「善いことを見倣おう」ヨハネの手紙三9~15節 2026年2月15日
(はじめに)
聖書の文書の中には、牧会書簡と呼ばれる文書があります。使徒パウロの書いた手紙の中のテモテへの手紙一、二、テトスへの手紙という三つの文書です。牧会というのは、その名前のように、牧者、羊飼いが羊を養うということです。羊というのは、教会に連なる私たち一人一人のことで、羊飼いというのは、教会の指導者のこと、現代の教会で言うなら、牧師とか神父とか、長老、執事といった人たちと考えることができます。しかし、私たちの本当の羊飼いは、イエスさまですから、イエスさまの働きの補助者、協力者と考えてもいいかもしれません。羊飼いが羊を養うように、教会が養われるため、成長するため、そういう視点から書かれたのが、牧会書簡と呼ばれる文書ですが、実は、聖書を読んでいきますと、三つの文書に留まらず、幾つもの文書の中に、牧会ということを教えられる内容が書かれていることが分かります。なぜ、このような話から始めたのかというと、今回お読みしたヨハネの手紙三、この手紙というのも、牧会書簡、牧会ということを教えられる内容だからです。
私たちバプテストの教会で、よく言われることは、相互牧会ということです。教会に連なるお互いが牧会する、牧会される関係ということです。そのようにして、お互いに養われ、主のものとして、成長していくのです。私も、この働きに立たせていただいて、35年になりますが、自分が牧会してきたというだけでなく、教会の皆さんにも牧会していただいて、養われ、育てられてきた者の一人です。
(聖書から)
さて、お読みした聖書の言葉は、ヨハネの手紙三の後半になります。9節以下の言葉です。9節には、このようなことが書かれています。
1:9 わたしは教会に少しばかり書き送りました。ところが、指導者になりたがっているディオトレフェスは、わたしたちを受け入れません。
この手紙を書いたヨハネは、教会宛に手紙を書き送りました。キリストの教会を愛し、そこに連なる一人一人が主のものとして、良き成長を遂げていくように、祈りを込めて、手紙を書きました。しかし、ここには、とても残念なことが書いてあります。「ところが、指導者になりたがっているディオトレフェスは、わたしたちを受け入れません」。ここには、教会の中の一人の人の名前が書かれています。ディオトレフェスという人です。この人が、「わたしたちを受け入れません」とありますが、ヨハネのことを受け入れない。そればかりか、ヨハネ以外の人たちのことも受け入れない、というのです。これはどういうことでしょうか?
前回、ヨハネの手紙三からお話しした時には、これとは反対のことが書かれていました。5~8節をお読みします。
1:5 愛する者よ、あなたは、兄弟たち、それも、よそから来た人たちのために誠意をもって尽くしています。1:6 彼らは教会であなたの愛を証ししました。どうか、神に喜ばれるように、彼らを送り出してください。1:7 この人たちは、御名のために旅に出た人で、異邦人からは何ももらっていません。1:8 だから、わたしたちはこのような人たちを助けるべきです。そうすれば、真理のために共に働く者となるのです。
ヨハネは、手紙を書き送った先の教会が、「よそから来た人たち」、「御名のために旅に出た人」、これは福音のために巡回して働きをしている人たちのことのようですが、その人たちを受け入れ、支えていることが言われているようです。主の働き人を受け入れ、支えることは、良い証しになっていると言っているのです。
ところが、その話とは、正反対のことが起こっていることが、今日お読みした聖書の言葉の中に書かれていました。続く10節には、受け入れない、支えない、ということが、具体的に書かれています。
1:10 だから、そちらに行ったとき、彼のしていることを指摘しようと思います。彼は、悪意に満ちた言葉でわたしたちをそしるばかりか、兄弟たちを受け入れず、受け入れようとする人たちの邪魔をし、教会から追い出しています。
「悪意に満ちた言葉」とあります。別の訳では、「意地悪なことば」(新改訳2017)と訳されていました。私たちが、人を受け入れようとしない時、その人の欠点、弱いところを鋭く切り込んで批判したりして、それを自分がその人を受け入れない理由にするのではないでしょうか?しかし、聖書が教える愛とか、人を受け入れるというのは、その人が自分にとって愛する価値がある人だから、受け入れる価値がある人だから、ということで愛するとか、受け入れるということではありません。自分がまず、神さまに愛され、受け入れられていることを知り、そこから、愛するとか、受け入れるということを考えるのではないでしょうか。
さらに11節に書かれていることから、ディオトレフェスの問題が分かってきます。
愛する者よ、悪いことではなく、善いことを見倣ってください。善を行う者は神に属する人であり、悪を行う者は、神を見たことのない人です。
「悪を行う者は、神を見たことのない人」とありました。神さまを見たことのない人。この言葉だけ読んでみますと、どういう意味か分からなくなります。なぜなら、私たちは誰一人、神さまを見たことがないからです。このことを理解するために、幾つかの聖書の言葉を読んでみます(ヨハネ1章18節、一ヨハネ4章12節)。
1:18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
4:12 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。
お読みした二つの聖書の言葉には、神さまを見た者は誰もいないことが書いてありました。それでは、神さまを見るとはどういうことでしょうか?お読みした聖書の言葉の後半のところを読んでみます。「父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」、「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」。
