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2020年3月29日 主日礼拝(朝・夕拝)説教 「主が建ててくださる」

2020年3月29日(朝・夕)礼拝説教「主が建ててくださる」詩編127編1~5節

聖書―詩編127編1~5節

(はじめに)

今週の礼拝は教会も東京都の外出自粛要請を受けて、教会に集まっての礼拝という形を取らず、それぞれのご自宅での礼拝を行なっていただくことになりました。おそらくこういう経験は私たちにとって初めてだと思います。私は今回、新型肺炎感染のこと、最初のうちはどこか遠くの地域のことのように思っていました。日本では感染拡大ということはそれほど心配する必要はないと思っていました。しかし、今、まったく違う方向に事が進んでいるように思います。私たちは2011年の東日本大震災の時には、自然災害を前にして人間はまったく無力であることを思わされたと思います。そして、今回の感染病のこと、聖書の中にも疫病ということが出てきますが、このことに対しても無力であることを思わされます。これらのことを通して、改めて、人間は無力な存在であり、小さな者であること。だからこそ、私たちの造り主である神様を信頼して生きることを教えられます。コヘレトの言葉の中に、コヘレトの結論として、「すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて」(コヘレト1213節)とあります。すべてのものの造り主である神様を畏れ、信頼して生きる。この信仰に歩んでいきたいと思います。そして、新型肺炎感染の終息を祈りたいと思います。

(聖書から)

今回お読みしました聖書は詩編の言葉です。詩編は祈りの書と言われます。祈りとは、神様との交わり、語らいということができると思います。詩編の人たちの信仰、祈り、どのようにして神様と向き合い、共に歩んできたかを教えられます。今日はその中の127編です。もう一度、1節をお読みします。127:1 【都に上る歌。ソロモンの詩。】

主御自身が建ててくださるのでなければ/家を建てる人の労苦はむなしい。

主御自身が守ってくださるのでなければ/町を守る人が目覚めているのもむなしい。

この詩編の言葉は、よく結婚式の時に読まれる箇所でもあります。「家を建てる」ということが言われていて、建物の家ということで考えることができますが、家庭を築くということも考えることができます。それが「主御自身が建ててくださるのでなければ」というのです。神様が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい、というのです。 私が赤塚教会の前に牧師としての働きをしていたのが、北海道にあります釧路教会でした。教会員が家を新築しまして、その竣工式と言いますか、司式をさせていただきました。その教会員のお連れ合いの方は未信者の方でしたが、奥様である教会員の方がぜひ、牧師に祈ってもらいたいと言われ、竣工式の司式をしたわけです。私は竣工式の司式というのは生まれて初めての経験でしたが、聖書の言葉を読み、祈りをささげました。このご家庭に神様の祝福が豊かにありますように、と心からお祈りいたしました。私は今日のみ言葉を読みますと、その時のことを思い出すのです。「主御自身が建ててくださるのでなければ」。私なりにこの言葉を言い換えてみますと、これは、神様がお建てくださった!という信仰です。私が建てた。私の力で、私のお金で・・・。いいえ、神様がこの家を建ててくださった。そして、神様がこの家庭を築き上げてくださる、という信仰です。

家とか家庭のことをお話ししましたが、これは他のことでも考えることができるでしょう。私たちにとっては、教会のこともこのみ言葉から聴くことができると思います。1節の最初は「建てる」ということが言われていました。もう一つ言われているのは「守る」ということです。教会のこと、私たちのこと、それは神様が建ててくださる、神様が守ってくださる。もちろん、それらのことは私たちが何の努力もしない、犠牲を払わない、ということではありませんけれど、神様のみわざ、お働きによることなのです。

今日は3月最後の主の日です。いよいよ新年度が始まりますが、教会は神様が建ててくださる、守ってくださるということをおぼえたいと思います。主の晩餐式の時に一緒に唱える「教会の約束」の中にもこのような言葉があります。「教会は人によって成ったものではなく、神によって成ったものと信じます」。神様が建てて、作ってくださったのですから、教会という家の主人は神様です。教会は神様の家であることを忘れてはなりません。

続いて、2節をお読みします。

127:2 朝早く起き、夜おそく休み焦慮してパンを食べる人よ

それは、むなしいことではないか

主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。

「焦慮して」とありますが、「苦労して」(聖書協会共同訳)と言ってもよいでしょう。ここで言われていることは、日々、忙しく働き生きている人たちのことです。これを読むと、忙しく働くことがむなしいと言っているように思えますが、そうではありません。働くことの意味とか、喜びとか、そのことを知らないでいるならば、それはむなしいということなのです。

