平和の王として来られた方(マタイ21章1~11節) 【週報巻頭言】2025年11月30日
弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、 ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。(マタイ21章6、7節)
イエスさまがエルサレムを入城された時、イエスさまをお乗せした子ろば、それは、主の弟子たちのことを示しているようです。まだ人を乗せたことのない未経験な子ろば、それが十分にイエスさまをお乗せするようなことができるのでしょうか?マタイによる福音書では、もう一頭のろばのことが書いてありました。もしかすると、そのろばというのは、子ろばを助ける、支える役割のためだったかもしれません。私たちは、子ろばのような者であり、また子ろばを助け、支えるろばのような者ではないでしょうか。
大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」(マタイ21章8、9節)
「ホサナ」とは、「私たちを救ってください」という意味です。エルサレムの大勢の群衆はイエスさまがおいでになったことを歓迎しました。しかし、この「ホサナ」の賛美が、後には、別の言葉に変わっていくことになります(27章15~26節参照)。
主は、ろばの子に乗っておいでになりました。主が用いられた子ろばとは、小さなものであり、まだ人を乗せたこともなかった未熟なものでした。しかし、主はその子ろばを用いられました。私たちは、この子ろばのような者ですが、「主がお入り用なのです」とあるように、主は、そういう私たちを用いてくださいます。主は、小さな者、弱い者を用いてくださいます。
主は、柔和な方、へりくだった方、仕える者、僕として、私たちのところにおいでになりました。ろばの子というのは、平和の象徴と言われます。そのろばの子に乗っておいでになった主は平和の王です。平和は、どのようにしたら実現するのでしょうか?私は、平和は、イエスさまの歩み、イエスさまの生き方に倣っていくことによって実現していくと信じています。私たちは、お互いに仕え合う、お互いが僕として生きるのです。私たちの生きるこの国が、私たちの生きるこの世界が平和になるために、主の歩み、主の生き方に倣っていきましょう。
へりくだった人々は、幸いである/その人たちは地を受け継ぐ。(マタイ5章5節・聖書協会共同訳)
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