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「出発」創世記12章1~9節 2025年9月28日 

出発 創世記12章1~9節 赤塚バプテスト教会(朝・夕)礼拝説教 石堂雅彦牧師

(はじめに)
  お読みしました聖書の箇所からアブラハムの物語は始まります。今日は創世記12章を読みましたが、それに先立って、新共同訳聖書では「テラの系図」という小見出しが付いている11章27節からの聖書個所にアブラハムの名前があります。アブラハムの名前は、この時点ではアブラムとなっています。アブラムはテラという人の息子であったこと、カルデアのウルが故郷であったことが分かります。11章31、32節をお読みします。
11:31 テラは、息子アブラムと、ハランの息子で自分の孫であるロト、および息子アブラムの妻で自分の嫁であるサライを連れて、カルデアのウルを出発し、カナン地方に向かった。彼らはハランまで来ると、そこにとどまった。11:32 テラは二百五年の生涯を終えて、ハランで死んだ。
 アブラムの父テラは家族を引き連れて、ウルを出発し、カナン地方に向かった、ということです。そして、ハランで留まった。このハランでテラは二百五年の生涯を終えた、とあります。これに続いて、今日の箇所となります。

(聖書から)
  お読みした12章は神さまがアブラムに語られた言葉から始まっています。
12:1 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。
12:2 わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。
12:3 あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」
 神さまはアブラムに語られます。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい」(1節)。この言葉から、皆さんは、自分の若い時代のことを思い出されるかもしれません。親元から離れ、独り旅立って行った日のことを思い出されるかもしれません。この神さまのアブラムへの語りかけについて、新約聖書・ヘブライ人への手紙ではこのように書かれています(ヘブライ11章8節)。
11:8 信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。
 ヘブライ書の著者は神さまのアブラムへの言葉について、「行き先も知らずに出発した」と書いています。行き先も知らない所へ出発するというのは、どれほどの大きな決断であったことでしょうか?しかし、考えてみると、行き先を知らない旅というのは、アブラムだけのことではありません。私たちもそれぞれ自分の歩みを振り返ってみるなら、行き先を知らない旅をしてきたようなものだったのではないでしょうか。
 私たちは、人生の計画、生活設計をします。自分はこういう学校に入り、こういう仕事に就きたい。こういうところに住みたい。こういう相手と人生を共にしたい・・・。いろいろと希望を持ち、それが実現するように努めます。しかし、なかなか自分の思いどおりには、願いどおりにはならないものです。私たちの人生の旅というのは、行き先を知らないで歩むようなものです。
 神さまはアブラムに語りかけます。2、3節を読んでみます。「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」。
 ここには「祝福」という言葉が繰り返し語られています。祝福というのは、一般的にはあまり聞くことのない言葉です。しかし、聖書には数多く出てきます。一方、新約聖書には、幸いについてイエスさまが語られている言葉があります。その個所を読んでみたいと思います。マタイとルカの二つの福音書に出てきますが、マタイの方でお読みします(マタイ5章3~12節)。
5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
5:5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
5:8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
 イエスさまが「幸いである」と言われた言葉を読んでいきますと、私たちがふつう考える幸い、あるいは幸せとは違うようです。幸い、幸せとは言えない。むしろ、不幸、不幸せと思える。しかし、イエスさまは、あなたは「幸いである」と言っておられます。ここで「幸い」と書かれている言葉は、一般的な意味で考える「幸い」とは違い、「祝福」の意味を持った言葉です。実際、英語の聖書の多くは、「祝福」と訳しています。
 それでは「祝福」とは何でしょうか?聖書の語る「祝福」とは何でしょうか?それは、神さまがこの私を良しとしてくださっている、この私という一人の人間を喜んでくださっている。それが神さまの祝福ということです。
 創世記の初めに書かれている神さまの天地創造の記事(創世記1章)には、神さまが、ご自分が造られたものについて、繰り返し、良しとされた、と書かれています。私たち人間も、被造物、神さまから造られたものです。神さまは、私たち人間のことも、良しとされました。神さまは、私たちを良しとしてくださった、良いものとしてくださったのです。私たちは、その言葉を受けて、私たちを造ってくださった神さまに応答して生きる。神さまに愛され、生かされている私たちは、神さまの言葉に従って、神さまの愛に押し出されて、互いに愛し合い、生かし合う。それが祝福された者の生き方です。
