「真理のために共に働く」ヨハネの手紙三1~8節 2026年1月18日
(はじめに)
ヨハネの手紙三をお読みしました。ヨハネの手紙は、一と二、そして、三があります。これまで、一と二の手紙を読んできましたが、今日と来月で二回にわたって、このヨハネの手紙三からお話しいたします。ヨハネの手紙三は全部で15節までの短い内容です。今回は、1~8節からお話しします。
(聖書から)
1:1 長老のわたしから、愛するガイオへ。わたしは、あなたを真に愛しています。
この手紙の最初の言葉です。手紙の送り手はヨハネでしょうか。自分のことを「長老のわたし」と言っています。「長老」というのはユダヤにおいては、信仰の指導者について呼ばれていた名称でしたから、ここでもそういう意味で使われているかもしれません。今のキリスト教会で言うならば、牧師や司祭、あるいは執事、役員ということになるかもしれません。
この手紙の送り手であるヨハネは、ガイオという人に手紙を送りました。「愛するガイオへ。わたしは、あなたを真に愛しています」と書いています。ところで、ガイオという人はどういう人物なのでしょうか?引照付きの聖書で見ると、聖書の中の幾つかの個所(使徒言行録19章29節、ローマの信徒への手紙16章23節、コリントの信徒への手紙一1章14節)に、ガイオという名前が出てきますが、そのガイオと同一人物なのかは分かりません。
ガイオという名前については、「喜び」という言葉から来た名前だと言われます。名前にはそれぞれ意味があります。名付けてくれた人たちは、その名前のように育ってほしい、生きてほしい、と願って付けたと思います。このガイオという人についても、喜びの人生を生きる人であるように、という願いから付けられた名前だったのかもしれません。
ヨハネは、ガイオのことを「わたしは、あなたを真に愛しています」と書いています。聖書協会共同訳では、「私は、真理の内にあなたを愛しています」と訳しています。「真に」というと、ヨハネの心情、気持ちが表れているような意味に取れますが、「真理の内に」というと、少し意味が違ってきます。私たちが聖書から「真理」ということで知るのは、神さまの真理ということです。ですから、そこから考えると、ヨハネのガイオに対する自分の思いや気持ちというよりも、私は、あなたを神さまの真理の内に愛している。神さまの真理、愛に倣って愛そうとしている、ということになるのではないでしょうか。
私たちは、神さまの愛を聖書から知ります。イエス・キリストの言葉から、イエス・キリストの生きられた歩みから知ります。また、神さまの愛について書かれている「愛の章」と言われる聖書の個所もあります。そこには、このようなことが書かれています(一コリント13章4~8節)。
13:4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。13:5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。13:6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。13:7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
13:8 愛は決して滅びない。
この聖書の言葉を読むと、いかに私たちの愛が神さまの愛とは違うのか、未熟なものであるのかを知らされます。そういう私たちは、神さまの愛を知り、それに倣って生きることに努めるのです。そのようにして私たちの愛は、神さまの愛に向かって行く、神さまの愛に近づいていくのです。私たちの愛が神さまの愛に似たものとなっていく、私たちの愛が成長していくのです(エフェソ4章12~16節参照)。
続いて、2節をお読みします。
1:2 愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています。
ここでもヨハネは、ガイオに呼びかけています。ガイオのことを「愛する者よ」と言っています。そして、「あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています」というのです。ここに、「あなたの魂が恵まれているように」とありました。「魂」という言葉は、新約聖書で使われている言語であるギリシア語では、「プシケー」と言います。この言葉は聖書の他の個所では、「命」とか、「心」とも訳されています。テサロニケの信徒への手紙一5章23節にはこのような言葉があります。
5:23 どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。
