
あなたは私に従いなさい ヨハネによる福音書21章15〜25節 2025年4月27日
聖書―ヨハネによる福音書21章15~25節
(はじめに)
先週は、イースター、イエスさまが復活されたことをお祝いする礼拝を行いました。イエスさまは、私たちを罪から救うために十字架につけられました。そして、死なれ、墓に葬られましたが、三日目に、日曜日に復活されました。私たちが毎週日曜日に礼拝するのは、イエスさまが、この日に復活されたことを記念してのことです。イエスさまは、復活され、生きておられ、今、私たちと共におられます。今日も、そして、これからも、イエスさまの十字架と復活をおぼえて、主を礼拝いたしましょう。
(聖書から)
お読みした聖書は、ヨハネによる福音書21章15節からです。復活されたイエスさまは、弟子たちの前に現れ、一緒に食事をされました。そして、食事の後、イエスさまは、弟子の一人であるペトロに語りかけました。
21:15 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。
イエスさまがペトロに言われたこと、それは、「この人たち以上にわたしを愛しているか」ということでした。「この人たち」というのは、イエスさまと弟子たちとの食事の時のことでしたから、他の弟子たちのことを指しています。それにしても、このイエスさまの言葉は、ペトロにとっては、心が痛くなるような言葉でした。なぜかというと、ペトロは、イエスさまが十字架につけられる前に、このようなことを言っていたからです(マルコ14章27~31節)。
14:27 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。
『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』
と書いてあるからだ。14:28 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」14:29 するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。14:30 イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」14:31 ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。
イエスさまは、ご自分が十字架につけられる前に、弟子たちに、ご自分が捕らえられ、十字架につけられ、死ぬこと、そして、復活することをお話しなさいました。しかし、これを聞いたペトロは、イエスさまにこう言いました。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」。ペトロは、イエスさまが捕らえられるようなことになっても、十字架につけられるようなことになっても、他の弟子たちがイエスさまにつまずいても、自分だけはつまずかない、と言ったのです。
けれども、イエスさまは、ペトロに対して、こう言われました。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」。ペトロが、私はつまずかない、と言ったその夜には、あなたは、私のことを三度、知らない、と言うだろう、と言われたのです。これに対して、ペトロは、このように言っています。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」。私は、あなたのことを知らないなどとは決して言いません・・・。
ペトロは、イエスさまを愛し、慕っていましたから、確信をもって、心から、このように言ったのです。しかし、この後、イエスさまが捕らえられた時には、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(マルコ14章50節)とあります。この弟子たちの中には、ペトロも含まれていました。しかも、イエスさまが言われていた通り、ペトロは、この後、自分がイエスさまと一緒にいただろう、と大祭司に仕える女中に問われた時、イエスさまのことを知らない、と三度も言ってしまいました(マルコ14章66~72節)。
このようなことがありましたから、イエスさまから、「この人たち以上にわたしを愛しているか」と問われると、イエスさまが捕らえられた時、逃げ出したこと、イエスさまを三度も知らない、と言ってしまったことを思い出したことでしょう。そういうペトロでしたが、イエスさまが「わたしを愛しているか」と言われると、こう答えました。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。
ペトロは、はい、私はあなたを愛しています、とは、答えませんでした。「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えています。何か、はっきりと自分の思いを伝えていないような言い方に聞こえます。どうして、このような言い方をしているのでしょうか。イエスさまは、再び、ペトロに語りかけています。
21:16 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。
ペトロは、二度目も同じ言葉で答えています。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。ペトロは、私はあなたを愛しています、となぜ、言うことができなかったのでしょうか。イエスさまは、三度目にも語りかけられました。
21:17 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
