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【礼拝説教】2023年7月9日「向こう岸に行こう」

2023年7月9日(日)(朝・夕)赤塚教会礼拝説教「向こう岸に行こう」マタイによる福音書8章18~22節

聖書―マタイによる福音書8章18~22節
(はじめに)
 イエスさまが山の上で語られた説教、山上の説教と言われますが、イエスさまはその説教を誰に語られたのか?弟子たちであったのか、群衆であったのか、という議論を聞いたことがあります。マタイによる福音書5章1、2節には、このようなことが書かれています。
5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。5:2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
 皆さんはどう思われるでしょうか?イエスさまは群衆に向かって語られたのでしょうか。それとも弟子たちに向かって語られたのでしょうか。この聖書の個所を読むと、どちらであるか、はっきりとは答えにくいと思います。
 実は、今日お読みした個所も、これと似ているのです。マタイによる福音書8章18節を読んでみます。
8:18 イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた。
 イエスさまは、「弟子たちに向こう岸に行くように命じられた」と書いてありますが、この「弟子たちに」という言葉は、翻訳の段階で補足した言葉です。すると、ここもイエスさまが向こう岸に行くように命じられたのは、群衆なのか、弟子たちなのか、分からなくなります。
 群衆に語られたのか、向こう岸に行くように命じられたのか。弟子たちに語られたのか、向こう岸に行くように命じられたのか。書かれている言葉だけを見ていくと、どちらなのか、判断しづらいですが、私は、イエスさまが誰に向かって語られたのか、向こう岸に行くように命じられたのか、というと、そこにいる人たちに、誰にでも語られた、向こう岸に行くように命じられた、と思うのです。
 そして、イエスさまが語られたこと、命じられたことを、この私に語られたのだ、命じられたのだ、と受け止めていくなら、その人はそこからイエスさまの弟子としての歩みを始まることができるのではないでしょうか。

