神に逃れる者たち(詩編34編1〜23節)
詩編34編5〜8節には主の救い、恵みを思い起こす言葉が記されています。7節には「この貧しい人が呼び求める声を主は聞き/苦難から常に救ってくださった」とありますが、この「貧しい人」は単に物質的な貧しさをいうのでしょうか?マタイによる福音書5章3節の「心の貧しい人々は、幸いである」を連想させます。マタイの「心の貧しい人々」について、「霊において乞食である者たち」という直訳であると示し、その意味を「自分に誇り頼むものが一切ない者」と記します(岩波訳・注)。詩人はダビデのことを思い巡らしてこの詩編を記したのでしょうか。それとも同じような体験をしたのでしょうか。無力さを覚える人を顧みたもう神を知り、賛美へと導かれたのではないかと思うのです。
9節以下には、「教え」(「新共同訳聖書注解」参照)が記されています。それは神を頼りにすることの幸い、喜びを知った者の心からほとばしる教え、言葉なのではないかと思います。聖書の教えを単に教えに留まらず、従うことによる喜び、豊かさを私たちは合わせて伝えていきたいと思うのです。
「主はその僕の魂を贖ってくださる。主を避けどころとする人は/罪に定められることがない」(23節)。詩編34編はこの言葉で締められます。「主を避けどころとする人」は「かれのもとに逃れる者たち」(岩波訳)とも訳されます。神のもとに逃れるのです。ダビデも、そして、この詩人も神に逃れた人たちであったのです。神に逃れることができる幸いを知った人たちなのです。あなたは何を避けどころ、逃れの場としているでしょうか。
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