この言葉は、礼拝の最後の祝祷の時に使われる聖書の言葉の一つです。「あなたがたの霊も魂も体も」とあります。人間を構成するもの、それが、霊と魂と体と言われているのです。ですから、「あなたがたの霊も魂も体も」というのは、あなたがたの全存在ということです。
この霊と魂と体ということについて、先ほども言いましたが、魂という言葉を心と訳している聖書個所や翻訳があります(聖書協会共同訳など)。霊と魂と体を霊と心と体という方が理解しやすいかもしれません。というのは、私たちが普通考えるのは、人間とは心と体を持つ存在ということです。しかし、ここにはそれとは別に霊ということが言われているのです。では、霊とは何かというと、神さまを受け入れる部分だと言われます。人間は心と体だけでなく、霊がある、神さまを受け入れる部分があるというのです。
今日の個所に戻ります。「あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています」とありました。あなたの魂、あるいはあなたの心、それは恵まれているというのです。なぜ、そう言えるのかというと、ガイオという人は、イエス・キリストの救いを信じていたからです。神さまの救いを受け入れるということは、神さまの恵みに生きているということなのです。もしかすると、皆さんの中には、イエス・キリストの救いを信じている。けれども、自分の人生は恵まれたものなのだろうか?健康に不安があるし、試練のただ中にある・・・。目の前の様々な問題、課題にぶつかって弱り果ててしまっていて、私の人生は恵みの人生だ、とは思えない・・・。そういう方がおられるかもしれません。
新年になりますと、全国各地の神社仏閣で初詣に行かれる方々がおられます。新しい年が良い年でありますように、と願うわけですが、それは素晴らしいこと、尊いことだと思います。家族や自分の健康、安全のために祈る。幸せを願って祈る。それに対して、キリスト教というのは、自分のことは顧みないで、ただひたすら他人のために尽くす宗教だと思われるようですが、そうでしょうか?聖書が示す神さまを信じる私たちも、自分のために、他人のために、神さまに大いに祈っていきたいと思うのです。ヨハネも、このようなことを書いています。「あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています」。
ヨハネは、あなたの魂、心、そして、すべての面でも恵まれるように、健康であるように、と祈っている、と言っているのです。私たちも、自分のことも、家族のことも、友人のことも、あの人、この人のことも祈っていきたいと思うのです。互いのために祈り合う。毎週の祈祷会ではそのような祈りが行われています。
ところで私たちは何を祈り、願うでしょうか。自分のまわりが、環境が、状況が変わること、あの人やこの人が変わることを願い、求めることが多いのではないでしょうか。しかし、もっと大事なことを願い、求めていきたいと思うのです。それは自分が変わることです。ある牧師先生がこんなことを言われました。信仰とは、神さまが分かることであり、自分が変わることだ。神さまのことが本当に分かったら、自分が変わる、いや自分が変えられる、というのです。自分が変えられるということについて、聖書にはこのようなことが書かれています(二コリント3章18節)。
3:18 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。
「主と同じ姿に造りかえられていきます」とあります。イエスさまと似た者とされていくのです。「主の霊の働き」、聖霊によって私たちは変えられていくのです。私たちが変えられていく時、自分が救われたことがどんなに大きな恵みであるのか、喜びであるのか、そのことももっともっと分かってきます。皆さんのまわりにおられる方々の中に、病に苦しみながらも、試練のただ中にありながらも、それでも救いの喜びに生きている方がいるのではないでしょうか。あの人はどうして喜べるのだろうか?そういう人を見ると、不思議に思うかもしれませんが、それはその人自身が変えられているからです。先ほど、私たちには、霊の部分があると言いました。それは、神さまを受け入れる部分とも言いました。神さまを知る心と言ってもよいと思います。そこが開かれていくと、分かってくることがあるのです。使徒パウロは「わたしは弱いときにこそ強い」(二コリント12章10節)と語りました。私たちの弱さの中に生きて働いておられる神さまの力、そのことが分かってくる。すると、それが私たちの生きる力となっていくのです。
