、偶像礼拝をしてしまうことがあるのです。人やモノを神としない。真の神さまだけを神さまとする。神さまを畏れ、神さまを敬い、神さまの言葉に従い生きる。それが、神さまが私たちに与えてくださった最善の道です。お祈りします。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
あなたは、私たちに永遠の命を与え、あなたとの交わりに生きる者としてくださいました。それなのに、私たちは、あなたを見失い、忘れてしまうことの多い者です。この手紙の著者は、「わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」(1章4節)、「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです」(5章13節)と手紙を書き送った目的を語っています。心の目を開いて、与えられた救いの恵みを思い起こし、この喜びに生きる者としてください。そして、新たにこの喜びを知り、生きる人たちを導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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