「縦横に生きる」創世記13章1~18節 2025年11月23日
(はじめに)
創世記13章をお読みしました。先月お読みしました12章の後半には、飢饉のため、エジプトに下ったアブラム(後のアブラハム)とその一行でしたが、アブラムが自分の妻であるサライ(後のサラ)を妹であると偽ることで自分の命を守ろうとしたという間違い、罪を犯してしまったことが書かれていました。それに対して、神さまは、アブラムの罪を罪として問われました。神さまの罪に対する厳しさを知らされます。しかし、それは神さまが罪に陥ったアブラムを罪に支配されたままにはしておかなかったということです。
このように、神さまはご自分のご計画、約束されたことのゆえに、アブラムたちを救い、ご自分のご計画、約束の中に歩むように導かれたのです。そして、今、私たちもアブラムと同じく、神さまのご計画、約束の中にある一人一人です。神さまのみ言葉を聴きながら、歩んでまいりましょう。
(聖書から)
さて13章は新共同訳聖書では、「ロトとの別れ」という小見出しが付けられています。アブラムにとって、ロトは甥にあたる人です。12章にありましたように、アブラムは神さまの言葉を受けて、父の家を離れ、旅立ちます。行き先を知らず、旅立ちます。その同行者が甥のロトでした。ところが、そのロトと別れなければならなくなった。その経緯について、今日の箇所に書かれています。1~4節までを読んでみます。
13:1 アブラムは、妻と共に、すべての持ち物を携え、エジプトを出て再びネゲブ地方へ上った。ロトも一緒であった。13:2 アブラムは非常に多くの家畜や金銀を持っていた。13:3 ネゲブ地方から更に、ベテルに向かって旅を続け、ベテルとアイとの間の、以前に天幕を張った所まで来た。13:4 そこは、彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所であった。
1節にありますように、エジプトを出て、再びネゲブ地方へ上った。つまり、後戻りしています。これにロトも同行していたことが分かります。後戻り、と言いましたが、私たちの人生も後戻りさせられるようなことが度々あるのではないでしょうか。アブラムも後戻りさせられたのです。3、4節に書かれていることは印象深いものです。「ネゲブ地方から更に、ベテルに向かって旅を続け、ベテルとアイとの間の、以前に天幕を張った所まで来た。そこは、彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所であった」。ここに書かれていること、それはアブラムが最初に祭壇を築いたところ、それがベテルとアイの間の地であった、ということです。
振り返って、12章6節からお読みしますと、「アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた。主はアブラムに現れて、言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。」アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ」(12章6~8節)と書いてあります。
今日お読みした4節には「そこは、彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所であった」とありますが、そこでアブラムは再び、主のみ名を呼んだ、神さまを礼拝したのではないでしょうか。エジプトで神さまのみ心から外れた生き方をしてしまったアブラム。しかし、神さまは、そのことを示してくださり、後戻りさせてくださったのです。後戻り、最近の言葉で言えば、リセットする、再起動すると言ったらいいでしょうか。こうしてアブラムは一からやり直すことができたのです。アブラムは神さまを礼拝し、そこから再出発を始めることができたのです。
神さまから罪を示されること、生き方の間違いを示されること・・・。それは私たちにとっては、痛いこと、辛いことです。けれども、罪のまま放置されるよりは、間違った道をどこまでも突き進んでしまうよりは、はるかに良いことです。神さまは私たちを命の道に歩むように修正してくださるのですから。アブラムは神さまに悔い改め、神さまに感謝をささげたのではないでしょうか?そして、私たちの毎週の礼拝も、私たちの毎日の歩みも、神さまへの感謝と悔い改めです。
さて、アブラムの再出発が始まりましたが、ここに一つの大きな問題が起こってきます。2節にも「アブラムは非常に多くの家畜や金銀を持っていた」とありましたが、5節以下をお読みします。
13:5 アブラムと共に旅をしていたロトもまた、羊や牛の群れを飼い、たくさんの天幕を持っていた。13:6 その土地は、彼らが一緒に住むには十分ではなかった。彼らの財産が多すぎたから、一緒に住むことができなかったのである。13:7 アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが起きた。そのころ、その地方にはカナン人もペリジ人も住んでいた。
アブラムとロト、彼らの間に起こった問題、6節をもう一度ご覧いただきますと、「その土地は、彼らが一緒に住むには十分ではなかった。彼らの財産が多すぎたから、一緒に住むことができなかった」とあります。一緒に住むことができない。それは彼らの財産が多すぎたからだ、というのです。さらにはアブラムとロト、それぞれの家畜を飼う者たちの間にも争いが起きた、というのです。これも家畜が多すぎた、ということでしょうか。
2節の「アブラムは非常に多くの家畜や金銀を持っていた」ということ、これは否定的な意味で書かれたのではないのだと思います。おそらく、神さまの祝福がアブラムに与えられていた。あるいはロトについても言えます。富があること、モノがあること、それ自体は悪いことではありません。それは神さまの祝福として受け止めたらよいことです。
新約聖書・ルカによる福音書12章13節以下には、「愚かな金持ちのたとえ」と呼ばれるイエスさまのたとえ話が書かれています。その中にこのような言葉があります。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできない」(ルカ12章15節)、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者」(ルカ12章21節)とあります。「貪欲」とあります。神さまから必要なものが与えられているのに、それでも満足できない。もっともっと欲しがる・・・。「神の前に豊かにならない者」。それは自分のためだけに生きるということでしょうか。神さまがお示しになる豊かな人生とは違う生き方・・・。イエスさまの言葉からはいろいろなことを考えさせられますが、アブラムとロトの間でも、神さまから与えられた恵みとしての富、財産・・・。そういったものについて、与えてくださった方に感謝しないで、当たり前のことのように思ってしまう。また、与えられたものを何に使うか、用いるか・・・。いろいろと問題が生じたのかもしれません。これは私たちもいつも気をつけていなければならないことです。
アブラムはこのことでロトに一つの提案をします。
