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2020年5月3日 主日礼拝(朝・夕拝)説教「派遣された私たち」

➡ 2020年5月3日 礼拝プログラム(クリックしてください)

(はじめに)

この時期は例年ですと、ゴールデンウィークのまっただ中にあるはずです。しかし、今年は新型肺炎感染の拡大防止ということで「ステイホーム」、家に留まって過ごしましょう、ということが奨励されています。皆さんはこの期間、おそらくそれぞれのご自宅でお過ごしのことと思います。ステイホーム、家に留まる、家にいる。私はこの言葉を聞いて、イエスさまを信じる者にとって、それはどういうことだろうか、と考えました。主を信じる者にとってのステイホーム、それはイエスさまの少年時代のことが記されている聖書の箇所でイエスさまが「わたしが自分の父の家にいる」(ルカ2章49節)と言われた言葉がありますが、私たちも私たちの父の家、私たちのまことの父の家、神さまの家にいる、神さまの家に留まる。そのことをおぼえる時としたらどうでしょうか。聖書を開き、私たちのまことの父である神さまの言葉に耳を傾け、祈り、過ごしてみてはどうでしょうか。今の時を、ただ退屈な時として過ごすのではなく、神さまからの語りかけを聴く、神さまと共に過ごす大切な時としてみてはどうでしょうか。

(聖書から)

さて、お読みしました聖書の箇所はマルコによる福音書6章6節の後半からのみ言葉です。イエスさまが付近の村を巡り歩いて教えられた(6節)ということが書かれています。この「付近の村」というのは、その前の箇所からの流れで読んでいくならば、イエスさまの故郷であるナザレの付近の村ということでしょう。イエスさまは故郷では敬われなかった、受け入れられなかった、ということがそこには書いてありましたが、それでイエスさまは故郷で福音を宣べ伝えることをあきらめられたのではありませんでした。故郷の付近の村を巡って、そこで福音を宣べ伝えられたのです。人々が福音を受け入れない。ああ、もうここは駄目だ!そこであきらめてしまわないで、別な方法をお取りになったのです。ナザレでは難しいと思ったら、ナザレの付近の村から始めて行かれたのです。私たちもこのイエスさまの福音を宣べ伝える姿勢に倣っていきたいと思います。
さらにイエスさまはご自分の弟子たち、ここには十二人の弟子たちのことが書かれていますが、イエスさまの最も身近にいた弟子たちを遣わしたことが書かれています。その箇所を読んでみますと、「十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた」(7節)。「呼び寄せ」とあります。イエスさまが十二人の弟子を選ばれた聖書の箇所を読んでみますと、「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた」(3章13、14節)とありました。ここには「これと思う人々を呼び寄せられると」とあります。これぞ、私の弟子にふさわしい、役に立つ人材!そうお考えになって、イエスさまは十二人を呼び寄せられたのでしょうか?「これと思う人々」、この言葉にはそういう意味はないそうです。するとイエスさまは弟子たちをこの人は優秀だから、役に立つから、そういうことでお選びになったのではないようです。一方、「十二人を任命し」とありますが、この任命する、という言葉をある方は「十二人を作られた」と訳しています。日本語としては変ですが、間違った訳ではありません。そういうことを併せて考えてみると、イエスさまは弟子たちを能力があるから、とか、知識があるから、ということではなくて、ご自分がこの人たちをお作りになる、お育てになる。そういう思いを持って呼び寄せられたのではないかと思います。
イエスさまと弟子たちの歩みが書かれています福音書の記事を読んでみますと、弟子たちはイエスさまの足手まといになるようなこと、イエスさまのことを正しく理解しないで勝手なことを言ったり、行なったりという姿が見られます。しかし、イエスさまは弟子たちを愛のまなざしを持って見られ、神さまからの賜物を受けて、少しずつでも成長していくことを喜んでおられたのではないでしょうか。そういう弟子たちと私たちは同じような者です。私たちもイエスさまから愛のまなざしを持って見られ、イエスさまの言葉を聴き、イエスさまと共に歩みをする中で一歩一歩、成長させられていくのではないでしょうか。
今日の聖書の箇所に戻ります。イエスさまは十二人の弟子たちを二人ずつ組にして遣わされました。二人ずつ組にする、というのは、ユダヤ人の旅の習慣であったそうですが、それだけの意味ではないと思います。イエスさまは福音を宣べ伝えさせるため、弟子たちを遣わす時、単独でではなく、チームで遣わされたのです。チームというと、スポーツの団体競技のことですが、チームにとって大事なことはチームワーク、連帯するということです。聖書の中にもチームワークについて書いてある箇所があります(一コリント12章12~27節、他)。イエスさまは弟子たちに互いに助け合い、支え合うことを教えられたのです。私たちも良いチームワークで歩んでまいりましょう。チームワークは同じ目標を持つことで強まります。私たちはイエス・キリストという方を見上げ、この方を目当てとして歩んでまいりましょう(ヘブライ12章1、2節)。
弟子たちの所持品について、イエスさまはこう言われました。「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた」(8、9節)。旅、それは福音宣教の旅です。ここに書かれていることは、旅をする者にとっては必需品と思えるものです。ところが、杖一本の他には何も持たないように、ということが言われています。それはどういうことかと言うと、私たちは神さまにお仕えするために、あれがなければ、これがなければできない、と考えます。例えば、雄弁でなければ、聖書の知識がなければ、体が強くなければ・・・。そう考えて、自分には無理だ、ふさわしくない、と思ってしまうようなことはないでしょうか。けれども、イエスさまはそうではない、と言われたのです。あれが、これが、ではない。杖一本あればよい、と言われたのです。ここで杖というのは信仰のことを言っているのです。杖一本、信仰によって歩みなさい、ということです。反対のことを考えてみてください。いろいろな条件はそろっていても、信仰がなければ、福音宣教はできないのです。あれやこれやと考えるよりもまず、神さまを信頼して歩み出しましょう、というのです。遣わされる方を信頼し、神さまの助けを信じて歩むのです。
イエスさまは続いてこのようなことを言われました。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい」(10、11節)。「その家にとどまりなさい」とあります。すぐにあきらめないように。あきらめてしまってあちらこちらと行かないで、じっくりそこに留まって福音宣教に励みなさい、ということです。福音を受け入れないところには、足の裏の埃を払い落とすように、ともあります。もうそんなところには関わらない。そういう意思を表わしているように思えますが、「彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい」とあります。それは確かにあなたがたに福音を伝えました。あとはあなたがたが福音を受け入れるように、そのために私たちは祈り続けます、ということです。いずれにしても、イエスさまの福音宣教、それはあきらめない福音宣教でした。イエスさまから遣わされた弟子たちもあきらめないのです。

