幸いな者とされて・・・(マタイ13章1〜23節)
「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ」(マタイ13章16節)。
主イエスは弟子たちに幸いと言われました。種を蒔く人のたとえ話を読むと、どれも私たちに当てはまることです。ですから、ああ、私は道端に蒔かれた種のようだ!石だらけのところに蒔かれた種のようだ!茨の中に蒔かれた種のようだ!と言って、嘆く人がいるかもしれません。しかし、私たちは嘆きに留まりません。ここには御言葉を聞いて悟ることが大事であると言われています。私たちは弱い者ですが、この蒔かれた種、御言葉を聞いて悟る。御言葉を聴き続ける、御言葉に信頼して生きるのです。
主は「耳のある者は聞きなさい」(マタイ13章9節)と言われました。聞く耳を主は与えてくださいました。私たちにはこのような約束が示されています。「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである」(同23節)。主は弟子たちに、主を信じる私たちに聞く耳を与え、見える目を与えてくださいました。宝の持ち腐れではいけません。与えられた目で主を見上げ続け、与えられた耳で主の御言葉を聴き続けていくのです。そうするならば、主は私たちを良い土地にしてくださり、実を結ばせてくださるのです。主を信じて歩みましょう。
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