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【巻頭言】2020年5月10日 どこから得たのか(マルコ6章1~6a節)

 イエス様が故郷ナザレにお帰りになった時、その地の人々はイエス様の語られた言葉、行なわれた奇跡を驚き、このように言いました。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か」(2節)。彼らはイエス様の言葉に驚き、その行なったことに驚きました。そして、それをどこから得たのか、と言いました。どこから得たのか。しかし、彼らはそのことを探ることはしませんでした。なぜなら、彼らは、自分たちはイエスのことは知っていると思っていたからです。

 この聖書の箇所で、キーワードと言えるのは、この「どこから得たのか」ということです。そう思ったなら、どこからなのか、探っていくのです、求めていくのです。しかし、彼らは探っていくことも、求めていくこともしませんでした。あの人は、私たちの知っている大工に過ぎない、マリアの息子に過ぎない。そこに留まってしまったのです。

 私たちは自分の家族のことをどのように見ているでしょうか。例えば、自分の子供については、この子は私の子、自分の連れ合いについては私の夫、私の妻・・・。つまり、私のもの、私の所有物のように見てしまってはいないでしょうか。しかし、信仰の目から見るとそうではないのです。この子は、この人は、神様が造られ、神様が愛しておられる人。そのような視点から見ていくならば、私たちの家族との関係が変わってくるのではないでしょうか。私のものではない。あの人、この人も神様のものなのです。

 イエス様の故郷の人々はイエス様につまずいた(3節)、とありました。でもそれはイエス様が問題なのではありません。人々はイエス様を私たちの知っている大工であると、自分たちの枠の中だけで見たのです。それがつまずきのもとだったのです。彼らは、イエス様の語られる言葉を聞き、奇跡を見て、これはどこから得たのだろう、と言いました。どこからなのか、探し、求めていくならば、彼らはイエス様が誰であるか、そのことを知ることができたと思います。イエス様はこのようなことを言われています。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(マタイ7章7、8節)。イエス様は神様が私たちに与えてくださった救い主なのです。

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