(むすび)

私は牧師になる準備のため、九州の神学校で学んでいたとき、あるキリスト教主義の学校で聖書のお話しをしました。私は当時、その学校に隣接する教会の奉仕神学生でした。ほとんどの生徒たちは未信者でしたから、どれだけの生徒が話を聞いてくれただろうか、と悩んでいました。ある時、その教会の牧師先生の奥様が私にこう言われました。「求めていない人には不必要なものに思えるけれど、その価値を知る人にはみ言葉は宝なのですよ、生きる力なのですよ。だから、語り続けてくださいね」。私はその言葉を聞いて、大変励まされました。
今日の説教題は「派遣された私たち」としましたが、皆さんもイエスさまによって派遣された一人一人です。ステイホーム、それぞれのおうちに、ご家庭に、あなたはイエスさまにとってはかけがえのない、愛する弟子として派遣されているのです。そして、そこで福音を、イエスさまという方をお伝えしていくのです。皆さんのステイホームが、イエスさまが共におられる素晴らしいものであることをおぼえてお祈りいたします。

祈り

私たちの主イエス・キリストの父なる神さま
今朝も私たちはそれぞれのおうちで、家庭で礼拝を行なっていますが、イエスさまを信じる一人一人とは体は離れていても、心は一つであることをおぼえて、礼拝を行なっています。
今日の聖書の中には、イエスさまの弟子たちが悪霊を追い出し、病を癒やしたことが書かれていました(13節)。これらのことはイエスさまのなさったことでしたが、イエスさまはご自分の弟子たちにもその働きをさせてくださいました。
悪霊、それは人間を人間として生きることを妨げるものです。互いに愛し合い、互いに赦し合うことを妨げるものです。イエスさまが私たちの心を支配し、それらのものを追い出すことができますように助けてください。油を塗って病にある人を癒やした、とありました。油を塗るとは祈りであると聞いたことがあります。病にある人たちが癒やされるように祈ります。イエスさまがその人たちのうえにみ手を置いて癒やしてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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