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しるしを求める信仰について(マタイ12章38〜45節)

 信仰とは何でしょうか。それは自分の信じる力、信じる行いということではありません。聖書が教える信仰は信頼、神様に対する信頼です。律法学者とファリサイ派の人々がイエス様にしるしを見せてくれるように願いました(マタイ12章38節)。それに対して、イエス様はヨナのしるしの他にはしるしは与えられないと言われました(同39節)。ヨナのしるしとはイエス様の救いのみわざのことです。私たちがしるしを求めるとき、神様はいるかいないか、そのしるし、証拠を求めています。例えば、だれかが自分に親切にしてくれた。ああ、自分にとって良いことがあったから、神様がいると認めよう。これこそは神様がいることのしるしだ。でも、自分にとって悪いことがあったら、それは神様なんていないことのしるしだ。しるしを求める信仰とはそういうものです。けれども、イエス様は言われました。あなたたちに与えられた神様からの唯一のしるし、それは主の十字架の愛なのだ、イエス様ご自身なのだと。
 イエス様が示された信仰とは、神様を信頼することです。私たちを愛し、十字架の救いのみわざをなさった神様の愛を信じることです。人生にはいろいろなことが起こってくる。けれども、あなたの心に、あなたの人生にあなたを愛しておられるイエス様がおられる。だから、あなたは守られる、大丈夫。そのことを信じる、信頼することです。
 43節からのイエス様の言葉、それは心を空き家にしてはいけない、空っぽにしてはいけない。あなたの心に、あなたの人生にイエス様をお迎えしましょう、というメッセージです。汚れた霊とは私たちに生きる希望を失わせるもの、生きる喜びを失わせるものです。自分がどんなに正しく、立派に生きようとしても、私たちを変わることなく、愛し、支えておられる方を見失っているならば、すぐに汚れた霊に心を奪われてしまいます。イエス様をお迎えし、イエス様を信頼して日々歩んでまいりましょう。

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