祝福についてお話ししましたが、呪いということも聖書には出てきます。今日の聖書の言葉の中に、神さまがアブラムに「あなたを呪う者をわたしは呪う」(3節)と言われたことが書かれていました。呪いというと、何かおどろおどろしいことを想像します。このような聖書の言葉を聞くと、神さまは何か呪いをかけるような方なのか?と躓いてしまう方があるかもしれません。しかし、ここで言われていることは、神さまが呪いをかけるということではありません。あなたは、神さまの祝福から、神さまの良しとされた生き方から離れている。神さまのみ心を求めず、罪に支配されていることに対して、問いかけられているのです。だから、あなたは心の向きを変えなさい、生き方を変えなさい。そのように問いかけられていることと理解したらよいかと思います。
 今日の箇所に戻ります。2節に「祝福の源」とありました。3節には「地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」とありました。2節の「祝福の源」という言葉は、別の訳では「祝福の基」(口語訳、聖書協会共同訳)となっていました。そして、「地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」。この両方の言葉を合わせて読んで分かることはアブラムには、神さまから与えられた使命があるということです。それは何かというと、人々に祝福をもたらすという使命です。神さまはアブラムに大切な使命を与えられました。あなたが祝福の源、基となる。なぜなら、地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入るのだから、というのです。
 岩波訳という岩波書店から出された聖書の訳では、3節の言葉が「大地のあらゆる種族はあなた[の名]によって祝福し合うであろう」となっていました。祝福し合う。それは、神さまの祝福を互いに分かち合う、という意味だと思います。そして、このアブラムの使命というのは、私たちの使命でもあると思うのです。私たちも神さまから、良しとされた一人一人です。そのことを人々にお伝えする。それを私たちはこのような言葉で言い表すのです。あなたは神さまから愛されている。そして、神さまが私たちにご自身の愛を表された究極的な愛、それはイエス・キリストを私たちのところに送ってくださった。イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかり死んでくださった、ということです。このことを伝えるのが私たちの使命です。
 4、5節をお読みします。
12:4 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。
アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。12:5 アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った。
 お読みしました4、5節には甥のロト、妻のサライも、アブラムの旅に連れて行ったことが書かれていました。またハランで加わった人たちも連れて行ったことが書かれていました。私たちの信仰の歩みというのは、イエスさまと一緒の歩みです。しかし、それは私たちとイエスさまだけではありません。私たちの家族や友人、まわりの人たちも一緒の歩みなのです。5節には「アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共に」とありました。「共に」です。私たちの人生の歩みはイエスさまと共に、であり、また人々と共に、の歩みです。そして、目指すところは「わたしが示す地に行きなさい」とありましたように、神さまの示される地へと向かうのです。

(むすび)
 7、8節をお読みします。
12:7 主はアブラムに現れて、言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。」アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。
12:8 アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。
 アブラムの旅の特徴がこの箇所から分かります。「主のために、そこに祭壇を築いた」(7節)、「そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ」(8節)。アブラムは行くところ、行くところで神さまを礼拝したのです。神さまの名を呼ぶ、神さまに祈る日々を歩んだのです。神さまと共にある人生、クリスチャン、キリスト者として生きるということ、それは日々、神さまを礼拝する、神さまに祈る人生です。アブラムに続いて、私たちも神さまと共に歩んでまいりましょう。私たちの家族、友人も神さまと共に歩んでいくことができるように、神さまをお伝えしていきましょう。それではお祈りします。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
アブラハムが行き先を知らないで故郷を旅立ったように、私たちの人生も先のことは分かりません。しかし、アブラハムの旅を、人生を、神さまが共に歩んでくださいました。
私たちも主が共に歩んでくださることをおぼえ、主の言葉を聴きながら、一歩一歩を歩ませてください。そして、主と共に歩む人が新たにありますように導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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