この説教のために参考にした聖書の解説書があります。そこには、こういう聖書の言葉が紹介されていました。詩編67編の言葉です(詩編67編2、3節)。
67:2 神がわたしたちを憐れみ、祝福し/御顔の輝きを/わたしたちに向けてくださいますように〔セラ
67:3 あなたの道をこの地が知り/御救いをすべての民が知るために。
ここには、神さまの憐れみ、祝福を求める祈りがあります。私たちは大いにこのように祈ってよいのです。神さま、私たちを憐れんでください、私たちを祝福してください。ここには、「私」ではなく、「私たち」とあります。自分のことだけではありません。自分のことも、あの人、この人のことも祈るのです。
この解説書を書かれた先生は、詩編67編3節の言葉も大事なことだと言われます。もう一度、読んでみます。「あなたの道をこの地が知り/御救いをすべての民が知るために」。私たちが神さまの憐れみを受けること、祝福を受けることを大いに祈ってもよい。しかし、それは何のためか、というのです。それがこの3節に語られているのです。「あなたの道をこの地が知り/御救いをすべての民が知るために」。「あなたの道」とは、神さまの道のこと、神さまのなさることです。神さまのなさることを、神さまの救いを、すべての人々が知るために。私たち自身が神さまの憐れみを知り、祝福を知り、それがどんなに素晴らしいことなのか、人々に表していく、証ししていくのです。
3、4節をお読みします。
1:3 兄弟たちが来ては、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、わたしは非常に喜んでいます。実際、あなたは真理に歩んでいるのです。1:4 自分の子供たちが真理に歩んでいると聞くほど、うれしいことはありません。
ヨハネは、「わたしは非常に喜んでいます」、「うれしいことはありません」と語っています。何を喜んでいるのでしょうか?何が嬉しいのでしょうか?「兄弟たちが来ては、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれる」、「自分の子供たちが真理に歩んでいると聞く」。これがヨハネの喜びです。
私は、2025年、この一年の歩みを振り返ると、このヨハネの喜びと重なります。教会の皆さんが真理に歩んでいる。神さまの言葉に生きようとしている。神さまの救いを証しすることに励んでいる。その歩みを思うと、私もまた喜びが沸き上がり、嬉しくなります。この2026年も、神さまの真理に従って歩んでまいりましょう。
(むすび)
5節以下をお読みします。
1:5 愛する者よ、あなたは、兄弟たち、それも、よそから来た人たちのために誠意をもって尽くしています。1:6 彼らは教会であなたの愛を証ししました。どうか、神に喜ばれるように、彼らを送り出してください。1:7 この人たちは、御名のために旅に出た人で、異邦人からは何ももらっていません。1:8 だから、わたしたちはこのような人たちを助けるべきです。そうすれば、真理のために共に働く者となるのです。
「よそから来た人たちのために誠意をもって尽くしています」。これは私たちにとっては、新しく教会においでになった方々のことと考えたらよいでしょう。新しく教会においでになって、神さまの真理に触れようとされている人たちに、私たちは、神さまがどんなに素晴らしい方であるのか、救いを信じて生きることの恵み、そういったことを証ししていきたい、分かち合っていきたいと思います。そして、最後の8節には「真理のために共に働く者」とありました。ここにおられる皆さん一人一人が、私たちが「真理のために共に働く者」なのです。神さまの真理のために共に励んでまいりましょう。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
ヨハネが書き送った手紙を読みました。その手紙からヨハネ自身の喜びを知りました。「自分の子供たちが真理に歩んでいると聞くほど、うれしいことはありません」と書いているように、人々が真理に歩むこと、神さまの道を歩むことを聞くことがヨハネにとって喜びでした。そして、その喜びは神さまの喜びでもありました。ヨハネはこのようにも書いています。「神に喜ばれるように、彼らを送り出してください」。私たちも神さまに喜ばれる歩みをさせてください。そのために、私たちをお遣わしください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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