13:8 アブラムはロトに言った。「わたしたちは親類どうしだ。わたしとあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。13:9 あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。」
アブラムの方から、ロトとたもとを分かつことを提案します。ここで興味深いことですが、アブラムはこのようなことも言っています。「あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう」。アブラムはロトに「あなたが左に行くなら・・・、あなたが右に行くなら・・・」と言っています。つまり、ロトに土地の選択権を与えています。アブラムとロトは叔父と甥の関係です。年長者であるアブラムの方に選択権があっていいはずです。ところが、アブラムはロトにその選択権を与えています。どういうことでしょうか?ロトとアブラムはこの後、別れて生活することになりますが、10節以下をお読みします。
13:10 ロトが目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一帯は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた。13:11 ロトはヨルダン川流域の低地一帯を選んで、東へ移って行った。こうして彼らは、左右に別れた。13:12 アブラムはカナン地方に住み、ロトは低地の町々に住んだが、彼はソドムまで天幕を移した。13:13 ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた。
お分かりのように、ロトはさっそく住みやすい土地を選び取ります。ヨルダン川流域の低地ということですから、水の豊富なところです。10節には「主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた」とその土地が良いところであったことが分かります。しかし、一つ気になることがあります。それは12、13節をご覧いただきますと、「ロトは低地の町々に住んだが、彼はソドムまで天幕を移した。ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた」とあります。その町の中にソドムという町があること、そこに住む人たちは邪悪であり、主に対して多くの罪を犯していた、ということです。つまり、大変恵まれた土地であったけれども、そこに住む人たちは神さまからは離れていた人たちであった、ということです。
アブラムが住んだところ、それについては12節に「アブラムはカナン地方に住み」とありました。さらに14節以下にはこのように書かれていました。
13:14 主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。13:15 見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。13:16 あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。13:17 さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。」
「さあ、目を上げて・・・見渡しなさい」と神さまはアブラムに言われます。この時、アブラムは目を伏せていた、心が打ちひしがれていた、と言う方がいます。考えられないことではありません。エジプトでの失敗、挫折をアブラムはひきずっていた。そういうこともあって、ロトに対しても、自分が率先して、私はこの土地を取るから、あなたはあちらを、とは言えなかったかもしれません。この辺は想像の範囲ですが、そういうアブラムに神さまが語られたのです。神さまは、アブラムに目を上げて見渡しなさい、目を上げて見よ、と言われたのです。
ロトについては、10節をご覧いただきますと、「ロトが目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一帯は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた」とありました。ロトの目に映ったもの、ロトが見たもの、それは何と素晴らしい土地だろうか!私はここに住みたい!ということだったと思います。けれども、そこに住む住民たちのことは見ていなかった、見えなかったのでしょうか。生活するには良い土地です。しかし、そこは罪に支配された町でした。私たちもいろいろなことで選択する、選び取る時、何を基準にして選び取るでしょうか?
神さまはアブラムに、目を上げて見よ、と言われました。それは神さまが与える土地でした。今日の説教題はここから取りました。「さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから」(17節)。ここに「縦横」とあります。私は縦横無尽という言葉を連想しました。これは「自由自在に物事を行うさま。思う存分に。四方八方に限りない意から」という意味です。縦横無尽の無尽というのは、無尽蔵、尽きることがない、ということです。神さまがアブラムに与えるもの、それは尽きることのない大きな恵みです。アブラムはエジプトの失敗を通して大きな信仰の転換、飛躍を経験したのではないでしょうか。アブラムはロトとは異なり、神さまが目を上げて見よ、と言われたものを見て、それを受け取っていったのです。
聖書には、「見よ」という言葉が何度も出てきます。この「見よ」というのは、神さまが私たちに「見よ」とおっしゃっていることだと思います。そして、神さまが「見よ」と言われることを私たちは見るのです。神さまは繰り返し、繰り返し、私たちにそのことを語っておられます。
(むすび)
13:18 アブラムは天幕を移し、ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに来て住み、そこに主のために祭壇を築いた。
今日の箇所の最後の言葉です。アブラムはその行くところ、その住むところで「主のために祭壇を築いた」。つまり、神さまを礼拝したのです。主のために祭壇を築く。今日の箇所の4節にもこのことが書かれていました。礼拝から礼拝へ。これがアブラムの人生、アブラムの歩みです。私たちも主のために祭壇を築く日々でありたいと思います。主を礼拝する日々でありたいと思います。祭壇を築く、礼拝する。それは神さまの示された恵みを見つめて生きるということです。お祈りいたします。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
アブラムはエジプトでの失敗がありましたが、神さまはアブラムを立ち直らせ、再出発させてくださいました。私たちも神さまの前に立つ時、自分の罪が示されますが、神さまはそういう私たちを赦し、立ち直らせて、ご自身の道へと導いてくださいます。
「さあ、目を上げて・・・見渡しなさい」と神さまはアブラムにご自分がアブラムのために用意されている恵みを示されました。私たちも目を上げて、神さまの恵みを見つめながら歩む者とさせてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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