神さまを見る、神さまを知ると言ってもいいと思います。それは、神さまがお送りくださったみ子イエスさまを通して、神さまを見る、神さまを知るのです。神さまの教えの中心である互いに愛し合う。このことによって、神さまが私たちの内に留まってくださる。神さまの愛が私たちの内で全うされる、完成されるというのです。
つまり、神さまを見るとは、イエスさまを知る。それはただ知っているということではなく、人格的に知る。イエスさまに出会うということです。そして、イエスさまと出会い、その愛を知った私たちが神さまの愛に生きる、ということです。
このようなことから、「悪を行う者は、神を見たことのない人」というのは、神さまのみ子であるイエスさまを見失っている。互いに愛し合うことをしない、ということになると思います。
けれども、ヨハネは、ディオトレフェスという人は、人を受け入れない人だ。イエスさまを見失い、互いに愛し合うことをしない人だ。そのことを言うために、この手紙を書いたのではないと思います。私は、このディオトレフェスという人は、すべてにおいて悪い人だったとは思いません。この人も一人の信仰者として、悪い面だけでなく、善い面もあったと思います。私たちもディオトレフェスとは、変わらない者、善い面と悪い面を持ち合わせている者だと思います。
使徒パウロは、そのことで悩んだ人でした。私たち人間の内側には、神さまに従いたいという思いがあり、神さまに従いたくない、逆らいたいという思いがあるのです。そのことをパウロは、ローマの信徒への手紙7章で書いています。新共同訳聖書では、この章の7節以下に「内在する罪の問題」という小見出しが付けられています。どうぞ、後でお読みください。
以前にもお話ししたことですが、信仰生活は、戦いがあります。それは、自分の内にある罪との戦いです。私たちは、互いに罪に陥らないように、支配されないように、罪に対して、一緒に戦うのです。そのために、互いのために祈り合うのです。12節には、このようなことが書かれていました。
1:12 デメトリオについては、あらゆる人と真理そのものの証しがあります。わたしたちもまた証しします。そして、あなたは、わたしたちの証しが真実であることを知っています。
「証し」とありました。それは、キリストを証しするということです。私たちは、互いに主を証しし合うのです。主の恵みを分かち合うのです。そのようにして、信仰の励まし合いをしていきたいと思うのです。今日の説教題は、11節の言葉から、「善いことを見倣おう」としました。「善いこと」とは何でしょうか。神さまこそは、善い方です。互いが神さまに目を注ぐことができるように。そのために励むこと、それが善いことではないでしょうか。
(むすび)
13節以下をお読みします。
1:13 あなたに書くことはまだいろいろありますが、インクとペンで書こうとは思いません。1:14 それよりも、近いうちにお目にかかって親しく話し合いたいものです。1:15 あなたに平和があるように。友人たちがよろしくと言っています。そちらの友人一人一人に、よろしく伝えてください。
「あなたに書くことはまだいろいろありますが」とありました。この手紙を書きながら、ヨハネの心はワクワクして来たのではないでしょうか。「近いうちにお目にかかって親しく話し合いたい」とも書いています。先日、日本バプテスト連盟の定期総会が行われました。その話し合いの中で、ある一人の代議員が、今の時代、教会にとって必要なもの、それは何かワクワクしたものだ、と言われました。私は、その話を聞いた時は、その「ワクワクしたもの」ということについて、抽象的で、どういうことが言われているのか分かりませんでした。しかし、それでもなぜか、その言葉がとても気になりました、心に残りました。それから何日か経って、ある聖書の言葉を思い起こしました。それが、この聖書の言葉です(ルカ24章30~32節)。
24:30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。24:31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。24:32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
二人の人たち、それはイエスさまの弟子たちのことだと思いますが、イエスさまがパンを裂いて彼らに渡された時、二人の目は開かれたのです。それは霊の目が、信仰の目が開かれたということです。そして、そこにおられるのが、イエスさまであること、復活されたイエスさまであることが分かったのです。彼らは、パンを渡された時、パンの奇跡を思い出したのでしょうか。十二弟子たちから聞いていた最後の晩餐、十字架におかかりになる前に、イエスさまが弟子たちと食事をしたことを思い出したのでしょうか。彼らはこのように語り合いました。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」。私たちは復活の主にお会いした。主が私たちに語られた。その時、私たちの心は燃えていた、というのです。私たち一人一人が、主に出会う。主は生きておられ、私たちと共におられる。そのことを信じるところから、私たち教会の歩みが始まるのではないでしょうか。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
ヨハネは、主の教会を愛し、励ましの言葉を語り続けました。しかし、この手紙に書かれていたように、主を見失い、主の言葉に耳を傾けなくなっていくことで、教会が弱っていったり、病んでしまったりすることがあります。
ヨハネは、善いことを見倣うように、と語りました。善い方である主を見上げていく時、教会は息を吹き返し、立ち上がることができます。生きておられる主に出会った弟子たちはその心が燃やされたことを証ししています。私たちもいろいろな状況、状態の中にありますが、そこにも変わることなく私たちと共におられる主、生きて働いておられる主をおぼえ、主を見上げて歩む者とさせてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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