2節の後半に「主は愛する者に眠りをお与えになるのだから」とありました。この言葉は二つの訳し方があるようです。一つは新共同訳聖書のように、神様が眠りをお与えになる。つまり、神様が休みをお与えになるということです。もう一つの訳し方としては口語訳聖書のように「主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである」。この訳ですと、神様は私たちが眠っている時も必要なものを与えてくださるという意味になります。

神様が眠りを、休みをお与えくださる。この言葉からは、私たちは神様が与えてくださる休みをいただいて、心身共に疲れを癒やしていただくことを教えられます。それは私たちが毎週、この主の日に教会に集い、神様を礼拝することによって得られることです。礼拝によって、神様によって造られた者、愛されている者、そのことを教会の兄弟姉妹と共におぼえ、神様から新たな生きる力をいただくのです。

神様は私たちが眠っている時も必要なものを与えてくださる。この言葉からは、私たちが自分の力で凡てを獲得したのではない。神様が私たちにとって必要なものを与えてくださっている、ということを思い起こさせます。また神様は私たちが疲れ果て、何もできないような時も、私たちのために働いておられることも教えられます。

労働、働くこと、それは神様が私たちが生きるためにお与えくださったものですが、その与えてくださった方を忘れてしまったり、無視したりする時、生きる意味や働く意味を見失い、詩編の詩人が繰り返し言っているように、むなしさ、虚無に陥るのです。ある牧師先生は労働、働くことについてこう言われました。「労働の動機は神様への感謝から」であると。私たちの心を本当に満たし、生きる力、希望を与えてくださる神様を見上げて歩んでまいりましょう。

以上、1、2節では、家庭や労働について語られていましたが、3節以下では子供のことが語られています。

127:3 見よ、子らは主からいただく嗣業。

胎の実りは報い。127:4 若くて生んだ子らは、勇士の手の中の矢。

127:5 いかに幸いなことか矢筒をこの矢で満たす人は。

町の門で敵と論争するときも恥をこうむることはない。

「子らは主からいただく嗣業」とありました。子供は神様からの賜物、贈り物、そのようなことで理解してよいと思います。これも私たちの家庭の子供のこと、教会の子供のこと、いろいろなことで考えることができると思います。そして、これについても「教会の約束」の言葉を思い起こさせます。「教会の約束」では子供について、「神よりあずかった子どもたちを、神のみ旨にそうように教え育て」とあります。

私たちが子供たちに関わる時、神様から与えられた子供であるということを心に留めておきたいと思います。そして、与えてくださった神様のみ旨にそうように教え育てるという責任が与えられていますから、そのことに努めるのです。また、このために祈ることを大事にしたいと思います。私たちの働き、その背後に神様が生きて働いておられる。子供たちの心に神様ご自身が臨んでくださり、子供たちに出会ってくださるように。私たちは子育てでご苦労されている方々、教会の子供たちの教育でご苦労されている方々のためにも祈り、できる限りの協力をしていきましょう。そして、何よりも忘れてはならないことは、主が建ててくださる、主が守ってくださる、という信仰です。子供たちについても神様が成長させてくださる、守ってくださる。そのことを信じて祈っていきましょう。

(むすび)

今日は教会での礼拝を行なうことはできませんでしたが、皆様のそれぞれのおられる生活の場において、一緒に礼拝をささげることができたと私は信じています。このようなことがどれだけ続くのか、あるいは何度あるのかは分かりません。このところ礼拝の説教箇所として、マルコによる福音書とエフェソの信徒への手紙からお話しさせていただいていますが、このエフェソの信徒への手紙は獄中書簡と言われます。それはパウロが獄につながれている状態で記した手紙だからです。そういう状態でしたから、教会の兄弟姉妹と一緒に礼拝することはできなかったことでしょう。しかし、パウロは自分のことを「キリスト・イエスの囚人」(エフェソ3章1節)と言いました。私はイエス・キリストに捕らえられている、つながれている。困難な状況の中にあって、主の守りを信じていたことと思います。そして、パウロは主にある兄弟姉妹もみんなキリストの囚人、キリストに捕らえられている、つながれている。場所は離れていても、主にあっては一緒なのだ、一つなのだ。そう信じていたと思います(「わたしは体では離れていても、霊ではあなたがたと共にいて、あなたがたの正しい秩序と、キリストに対する固い信仰とを見て喜んでいます。」コロサイ2章5節参照)。私たちも主にあって一つであることをおぼえ、主を礼拝しながら歩んでまいりましょう。

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