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主の執り成しの祈り(ヘブライ5章1〜10節)

「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」(ヘブライ5章7節)。
イエス様が祈りと願いをささげられる様子がここに書かれていました。この箇所について、これはイエス様が十字架におかかりになる前にゲツセマネで祈ったことが表わされているといわれます。またイエス様が十字架におかかりになった時のことが表わされているともいわれます。ゲツセマネの祈りの箇所を見てみましょう。
 「「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕」(ルカ22章42〜44節)。
イエス様は父なる神様から、ご自分が十字架にかかることによって人々を罪から救うことになる。そのことを知っていました。しかし、主はそのことを大変恐れました。人間として死に向き合わされるという、死に対する恐怖を体験され、こう言われました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」。これは、できることなら、十字架にかかることから逃れさせてください、ということです。けれども、この後、イエス様は決断され、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られました。ある方は、十字架にかかることから逃れさせてください、と主が祈られた後、しかし、あなたのみ心をなさってください、と祈られた。この祈りと祈りの間にはどれだけの時間があっただろうか?と言っています。この方の言っている意味はどういうことかというと、十字架におかかりになることについて、イエス様はどれだけ悩み苦しまれたことだろうか、ということです。悩み苦しまれたイエス様、しかし、十字架におかかりになることを決断されたのは神様の言われたことだから、という神様に対する愛から、人々が救われることになる、という人々に対する愛から決断されたのでした。

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