三度目にイエスさまが語られた時、ペトロは、「悲しくなった」とあります。何が悲しいのでしょうか。先ほどお読みした聖書の言葉にあったように、ペトロは、私はつまずかない、私はあなたのことを知らないなどとは言わない、と自分が言った言葉を思い出したのではないでしょうか。あれだけの決意、覚悟をしていながら、私は、イエスさまが捕らえられた時、逃げ出してしまった、イエスさまのことを知らない、と言ってしまった・・・。そういう自分に失望した。自分は何と情けない者だろうか、と自分のふがいなさに、悲しくなってしまったのではないでしょうか。
ペトロは、自分が信仰深く、熱心であると思っていたのでしょう。しかし、そういう自信も誇りもことごとく崩されていったのです。しかし、この体験は、ペトロにとっては、とても貴重な体験でした。このことを通して、ペトロは、信仰とは何か、ということを教えられていったのです。それは、ペトロのこの言葉に表されています。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」(15節)。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」(16節)。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」(17節)。
ペトロが繰り返し言っていること、それは、「あなたがご存じです」、「あなたがご存じです」、「あなたは何もかもご存じです」ということです。イエスさまは、私のことをすべてご存じです、ということです。それまでのペトロはどうだったかというと、自分のことは、自分が一番知っている、分かっている、と思っていたのではないでしょうか。しかし、自分のことを知っておられるのは、分かっておられるのは、自分ではなくて、イエスさま。そこで初めて、ペトロは、本当にイエスさまを主と信じることができたのです。心の王座を主に明け渡すことができたのです。信仰とは、イエスさまを主とすること、イエスさまに従うことです(19節)。
それにしても、ここで驚くことは、イエスさまの言葉です。イエスさまは、三度もペトロに、私を愛しているか、とお尋ねになったのです。これは、ペトロを責めるために言ったのでは、と理解する方があるかもしれませんが、そうではないと思います。なぜなら、イエスさまは、その言葉に続いて、三度もこう言われたのです。「わたしの小羊を飼いなさい」、「わたしの羊の世話をしなさい」、「わたしの羊を飼いなさい」。イエスさまは、ペトロに、私の羊を飼うように、世話をするように、と言われたのです。この言葉から、イエスさまが、ペトロを責めるために言われたのではないことは、お分かりになると思います。むしろ、イエスさまは、ご自分を裏切った、ご自分を否定したペトロを愛し、信頼して、私の羊を、イエスさまの羊を飼いなさい、世話をしなさい、と言われたのです。イエスさまの羊とは何でしょうか。それは、イエスさまを信じる人たちのことです。あなたは、その人たちを愛しなさい、大切にお世話しなさい、と言われました。教会で聞く言葉に、「牧会」という言葉があります。それは、イエスさまを信じる一人一人の健康、特に霊的な健康が保たれるように、成長することができるように努める働きです。イエスさまは、その大事な働きをペトロにお任せになったのです。そして、イエスさまの羊を愛すること、大切にお世話することこそは、イエスさまを愛することなのだ、と言われたのです。
(むすび)
この後にも、ペトロとイエスさまの会話が続いています。
21:20 ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。21:21 ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。21:22 イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」
ここには、ペトロが他の弟子のことを気にして、イエスさまにこのように尋ねている言葉があります。「ペトロは彼を見て、『主よ、この人はどうなるのでしょうか』と言った」とあります。私たちも、自分は、イエスさまを信じている、イエスさまに従っているけれども、あの人はどうだろうか、と気にかかることがあります。その時には、その気にかかるあの人、この人のことを神さまに祈っていきたいと思います。けれども、気にはかかっていても、祈りに結び付かないことがあります。祈ることよりも、その人の弱さや足りなさに関心が向けられて、ついつい裁いてしまったり、批判してしまったりすることがあります。私たちは、そのような時には、このイエスさまの言葉を思い出したいと思います。「あなたは、わたしに従いなさい」。この言葉によって、私たちは、イエスさまに向き合わされていくのです。あなたは、どうなのか、あなたは私に従うのか。私たちは、この問いを受けながら、日々、悔い改めて、日々、新たに生きる者であることをおぼえたいと思います。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
イエスさまは、ご自分のことを三度、知らないと言ってしまったペトロに向き合ってくださり、私を愛しているか、私の羊を飼いなさい、世話をしなさい、と言われました。ペトロは、イエスさまの言葉を聴いて、イエスさまの愛と赦しを信じて、新しく生きる者とされました。
主は、今も私たちに出会ってくださり、ペトロに対して言われたように、私たちにも言われます。私を愛しているか、私の羊を飼いなさい、世話をしなさい、あなたは私に従いなさい、と。この言葉に励まされながら、問われながら、私たちも日々、新たに歩ませてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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