(聖書から)
 さて、もう一度、18節の言葉をお読みします。「イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた」。これを誰に命じられたのか、という議論は置いておきましょう。この「向こう岸に行く」とは、どういうことでしょうか?舞台はガリラヤ湖の岸辺です。向こう岸というのは、どこであるかというと、28節に「向こう岸のガダラ人の地方」と書いてあります。こちらはユダヤ人の地ですから、向こう岸というのは、異邦人の地です。ユダヤ人の人々にとっては、異邦人というのは、神から離れた人たちということでしたから、そこに行くということには、違和感を持ったことでしょう。ところがそのすぐ後に、イエスさまにこのようなことを言う人がいました。
8:19 そのとき、ある律法学者が近づいて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。
 ある律法学者が、イエスさまのところに近づいてきて、こう言いました。「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」。向こう岸に、異邦人の住む地に行くように。その言葉を聞いて、戸惑った人たちがいたのではないかと思います。それこそ、イエスさまの弟子の中にもそういう人たちがいたのではないかと思います。しかし、一人の律法学者はこう言うのです。「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」。
 イエスさまは、この言葉を聞いて、喜ばれ、「そうか、あなたは私に従うか!」と言われたでしょうか。いいえ、そうではありませんでした。20節には、このようなことが書かれています。
8:20 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
 律法学者に対して、イエスさまが言われたこと、それはいったいどういう意味なのでしょうか。狐には穴がある。空の鳥には巣がある。これは狐も、鳥も、それぞれ自分の住むところがある、ということでしょう。しかし、「人の子には枕する所もない」。人の子には、枕する所、つまり、寝る所もない、ということです。ところで、「人の子」とは何かというと、これはイエスさまのことです。またここでは、イエスさまに従う人、イエスさまの弟子のことでもあるのです。
 イエスさまからこのように言われて、この律法学者はどう思ったでしょうか。せっかく、私はどこまでもあなたに従っていきます!と言ったのに、その気持ちを萎えさせるようなイエスさまの言葉です。でも、イエスさまは、この律法学者がどういう理由で、イエスさまに従っていきます、と言ったのか、ご存じで、このようなことを語られ、本当にイエスさまに従うのか、試されたのかもしれません。
 このイエスさまの言葉の中に、「空の鳥」ということが言われていました。イエスさまは、山上の説教でも、「空の鳥」の話をされています(6章26節)。
6:26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
 イエスさまは、空の鳥をよく見なさい、と言われました。神さまが養っていてくださると語っておられます。なぜ、イエスさまはこのような話をされたかというと、私たち人間が思い煩う、思い悩むからです。そういう私たちに対して、イエスさまは、空の鳥、野の花の話をされ、神さまは、空の鳥、野の花を養ってくださるように、私たちのことも養ってくださる、と語られたのです。
 「人の子には枕する所もない」とイエスさまは言われました。これだけを聞くと、そう簡単にイエスさまに従うとか、弟子になるなどと言うものではない。それはとても大変なことなのだから。そういうふうに言われているように思えますが、空の鳥の話も併せて聞いていきますと、イエスさまに従うとは、イエスさまの弟子というのは、枕する所もない、と思い悩むような者を、空の鳥、野の花を神さまが養ってくださるように、私たちも養ってくださる。だから、そのことを信じて、神の国と神の義を求めて生きよ、と言われているように思います。その箇所を読んでみます(6章33、34節)。
6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。6:34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
 続いて、もう一人の人がイエスさまにこのように言います。
8:21 ほかに、弟子の一人がイエスに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。8:22 イエスは言われた。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」
 その人というのは、弟子の一人ということですが、この人は「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言っています。この人のお父さんが亡くなったのでしょうか。ところが、イエスさまはこう言われました。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」。これは、私の弟子として歩むのなら、家族の葬儀に行くことはやめなさい、と言っているように聞こえます。けれども、よく読んでみますと、葬儀に行くのをやめなさい、と直接的には言われていないことが分かります。
 このやり取りで大事なことは何かというと、一人の弟子が「まず」と言ったこと、そして、イエスさまが「わたしに従いなさい」と言われたことです。一人の弟子は、「まず」と言いました。まず、第一のこととして言ったこと、それが、父を葬りに行かせてください、ということでした。すると、イエスさまは、「わたしに従いなさい」と言われました。イエスさまの弟子がまず、第一にすることは何でしょうか?先ほど、マタイによる福音書6章33節でイエスさまが言われたこと、それは、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」ということでした。この弟子にとって、愛する家族が亡くなったこと、その葬儀に行くことは大事なことでした。しかし、まず、第一のことというのは、主に従うことなのです。繰り返しますが、イエスさまは家族の葬儀に行くな、と言っておられるのではないのです。イエスさまが言われたことは、何があなたにとって第一のことか、何を第一にするのか、ということです。

(むすび)
 今日の聖書個所の最初の言葉をもう一度、お読みします。「イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた」。私は、この向こう岸に行く、という言葉から、神さまがアブラハムに語られた言葉を思い起こします(創世記12章1、4節)。
12:1 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。
12:4 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。
アブラハムは神さまの言葉を聞いて、生まれ故郷、父の家を離れて、神さまが示す地に行く決心をしました。そして、主の言葉に従って旅立った、ということが書かれています。改めてこの箇所を読むと、アブラハムはよく決断した、と思います。この箇所のアブラハムについて、ヘブライ人への手紙では、「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発した」(ヘブライ11章8節)と書かれています。「行き先も知らずに出発した」というのです。アブラハムはただひたすら、主の言葉を信頼し、主の言葉を頼りに従っていったのです。そして、今、かつて神さまがアブラハムに言われたように、イエスさまが弟子たちに言われたように、イエスさまは、私たちにも向こう岸に行こう、と語られているのではないでしょうか。今日の個所のすぐ後では、イエスさまが舟に乗り込まれ、そこに弟子たちも乗り込むことになりますが(23節)、イエスさまに従う、イエスさまの弟子となるというのは、イエスさまと一緒の舟に乗ること、イエスさまと一緒に歩むことなのです。

祈り
恵み深い主なる神さま
  主のもとに二人の人が来て、主の弟子として歩もうとしました。しかし、主は彼らの弟子としての決断、覚悟について確認されました。
 私たちは今まで主を信じ、主に従ってきたつもりですが、主の前に立つ時、私たちも、あの弟子たちのように、主に問われるようなことがあるかもしれません。しかし、本当の主の弟子となることができますように、私たちを日々、教え、戒め、導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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